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[24630] NEVER ENDの向こう側へ (みえるひと)
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:3563f643
Date: 2010/12/01 02:23
注意!

本SSはpixivに小説機能がついた記念に書いたもので、pixivと二重投稿となります。

この作品は、原作みえるひとの完結後に2chのみえるひとネタバレスレに降臨した通称岩白さんの書いた物を元にしています。
岩白さんに使用の許可を申請したかったのですが、もう何年も前の事だと言う事や、2chの匿名性などの理由で確認を取る事が出来ませんでした。
なので勝手に使っているという形になるので、問題がありましたらお知らせください。
すぐに削除します。また、もし岩白さんがこれを見る事がございましたら、その時は連絡を下さると幸いです。

原作アフター物です。
正確には原作が打ち切られた為に描かれなかった最後の戦いを補う物です。

PSYRENの方を優先すると思うので更新は恐らく遅めです。



[24630] 1譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:3563f643
Date: 2011/08/25 04:13
――それは、本当に変な夢でした。


 あのボロボロのアパートには、今から命懸けで戦おうとしている相手が何故か居て。
 ちょっと変わった、けれど優しいアパートの住人達が居て。

 明神さんが居て――……

 そして、お母さんが居ました。

 お母さんは、賑やかなその人達を苦笑しながら見守っていました。

 毎日毎日変わらないように見えても、シャボン玉のように少しずつ色を移ろわせてゆく。
 そんな輝くような日々をいとおしむようにお母さんは微笑んでいました。

 不思議です。

 お母さんが生きてるって聞いてすごく嬉しかったけど、お母さんに会うというのがどんなのかあんまりイメージ出来なかったんです。
 それが、あの夢を見て何かがストンと腑に落ちたように分かったんです。

 ああ、あれがお母さんとの生活なんだ、って。

 すごく、暖かそうだった。すごく、楽しそうだった。
 あの幸せが夢なんかじゃなくて現実になって欲しい。

 ううん、きっと叶えられる。

 何の証拠もないけれど、そう思えるんです。



――迎えに来たよ、お母さん。



 姫乃は今すぐ近くまで来ています。

 かけがえのない仲間ができました。

 たくさん不思議なことが起こりました。

 みんなで、乗り越えてきました。



――東京はいいとこです!!



 一緒に帰ろうよ、お母さん。

 今私の住んでるアパートはちょっと古くて騒がしいけど、

 絶対気に入ってくれると思うんだ――・・・



◆◆◆





NEVER ENDの向こう側へ





◆◆◆



「――・・・見えてきたな。静かに船を進めろ」

 左目を閉じ、右目に望遠鏡を当てながら湟神澪は言った。

 フワリと潮を運ぶ風が湟神の頬を撫で、腰ほどまである濡れ羽のように黒く艶やかな髪を揺らした。
 風に乱され、目に入ろうとする雪のように白い前髪を鬱陶しそうに手の甲で払う。

 湟神が覗く望遠鏡が映し出す物。
 それは、小さな島だった。

 日が昇る時間よりも早い為、辺りは闇に包まれている。
 それでも何とか島の輪郭くらいは把握できた。

 切り立った岩肌に、高く隆起した山。
 なだらかな浜などは見当たらず、まるで侵入を拒むかのように海岸から崖がそびえ立っている。

 倚門島(いもんとう)

 それが、その島の名前だった。

「……」

 白と黒の髪を逆立たせ、眼帯で右目を覆っている男、火神楽正宗は無言で首を縦に一つ動かすと、
 湟神の指示に従い船の速度を落とした。

 首を動かすのと同時に火神楽が銜えていた煙草から漏れる紫煙も揺らぐ。
 空へと登った紫煙は虚空へと吸い込まれ、消えた。
 平生と変わらない落ち着いた、悪く見れば冷たくも見える表情の裏で、火神楽は密かに生唾を飲み込んだ。
 口内が乾いた為に覚える嫌な感覚に胸中で舌打ちを一つ。
 操舵輪を握るその掌もじっとりと汗ばんでいた。

 緊張が場を包み込んでいる。
 船に乗る者は皆無言となっていた。

 なぜか。
 それは、たった今から敵の本拠地へ乗り込もうとしているからだった。
 
――……10年前、"無縁断世"桶川雪乃はその力を狙う陰魄集団"パラノイドサーカス"によってその魂を強奪された。

 "無縁断世"
 それは、永い時の流れの中に生まれる突然変異の霊能力者。

『その者が現れし時死の理が世を蹂躙し その者が死した時生者の理が命を吹き返す』

 伝承ではそう語られる。
 平たく言えば無縁断世とは霊魂の力を増幅し、創り変えてしまう強力な霊能力者の事である。それが、桶川雪乃だった。

 その奪われた桶川雪乃の魂を奪い返すため、死の理に世が包まれるのを阻止するため、今、船は桶川雪乃が捕らえられているとされる島、倚門島へと向かっていたのだった。

「あそこに姫乃のオフクロさんが……」

 だが、世界の命運を背負おうという、英雄(ヒーロー)のように重い覚悟を持つ者はその場には存在しなかった。
 季節外れの黒いロングコートを着込み、頭頂から毛先まで真っ白な髪をした男、明神冬悟が潮風にかき消されてしまいそうな声で呟いた。

『離ればなれになった親子を逢わせてやりたい』

 そんな当たり前で、些細で、平凡な願いのために、そこに明神達は立っていたのだ。

 そしてもう一つ。
 桶川雪乃の娘、桶川姫乃もまた無縁断世であった。

 桶川雪乃が無縁断世に目覚めた19歳の時、桶川雪乃は子供を身籠もっていた。
 まだ形を成さぬその赤子は母である雪乃も意図せぬ内に、母が背負う呪いの半分を受け継いでしまっていたのだ。

 だから、桶川姫乃も狙われた。

 敵が狙う桶川姫乃を連れて敵の本拠地へと乗り込む。
 そんな体内に爆弾を抱えたままのような状況に、しかし文句を言う者はいなかった。

『オレ達みたいな奴が世界を救う動機なんて、それくらい分かりやすいのが一番さ☆』

 船頭に足をかけ、片手をポケットに突っ込みながらもう片方の手で襟足の黒い一部の髪を掻いている神吹白金は、以前そう語った。
 それは姫乃達親子を逢わせてやりたいと言う明神に対しての言葉だった。

 サングラスで目が覆われている為、いまいちその表情は掴み難いが、どこか緊張の中に晴れ晴れとしたモノが浮かんでいる。

「よし、行くぞ……!」

 島が目の前に聳えるほどに船が近づいた頃、明神が小さく、けれど冷えた早朝の海風に通る声で告げた。

 世界を懸けた戦い。
 されど、小さな人間の小さな願いの為の戦い。

 それが今、始まろうとしていた。



◆◆◆



「――……迷い迷いにゃこの世界 ここは出で立ち花の便り……」

 日は山の向こう側へと沈んで行き、僅かな残光を残すのみとなっていた。
 その赤銅色の残光が世界を染め上げている頃。
 一人の女が歩いていた。

 ……いや、一人きりではなかった。背中には幼子を乗せている。

 片腕を背中の幼子に回しもう片方で買い物の鞄を支えながら歩く。
 女が歩を進める度に、カランコロンと突っ掛けが地面を鳴らす音が周囲に響いた。

 辺りに人影は存在しなかった。

 山間に存在するその集落には民家という物があまり見受けられなかった。
 見渡せども広がるのは田植えを終えた田とその向こうには連なる山。そしてほんの僅かな家屋のみである。

「菜の葉の嵐にゃ碇を放て 力を合わせてチチンプイプイ チチンプイプイ……」

 女の唇は唄を紡いでいた。
 何の意味も成さないような、不思議な歌詞が独特の旋律と共に続く。

「うー……重たくなったね、姫乃。……もっと、大きくなるんだよ」

 女が立ち止り、背負う幼子の位置を直しながら言った。
 幼子の返事は無い。すやすやと寝息を立てているのが背中越しに分かった。

 女が首を捻って幼子の様子を見ると、それは安らかな寝顔だった。
 世界の不条理を未だ知らない、汚れのない綺麗な顔。
 それを見ると女は慈しむかのように微笑んだ。

 幼子の更に後ろには長く伸びた影が続く。そして再びカランコロンと鳴り始めた。

「……そうだ、ちょっとお寺にお参りに寄って行こうか。
あそこは安全だから、大丈夫」

 女の足が方向を変えた。
 残光に向かって進んでいたのを反対に、斜陽を背にして歩き出す。

「安全だから……」

 女の唇が唄を紡ぐのを止めた。
 旋律が途絶え風が吹き抜けていくざわめきだけが女と幼子の耳に残る。

「……っ」

 突然、女が俯いた。
 背後からの光で顔に影が差し、表情はよく見えなかったが、微かに見えたその唇は固く引き結ばれていた。

 何かを堪えるかのような、痛切な顔。
 胸にある想いを吐き出そうとして、その出口を見付けられなかったような。

「どうして……」

 ゆっくりと女が顔を上げた。
 そして深い息を一つ。引き結ばれていた唇は解かれていた。

「どうして……、……なんて言える訳、ないよね」

 一人、呟く。
 言の葉に返す者はいない。

「んぅ……」

 しかし、背中の幼子はその呟きに気付いたのだろうか、小さく声を上げた。
 寝ぼけた成分が入り混じったような、まだ幼さが残る声。

「あらあら……ごめんなさい姫乃。起しちゃったね。
でも、安心して。お母さんはいつでも傍にいるから……」

 そう言って幼子を揺する。
 幼子は安堵したかのように再び重たそうな瞼を閉じた。



―――・・・



 山門で本殿に向かって一礼。
 頭を下げると、手に持った買い物鞄がガサリと音を立てた。

 寺院の敷地内に入るとまず水屋があった。そこで身を清める。

 幼子を抱えているため、作法に則ったようには出来なかった。
 しかし気持ちの問題だとしてある程度割愛する。

 買い物鞄を器用に片手で探り、財布を取り出して小銭を賽銭箱に入れる。
 背筋を伸ばし、片手ではあったが胸の前へと掌を持って行き黙祷した。

(――……どうか、この子が無事に育ちますように)

 瞳を閉じた女が心中で囁いた。
 そして幼子を背負っていても辛くない程度の深さで上半身を折る。

(仮初めの平穏だとしても、どうか……日々が続いて行きますように……)

 頭を下げながら胸中で囁くが、女が顔を上げた時、そこには薄い笑みが浮かんでいた。
 それは、諦めから来る儚い笑み。
 叶わない夢だとは理解しつつも、願わずにはいられなかった。

(いつかきっと……壊れてしまう日が来る)

 女が本殿を後にした。
 幼子を起こさないように、その幼子と過ごす時を惜しむかのようにゆっくりと歩く。

(だからその時までは、せめて……)

「……あら……?」

 女がふと見ると、少し先には鼠とも猫ともつかない動物のようなものが倒れていた。
 その存在は怪我をしているようで身動き出来ていない。
 それは女の方を睨み付けながら低く唸っている。

「あの子は……ヨウコンの一種の……」

 女はその小さく藻掻いている存在に近づいていく。
 かつて、いつの間にか女に対して敬語を使うようになった、黒いコートの若者に言われた時のことを女は思い出していた。

『霊には大まかに言って二種類いて、ですね。
陰魄(インハク)ってのと、陽魂(ヨウコン)……まあ簡単に言えば、危ないのが陰魄で――……』

「――安全なのがヨウコン、か……」

 女はそれから霊について様々なことを知った。
 自分を付け狙うのが、強い負の感情によって形を成した陰魄であること。
 生前の未練によって死してもなお現世に留まる者や、自然の中で生まれた陽魂。

 今、目の前にいるのが野山にいる小さな動物の魂の集合体である獸子(ホジシ)の一匹であると分かった。

 害は無かったはずだ。
 そう思い出したため、女は屈んで獸子に手を伸ばす。

 普通ならば生者に霊が見えることも無ければ触れられる事も無い。
 だが、女は普通ではなかった。

「痛っ!」

 女の白魚のような指先から、紅い血が流れていた。
 獸子が手を伸ばす女に怯え、その爪で女の柔肌を裂いたのだ。
 女は痛みに思わず手を引っ込める。

「…………」

 しかし、何か思う所があったのだろうか、女は再びそっと手を伸ばした。
 獸子は相変わらず低く唸り声を上げ、いつでも爪で襲い掛かかる事が出来るように身構えている。

 女と獸子の目が、合った。

 途端、獸子の瞳に浮かぶ怯えや怒りの色が薄れて行く。
 獸子は喉を唸らせるのを潜め、ただじっと女の瞳を、そしてその奥にある物を見つめていた。

 女の掌が、獸子の頬に触れる。
 獸子の体が淡く光り、そこから魂が漏れ出していた怪我がその光に撫でられて消えた。

「……いい子ね」

 女が呟くと、獸子は起き上がり紅い血の滲む女の指先をペロペロと舐めた。
 すると滲んでいた紅がまるで初めからなかったかのように跡形もなくなる。

 女が獸子の頭を軽く撫でると獸子は甘えたように喉を鳴らしてそれを甘受した。
 そして、しばらくすると獸子は山の方へと去っていった。

「……」

 女は立ち上がり、じっと自らの掌を見つめる。
 霊魂を創り変えてしまう力、無縁断世。

 己が意図せずともその力は発露してしまう。
 それは陰魄や陽魂と言った垣根も越えて表われる。

――そして、生者の魂でさえも。

 黒いコートとサングラスの男が女に接するにつれて、本人は気付いていなかったかもしれないが、男の魂は変質していっていた。

 だから女に接する態度が次第に変化していっていたのだ。
 初めは肩肘張らないフランクな物だったのが、畏まって敬語を使うように。
 それに気付いたのは女だけ。

 あらゆる理から逸脱してしまう存在。
 女のか細い肩が背負うには余りにも重すぎる呪いだった。

 理から外れた者が理が創り出す世に在っていいのだろうか。
 いっそのことこの世から消えて居なくなってしまった方が良いのではないか、そんな考えが頭に浮かぶ。

「ん……」

 背中の幼子が寝言を呟いた。
 その声に、女はハッとする。

「……そうだね。
私はお母さんだもんね……姫乃……」

 例え理から外れようとも、幼子の側に居てやりたかった。
 例えそれが傲慢だとなじられようとも、それだけは譲れなかった。

 せめて、幼子が自立し旅立つその朝まで。

 そう思ったからこそ、自分はこうして苦労しながらも日々を過ごしている。それは自ら望んだこと。

 その苦労に対してどうして、などと言える訳がなかった。

「――迷い迷いにゃこの世界 ここは出で立ち花の便り……」

 女の唇が再び唄を柔らかに紡ぎ出す。
 日が沈み辺りを闇が染め上げても、それは途切れることなく、いつまでも続いていた。



◆◆◆



「……桶川姫乃と案内屋たちがここに辿り着いたようです」

 空に漂う座に坐り、法衣をその身に纏った男が告げる。
 男の目の前には獣の顔を模したような巨大な岩石が在った。

 そしてその岩石を覆う膜の中に女が、桶川雪乃がいた。

 雪乃の膝の上には岩で出来た鬣に、顔の半分ほどもある目を持つ霊、活岩の獅子がその大きな瞳で雪乃を見つめている。
 獅子を撫でる手が止まり、怪訝に思ったのだろう。

「ついに……ついに揃うのです。
世界を揺り動かす鍵、袂を分かちぬ無縁断世の親子が……!」

「……夢を、見ていたの」

 男が興奮気味に言う。
 しかし、雪乃はそんな男が眼中に無いかのよう夢見心地で言った。

「とても遠い日の事……私はあの子と共に在りたいと願った。
それは世界を動かせる程の大きな願いなんかじゃない。けれど、私にとっては何よりも大きな願い……」

「……いよいよ決着の時です。あなたが矮小だと言うそのあなたの願いと私、どちらがより大きな物なのか。
この日が来るのを待ち望んでいた……!」

 男がなおも続けて言う。
 その一方で雪乃は、悲しい目をしていた。

「……あなたは可哀想な人だわ。壊神さん。
勝負という形でしか他と共に、世界に在れない。誰かと繋がっていたい、世界と繋がっていたい。
そんな簡単な願いを忘れてしまった、歪なあなたを私は憐れむ」

 男と女の間に言葉が交わされる。
 しかしそれはなんの結果も生み出さなかった。

 ただ、確認しただけ。
 もう立ち止まり続ける事は出来ないのだと。

 戦いの時は刻一刻と迫っていた。




続く



[24630] 2譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:3563f643
Date: 2010/12/06 01:44
世界の縁を太陽が昇り、空の紗幕がその色を移ろわせ始めていた。
波音や海鳥の鳴き声を運んでくる潮風。

その独特の匂いが夜明け前の紫色の空気と共に胸腔へと流れ込む。

――・・・倚門島。

複数の人間が砂を踏みしめる音が、波音に混ざって島の一角に響いた。

「静かだね・・・」

「ああ」

島に降りてみての率直な感想を姫乃が短く呟き、それに更に短く明神が答える。
何の変哲も無いその遣り取りの中に薄らと緊張感が孕まれていた。

夜が開け始めたとは言え、文明の気配が感じられないこの無人島では人の眼では辺りを認識出来るほどの光量は存在しない。
島の砂に足を踏み入れたその瞬間から一瞬の油断も許されない状況だった。

「・・・・・・」

火神楽が燻らせている紫煙が後ろに流れるのを合図にして、集団が移動し始めた。
先頭から火神楽、明神と続き、その後ろにはうたかた荘の住人である陽魂達であるガク、エージ、ツキタケが姫乃を囲むようにして存在している。

そしてしんがりには頻りに辺りを警戒する湟神が。

「まだ気付かれてねーのかな?」

「だといいんだけど・・・」

金髪の少年の姿の陽魂、エージが掌で野球ボールを弄びながら、ふと言葉を口にした。
エージには特に誰かに尋ねたという意図は無かったが、隣にいるツキタケがズレたマフラーの位置を直しながら自然に返す。

緊張した際に出る癖が表れているのに、お互いはお互いの物に気付いていたが自身のソレに気付いていないようだった。

「・・・・・・」

湟神は、何も言わなかった。
予め調べておいたこの島の地形。

それで分かったのはこの島に上陸出来るような場所は、今自分達が居るこの砂浜以外に存在しない事。
乗り込んでくる敵を出迎えるのにおあつらえ向きだとしか言いようが無かった。

敵を全滅させるのには、この唯一の入り口に罠を張ればいい。
それだけで簡単に目的を成す事が出来る。

それ故に湟神は最大限に神経を尖らせていたのだが、拍子抜けのように今の所何も無かった。

詰まる所、敵にはこちらを全滅させるつもりは無いと言う事だと、湟神は自分の中で再確認する。

何故なら湟神達側には人質とも言える桶川姫乃の存在が居るから。
言いかえれば敵には桶川姫乃に一切の危害を加えるつもりが無いと言う事だ。

「・・・来たか」

またそれは更に言いかえれば、敵は自ら赴き、直接姫乃を奪いに来るつもりであると言う事を意味していた。
予想通りだと言わんばかりに湟神が呟き、火神楽が足を止める。

「また随分と大勢で来たのね」

「ッ・・・!!」

突如として暗闇の中から姿を現した陰魄、人間願望(アニマ)に姫の達は身を強張らせた。

括れた腰に手を当てて、気だるげな口調で告げたのは二人いた人間願望の内の一人、スラリと長い足に、髪を後頭部で一括りにした女の方だった。
側頭部から伸びる馬のもののような耳は後ろに伏せていて、気の抜けた口調とは裏腹に興奮状態であることを示している。

「問答は無用」

そしてもう一人の方、全身を無骨な甲冑で包んだ男は言葉数少なく、短い言葉を言いきる前に集団へ向けて走り出していた。
二又に分かれた蟹のような腕が狙う先は、集団の中心部。

「・・・!」

鋭利であり、また鋭い突起の生えた蟹のハサミは本来獲物を捕捉し、粉砕、あるいは引き千切る為に用いられる物である。
つまり、刃先を向けた者を傷つける為の武器。

刃先が姫乃の細い首筋へと伸びる。

「・・・我が初太刀を剄で受け止めたか」

――だが、しかしハサミが姫乃への柔肉を突き破る事は無かった。
咄嗟に姫乃の前へと躍り出た明神が剄を纏わせた右腕でそのハサミを受け止める。

梵痕の浮かぶ皮膚が浅く切れていた。

「そう簡単にやらせるかよッ・・・!!」

明神が吼え、両者の力が拮抗する。
地面が砂地であるが為に踏ん張りが利きにくいながらも、頑として譲らず動かない。

「冬悟ッ!・・・っ!!」

「反応鈍っ」

かち合った明神と人間願望の男達の的に駆け寄ろうとする湟神は、その進路を進む事が許されなかった。
気だるい声が耳の裏で響いたかと思うと、脊髄反射の勢いで抜刀、背後へと長ドスを振るう。

だが、不意打ちに近いその攻撃を受け止められる程の筋力、そして体重を湟神は持っていない。

「澪さんっ!!」

目の前の明神達の攻防に気を取られていた姫乃のが人間が吹き飛ばされる音に気付き体の向きを捻った。
姫乃の目に映った物は、砂埃を盛大に巻き上げて転がる湟神の姿。

湟神の腰に拵えてあったペットボトルの一つがその衝撃で破裂し、中身の水を辺りにばら撒いた。

「グッ・・・!!」

勢いを殺し切れずに転がる湟神は、長ドスを握る右手とは逆の開いている左手で地面を殴りつけた。
それによって転がる勢いが加速し、体が宙へと僅かに浮いた。

同時に湟神の耳に届く轟音。先程まで湟神の居た場所に巨大なクレーターが作られ、その中心では人間願望の女が惜しそうに眉を顰めていた。
今の攻撃で仕留められると思っていたらしく、目の前の出来事に不服なようだ。

「チッ!」

湟神は宙に浮いた体を無理やりに捻りバランスを立て直そうとする。
脹脛に勢いを殺す負担を感じて顔を顰めた湟神が見たのは、アルファベットのUの字のような蹄。

舌打ちと共に逆手の形で握った長ドスを、振ると言うよりは顔の前へと持っていくだけで精一杯。
容易く蹴り払われドスは宙を舞う。

「ふっ」

女は長ドスを払った足とは逆の左足で着地、湟神の眼前で膝をたわめた。
そして一連の滞る事のない流れで体の重心を前方へと傾け、右足で体を支える。上半身が捻られて湟神に対し背を向ける形へと。

だが、それは一瞬の事。
湟神の脳が人間願望の背中を認識するのと同時、下半身、それから左足が雷光のように続き後ろ回し蹴りが繰り出された。

狙いは、湟神の側頭部。
当たれば頭をスイカのように破裂させるに容易いだろうその蹴りを、湟神は思いきり体を後ろに倒し宙返りの要領で避けた。

湟神の着ていたコートの端が蹴りによって僅かに裂かれ、防戦一方、しかもギリギリの戦いに湟神は奥歯を噛み締める。
着地、そして跳躍する前に視界の端に捕えていた長ドスを目視せず再びその手に収める。

だがその一瞬。その長ドスを握る動作によって生まれた隙を女は見逃さなかった。

「もらった!!」

女の括った一房の髪を揺らしながら、踵を高く振り上げ湟神へと迫る。
湟神の額に女の踵がめり込もうとした瞬間――・・・

湟神の肩から微かに光を放つ銃身が覗いた。
銃口からエネルギーの塊が吐き出され、女へと迷いなく牙を向ける。

「!!!」

女はそのエネルギーに危機感を覚えたのか、振り上げた踵を急速に畳み、体の進路を大きく後ろへと逸らした。

「・・・やれやれ、とんだじゃじゃ馬な人間願望だぜ」

「グ・・・すまない、火神楽・・・!」

エネルギーを吐き出した銃身を肩に担ぎ直し、火神楽が倒れかけた湟神の体を起こした。
そして、咥えていた煙草を溜息と共に吐き捨てた。

未だ火のついた煙草をブーツで踏み消しながら、言う。

「ここはタッグでいくぞ。水(バ)」


――・・・


「一旦ここを離れるよっ」

サングラスの奥の瞳を険しくし、神吹は姫乃達に向かって声を上げた。
予想されていた襲撃。

だが予想されていた事は、何ら姫乃達にとってアドバンテージにならなかった。
何故なら、襲撃される事など当たり前の事。

姫乃を連れて敵地へと乗り込むなど、初めから分が悪過ぎた。

だが、それも初めから承知している事。
二か所で同時に戦いが始まると、神吹は冷静に戦いから姫乃を遠ざけると言う選択肢を迷うことなく選んだ。

「・・・・・・!」

しかし割り切っている神吹とは裏腹に、姫乃は心配そうに明神と湟神の方へと心配そうに視線を向け、唇を痛みを感じる程に噛み締めた。
そして、前を向く。立ち止って心配していても、何の力になれない事も姫乃は分かっている。

砂浜に足を取られながらも、神吹を先頭とした集団は走った。

「止まれ」

しばらく、走った所で神吹がいつもの軽薄な口調を消して告げた。
無言のまま闇を睨みつける。

「な、なんだなんだ・・・!?」

エージとツキタケがほぼ同時に不安の色を多分に混ぜた声を上げた。
声は周りで聞く者にもハッキリと震えていると分かる物。

「・・・何かいる」

ガクが、姫乃を庇うように前に立った。
視力は役に立たない闇の中で、自分の感覚のうち使える物を最大限に使って辺りを探る。

闇からは何の音も光も生まれない。
だが、確かにそこにはナニかが存在し、姫乃達に向けて敵意を放っていた。

「・・・囲まれちゃった☆」

額に汗を僅かに浮かべながら言う神吹の台詞は、いつも通りの軽薄さを表そうとして失敗したような、
そんな逆に不安を煽る物だった。


◆◆◆


「―――7年。実に長かった」

熱っぽい視線を頭巾の下から観照が雪乃へと向ける。
声音にも男が興奮しているのだと分かった。

「・・・・・・」

最早語るべき言葉は持たないという意志の表れであろうか。
雪乃は、獅子を撫でる手を再開させて男から目を逸らした。

「今一度、あなたの力をお借りしたい」

だが男はそんな雪乃の態度を歯牙にもかけず熱狂的な色を含んだ言葉を並べては、己の言葉に悦を感じていた。
それはまるでゲームが動き出すのを今か今かと待ちわびる子供のように純粋で、また醜く歪んでいた。

雪乃は再び力を借りたいと言う男の言葉に、酷く不快感を覚え、伏せていた目を開いて反抗の意志を示す。
道化師を気取るように男はわざとらしく一拍言葉を置いて、それから続けた。

「紹介しましょう。新しい仲間です」

男の言葉に促されたように、男の背後の闇で音がした。
雪乃が物音がした方に気を惹かれ、つい目を向けてしまう。

「穿頭の一角」

そこに居たのは、頭の禿げたヤクザのような男。
いや、そんな風貌をした見た事のない人間願望だった。

「グおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!」

「っ・・・!」

男が地鳴りのような唸り声を上げたと思うと、雪乃のいる岩石へと突進し頭突きをかます。
それだけで、岩には亀裂が走り、またその岩石を生み出している雪乃の膝の上に居る活岩の獅子が悲鳴を上げた。

雪乃がここに来て初めて驚きの感情を顔の上に表した。

「――元来、力尽くは好みません。あなたの魂に問いましょう」

観照が法衣の下から覗かせた口元は、歪んだ月のように醜い弧を描いていた。
観照が口にするのは、世界への呪詛でも怨念の言葉でも無い。

「選択せよ」

ただひたすらに目の前の戦い(ゲーム)への、祝詞だった。







続く



[24630] 3譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:3563f643
Date: 2010/12/31 05:19

「ふッ!!」

硬質な物同士がぶつかり合う鈍い音が鳴った。
女の陰魄が繰り出す足技の数々。

それは柳の枝のようにしなやかであり、また斧の一撃を思わせる重厚さをも持ち合わせていた。
強靭。その表現がしっくりとくる足技を火神楽は具現化させた銃身で受ける。

「・・・ッ」

額に皺を刻みながら火神楽はその勢いを蹴りに逆らうのではなく、僅かに攻撃のベクトルをずらす事に力を用いて体の横へと受け流した。
それはまともに受けては不味いと言う咄嗟の判断、第六感とも言える反応。

火神楽の名を受け継ぐ火(ラ)の梵術使いの真骨頂は、剄の力を遠距離へと射出する『心現放射』である。
その為火の梵術の間合いは他の梵術とは比べ物にならないほど広い。

だが、その間合いの広さを今は殺されていた。
火神楽の握る銃。それは人の背丈ほどもある巨大な物だった。

火神楽が銃口を人間願望の女へと向けようとする。しかし女は銃の腹を蹄で蹴りあげて狙いを定まらせなかった。
眉間の皺を火神楽は更に深くして攻撃を封じられている事への苛立ちを露わにする。

火神楽の間合いは、灯台のようなもの。
灯台は灯台の元を照らせない。余りに接近を許すと火神楽に手立ては無かった。

銃が体の中心線から離れた事を好機と見て女がその健脚を大きく振りかぶった。

「ハァッ!!」

と、そこへ湟神が改めて握り直した長ドスを女へと振るう。
だが刃は女に届かない。攻撃は女の一つに纏めた髪を数本散らせる飲みに終わった。

女が湟神の長ドスをかわす為に振り上げた足を一度畳み、片足のみの脚力で跳躍。
それだけで女の体が大きく後ろへと移動した。

「・・・なんつー馬鹿力だ。接近戦は不利だな」

火神楽が離れた女に追撃を仕掛けようとしたが腕が痺れて動きが鈍り、それは叶わなかった。
女の足技の力強さに火神楽は改めて内心で舌打ちする。

「コラァー!鹿を入れるなぁ!!馬力だ馬力!」

距離を取った女が火神楽の発言が心外だったようで声を大きくして遺憾の意を表した。
女と湟神の視線がかち合う。お互いに探り合うその両者にどちらも隙は無かった。

張り詰めた糸のような緊張状態を保ちながら湟神は続ける。

「馬の脚力を中心とした蹴り技、移動速度、跳躍力、そして馬力か――・・・」

「ジーザス。とんだじゃじゃ馬だ」

「あんたらに負ける訳無いじゃない」

女が火神楽と湟神の二人を馬鹿にしたようにフン、と鼻を鳴らした。
嘲りの視線を受けながら、しかし、湟神の横顔にはある一つの確信が浮かんでいた。

「・・・しかし、お前はどういうわけか無縁断世の影響を受けていない」

確信と共に微かな笑みさえ浮かべる湟神の言葉に、女の表情筋がピクリと反応する。

「その上、妖でもない。お前が異天空間を使わないのは、そういうわけだろ?」

「桶川雪乃に何かあったのか、それとも――」

「うるさいっ」

火神楽が続け、湟神がある推測を口にするが、最後まで言葉を次げない。
女が問答は無用だという先程の男の如く、再び二人に対して迫る。

直進すると見せかけて二人と女の中間点で着地、そこからの進路を変えての再跳躍。
鮮やかな跳躍で身構えた二人の背後へと回り込み、体を捻った勢いを利用しての回し蹴りを繰り出した。

二人が振りかえるよりも疾く蹄が風を切り裂く。
・・・だが、女の脚が二人に届く事は無かった。脚が何かに阻まれて空中で勢いを停止させている。

女の目の前、湟神達の背後にはいつの間にか淡く光を放つ障壁が張られていた。
それは湟神の名を継ぐ、水(バ)の梵術使いが得意とする守りの力の発露であった。

「聞かせてもらうぞ、桶川雪乃のこと――!」



◆◆◆



「何だっ!何に囲まれてんだ、俺ら!?」

囲まれているとの神吹の言葉にツキタケが焦りを言葉の端に浮かべながら言った。

「もしかして新たな人間願望・・・!!?」

緊張が一気にピークへと達したのはツキタケのすぐ左にいたエージも同じ。
忙しなく首を回して辺りを窺いながら言う。

「・・・・・・!」

姫乃は、アズミを抱きかかえたまま固唾を飲んで状況を見守ってる。
少し強くなった抱擁を受けながら、アズミは円らな瞳でじっと上を見つめていた。

「人間願望とは限らないよっ」

その緊張した雰囲気の中で神吹が告げた。
サングラスの奥の瞳は鋭く、いつ敵に襲い掛かられても対処できるように、またいつでも襲い掛かる事が出来るように神経を尖らせている。

「確かに陰魄は集団行動を苦手とする。けど、全部が全部そうってわけじゃあない☆
猿のように生前、集団行動や組織的に動いてきた者、何らかの形で主従関係を得た者、自らの魂を分け与えることで契約を結んだものなどと結構いるんだよ☆」

説明のための言葉を矢継ぎ早に並べる。
軽い口調、だが神吹の瞳はその軽薄さの裏に隠れた捕食者の色を濃く映し出していた。

「あとは――・・・ガク君」

「ああ」

神吹に答えると同時にガクの握る巨大な槌が炎を噴き出した。
その炎が辺りを照らし視覚がその場にいる者達の元へ帰って来る。

全員が周囲を見渡すが、網膜は特に変わった物を何も映さない。
そして神吹が納得したようにふむ、と一人神妙な顔で頷いた。

「・・・これで相手の姿が見えないのは闇夜の所為じゃない。姿を消すか周囲の景色と同化する力があるからって証明が出来た」

顎に当てた手を左右に開き肩を竦めるような格好を取った神吹に、思わずエージがずっこけそうになる。
何か重要な事が分かったようだったのに、神吹が告げたのは誰の目に見ても明らかな事。エージの突っ込みの言葉に、しかし神吹は飄々と返す。

「こうするのさっ♪」

神吹が口角を持ち上げて笑みを作りながら、腰に装備しているベルトを自身の親指で軽く弾いた。
途端、神吹の服の隙間から白みを帯びた切りが放出されて姫乃達を包み隠す。

「身剄融合60% "天使の瞬き(エンジェルパート)" 」

「・・・って、そんだけかよっ!?」

周りを薄い霧に囲まれたが、姫乃達の姿が隠れた訳では無くむしろ霧によってより目立っている状況にエージは慌てて神吹に尋ねた。
これで大丈夫なのかよ、と。

「シッ」

しかし神吹の表情は笑みを浮かべながらも真剣そのもの。
人差し指を直立させた状態で手を口元に持って行き短く言った。

「・・・っ!!」

何かが飛来する音が微かに耳に届く。
姫乃達を取り囲んでいた何者かは、ガクの炎と神吹の霧を攻撃と判断したらしくその牙を剥いて襲い掛かって来た。

その何者かが、霧に迫る。

そして霧に突入しようとした寸前、何者かが破裂した。

ガクが炎を上げながら何者かを叩きつぶしている自身のハンマーを見つめる。
何者かが破裂したのは、出鱈目に振りまわされたガクのハンマーによる物のようだった。

「・・・手を出したな。お前らヒメノンやツキタケに手ぇ出したな」

そして瞳をハンマーの下で蠢く何者かから離さずにブツブツと小声で呟く。
辺りの闇よりもなお瞳は暗く。それは愛するものを傷つけようとした者に対する怒りだった。

「何やった。俺のマイスィートに向けて何やってんだテメェラァァァ!!!」

ガクが、切れた。
静かに内に潜める怒りが滾るように外へと吐き出される。ツキタケやエージの制止の声も聞こえていないようだった。

燃える槌を滅茶苦茶に振り回し、紅炎を辺りに向けて飛ばす。
だがやはり狙いなど初めから定まらない攻撃が敵に届く事は無く、槌とその炎は空を切り続けた。

そして辺りを包む霧の一部を集め、顔の形を成した神吹は二ッと白い歯を見せながらガク以外の者たちにそっと何かを耳打ちする。
全員がその耳打ちに頷き、己の為すべき事を見つけて行動を始めた。

「おッとォ☆」

姫乃達を囲む霧をさらに囲むように四方から視認出来ない何かを飛ばして来る。
それを神吹は霧によってその行く手を阻んだ。

神吹の名を継ぐ風(カ)の梵術使いは、己の肉体と剄を融合させる力を操る。
大気と混ざり合ったその霧全てが神吹であり、また神吹が霧であった。

絶え間なく続く攻撃に、まさに風の如く飄々と神吹はそれらを防いでいった。

その間ツキタケは自身の身につけているマフラーを展開し姫乃とアズミの前の壁となる。
しばらく状況が進展するでもなく後退するでもなく、拮抗する。

そんな折、炎を辺りにばら撒いていたガクが違和感に気付き、目線を下方に下げた。
見つめる先は槌の柄。

どれほど力を込めようが槌はピクリとも動かない。
途方も無く強い何らかの力でガクは槌の動きを封じられていたようであった。

「ガクリンッ!」

突然様子が変わったガクに、姫乃は心配そうな声を掛けるが、ガクの表情は逆に冷静なソレへと変わっていった。
それはまさにガクが意図した筋書き通りの結果。

「ようやくかかった」

告げると同時にガクの槌の柄から宙へと炎が一筋伸びた。
いや、正確には柄に巻きついていた糸に炎が燃え移り、炎が糸の先へと進んで行っていた。

炎が糸を浸食する。
そうして炎が辿り着いた何かをも炎は呑み込んでその姿を肥大化させた。

その時、大きな炎の塊が身震いを一つ。
姫乃達の目に飛び込んで来たのは、化物。そう形容するしかないような存在だった。

不気味な狂犬の首をデフォルメしたような巨大な体からは節足動物特有の脚を複数生やし、それらの脚からは微細な毛が伸びて風にそよいでいる。
また紅く光る左右対称の複眼がそれぞれ不規則に動きながら姫乃達を捕えている。その口元からは、白い糸が零れていた。

ガクの槌を捕え燃えていたのは、その糸のようだった。

「・・・あれは耶縣針蜘蛛(やけばくも)☆」

姫乃はその姿の醜悪さに顔を顰め、腕の中のアズミは泣きだしそうな顔をしている。
そしてその姿を視認し、襲い掛かって来た存在が何であるか神吹は結論付けた。

「自分は木陰に紛れるがごとく姿を隠し、自ら魂を細分化した無数の分体を縄張り内に潜ませ、
そいつらに硬質化させた極細の糸を飛ばして八方からなぶる陰湿なヤツだ」

「グロロロ・・・」

不可視化の能力が解け、その姿を晒す事になった蜘蛛は低く唸る。
能力が破れようとも敵意は冷めないようだった。

「相手の姿が見えないのなら、向こうから出てきてもらえばいい。
破壊力は高いけどムラのあるガク君のハンマーを無茶苦茶に振り回させて慌てた本体(むこう)から攻撃するのを待ってたのさ☆」

種明かしの言葉を合図にして、霧が一気に広がる。
そしてその霧は蜘蛛本体をも包み込んだ。

蜘蛛は、その霧に危機感を感じたのか、八本の脚を振りまわして霧を祓おうとする。
だが捕食者である筈の蜘蛛のその鋭い爪は何をも捕えない。

「ワオ♪」

また蜘蛛の分体が縦横無尽に飛び回り神吹を捕えようともするが結果は変わらない。それどころか霧に突っ込んだ分体は霧に捕えられ身動きが取れなくなる。
この場において、狩られる者と狩る者がどちらなのか、それは誰の目にも明らかだった。

「俺のこの燃え上がる赤い糸が繋がる先はお前なんかじゃない・・・!!」

霧の中から突如ガクが大きく跳躍、蜘蛛の頭上まで跳び上がりながら吼える。
そして体を弓なりにしならせて、それから文字通り全身全霊で強大な槌を振りぬいた。

炎を宿した槌は蜘蛛の体へと真っ直ぐ吸い込まれて、蜘蛛は自身のいた網を突き破って堕ちて行く。
下へ下へ真っ直ぐ。だが、蜘蛛が地面へと叩きつけられる前にその複眼に映ったのは、バットを振りかぶるエージの姿だった。

「ヒーローと言えば協力&合体技☆」

神吹が瞳の緊張を解いて軽口を言う。留めは持って行かれたが、ポーズだけはばっちりと決めた。
エージは掌に在ったボールを手前で軽くホップさせる。

そして、蜘蛛とボールが射線上に噛み合った瞬間、満身の力でバットをスイングさせた。

「"EPHR(イクスプロージョンヒットラン)"!!!」

バットがボールを捕えボールが一瞬形を歪ませ、そのまま降りぬいたスイングは蜘蛛の腹部へと叩きこまれた。

「グロロロロロロロロ!!!!」」

バットと蜘蛛の両者に挟まれて、その圧に当て切れずにボールは爆ぜた。
まともに爆発とスイングを受けた蜘蛛はバラバラに四散して、それから大気へと融けて行き、ついにはその姿を消した。

「うっしゃあっ!!!!」

エージがバットを高く掲げ勝利の宣言をすると、姫乃はほっと安堵の溜息を一つ吐いた。
良い所を持っていかれて悔しいのだろう、ツキタケはそんな調子のよくなったエージをそんなような表情で見つめる。

神吹は、ポーズを決めたまま何故か逆さまになって浮いていた。

――・・・誰もが勝利の余韻に浸っていたその時、轟音が辺りを包んだ。



◆◆◆



明神は、力が拮抗したその状況で不敵な笑みを浮かべた。
力と力のぶつかり合いという単純な戦いが明神にとって好ましかったのだろう、皮膚が浅く裂けて血が滲みながらも更に腕に力を込めて行く。

一方全身を甲冑で覆った蟹の姿をした人間願望の男の表情は、その鎧で隠れて見えなかった。
ただ僅かに甲冑の軋む音が聞こえてくるだけである。

「・・・お前によく似たやつを知ってる。形は違えど防御に力を回したそのスタイル・・・!」

暫くの拮抗の後、明神が腹腔に溜めた息を吐き出すのと一緒に言葉を放つ。
目の前の陰魄から脳裏に以前戦い、そして勝利を収めた相手が浮かんだ。

「そうか。ヌシがキヌマを破りし案内屋か・・・」

まるで甲冑が鳴っているかのような、独特の響きを持った声が甲冑の隙間から響いてくる。
そして男が裂帛の気合と共に告げた。

「その無念、私が晴らしてくれようぞ!!!」



続く


psyren優先の筈が何故かみえるひとの方を仕上げてしまいましたとさ。
すいません、リアルの忙しさがいよいよ佳境に入ってまいりましたので暫く更新は無い気がします。



[24630] 4譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:2ed57cc7
Date: 2011/02/28 20:28
「なンだァ!?向こうで何が起こってんだァ!?」

掌に残る痺れに先程の勝利の余韻を感じながらエージは言った。
姫乃を危険から遠ざけるために一旦は湟神達と分離したものの、戦力が拡散している現在の状況はよいとは言えない。

なるべくなら仲間たちから離れ過ぎない方が良いだろうと言う判断から、神吹は湟神達の元へ戻ろうとしていた。
その際に聞こえてきた破裂音にも似た大きな音に、思い思いの表情を一同は浮かべる。

姫乃は仲間の安否が気が気でないような、エージは興奮からかどこか楽しげな、そして神吹は音を起こした者と対峙しているだろう仲間を信頼しているのかサングラスの下に不安の色は見えず、むしろ余裕の表情さえ読みとれた。

想いを抱いたまま、しかしそれを言葉にせず一同はただ黙って砂浜の砂を踏みしだいていた。
予想はされていたものの、島の上陸はこの先を予想させるかのような騒然としたものになったのだった。


◆◆◆


女が健脚を以てして三度、いや、もう何度目かも分からない跳躍をする。
重力に逆らった跳躍。女の体が放物線の頂点に達し重力と跳躍の力が均衡し運動エネルギーが一瞬ゼロになるその瞬間に合わせて女は体を捻った。

一枚の花弁が散るかのように女の体が舞い落ちる。

優雅なそれはあっという間に重力加速によりまるで断頭台然とした物へと変貌し、表情を険しくした湟神へと迫った。
剄の力でそれを防ぐか、躱すか。一瞬の逡巡。

その後に湟神は躱す事を選択した。
水の梵術は力を具現化させるためには媒体である何かを、今湟神の手元にある水を使う必要がある。

その水はペットボトルに収められ湟神の腰に拵えられているのだが、しかし今女の陰魄はそれを使う余裕を湟神に与えはしなかった。
女の蹄が砂浜へと吸い込まれる、と同時に大量の砂が宙を舞った。

「くっ!!」

湟神は対上級陰魄戦において用いられる空(キャ)の技である飛(フェイ)を用いて女の脚を躱す。
それは脚にある剄穴からの発剄。右足の爪先を体の向く方向とは垂直に向け重心移動、そして砂を全力で踏みぬく。

剄の爆発によって、湟神は限界を超えた加速を生んだ。

巻き上げられた砂が紗幕となり、視界が突如として悪くなった事で湟神の警戒心が先程までよりも更に跳ねあがる。
目を細めて紗幕の向こう側を睨みつけながら着地。コートの裾がはためく。
女は、と湟神が思考を走らせるのと同時に湟神の目前とは異なる場所から音が生じた。


――火神楽は、攻防を続ける湟神と女の陰魄と僅かに距離を取っていた。

飛び道具、遠距離攻撃といった類の物はえてして狙う対象と距離を空ければ空けるほどに精度は下がるものだ。
逆に近ければ近い程に避けにくい。対象との距離と到達時間はほぼ同義なのだから。

ならば近づけばいいかと言うとそれも違う。
遠距離タイプである火神楽には懐に入られる事は敗北を意味する。

付かず、離れず。その狩人(ハンター)としての天才的な距離感を以てして、火神楽はこの闘争の場に挑んでいた。

「・・・・・・」

冷静に、冷徹に。芯まで冷えた金属の如き思考で。
仲間の湟神が劣勢であろうとも、眉一つ動かさずいずれ訪れるであろう機会(チャンス)を待ち望んいた。

――・・・女が大技に出た。

凄まじいその脚力を見せつけるかのような跳躍の後、後ろで一括りにされた髪を揺らしながらの急降下。
蹄が打ち付けた砂浜からは爆発が起こったかのように膨大な砂が巻き上がり、視界を奪う。

湟神が上手く躱せたかどうかはこの位置にいる火神楽には分からなかった。

だが、ここだ、と火神楽は思った。
あれ程までの威力の蹴りを放ったのならば、体への負担にしろ、硬直にしろ反動は女にも必ず現れる。

火神楽は己が今なすべき事を成す為に、無言で具現化された銃の銃床を肩に押し当て、スコープを覗きこみ、煙の中心へと銃口を向けた。

だが、それは火神楽の誤りだった。それに気付いたのは直ぐ後の事。
それまでスコープに映っていた女の影が急に失せた、と気付いた瞬間火神楽の背中を氷塊が滑り落ちた。

女は予想された反動を物ともせずに、攻撃の姿勢を示した火神楽に目標を変えて迫ってきたのだった。
火神楽の誤りは、その判断のミス。そして女が火神楽の予想を超える能力を有していた事だった。

女は息をも吐かせぬ怒涛の攻め、攻め抜く持久力を以て案内屋達に再三襲い掛かる。

「チッ!!」

担いだ銃身に左の下腕を押し当て予想される衝撃に備える。
女は突如スコープの範囲外から姿を現し、その銃の横っ腹を蹴りつけた。

まるで重厚な鉄塊を投げつけられたような衝撃。銃を挟んだ向こうの火神楽の左下腕が軋んだ。
火神楽の瞳には得意げに薄く笑いを浮かべた女の顔が映る。

そして蹴りつけた左足とは逆の脚での連続蹴り。火神楽を、盾にした銃と共に蹴り抜いた。
湟神が聞いた音とはまさにこの音であった。

空中でバランスを崩さずに蹴りを二度放つ。
そんな人あらざる者の動きをまざまざと見せつけ、尚も女は吹き飛ばされた火神楽に追撃を仕掛けようと迫ろうとする。

「・・・・・・!」

だが、不意に感じた右腕の痛覚にその足は留められた。
見ると、腕には一本のナイフが食い込んでいた。

刃が爪を立てているその箇所からツ、と一筋の赤い液体が流れる。
攻撃を受けた事に気が付かなかった事に多少は驚いたものの、さしたるダメージでは無いと判断し女は流れ出る紅、魂から瞳を逸らした。

だが女がその紅から目を向けた先は目の前では無かった。
正確には、今現在では無かった。


『凄いぞぉ、あんな血統(かけ合わせ)でこんなに走れるやつが生まれるなんて―――』


遠く、嘗てあった、そして失われた時に想いを馳せる。
それは紅に映った己の過去の事。


『お前はウチの期待の星だよ。ヒノエ』


言葉が女の内耳、そして頭蓋の中で反響し、それは女の魂の根幹を揺さぶった。
女が奥歯を噛み締める。歯が擦れ、軋む音がその反響を更に強くする。

(私は、まだ走れる―――)


◆◆◆


「そんな理不尽なことがあっていいんですか!」

顔に若さが残る、一人の男が吐き出すように言った。
その声には憤りや無念、そして悔しさと言った感情が溶けており、事実男の顔はそれらの感情で歪んでいた。

「仕方ないだろう」

男の声が向く先、もう一人の男が帽子を深く被り直しながらに答えた。
帽子の下から露わになっている顔半分には、やはり決して快い感情は浮かんでいない。

若い男は、牧場の飼育員。そしてもう一人の男は牧場の経営者であった。

「納得出来ない!!柵を乗り越えて、勝手に入り込んだのは向こうじゃないですか!!!」

「しかし、怪我させた相手は馬主さんの息子だ。ウチの経営状況上、逆らえないんだ」

「だからって、あんないい仔を処分しろだなんて―――」

感情のやり場が見当たらず、若い男は言って捨てた。

憤りを拳に込めて何かを殴る訳にもいかない事は、男にもよく分かっていた。
それでは何をも解決しないし、それだけはしてはいけない事だと自身に言って聞かせる。そうでもしなければ、意志とは関係なしに感情が暴発してしまいそうだった。

だがそうしたい気持ちが男には満ち満ちている。
結局、男は一頭の馬に想いを馳せることで感情の鉾を収めた。

『どうせ大した損害でもない。馬の走れる走れない、儲かる儲からないは血統が総てだからな』

その言葉が牧場主の耳にこびり付いて離れない。それは馬主から牧場主へ告げられた言葉だった。
再び思い出したその言葉に牧場主は吐き捨てたい気分になるが、ゆっくりと被りを振る。

「私だってヒノエは惜しい」

「しかし・・・!」

男は咄嗟に牧場主の言葉を否定しそうになった。
だが寸前で牧場の経営難に苦心する牧場主の姿が脳裏を掠め、腹腔で膨れた否定の句を告げるには至らない。

牧場主が俯いていた姿勢を起こし、真っ直ぐに若い男を見つめた。
その視線は男の心の臓を射抜くほどに鋭く、冷たく、否定の言葉を許しはしない物だった。

「ヒノエは前脚を骨折してしまっているんだ。あの事故のはずみで―――」

「っ・・・!!」

男の顔色が、驚愕のそれへと染め上げられる。見開いた眼は牧場主のその射抜く視線から外す事が出来なかった。
まるで、冗談を言っているのだと言って欲しいかのように。その理解できない、したくない言葉を否定して欲しいかのように。

「かわいそうだが、ヒノエはもう――・・・走れないんだ」

だが、牧場主の告げる現実は、尚も残酷に男を貫いた。
男の足取りがよろよろとした頼りない物に変わり、そして男は自分でも気付かない内に走り出していた。


――・・・馬は、夢を見ていた。


広く、平らな草原を駆け巡る。
誰にも邪魔されることなく、何処まででも駆け抜けていけるのだと錯覚するほどに、自由に。

それは幸せな夢だった。

馬は、脚の怪我の為に伏せて寝る事が出来ず、立ったままの姿勢で首を擡げて眠っていた。
ふと、何か足音のような物に気が付き、浅い夢の縁から掬いあげられる。

気が付くと、目の前には何時も自分の世話をしていた一人の男の姿があった。
息を切らせて、肩で息をしている男は馬の姿を認めると、何も言わずに馬の首に手を回しそっと抱き締めた。

「ごめんな・・・!ヒノエ・・・!ごめんなっ・・・!!」

男の頬から何か温かい物が馬の首に伝わってくる。
馬には人間が何を話しているのか解する事は出来なかったが、それでも抱きしめられた首を振り払うことなくただ悲しげに虚空を見つめていた。

思い出すのはある日の、とある出来事。

一人の子供が鞍も載せずに馬の上へ跨ろうとする。
驚いた馬はそれを嫌がり、背中の子供を振り落としてそのまま走って逃げようとした。

だが不幸にも馬は柵に激突し、前足を強打してしまった。
後に覚えているのは焼けるような脚の痛みと、聞こえてきた怒号だけ。


(私は まだ走れる

 どうして 見捨てるの)


そんな想いも言葉に換える事も出来ず、ただ馬の心中で燻ぶるだけだった。
届かない。想いは言葉にして初めて伝えられる物。

自分が目の前の男と同じ人間だったなら、想いを訴える事が出来るのに、と馬は一瞬考えた。
だがその思考は到底叶わぬ物。思った所で何かが変わる訳でもない。

ただあるのは、途切れる事のない男の嗚咽だけだった。


――・・・


「ヒノエ―――お前の処分が、決まった」

牧場主がそう告げると、馬はその言葉の何を解した訳ではないが、何かを汲み取ったのか無力に打ちひしがれるように頭を垂れた。
申し訳無さそうにそう告げた牧場主の顔には諦念の表情が張り付き、ひどく疲れているようだった。

「・・・よくもやったな。買(飼)ってやる人間に逆らうなんて、この暴れ馬!」

すると側にいた子供が馬のいる寝床の柵を蹴飛ばした。
子供の腕は吊られていて、その子供はあの日馬に乗ろうとした子供のようだった。

その衝撃に、馬は垂れていた頭を急に持ち上げる。心中で燻ぶっていた何かが確かな熱を持ったのを馬は覚えた。

それは、熱く、熱く、思考をある一色にに染め上げてしまう程で、馬はそれを抑える術を持たなかった。
また抑えようとも、熱に彩られた頭は思いもしなかった。

「やめろ、ヒノエ―――!!」

前足を大きく高々と持ち上げて布が巻かれた蹄を子供に見せつける。
子供は、恐怖に顔を歪ませていた。

(憎い)

馬の心中の燻ぶりが弾けた。
そしてそれはあっという間に馬を包み込み、燃やし尽くしてしまった。


◆◆◆


「―――私は、まだ走れる!!走れるんだッ!!! 」

女が吼え、駆ける一歩を踏み出そうとした。
その瞬間。ナイフの刺さった女の腕が急に膨れ、歪み始める。

「ッ!!?」

「・・・・・・」

巻き上げられた砂が晴れて来るのに合わせて湟神が姿を現した。

手には女の腕に刺さったナイフと同形の物が複数携えられている。
女に刺さったナイフは、湟神が女の攻撃を躱す瞬間にカウンターとして投げつけられていた物だった。

そしてそれは湟神の力、水の梵術によって湟神の剄が込められた物。
霊魂である女にとってその剄は猛毒だった。

(だから・・・私が走る邪魔を・・・・・・!!!)

女が、腹腔に力を込める。怒りの炎に呑まれてしまったのなら、それに身を委ねればいい。
何時か袈裟を着た怪しげな男にそう言われたのが蘇った。

「・・・するなあぁあぁあぁぁああぁあっ!!!!!」

女の霊圧が急激に膨れ上がり大気をも震わす。
その振動が収まった時、女の姿は先程までの物とは全く異にする物だった。

四肢は地に付き、嘗て生前地を駆け巡った時のような姿に。
一つに纏められていた髪は解け、馬の髪中のように後ろへと流れる。

だが何よりも変化していたのはその瞳。
瞳孔が開く程に怒りに彩られた女は、湟神と火神楽に再び襲い掛かった。

「魂殻変化・・・!!」

突然の女の変化に湟神と火神楽は目を見張る。
そして背筋に悪寒を感じ、直ぐ様に湟神は後方へ飛を用いて退がった。

距離を取らなければ拙い。
そう本能的な危機感を覚えての行動だったが、しかし変化した女は湟神の飛よりも更に疾く湟神に迫った。

「ぐ・・・!!」

女の脚を咄嗟にドスと、更に鞘も合わせて防ぐ。
両腕に掛かる先ほどとは比べ物にならないほどに重い蹴りを、湟神は辛うじて逸らした。

蹄を受けた手首に嫌な熱が残るほどにその蹴りは激烈。

脚を何とかいなした湟神は再び距離を取ろうと下がるが、やはりまたも女に追い付かれる。
しかも追い付かれるのみに非ず、追いついた上で女は間を置かずに湟神に向かって脚を振り下ろした。

避けられず、防ぐ事も儘ならず、攻撃を受けるたびに鈍い嫌な音を立てるドスと鞘を見て限界を感じ、湟神はある判断を下す。

(これでは雪乃のことを聞き出すのも無理・・・・・・か)

そして湟神は火神楽に目配せを一瞬する。
それだけでお互いの意志が伝わったようだ。互いに小さく頷く。

「私は、私一頭(ひとり)でも走れる !!!」

女が離れた湟神に迫ろうと脚を振り上げたその時、湟神は砂浜を思い切り蹴り上げた。
砂が巻き上げられ、それは女の顔に降りかかる。

「くっ!!!」

単純な眼つぶし、そんなものに掛かった自分を女は腹立たしく思い怒りを加速させる。
小賢しい真似を、と女が顔を覆い、刹那出来た隙を突いて湟神は後退した後、二本の指を女に突きつけながらに告げた。

『"水杜牢 滈几"(ミトロウ コウキ)』

正確には、女ではなく女のいるその足元に向けて。
女がいたその砂は、微かに濡れていた。

「っ!!?」

それは戦闘開始直後に湟神が吹き飛ばされた時に割れた剄水ペットボトルに入っていた水による物。
女が自らの立つ足元の変化に気が付き、顔が怒りのそれから驚愕のそれへと色を移ろわせる。

半透明の、薄く光る壁が女を囲い始めていた。
女が気が付いた時には、最早女の頭上を残し完全に包囲されそうであった。

閉じ込められては拙い、と女が思考の電流よりも速い魂の伝達速度で判断し、閉じられていく頭上へと思い切り飛び上がった。
幸いな事に女の健脚を以てしてならば脱出は不可能では無い程の高さ。

だが、その牢から抜け出した時女の目に映ったのは、眼前に広がる光の大波であった。

「・・・お前は速すぎた。それは結界の展開よりも速く、熱くなったお前は必死に穴へと逃れる」

「その瞬間―――俺はお前を捉えてハズさない」

そう告げる二人の声が届いたのかは分からないが、女は自分が手遅れだと言う事に波に呑まれる僅か数秒前には理解していた。
そして思う。

(――・・・分かって欲しかった、だけなのにな。まだ私は・・・走りたかったんだ、って)

言葉が解せたならば、話す事が出来たのならば想いを訴える事が出来た。想いを怒りに染める事は無かった。
それが女が、ヒノエが望んだ一番初めの事だった。

ふと、ヒノエは自分の首に顔を埋めて涙を流していた男の事を思い出していた。

(あれ・・・?私、別に人間キライじゃないや・・・。なら、なんで・・・?)

ヒノエは、何故自分が人間に近い形の人間願望の陰魄として現世に留まっていたのかが分からなくなっていた。
初めは人間が憎いから、その力が嫉ましいからだと思い込んでいたのだが、どうやらそれは違うようだとたった今気付いた。

その疑問は怒りを氷解させ、怒りに焦がれた身を元に戻させる。

「分からないや・・・」

『"心現炮撃 釈火"』

火神楽の声が無感情に辺りに小さく響いた。

ヒノエがその光に呑まれる。

最期の最後で生まれた疑問に答えを見つける事も出来ず、ヒノエは消滅した。
一番初めの想いこそが答えだったと言う事にも、とうとうヒノエは気付く事は出来なかった。

火神楽はその光に背を向け煙草に火を灯し、湟神は陰魄に何か思う事があったのか光が消えても尚、暗くなった虚空を見つめ続けていた。



続く



[24630] 5譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:8e6025cc
Date: 2011/04/09 02:42
 白刃が閃く。
未だ明ける事の無い闇を切り裂いて銀の軌跡を描きながら、男の刀が黒コートへと迫った。

「どっせい!」

 だが黒コート、明神はその刀を躱すでもなく、短い覇気の声と共に寧ろその剣筋へと拳を繰り出す。
これが生身同士の戦いならば狂気の沙汰とも言える行動だが、明神が今対峙する男は普通とは言い難い存在、霊であった。
 そして異端であるのは明神も同じ。
かつて下水道で出会った一体の陰魄、キヌマが評したように明神もまた人の中にあって並みの人とは異にする存在、案内屋であった。

 それらから導き出される結果は一つ。

 明神の拳と男の刃がかち合った。
だが、男の刃は肉を切らせる事も骨を断つ事も出来ず、ただ薄い皮膚一枚を僅かに傷付けるのみ。
そればかりか、明神の拳が繰り出されたその勢いのままに男の刃と拮抗して、そしてついには拳が振り抜かれた。

 剣先が明神から大きく逸れる。それによって男の体勢もまた大きく崩れた。
そして男は眼で見た。全身で感じ取った。今自分が相手をする存在が如何に強大な物なのかと言う事を。
 体の動きに合わせて流れる真っ白な髪の隙間から明神の表情が覗かせた。
そこに浮かんでいたのは、喜悦。口角を持ち上げて笑みを作っている明神は戦いを楽しんでいる節さえ見られた。

 正気ではない、と、男はそう思った。そして考えるのと同時に背中へと走る悪寒。
振り抜いた拳とは逆の掌を握り固め、隙が生じている男へと明神は間髪いれずに迫った。

「ちィ……っ!!!」

 男が必死の形相で逸れた刀を戻す。
間一髪、男の顔面へと叩き込まれようとしていた明神の拳は刀の腹によって防がれる、がしかし、その拳の余りの重たさに男は無意識のうちに体を退いていた。

 男は背中の悪寒に引かれるままに明神と距離をとる。
手に携えた刀を見ると鏡のように磨き抜かれた刀身に皹が入っている。それが明神の拳の威力を物語っていた。
 剣先が男の動揺を映したかのように空を彷徨う。
男と明神が視線をぶつけ合い互いの隙を探り合っている最中、男は顔の側面に光を感じ、突如愕然とした表情を浮かべた。

「まさか、ヒノエ――!」

 敵の目前で視線を敵から逸らすなどと言う隙を作る訳にもいかず、男は僅かに傾けた首と視線を後ろへ流し、仲間が滅されたと言う事実を確認した。
そして愕然とした表情から憤怒のそれへと変化させ、再度明神を視線で射殺さんばかりに睨みつける。

「どうした。動かないのか?」

「く……」

 男は皹の入った刀と余裕の色さえ顔に浮かべる明神を見比べる。
明神が浅く切れた拳を逆の手で軽く触れた。それはまるで痒い箇所を掻くような仕草で、男の焦燥は更に加速する。
 そして思う。

(――この男を侮っていた……! 凄まじきはこの男の身体より溢るる魂の量……今のわたしの力では到底かなわぬ――)

 男が思うように、案内屋の異常性はそこにあった。
 躯という器に収まりきらない巨大な魂を持つ人間、それが案内屋。
溢れ出した魂は身体の枠を超えて表皮のように全身を駆け巡る。白い髪はその表れである。

 内から外へと溢れた魂故に、案内屋は霊に触れる事が可能であるが、それ以上に霊からの干渉を著しく漸減させられる。
先程の刀と肉体のぶつかり合いが成立したのは、男の刀が霊の性質を持つ物であるからと、明神が天性の霊撃耐性を備えていたからであった。

(退けば討たれる……圧せば敗ける……!)

 男が刀の柄を今一度握りこんだ。
視線を鍔から剣先へとゆっくり走らせ、剣先の伸びる先と視線の二条を明神で交わらせる。

(ならば――!!)

「……!」

 男が腹を括ったかのように内で裂帛の気合の声を上げた。
声を上げるのと同時に刀身に変化が表れ始めた。

「金生水――金の刃伝えよ水の珠」

 初めは一滴、続いて一条の、そして幾多の水の筋が刃紋のように纏われたかと思うと、水は一気に質量を増し最後には鋏のような姿へ変貌した。
明神が気付いた時には既に遅く鋏は形成された後であった。そして鋏が間を迷う事無く一息に振り下ろされる。

「"嵩鋏ノ水絶"(がさみのみなたち)!!!」

 聴覚の全てを支配するような轟音、そして同等に視覚も奪う砂の紗幕。
水が剣筋上に迸るが、それ以上に圧倒的に量の多い舞い上がる砂煙。
 砂浜に一つの大きな傷口が生まれた。

「なに……!?」

 だが、砂煙の中に気配は感じられない。男が頬に焼け付くような感覚を覚えたのは目前の砂煙の内部からではなく、男の背後からであった。
暗闇よりも尚黒いコートが、そしてそれとは対象的なまでに白い髪がはためく。

 肘の上付近まで捲くられた袖と、その下に覗く右前腕。
足の踏み込み、腰の捻り、肩の捻じり、肘の突き出し、手首のスナップ、そして剄の凝縮。明神は全身の力を以て拳を振り抜いた。
 梵痕(サン・スティグマ)に微かな光を湛えたそれは、大瀑布のようであった。

「"闇蛍"(ヤミボタル)」

 拳のインパクトの瞬間に限界まで溜めた剄を炸裂させる。
荒々しく見えるようでその実緻密にコントロールされた剄が、爆ぜた。
 大気中へと零れた剄は微細な燐光を放ち、それはまるで闇夜に踊る蛍火のようで。
 破裂音と共に男の着込んでいた鎧の隙間から白い湯気のような気体が漏れ、鎧は膝から崩れ地に伏せた。

「冬悟!」

 と、そこへ鎧のすぐ側に佇む明神のもとに戦いを終えた湟神が声を掛けながらに駆け寄る。
しかし鎧を見つめたまま、明神は湟神と火神楽に振り替える事をしなかった。

「やったか」

「……いや、逃げられた。大技は囮、か」

 そう答えてやっと明神は顔を上げた。そこにあったのは浮かない表情。
 明神が見つめていた鎧からは手足や胴体が生えておらず、中身は暗く空洞であった。
そして鎧の前面には大きく裂けたような跡が残されおり何かが鎧を突き破って抜け出したような風体だった。

「蟹の人間願望――これは脱皮か!?」

「まずいな。全滅させなきゃ意味が無ぇ」

 湟神が目の前の状況から導き出した推測の言葉に火神楽が答える。
三人は未だ晴れ切らない砂煙の奥を見つめた。共通する想いは、危惧。

「向こうに、俺達の手が知られる」


――・・・


「不覚……! 何たる失態か!!」

 一寸先さえ見えない暗闇に男の声が響いた。
言葉の合間合間には苦しげな呼気の音が混ざり、独りごちるというには些か荒々し過ぎた声音であった。
 直向きに走る男のその姿は先程よりも幾分か縮んでいる。脱皮の反動らしかった。

「……!」

 突然、男の進行方向その少し先に光が灯った。筋の尾を引く焔が闇に浮かんでいる。
それは周りを照らすでもなく、逆に光を吸い込んでいるようにさえ錯覚するほどに濁った灯りだった。
 そしてそれは見る者に不安や不快感をもたらす、薄気味の悪さを孕んだ物であった。

「……案内屋か」

 気が付くと浮かぶ篝火は一つでは無く、複数が円を描くように漂っている。
篝火の放つ熱の為か、空間が歪んだように息を荒くした男には映った。
 そして、その円の中心に突如として袈裟を着た男が姿を現した。まるで闇から身を引き摺り出されたかのように。

「申し訳御座らぬっ! ヒノエが――私の力も及ばず!!」

 男が袈裟を着込んだ者の姿を認めた瞬間、男は地に膝と額を付け謝罪の言葉を口にした。
地に付けた額にはまるで脅えるかのように大粒の汗が浮かび、乾いた地はその粒を吸い込んで行った。

「よい。ヒラガサ。――選択せよ」

 声に男の体が電流が流れたように一瞬硬直し、その後恐る恐ると言った体で顔を上げた。
袈裟の男の声には終始一貫して感情と言う物が感じられなかった。硬い冷たさを纏っているのでも無く、文字通りの無感情。

「……桶川雪乃が我らに再び力を貸すことを約束した。前は更なる先の力を望むか、それともこの場で消えることを望むか――」

「もう一度機会を……!」

 男は間髪いれずにそう叫んだ。
縋るような声にもやはり袈裟の男は無感情に一つ頷くだけであった。
 そして数珠を握る腕を差し出して告げる。

「――ついてくるがいい。お前に恩寵を伈底(しんそこ)で授けよう」


◆◆◆


――遡る事幾日。

 明神を始めとする案内屋達、そしてうたかた荘の住人達は桶川姫乃を狙う集団、パラノイド・サーカスの追跡を逃れる為に移動を繰り返していた。
決して一か所に留まる事をせず、各地を転々とする。姫乃の魂は既にパラノイド・サーカスらに覚えられてしまった。
 そうでもしなければ容易く居場所を突き止められてしまう事は想像に易かったからである。
その逃亡劇を始めてから、数日が経過した日の事だった。

「倚門島は私の師であり祖父の湟神一兆や明神、が追跡・調査・占星などのありとあらゆる手を尽くし探し当てた、連れて行かれた桶川雪乃がいる可能性が最も高い場所」

 湟神が卓上に広げられた地図に視線を落としながら、周りに説明するように言った。
途中の明神と言う単語に明神冬悟は引っ掛かりを覚えるが、今は口を挟むべきではないと判断し開きかけた唇を閉じる。
 湟神はそれまで地図を指し示すのに用いていたナイフを、地図上のある一点に突き刺した。

「同時にこの国で最も霊的な力が溜まりやすく、そして非常に澱みやすい場のひとつでもある」

 机を囲むように立っていた全員が、その刃の根元に視線を注ぐ。
刃が付きたてられているのは、倚門島。その島は海図に辛うじて記載されているような、ごく小さな規模の物であった。
 それにも関わらずその倚門島という名が既に威圧感を放っているように思えて、誰かがゴクリと生唾を飲んだ音が響いた。

「こういった場は陰魄が集め惹き寄せ、奴らは力をつける。そしてこれが倚門島の地図だが――」

「ちょっと待て。倚門島って未発見の島とか無人島じゃないのか?」

 湟神が海図の上にそれよりも一回り小さい地図を取り出した時に、明神が湟神の言葉を遮った。
横槍を入れた形となった明神は、机に手を突く湟神と壁に寄り掛かっている火神楽の二人にジロリと睨まれる事になる。
 止まってしまった話し合いの場を横目で見て、火神楽がどこか投げ遣りな様子で明神の問いに答えた。

「かつて、人が住んでいたというべきだろうな。……この島の特殊な環境や状況を知っていて、何もしないわけがねぇ」

 火神楽は短くなった煙草を足元に落とし、ブーツで灯火を踏み消す。
告げられた言葉はまるでその煙草の如く投げ捨てられた物だった。

「古くからその島に住む除霊師一族の手引きで案内屋が訪れ、力を合わせて定期的に島に溜まった気を澱む前に払拭(浄化)させ、結界を張っていたそうだ」

 灯火が消えた煙草のように再び黙した火神楽に代わって湟神が続けた。
明神達が今滞在する場所は海沿いに存在する廃屋であり、室内には湟神の少し低めの硬い声と波の音だけが響いていた。

「私の祖父は何度かその仕事を頼まれたことがあり、この島を訪れていた。地図はその折に手に入れたものだ。一般には出回っていない」

 湟神がそこまで述べた時、それまで瓦礫の上に腰を下ろし話し合いを静観していた神吹が立ち上がった。
グレーのスーツについた砂塵を手で払い、瞳を覆う赤の混じったサングラスの位置を直しながらに今度は神吹が言う。

「そうやって島に溜まる気が澱む前に手を打つことで、この島の平穏は保たれていた。そこに観照やパラノイドサーカスが現れたとすれば――」

 神吹が肩を竦めてみせた。
口元にはいつもの軽薄な笑みが浮かんでいたが、どこか苦みの混じった表情だった。

「……おそらく、島に生き残っている者はいない。案内屋側にその事態を知るすべもなく、長いこと誰にも気づかれなかったというわけ、さ」

「以後、数年間――この島は結界も張られることなく放置され続けた。……ここまで言えば、もうわかるだろう。続けるぞ」

 湟神が一連の会話の流れをそう結んだ。
そして卓上に広げられた島の地図に視線を落とす。

「更に厄介なのは島の内部構造。島のあちこちにその中心部や内部への入り口となる鍾乳洞や地下道があり、先ず間違いなく陰魄達はそこを根城にしている」

 湟神が言いながら地図を裏返した。
紙の色が黄ばみ、端が一部破れつつあるほどに古びた地図は微かな擦れる音と共に裏返ると、そこには島全体の地図とはまた別の模様が描かれている。
 それは、島の内部構造であった。

「陽も差し込まぬ地下世界、澱みきった気は更にその奥深いところで溜まり続ける。
島の最深部であり最下層、ガスや澱んだ気などに阻まれ肉体という縛りを持つものには足を踏み入ることさえ不可能な域」

 湟神の指がその描かれた構造をなぞる。
湟神が言うように、内部への入り口は幾つも存在し、またその入り口から伸びる道筋は多岐に及んでいた。
 その中から一本のルートを選び出し、指が進行していく。そして、湟神の指が進むのを止めた。

「……霊魂や魂の力を使うものだけが行ける、澱む気の払拭などの儀式を行ったという『伈底』」

 指が指し示したのは、島の中心であり、また最深部でもある場所。
地図上のその場所には特殊な記号や不思議な模様などが描かれており、何らかの特殊な場所であると言うのは誰が見ても明らかであった。

「――桶川雪乃がいるとすればここだと、明神達はにらんでいたようだ」

「完全に奴らの本拠地(ホーム)ってわけか……」

「そういうことだ。だからどんなに見慣れ、倒したことのある陰魄が現れようとも決して気を抜くな。今から行く地は、そういう場所だ」

 湟神の言葉に再びツキタケやエージを始めとするうたかた荘の住人達と姫乃は唾を呑んだ。
 エージは最強の霊を目指す為、エージやガクはとある目的を果たす為にこれまでも陰魄と何度も渡り合っていた。
それらの経験からある程度霊の強さと言う物が分かっているつもりであった、が、これまでのその常識が通用しないと湟神は言うのだ。
 緊張せずにはいられないのは、当たり前の事だった。

「それとももうふたつだけ、気になることがある」

 湟神は姫乃を覗いたうたかた荘の住人、陽魂達を見つめた。
突然の視線にエージとツキタケはうろたえた表情に、ガクは疑念の色を強める。

「倚門島の澱んだ気が陽魄のお前達にどんな影響をもたらすか――だ。一歩踏み違えただけで、今とは違う異質な存在になるかもしれん。
もし、今の話を聞いて帰る気になったのなら止めはしない。賢明な判断だ。
……しかし、それでも行く気ならば自己を保つよう常に心がけろ。敵になったと判断したら、即座に消えてもらう」

 しかし湟神はそんなガク達の表情を気にかける事も無く、バッサリと言って捨てた。
凄みながらに言って湟神はくるりと踵を返し、窓硝子が無くなり月明かりが差し込む窓から部屋の外を、闇を吸って暗くなった海を眺めた。

「そして、それは桶川雪乃もまた同じことが言える。彼女が肉体から切り離されたのは、伈底に連れて行く為もあったのだろう。
……ここまで遅れてしまったが、奪還は早い方がいい」

 言って、沈黙が部屋の中に満ちた。
欠ける事の無い満ち満ちた月の明かりは夜だと思えない程に強く、思わず湟神は目を細める。
 姫乃は言葉を発する事は無かったが、不安や心配で彩られたと言った顔で、意図せぬうちに自らの両手を握り込んでいた。

 掌が白く、血の気が失せるほどに強く結んだ手は、ふと、解かれることとなった。
姫乃が肩に感じた軽い衝撃に振り向くと、明神が姫乃の肩に手を置いていて、薄く、されど力強い笑みを湛えていたからだ。
 まるで大丈夫だ、安心しろ、とでも言うような表情につられて、不安で潰れそうだった姫乃の表情にもまた灯りがともる。

 二人のそんな様子を見てニタニタと些か品の無い笑みを浮かべていたエージにも二人は気付かない。
そして、湟神の話に聞き入っていて言の葉の続きを待っているガクも、そんな二人の様子は気付かなかった。

「あとひとつは何だ?」

 ガクが真剣そのもの、行き過ぎて睨み付けていると言った様子で尋ねた。
沈黙が破られた事で湟神は月明かりから瞳を背け、室内へと向き直った。投げ掛けられた問いに答える為に。

「桶川雪乃の状態についてだ。奴らに連れて行かれてから数年が経過した今、ひとつ思うことがある。
……彼女はもう、無縁断世の力を発揮出来ないのではないか。またはそれに近い状態に陥っているのではないか、ということだ」

 その言葉が引き金となり一同を戦慄が襲った。
戦慄は驚愕に、そして言葉の真意を掴もうとする疑念へと変化して行く。

「無縁断世は国ひとつ滅ぼす可能性を持つと言われる霊能力者。
今までの案内屋や人々はその力を恐れ、無縁断世には例外無く自害か活岩の鯨に閉じ込めてきた」

 無縁断世という代物は、人間の手に余りに余る強大な物であった。
そのため、長い長い悠久の時の中で無縁断世の力を持つ者は二つの選択肢を迫られたのである。
 湟神の言うように、自害するか、牢に入るか。

 牢とは、"活岩の鯨"という名の陽魂の事を指す。
活岩の鯨は海中深くを彷徨う霊魂で、特定の場所に留まる事をせず、また活動場所が場所な為に非常に発見が困難とされる霊魂だ。
 そして最大の特徴として、活岩の鯨はその魂内と魂外では次元が異なるとまで評される程に外から内への遮断能力が高いという点がある。
それは陰魄達が異天空間(トバリ)と呼ぶ力に近い物で、鯨の魂内では一つの世界が構成されていると伝承では伝えられていた。

 特定の場所に根を張る事も無く、また一度入れば外と交わる事は決して能わない。
そんな特質を持つ活岩の鯨は、過去の案内屋達にとって無縁断世に対する考え得る最善の策とされたのである。
 自らその生涯を断つか、牢へ押し込められ一生を何処とも分からない大海を漂うか。
根本的な解決法にはまるでなっていないそんな方法に、頼るしかなかったのだ。

「その掟を覆したのが私の祖父や明神をはじめとした案内屋達」

 明神冬悟の師であった明神勇一郎は、かつてこう言った。
『ぶっちゃけオレも気に入らねえんだ!クソだな昔の案内屋は!!――オッケー、あんたを守ろう』

 前向きな解決策に命を賭ける。
身ごもっていた雪乃と、命の灯火が灯る前の幼子の為に、明神勇一郎達先代の案内屋はそう決断した。
 それは降りかかる事は間違いない困難と戦う覚悟を決めたと言う事であった。

だが――

「そして、彼女は陰魄に連れて行かれた」

 案内屋と人間願望、特にパラノイド・サーカスとの戦いは苛烈を極めた。
だがそれでも分は案内屋達にあったのだ。ところがある時陰魄達はまんまと案内屋達を出し抜き桶川雪乃の魂を強奪した。
 詐術に遭ったような、そんな不自然な決着の仕方ではあったが、しかし案内屋達が敗北を喫したと言う事実は揺るがなかった。

「……理屈から言えば、もう既にこの国は滅んでいるはず。
それは世界中の陰魄やそれに近しい霊魂が知れ渡った彼女の力を求め、この国に集結していてもおかしくはないからだ。
私が海外で修行を積んできたのは、そういった海の向こうの陰魄への影響力や動向を探る為でもあった」

 霊魂を作り変え力を増幅させる無縁断世。それ故に無縁断世は力を求める陰魄を自然と引き付ける。
つまり、攫われた雪乃は数多の陰魄達を引き寄せ、利用され、力を付けた陰魄達はその拳を振り下ろしている筈なのだ。だが、未だ世界それ自体が変革を起こすような事態にはなっていない。桶川雪乃の力の現状についての推測はそこから生じていた。
 当時を振り返っているのであろうか、湟神は言葉を連ねるのを一度そこで止めた。そんな湟神に明神が答えを急くように尋ねる。

「で、どうだったんだ?」

「……確かに動きはあった。しかし、無縁断世を求めてこの国に向かった陰魄の殆どが戻っては来なかったようだ」

 振り下ろされる拳どころか、陰魄本体さえも各地から忽然と姿を消したのだ。
それもやはり異常と言って差し支えのない事だと案内屋達は判断した。
 またそれは世界の崩壊が直ぐにやって来ないのを喜んでいてはいけないと言う事。燻ぶる爆薬に未だ火が移っていないだけに過ぎないと言う事であった。

「つまり……」

「そう。幽灯大師観照。……奴が何らかの形でそうして集まってきた霊魂と関わっているのは間違いないだろう」

 口元から笑みを消して能面のような表情となった神吹が内で具現化しつつある推測を口にしようとした。
神吹が言い淀んだそれに、湟神がよりはっきりとした答えで続ける。

「力を得たものを島に引き止め続けているのか、あるいは力だけ得たら去ろうとするものを片っ端から消していっているのか――」

「信じられない……」

 思わず姫乃はそう零した。
ツキタケやエージは顔を引き攣らせ、何と言ったらいいか分からない様子だった。無理もない事だ。
要するに、これから相手をしなければならない敵は、想像も及ばないほどに強力な力を持っているか、数え切れないほどの戦力を秘めているか、またそのどちらもであるか、なのである。
 また敵の正体も不鮮明であり底が見えない。安心できる要素など、欠片も見当たらなかった。

「一体、あいつは何者なんだ?」

 明神が険しい表情を浮かべながら、尋ねた。
湟神は、直ぐに答えない。口は真一文字に結ばれたままで、集団に背を向けて数歩歩む。
 そして一陣の風が部屋を吹き抜け静謐を連れ去って行った時、湟神は結ばれた唇を、そっと解いた。


続く

生存報告とリハビリも兼ねてみえるひとの方を更新。



[24630] 6譚
Name: 昆布◆de1a5a25 ID:2ed57cc7
Date: 2011/08/25 03:04
「あなたも」

 小さく皹の入った眼前の空間を視界の端に捕らえながら、両の眼は真っ直ぐ男に向けて桶川雪乃は言葉を発した。
 発した、と表現するには些か相応しくないかぼそい零れたような雪乃の声音は、岩石が積層のように隆起した伈底の暗い壁に染みた。
 不意に聞こえたその静かな声音に呼応するように男は頬杖を突いていた首を持ち上げる。
 男の薄く開かれた二つの瞳と、額から隆起する幾何学的な模様の描かれた角の計三つが、岩で出来た台座に腰を落ち着かせている雪乃の姿を指し雪乃と男の四条の視線が音もなく空で交差した。

「……あなたも、人間願望なの?」

 視線を僅かとも逸らすことなく、また男が目を逸らすことを許さないかのように句を続ける。
 雪乃の周りに巡らされた結界が虹色に揺らぐのと同じように、男の視線がその言葉に揺れたのを見逃さなかった。
 問いは、単に字面通りのことを尋ねる物ではない。すなわち、男がその身を今現在の姿、陰魄へと変化させた理由を尋ねる物であった。

 人間願望とはそれ以前までに存在していた陰魄とは一線を画する。
 人間の急速な文明の発達の弊害として奪われた生命の純粋な『ニンゲンに対する恨み妬み』が結晶化したような存在、それが人間願望だった。

 森を焼き、土地を削り、海を大気を汚し、既存の自然形態を壊し尽くす。そこに何の罪の意識も奪われるもの達への、特にこれといった感情さえも無く――
 人間の圧倒的な力に蹂躙され、屈さざるを得なかった者達の声にならない悲痛な想い、力への屈折した憧れは肉という呪縛を超え霊という新たな形を得た。
 雪乃が尋ねた言葉は単に男が人間願望に属するのか、という問いかけを意味するのではなく、男の人間に対する想いを尋ねた物であったのだ。

 雪乃と男の間に沈黙が満ちる。だが二人が口を噤もうともその場は決して静寂とは言い難い物であった。
 何故ならドクン、ドクン、といった音が絶えず空間を染めていたからだ。それは心の臟が鼓動するに似た音。
 島の深部に存在する地下水脈の流動する音が、それよりも更に深い、最深部である伈底に届きまるで島が脈動するかのような音となって響いていた。
 男は暫く押し黙って視線を受け止めた後、ふと視線を逸らしながらぶっきらぼうに吐き捨てた。

「……ああ。俺は犀(サイ)の人間願望だ」

 苦々しさを含んだ男の声が虚ろな洞窟の内壁を叩く。逃れるように逸らされた男の瞳が捕らえていたのは、何だったのであろうか。
 果たしてそれは、自身が今のように姿を変える事になった日の事であった。
 つまり、自分が生ある存在でいられた最後の日の事。

「人間(ヒト)は嫌い?」

「ッ!!」

 投げ掛けられた言葉に男の瞳は大きく開かれる。
 遠回しな物ではなく確信めいた唐突な言葉に乱され、その身に内在する感情が暴発しそうになるが、男はすんでの所で顔を引き攣らせるまでに留めた。
 だが瞳に宿る荒々しい色は抑えることが出来ず、過去が思い出されるにつれて段々とその色を深めていく。

「……憎いな」

 男は猛る感情を瞳に乗せて投げ付けるように再び雪乃を睨み付けた。
 口の端から生まれた言葉はまるで相手を殺さんばかりの呪詛のようで――だが雪乃は一切視線を逸らすことをしなかった。
 見つめるものを見透かさんとするかのような無音で透明な雪乃の瞳は、ただじっと男の言葉を待つように瞬きさえも忘れてそこに在った。

「俺を殺したのは密猟者だ。機械の足を乗り回し、遊び半分で、いたぶるように殺してくれた」

 男の目にありありと映し出される自分の最期の光景。
 数多の動物の死骸を乗せたジープを操り、黒光りする筒のような何かを片手に一頭のサイを、自分を追い回すハンター達の姿。そしてその厭らしい笑みだった。
 絶滅の危機に瀕してもなお角を目的としたサイの乱獲は止む事が無い。芸術品として愉しむ為だけに人間が欲し、ただそれだけの為にサイはその生命を狙われていたのだ。
 そして最後の時。覚えているのは、聞いたこともないような何かが破裂する音と、首と左の側頭部に生まれた灼熱……命が流失していく感覚だった。
 
「どうする事も出来なかった」

 それは到底忘れられるような生優しい物では無い。
 神経を掻き毟る痛み、荒い自分の呼吸音、人間達の歓声、忍び寄ってくる凍えるような死の気配――……
 霊となった今でも男の背筋を凍らせるに足る物だった。
 
「……死んでからだ」

 体を動かす事も出来なくなり霞んでいく視界の中でサイが最後に見た物とは、自分の角だった。
 罅割れのように角に刻まれている紅い文様は、血で濡れて最早目立たなくなってしまっている。
 だが魂と肉を繋ぎとめていたか細い意識の糸が切れるその瞬間、血に埋もれた文様が光り、熱を持ったのを確かに感じた。
 もっとも、その正体を探るどころか、それが何だったのか疑問に思う間さえも無くサイはその命を散らしてしまったのだが。

「俺が既に名も失われた妖一族の末裔だったということ……角に秘められた能力(ちから)に気づいたのも」

 妖、その単語に雪乃の形の良い眉が僅かにピクリと動いた。
 『妖』とは生きながらにして特殊な力をその身に宿した獣の事だ。案内屋がヒトの中の異端であるならば、妖とはケモノの中の異端、そう喩えられることもある。
 そのような存在は肉の呪縛を解かれ剥き出しの魂魄と化した時、得てして超常的な力を手にするものである。先ほど男がその角で張られていた結界を破らんと激突し、皹を入れた際の光景が雪乃の目に浮かんだ。

「穿頭の一角(イヅノ)と仮の名を付けられたのも――死んでからだ」

 男の、イヅノの目が再び雪乃から逸らされた。感情が燃える色が映し出された瞳、その着地点は自身の両の掌だった。
 自らが死の理に飲み込まれたのだと理解した時、イヅノにあったのは諦めや静寂の境地などでは無かった。あったのは、尚消えることのない喩えようも無いほどの、自らを殺した相手に対する憎しみ。
 そしてふと自分が死に呑まれてもまだ存在している事に気が付いた時、イヅノは困惑した。だがそれ以上に悦んだ! 自分を殺した相手に復讐出来る――と。それは昏い暗い喜悦だった。
 名と力の使い方を与えたのは、袈裟を纏い深々と烏帽子を被った奇妙な男であった。
 死してからの活き方、それを与える代わりに後は自分に協力するように、そう男は言った。そしてイヅノに、断る理由など存在しなかった。
 
 イヅノが見つめる掌は細かに震えている。霊となってからの記憶は、血塗られていた。
 自分を殺し、芸術的に価値のある角だけを切り落とし死体はそこらに捨てていった、あの人間達を血眼になって探した。
 何時しか激情に駆られたその姿はその人間を模るような物になっていっている事に気付くこともなく、イヅノは人間達を見つけ、そのニンゲンじみた姿で人間達を殺した。
 震える掌はあの日人間を殺し、血で染まったそれに重なって見えたのだ。そして震えの原因は脅えや恐怖などでは無い。

「それでも、どうにもおさまらねぇ怒りだ」

 憎む相手を失っても消すことが出来ない、怒りによる物だったのだ。その表明を以てイヅノは言葉を噤んだ。
 暗い感情の炎が未だイヅノの瞳の中で燃え盛っているのを見て雪乃は力なく俯く。

「……そう」

 イヅノの身の上話に、雪乃はそうとしか答えられなかった。その声もトーンが落ち、哀調を帯びた物になっている。
 その哀調は何に対しての物だったのか。答えは雪乃の引き結ばれた唇の裏側にあり、それは雪乃本人にしか語り得ない物だ。
 そんな雪乃の膝の上では活岩の獅子が特徴的である大きな単眼を閉じ丸くなっていた。寝ているのであろうか小さく体が上下している。

「だがあんたは俺に、更に活き抜いていく力をくれた」

 終わったかのように思えた会話の予期せぬ延長にハッとした様子で雪乃は垂れていた頭を持ち上げた。見るとイヅノは雪乃に背を向けどこかへ、少なくとも伈底の外へと歩き出している。
 雪乃はイヅノの言葉に一抹の柔らかさを感じたが、それは声が洞に反響して聞こえたからなのか、それともイヅノの口元から転がり落ちた際に既に柔らかかったのか、雪乃には分からなかった。
 だがその柔らかさは、掴まりようのない硬く冷たい岩肌に手を掛ける場所を見つけたかの如く、己のすべき事を見いだしたように雪乃には思えた。

「……満足はしてねぇが、小なりとも感謝している」

「っ……」

 イヅノはそう小さく言った。微かに、聞き取れるか否かの瀬戸際の小さな声であったが、一切自分を見る事はしなかったが、確かにイヅノは感謝の意志を示したのだ。
 届くかもしれない、自分の言葉が。そう雪乃は思った。だが何を言うのが正しいのか? イヅノに対し何をかを言わんとするが咄嗟にそんな疑問が内で聞こえ喉が音を鳴らすのを遮る。
 自分はこの状況で何を言うべきなのか。最善を選択せんとする思考が澱み絡みついて唇は益々硬さを帯びた。だがこの島にオケガワヒメノと仲間の案内屋達が上陸したと聞いた事を思い出すと、そんな枷は吹き消えてしまった。
 何でも良いから、とにかく伝える。それが叶う極小の可能性が今目の前にあり、急がなければ消えてしまうのだ。
 雪乃は思考を振り払い、縫い付けられたかのような唇を静かに開き、喉を震わさんと小さく息を吸った。――その時であった。

「イヅノを懐柔させようとは無駄なこと」

 突如として雪乃の目の前の空間に男が現れ虚空を男の声が濡らした。
 見ると声の主の袈裟を着た男、観照と、その傍らに甲冑で身を固めた先刻明神と戦いを繰り広げたヒラガサの二つの姿が在った。
 深く被った烏帽子、それから伸びている顔を隠すような格子状の仮面の下から観照は雪乃を睨み付ける。
 
「……」

「……あなたは自らの意志で選択し、その後悔はしていないはず。イヅノを外界に向かわせ何を伝えようとした。そうして外界より帰るイヅノから何を知ろうとしたのだ」

 問い質すかのような観照の言葉は硬く感情を帯びない無機質な物。
 その言葉に、花開く気配を見せた雪乃の唇は空しく萌出んとした言の葉を飲み込んで、想いの花蕊は胸の内で音もなく霧散してしまった。
 島の鼓動と沈黙が再び伈底の空間を支配する。ただ黙って雪乃を見上げる観照と、観照を見下ろす雪乃。振り返ったイヅノが二者を比べるように細めた眼差しで捕らえた。

「……キヨイ達はまだ戻らぬか」

 ふと、何かを思い出したかのように視線を雪乃のそれからずらした観照は首を頭上へと傾けた。
 誰に語り掛けるでもない独りごちじみた声が響く。観照が見上げた先には伈底の洞穴とは思えないほど高い天井が広がっている。
 そこかしこに生えた、陽光とは無関係に霊力の高まりによって光を放つ特殊な苔が辺りを照らしているために可視である空間が微かに揺らいだ。

「致し方ない……彼らに迎え撃って出てもらおう」

 揺らぎは振幅を増し濃淡差のある液体同士を混ぜ合わせた時に生じるような歪み、すなわち陽炎が観照の背後に生まれ出る。
 陽炎が虚空を嘗めた、かと思うと一瞬にして大輪の炎華が咲き誇り、虚ろな空間を艶やかに彩った。
 気が付くと猛る炎の花弁の中に六つの影が陽炎のように、だが陽炎よりも確かに佇んでいるのが見えた。

「――よい働きを期待しているぞ」


◆◆◆


 夜は、未だ明けない。

 暁暗が明神達を大きく手を広げて包み込んでいた。
 だがその表情は決して闇に呑まれた物ではなく、寧ろ闇を払わんとする意志が見える強い物。
 誰一人として怖じ気づいた様子の者はなく、真っ直ぐに常闇の洞穴の入り口を見つめる様は、闇の中にあって眩ささえ思わせる。

 口腔を開け広げ愚かな獲物が自ら乗り込んでくるのを待ち構えているかのような、底無しの深さを思わせる鍾乳洞の、伈底への入り口が眼前に存在していた。
 人の身長を遙かに超える高さの洞窟の天井からは雨垂れが石化したかの如き灰色の鍾乳石が幾本も伸び、獣の歪な牙を連想させた。
 まるで洞窟それ自体が一つの存在、陰魄であるかのように錯覚させるほどに不気味さが漂う。

 それらを目の当たりにして、明神はしかし不敵に口元に弧を浮かべた。

「おお、中暗そうだな!」

 肩に担いだアズミの足を片手で支える一方、もう片方の平手を水平に額に添えて中を覗き込むようなポーズを取る。
 場違いなほどに明るい声は、その場に居た者達の緊張を解き、また呆れさせ、或は苛立たせ、そして――安心させた。
 顔を強張らせマフラーに埋めていたツキタケはマフラーの位置を正し、神吹はサングラスの下で浮かべた苦笑と共に肩を竦め、苛立ちのあまりガクは明神を殴るのを空想するように空気をハンマーで殴り。
 ――そして桶川姫乃は、そっと明神のコートの端を摘んで、小さな笑みの花を綻ばせた。

「……騒ぐな」

 額に手を当て呆れの溜息を吐きながら湟神が暢気なのか肝が据わっているのか分からない明神を窘める。
 本人も意識しなかったその遣り取りは、いつか先代の明神と現明神である冬悟が繰り広げた物と状況も言葉も似ていて、明神冬悟は一瞬悟られないようにあっ、と驚きに似た感情を内心浮かべた。
 様々な思いが胸に去来しそうになる、が明神は今のところそれを押し留めた。右腕にある空の聖痕と、それから肩を並べて立つ仲間達を見て頷く。
 大丈夫。そう自然に心の中で呟いて、そして再び笑みを洞窟の入り口とへと向けた。

「行くぞ」

 明神が各々の覚悟を総括するように、一際大きな声で告げた。
 




「あ、あのー……」

 と、洞窟内へと明神達が足を踏み入れんとするまさにその時、不意に申し訳無さそうな姫乃の声が背後から聞こえた。
 気勢を殺ぐようなタイミングの声にその場に居た全員が一斉に姫乃へと振り返る。
 その視線達に一層バツの悪そうな表情を、顔を赤らめるのと一緒に浮かべながら姫乃は俯けた。

「……うぅ~、澪さんごめんなさい。ちょっと……その、お花が……」

「――……じゃあ、行くか」

「はい。ごめんなさい……」

 恥ずかしげに顔を伏せ、どこかモジモジしながら言う姫乃の言わんとする事を湟神は直ぐに察したようだ。
 緊張故に力が入り強張っていた肩を溜息と共に下ろしながら姫乃の言葉に頷く。
 神吹も察したらしい、洞窟とは反対方向の藪へと向かう姫乃と湟神について行こうとするが、その神吹は湟神に山吹色のネクタイを鷲掴みされ耳元で何かを囁かれると、唐突に全身を強張らせ立ち竦んでしまった。
 調子に乗っていた神吹は常に浮かべている胡散臭い笑みを消し、額に小さな汗の玉を幾つも浮かべ「サングラスは、このサングラスだけは……ッ!」とよく分からないうわ言を繰り返しながら細かく震えていた。
 因みにその時の湟神の目は容赦なく陰魄を切る際のそれだったと言う。

 もう一名、ついて行きそうな人物が居ると、エージはガクに目線を向けるが、意外な事に彼は大人しく黙って姫乃が消えた藪を見守っていた。
 そんなガクにエージとツキタケは逆にどうしたのかと心配するが、ガクの「うたかた荘で注意されたから……でもここは危ないよなぁ」と呟きながら悩むガクを見ていつも通りであると安心したらしい。
 「いやお前の方が危ない」とこれもまたいつも通りのツッコミをエージは正しく入れていた。

「……ハァ」

 脅しとして過去のトラウマを抉られたらしく行動不能に陥っている付き合いの長い親友である神吹を見て、呆れたように火神楽は大きな溜息を一つ。
 吐いた息を補充するように新たに火を灯した煙草を一際長く吸ったのに呼して赤々と煙草の先の灯りが闇夜の中で一層己を主張した。
 
「まぁ、あれだ。少し気を張りすぎてたかもな」

「同感だ」

 そんな全員の様子を見て、頭をボリボリと掻きながら息を吐いた明神に火神楽が短く返す。
 どうも自分たちに余り長くのシリアスは似合わないらしいと明神はよしっ、と言って頭を掻いていた手でコートの裾を叩いた。
 そして固まっていたその場から少し離れてアキレス腱を伸ばすなどの柔軟を始める。横でアズミも見よう見まねでストレッチをしようと不思議な動きを見せていた。
 火神楽も離れた場所で一服し、神吹は未だに目元を押さえて何かを呟いている。そんな中、一際大きなツキタケの声が潮の香の薄荷を背負った暁闇に響いた。

「……えええええぇ!!? いきなり行動バラバラ!!?」


――・・・


「ごめんなさい……なんか、勢い消しちゃって」

「いや、いい」

 陰魄とはまた違った厄介さを持つ藪蚊を払いのけながら膝ほどまである高さの草むらを抜けた姫乃は、申し訳無さそうな声音で湟神に言った。
 湟神は気にしていないという意志を込めて返すが、些かぶっきら棒なその返事に益々姫乃はしゅんとしてしまっていた。

「……そうだ。今の内に渡しておこう」

 そんな姫乃の反応を尻目に湟神は思い出したように呟いた。
 洞窟に潜入と言う閉所での戦闘が予測されるため身動きが取り易いように急遽拵えられたポーチから小さな袋を一つ、湟神は取り出して姫乃へと差し出した。
 袋は中に何かが既に入っているようで僅かに膨らんでおり、口には姫乃が首に掛けられるだけの長さの紐が結ばれていた。

「これは?」

「見ての通り、お守りだ。気持ち悪いかもしれんが、中には私の剄を込めた血晶が3つ入っている」

 袋の口をそっと開いて中身を覗きながら姫乃が尋ねた。
 中には、薄暗い中でも分かる鮮やかな赤色を湛えた八面体の宝石のような塊が収まっている。不思議そうな顔をしている姫乃に湟神が説明するため口を開いた。
 それは湟神がパラノイド・サーカスから逃亡を続けていたこの数日間の間、来るべき時に備えて作っていた物。
 水(バ)の湟神が代々名を連ねる長い時の中で編み出した梵術『血剄伝導』と呼ばれる技術によってそのお守りは出来ていた。

 水(バ)の梵術とはそもそも術者の剄を世に存在する様々な物質へと伝達し操る技術の事だ。
 物質へと剄を浸透させるには勿論術者の剄操作の腕前など術者に依る部分もあるが、最も重要だとされていたのは剄と物質自体の相性、伝導率であった。
 水(バ)の名が示すように水は高い剄の伝導率と汎用性を誇り、霊水や神水として広く用いられまた一般にも認識されていた。
 だがその上を行く物質が水(バ)の案内屋最高峰である湟神の名を持つ者によって発見されたのだ。剄の伝導率99.98%、最早剄と物質のほぼ境目に存在するかのような物『血液』である。

「伈底は澱んだ気やガスにより、魂そのものか魂の力を扱える者しか……生身の者には到底耐えられない場所。
だからそういった域に入ると血晶それぞれに自動で微弱だがそれらから身を守るには充分な結界を張るようにしてある。
ここ数日間、暇があっても無くても剄を込め続けていたから、途中で結界が切れるということもないだろう」

『桶川姫乃を連れたまま敵の本拠地へと向かう』そう決まった時から湟神は生身の生者である姫乃の為にそのお守りを用意し始めていた。
 用意とは具体的には掌を刃物で薄く裂き、滲み出た剄の込められた血液をゆっくりと固体化、結晶化させる事だ。
 その生成方法は、込めた剄が蒸散して行かない様に血晶の表面を更に血液で濡らし、新たな層を作る。その上へまた血層を。その繰り返しである。
 やがて層を重ね肥大化した血晶は、深部に高濃度の剄を秘めた護石となる。そしてそれは湟神が言うように周囲の気に反応し、自動で結界を張るという効力を持っていた。

「もし私や冬悟達とはぐれたりした時に陰魄に出会ったら、中の血晶を一つか二つそいつめがけて投げつけろ。多少なりともダメージは……少なくとも逃げるだけの隙は出来るはずだ。
一つあれば結界には充分足りる。――勿論、そんな危険に晒させる気は最初から無いがな」

「……ありがとうございますっ……」 

 一息に言い切って、湟神は固くしていた表情をふっと和らげ姫乃に微笑んで見せた。
 頼もしさを湛えた笑みに、姫乃は力を貸してくれる者が居るというありがたさと感謝の気持ちから、思わずそれらの想いが溶けた滴を目元から零しそうになる。
 だが泣くのはまだ早いと自分に言い聞かせ感情を喉の堰でぐっと堪えて、代わりにお守りの小袋を胸元で握り締めながら礼を言った。

「……ほら、さっさと行って来い。いつまでも皆を待たせるわけにもいかん」

「あっ、はい!」

 零れはしなかったものの、僅かに滲んだ目元をそっと拭い姫乃は顔を上げた。
 頬を濡らす代わりに浮かべた笑みは綺麗で、どことなく芯の強さの漂う気丈なもの。
湟神に肩をそっと押されて、姫乃は藪へと向けて駆け出した。


――・・・


 つい先ほどまで全員が一丸となって敵の本拠地に乗り込もうという雰囲気であったのに、気が付けば誰もが勝手に行動を始めている。
 肩肘の張り過ぎないこの雰囲気が明神達の長所でもあるのだが、同時に短所とも言えた。
 ツキタケが不安そう声を上げたのは、その悪く言えばどこか締まらない雰囲気が今この山場においてでも通用されたことに驚いたのと、それが流石にいいのか分からなくなったからだ。

「まぁ、明神達なら大丈夫だろ。それに最初に会った奴ら以外、何も襲ってこなかったろ?」

「そりゃそうだけど……やっぱ、あの地下道にみんな潜んでるんだろうな……」 

 エージが言うが、それでもどこか納得しきれない様子のツキタケ。
 先刻明神達が手荒い歓迎を受けた砂浜から今居る洞窟の入り口までにそれなりの距離があるものの、実際エージの言うように陰魄の襲撃は無かった。
 外へわざわざ襲いに出ずとも中で待ち構えていれば十分だと言うつもりなのか、それとも何らかの理由が存在して襲ってこなかったのかは分からなかったが、今も取り敢えずは襲われなかった状態を維持しているため、どことなく大丈夫なような気がエージにはしていた。
 身の安全が仮にでも保障されたのならば――尤もそんな事はないのだが、されたような気がしたのならば、自然と湧いてくるのは好奇心だった。
 目の前にある伈底へ続く洞窟の入り口を興味深そうに暫くしげしげと眺め、一転、エージは洞窟を眺める呆けたような表情を何か悪巧みを思いついたかのような物へと変えた。
 まるで好奇心が頬を持ち上げさせているようにエージは口元を僅かに歪ませツキタケへと向けて小さく言う。

「……ちょっと覗いてこねぇ?」

「ええぇっ!!?」

 先程のものよりも更に大きな驚きの声をツキタケが上げた。
 だがツキタケが止める間もなく、初めからツキタケの同意が得られなくとも行くつもりであったのか、既にエージは洞窟へと向けて歩き出していた。
 口元を覆っていたマフラーを慌ててずらしその後を追いかける。

「やめようよ……! ダンナや姐さん達に怒られるって……!!」

「へーきへーき。ちょっと見てすぐ戻りゃいいって。確認ぐらいいいだろ?」

 小声で怒鳴るという器用な事をしつつツキタケは諫めようとしたがやはりエージは聞く耳を持たない。
 怒られることを懸念してチラリと後方に居る明神へと振り返るが、当の明神は丁度ツキタケ達に背を向けて伸びをしているようで、こちらに気が付いていないらしかった。
 そうこうしている内にエージは洞窟の入り口の真ん前へと辿り着き興奮と緊張の入り交じった、ワクワクしたような顔を浮かべていた。

「オイラ、知ーらねっと」

 バットを眼前へと突き出し、入り口に張られた七五三縄を潜って中へ入っていくエージを見ながらツキタケが小さく呟く。
 どうにでもなれと言った心境なのか目を強く瞑りながらツキタケも中へ足を踏み入れ、恐る恐る瞼を開くと、そこには音もなくぬっとガクの顔が浮かんでいた。

「うおっ!?」

「アニキっ」

「…………」

 洞窟へと勝手に入る二人の姿を見掛け、心配であったのか二人の後ろを付いてきて来ていたらしかった。
 二人のお守りの役割も一つ、だがもう一つガク自身も洞窟の坑内が気になっていたようで、二人を一瞥すると黙ってそのまま歩を進め、闇に目を凝らして中を見渡す。
 断崖に開いた洞窟の中は、予想に反して広々としていた。その広さ故に背後から吹き込む潮風が坑内を鳴らし、虚ろな残響となってガク達へと届いた。
 横幅が人間が複数人走り回れそうな程、目算四、五十メートルはあり、足下は人の手が加えられているようで石畳の継ぎ目から苔生しているのが見えた。
 
「……やっぱ暗いっすね」

「星明りがあるだけマシだな」

 ツキタケとエージが簡潔に感想を言う。
 陽魂である三人、すなわち闇夜に目が慣れていない者達に辛うじて視認できる程度の光量しか無いため、眺める目つきは多少細くなっていた。
 壁に目を遣ると松明の名残らしき物や、かつては祭壇だったのであろうか、意図的に破壊されたような台座と破り捨てられた何らかの紙切れが空しく鎮座していた。

 その時、潮風が一層強く吹いた。

 唸り声のような残響に、思わずツキタケとエージは身を強張らせてしまう。
 風に揺り動かされて偶々足下にまで飛んできた紙切れをガクが拾い上げると、そこには梵字の一部らしき文字が、掠れてはいるが書いてあった。
 無言で紙を睨み付ける。黒いシミのような汚れが取れることを期待して指でそっと酷く汚れた紙をなぞるが、黒いシミは紙に染みこんでいるようで簡単には落ちない。
 なぞる指が途中で引っ掛かった。それでも指を下に引くと、シミだと思っていた汚れが実は付着していた固形物であることに黒い塊、瘡蓋(かさぶた)のような物が落ちたが故に気がついた。

「……血、か」

「これ先進むの絶対明かり必要だろ。奥に行ったら何も見えねぇって。よくこんな所にアイツ(陰魄)ら棲んでられるな」

「アニキの火で何とかなりません? ……アニキ?」

 誰にも聞き取られない程の声量でガクが呟くが、その声は二人の声に掻き消されてしまう。
 答えないガクに訝しんでツキタケが呼び掛けると、ガクはたった今気が付いたかのようにハッとして紙から目を反らしツキタケと洞窟の奥を見比べた。

「……今はいいが、奥に進んでいくとガスが溜まってるって話だろう。もし可燃性のものだったら、ひめのんが危ない」

「あぁっ! でもせめて懐中電灯ぐらい欲しいっすね……」

「お、あれ使えねーかな」

 エージが壁際の松明を置いていたらしい台を見留め駆け寄ろうとする。
 だが、その足は急に回るのを止まってしまった。何故ならまたも大きな一陣の風が吹き抜けて洞窟内に響いたからだ。
 先程とはどこか違う、僅かに高く、笑声にも聞こえる風の声音にエージはぎょっとしたのだ。

「な、なんだ。ビビらせやがって……!」

 額に汗を浮かべて、しかし風ごときに怯えている自分を恥じたのか、風に対して悪態を吐きながら先の物より荒々しく大股で歩き出そうとした。
 だが、やはりその足は止まってしまう。風が吹いたのではない。エージが足を竦ませたのでもない。――後方に引かれる感覚を襟に覚えたのだ。
 
「アニキ……?」

 見ると、険しい表情をしたガク襟をが引いていたその人であった。
 突然の行動にツキタケが訝しみその本意を問うようにガクを見つめるが、ガクの目は少しも反らすことなく洞窟の奥へと注がれていた。
 何をするんだ、とエージが口を開きかけたその瞬間――

「!!!」

「なっ、なんだ……?」

 いつの間にか具現化、巨大化していたガクのハンマーが激しく燃え上がった。
 辺りが光を得てうっすらとその輪郭が浮かび上がる。

「……さっきのは海風じゃない。"洞窟の奥から"吹いてきたんだ。……チッ!!」

 奥を射殺さんばかりに睨み付けていたガクが視線を僅かに落とし、床に揺らめく影を認めた刹那、舌打ちと共に勢いよく洞窟の上方を見上げんと首を上へ反らす。
 だがそれよりも早く、風の声のような朧気ではないはっきりとした、そしてはっきりと敵意を含んだ声が洞窟に反響した。

「随分と頼りない火だな」

「もっと明るくしてやろか」

 言い終わるか否か、その間際に熱を帯び膨らんだ空気が一気に爆ぜ、エージ達の頬を叩く。
 熱を含んだ風であったがそれは三人の背筋を凍らせ、反射的にその場から飛び退かせた。
 瞬きの差、僅かな逡巡さえも命を刈り取るに足る時間差でエージ達が居た場に巨大な紅炎が降り注ぎ、空間を咀嚼し始める。

(――この炎はっ!!?)

「クソッ!! 行くぞツキタケェっ!!」 

 エージの脳裏に、いつか下水道で見た赤白色の炎を纏った男の姿、そしてその高圧的な笑みがどうしてだろうか、浮かんだ。
 あり得ないと目の前の出来事を否定しようと試みるが、そんなことよりまずは逃げるのが先だという脳の警鐘を聞き、それに従って走り出す。
 洞窟内より暗くなってしまった外に白い髪と黒コートが翻るのが見えた。
 しかし、希望の象徴のように思えたその姿も、突如エージ達の進路に現れた男の歪んだ笑みによって遮られてしまう。
 男は半身を引いて右の掌をエージ達に、左の掌を洞窟の入り口へと向けて、嫌らしい口元の孤月をそっと開いた。

「異天空間(トバリ)」

「エージィィ!!! ツキタケェェェ!!! ガクゥゥっ!!!」

 帷が、下ろされた。
 明神の力の限り叫ぶ声も遮断され届く事は叶わない。
 瞬きすることも忘れて目を見開いていたエージの網膜に燦然と揺らぐ虚空が焼き付けられた。
 生ある草木の一本も存在せず、ただ乾きに罅割れた地とその身を火に犯されたような黒焦げ木が僅かにあるばかりである。
 それは荒涼という言葉だけでは表わし切るを能わない、全てを飲み込んだ火災の後の虚しさを漂わせる空間で――

「歓迎しましょう――」

 絶望に全身を濡らしたエージの鼓膜が無機質に震えた。
 理解したくない状況に脳が麻痺してしまいそうになるが、すんでの所で堪え、精一杯の虚勢を張りながらにその人影を睨み付ける。

 影は六つ。
 白髪で無精ひげを生やした影達の中で最も年を食っていそうな男。
 瓜実顔に細い糸目を引いた、男か女かいまいち要領を得ない男。
 切れ長の目に、長い山吹の髪を背中に流した女。
 炎を肩にまとい、大口開けて凄む大男。
 影の中で最も整った顔に、どこか余裕と他を見下した笑みを貼り付けた男。
 髪の短い、精悍な顔付きをした男。

 どの影にも、切れ込みの入った狐の物のような耳と、背後から伸びる尻尾が。
 そして何よりかつて相対した焔狐の陰魄――コモンと同じような深紅の瞳が、影の中に在った。

「――我々一族の世界に」



続く


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