前書き本作は以下のような方にはお勧めできません。・戦争や軍事に対してアレルギーを持つ人・流血や大怪我や人死にを受け付けられない人・SFといえば現実離れした超兵器があってこそだと思う人・人型兵器という代物を生理的に受け入れられない人・「人外の存在との戦争」というジャンルを好まない人・四捨五入して十メートルにならない人型兵器は駄目だと思う人・嘘を嘘と見抜けない人本作は以下のような方にお勧めします。・兵器や武器の類が好きな人・SFだろうと兵器は実弾こそ至高と考える人・軍服に魅力を感じる人・現実味が強い人型兵器に魅力を感じる人・「人外の存在との戦争」というジャンルに魅力を感じる人・人型戦車や戦術機という単語にティンと来る人・幻獣やBETAという単語にティンと来る人このSSは他サイト「小説家になろう」に二重投稿しています。
二〇一一年 九月三十日 鳥取県岩美郡岩美町小尾羽 海沿いを走るローカル線に揺られながら、怜次は窓の外に目をやった。右側の窓には青々とした日本海が広がり、左側の窓には紅葉を間近に控えた山々が並んでいる。聞いた話によれば近くに温泉も湧いているそうなので、骨休めの為に訪れるなら絶好の環境だろう。 だが、至極残念なことに、怜次がこうして鉄道に乗っている理由は別にある。「……明らかに浮いてるよなぁ、俺」 怜次は窓から視線を外した。吊り下げ広告の目立つ車内には、おおよそ二十人程度の乗客が座っている。思い思いの普段着や学校の制服、着こなされたスーツ姿など、格好も年齢もバラバラだ。 その中でただ一人、怜次だけが濃緑色の軍服を身に纏っていた。 厳密には日本陸上自衛軍の夏用制服。白いシャツに長袖の上着という、見るからに軍人の制服といった雰囲気の装束だ。 襟に指を引っ掛けて、形を整える真似事をしてみる。怜次は今年の四月に入隊し、半年間の教育期間を終えたばかりの正真正銘の新兵である。十九歳まであと半年近くもある怜次にとって、似合わない軍服で人前に出るのは妙な気恥ずかしさがあった。『次は、岩美。岩美に停車します』 車内アナウンスが響き渡る。乗客達の雰囲気と同じく、妙に呑気な語調をしていた。「やっぱり、この辺りはまだ平和なんだな……」 四半世紀前――つまり二十五年前に、世界の歴史は大きな曲がり角を迎えた。 それまでの常識では考えられない奇妙な戦争の発生。いや、果たしてそれを『戦争』と呼んでいいものなのかも定かではない。ともかく、人類は現在に至るまで理不尽な戦いを強いられ続けていた。 戦いがこんなにも長引いている続いている原因は、たった一つの理由に集約される。 これは『人ならぬモノ』との戦いなのだ。 しかし、世界の隅々まで戦争一色というわけでもなく、ここのように平穏この上ない空気が漂っている場所もある。喩えるなら砂漠のオアシスといったところか。『当車両は緊急停車致します。周囲の物にしっかり掴まり、身の安全を確保してくださるようお願い致します』 唐突な警報の直後、車両が急激に減速。車内の人間が慣性で押し流されていく。怜次はあちこちから上がる悲鳴を聞きながら、座席にしがみついて衝撃に抵抗した。「な、何だよ、おい!」 平穏から一転。車体が完全に停車した頃には、車内は混乱と喧騒の坩堝と化していた。大声や怒号に混ざって子供の泣き声まで聞こえてくる。 車両の最後部から車掌が飛び出してきた。そして、落ち着いて避難するよう呼びかけ始めた瞬間、まるで落石でも直撃したかのような凄まじい衝撃が車体を揺るがした。「うわあああっ!」「きゃあああっ!」 ついに乗客達の混乱が頂点に達する。車掌の必死の呼びかけも悲鳴にかき消され、非難経路の説明すら満足に行き届いていない。「くそっ! 今の衝撃……落石か?」 そんな状況下でも、怜次は不思議と冷静さを保つことができていた。半年間とはいえ軍人としての教育を受けたおかげか、それとも混乱が一巡して冷静さに変わってしまったのか。どちらにせよパニックを起こすよりは遥かにいい。 怜次は上下スライド式の窓を開け放ち、数十センチ四方の窓枠に上体を捻じ込んだ。 潮の匂いを帯びた風が吹き抜ける。その香りを堪能する暇もなく、金属の塊を押し潰す不快な音が怜次の鼓膜に襲い掛かった。「あれは……」 先頭車両の車体側面が内向きに潰れ、大きな穴を潮風に晒している。 そして、車体に覆い被さる巨大な影――六本脚の金属のケモノ。 ワイヤーを束ねたような筋肉。それに覆われた六本の脚と、身体全体を包む金属質の装甲。鉤爪を車体に食い込ませ、長い首をうねらせてプレス機のような顎で車両を喰いちぎるその姿は、この世の生物とは思えない有様だ。 大きさは六肢を伸ばして車体を包み込むほど。一階建ての建物くらいはあるだろうか。水牛の死体を喰らうハイエナのように、金属製の車体を咀嚼し飲み込んでいる。「グレムリン!」 怜次は思わず叫んだ。 鉄を喰らい、鋼を喰らい、遍く金属を喰らう金属の怪物。 それこそが世界に蔓延る人類の敵。「どうしてこんなところに……!」 車内の騒がしさが一段を増していく。他の乗客達も怪物――グレムリンの存在に気が付いたようだ。このままではすぐに壮絶なパニックが起こってしまうだろう。怜次は歯噛みした。どうにかしなければならないと分かっていても、どうすればいいのか分からない。 上半身を車内に引き戻すと、中年の乗客が非常用ドアコックを捻って扉を開けようとしているところだった。「馬鹿、止めろ!」「うるせぇ! このまま食われろっていうのかよ!」 止める間もなく、無謀な乗客は車外に飛び出した。 その瞬間、グレムリンが長い首を回して乗客を視界に納めた。歪な歯の生えた顎を極限まで開き、鼓膜をつんざく金切り声を上げる。共鳴によって窓ガラスが一斉に震動し、バリバリと落雷のような音を響かせた。 グレムリンが六本の脚で跳躍する。踏み切りの反動で車体が傾き、危うく脱輪する直前で線路に戻る。車内の乗客は立っていることすらできずに倒れ、床を転がった。 怜次は悲鳴に埋め尽くされた車内を後に、開けっ放しの扉から無謀な乗客の後を追った。「早く隠れろ! グレムリンは人間も襲うんだ!」 数十メートル先の車道に男の背中が見える。脇目も振らずに必死に走り続けているようだが、人間の足でグレムリンから逃れられるはずがない。 巨大な影が男の周囲に生じたかと思うと、先ほど跳躍したグレムリンが地響きを立てて着地した。アスファルトに亀裂が走り、弾けるようにめくれ上がる。 重機よりも強靭な六本の脚がうごめき、長く柔軟な首が哀れな男へ近付いていく。無機質な顔面の中央で、不気味なまでに有機的な眼球がぎょろりと動いた。 男は地響きに足を取られて転倒した挙句、腰を抜かして立ち上がれなくなっていた。「くそっ……」 怜次は考えるより先に走り出した。 車道を走る自動車が次々に急停止する。ある者は車線を無視して引き返し、またある者は車を乗り捨てて逃げ出していく。 怜次は扉を開けっ放しで乗り捨てられた車に駆け寄り、助手席に腕を突っ込んで緊急時用の発炎筒を掴み出した。そして即座に着火し、グレムリンの頭部を飛び越すように投擲する。 眩いオレンジ色の炎が気を惹いたのか、グレムリンは男から目を外して首を上げた。 その隙に怜次はグレムリンの足元まで走り、腰を抜かしていた男を助け起こした。「あわ、わわ……」「落ち着け! 立ち上がって、列車の陰まで隠れろ。そうすれば見つからないはずだ」 強い口調で言い含める。怜次よりも男の方が明らかに年上だが、今はそんなことを気にしている状況ではなかった。 男が転びそうになりながらも走り出したのを見届けて、怜次もこの場を離れようとする。 その刹那、一瞬前まで怜次がいた場所にグレムリンの鉤爪が振り下ろされた。「うわっ!」 砕けたアスファルトが降りかかる。 顔を振り上げると、金属と生物の肉体が複雑に絡み合った異形の姿が視界を埋め尽くしていた。これがグレムリンと名付けられた怪物。金属臭と獣臭が混ざった臭いを放ち、生臭い体液が巡る金属繊維の筋肉を軋ませる、生命と言えるのかすら判然としない構造物。 金属喰らい。機械喰らい。文明喰らい――異星生物グレムリン。「ミイラ取りが何とやらだ……」 怜次は悪態を吐きながらも走り出す。人間の脚ではグレムリンから逃れられないのは承知の上だ。だが乗り捨てられた自動車に気を向けさせながら走れば、どうにか安全なところに隠れられるかもしれない。 背後でグレムリンが甲高く吼えた。怜次の淡い期待を踏みにじるように、長い首が空気を裂いて襲い掛かる。怜次が本能的に振り向いたときには、ギロチンよりも残忍な牙が目と鼻の先にまで迫っていた。『伏せろ!』 拡声器を通した声が響き渡る。怜次は条件反射的に反応し、アスファルトに身を投げた。 グレムリンの胴体に穴が穿たれ、爆風と破片が肉体を内側から破壊する。数瞬遅れて、高速の物体が大気を引き裂いた衝撃波が、路面に伏せた怜次を打ち据えた。 耳が痛くなるような静寂の後、グレムリンの巨体が道路に倒れる音がした。 怜次は耳鳴りを堪えながら後方に眼をやった。「痛っ……! 今のは……?」 胴体を無残に破壊されたグレムリンは、半透明の体液を撒き散らしながら、荒れたアスファルトに崩れ落ちていた。六本の脚と首は力なく投げ出され、瞳孔の開き切った眼球が虚空を見上げている。 誰が見ても死んでいる。機械じみた肉体を持つグレムリンといえど、活動に必要な箇所さえ破壊すれば、あのように行動停止――普通の生物でいう死亡状態に追い込めるのだ。『こちらは第三特機群第一中隊の特機だ。今からそちらに向かう』 先ほどと同じ声が道路の向こうから聞こえてきた。相変わらず拡声器特有の音質だが、よく聞くと女の声のようだ。それもかなり若々しい印象を受ける。『緊急事態のため退避を確認せずに砲撃した。負傷状況を確認したい』 怜次は身を起こし、声が聞こえる方向へ向き直った。 不自然に大きな人影が近付いて来ている。背丈は付近に放置された自動車の倍以上はある。数値にして三メートルから四メートルといったところか。道路に掛かる電線を立ったまま潜れる程度の大きさだ。 全体的に人間そのままの形とはいえない歪さで、特に肩関節と股関節の形状は人間と大きく異なる。背中には特大のドラム缶に似た弾装を背負い、右腕を大口径の機関砲と保護のための追加装甲がすっぽりと覆っている。 前後に張り出した胸部に、左右から腕を、下方から腰と脚を後付けで組み合わせたような、そんな印象を受けるシルエットだった。 表現を変えれば、人間の姿を真似たグレムリンのようだと言えなくもない。「大丈夫だ。怪我はしていない」 金属の巨人が目の前に立ち止まったところで、怜次は声を張り上げた。 巨人は足元から股関節までの高さだけで怜次の身長と同じくらいのサイズをしている。股関節から頭頂部までは、それより少し短い程度の高さだろう。 アニメや漫画に登場する巨大ロボットよりは格段に小さいはずだが、実際に間近で見ると不気味すぎるほどの威圧感がある。怜次はそんな感想を抱いていた。これでも数値の上では戦車の車高よりも一メートル少々高いだけというから驚きである。 センサー類やカメラを搭載した頭部が動き、足元の怜次を捉える。『分かった。少し待ってくれ』 拡声器から音量を絞った少女の声がした。さっきまでは女の声だと思っていたが、こちらの方が正確な表現だと怜次は考えていた。自分と同じ新兵か、一年早く入隊した一等兵といったところだろう。年齢にすると、若くて十八歳から二十歳の範囲に収まるくらいだ。 兵隊としては相当若いが、この金属の巨人――特殊駆動機械、通称『特機』の操縦者は、比較的若手の軍人に任せられる傾向が強い。かくいう怜次もその一人であり、列車に乗っていたのは配属先へ移動するためであった。 胸部の前面装甲が下半身に近い側を軸として開いていく。 完全に開き切った装甲を足場にして、特機の操縦者が姿を現した。「こちらは中部方面軍隷下、第三特機群所属の黒河内二等兵。そちらの所属部隊と階級は」 怜次は咄嗟に返事をすることができなかった。 特機の操縦席からこちらを見下ろす少女の姿は、怜次が想像していたよりも遥かに若々しい。年下であるのは間違いない。恐らくは高校生、下手をすれば中学校を卒業しているかどうかも怪しいくらいだ。 それなのに、迷彩服と航空機のパイロットの対G装備を組み合わせたような見栄えの無骨な装備が不思議と似合っていた。きっと、切れ長でありながら大きく見える特徴的な目が、可愛いというより美人だという印象を与えているからだろう。「……って、んなわけないだろ」 怜次は頭を振って、自分のおかしな考えを否定した。 自衛軍の志願者は高校生を除く十八歳以上に限ると法律で定められている。彼女は単に若く見られる外見をしているだけに決まっている。「どうかしたか?」「いや、何でもない。こちらは久我二等兵。明日付けで第三特機群に配属される予定だ」 それを聞いて、黒河内と名乗る少女はきゅっと目を細めた。 怜次は睨まれたかと思って身構えてしまったが、別に睨まれるようなことをした覚えはない。となると、恐らくは――微笑んでいるのだろう。だとすれば相当不器用な笑い方ということになるが。「それは奇遇だな」 黒河内は胸部装甲から飛び降りて、柔軟に膝を曲げて着地した。気軽そうな態度でやっているが、実態は高さ二メートル以上はある場所からの飛び降りだ。上手く着地しなければ脚を痛めてしまう。 逆に言えば、黒河内がそれほど特機に慣れていることの証明でもあった。「配属先の中隊と小隊はどこだ? もう分かっているんだろ?」 中性的な口調で質問を重ねられ、怜次は問われるままに答えるしかできなかった。「第一中隊の第三小隊だけど、それが何か」「いや、ただの私的な好奇心だよ」 黒河内は悪びれる様子もなく言い切った。つくづく掴みどころのない少女だ。短く切られた艶やかな黒髪や眼差しの力強さから受ける印象とは違い、実態のない陽炎と話しているような感覚に陥ってしまう。 上下共に長袖の戦闘服を着込んでいる上に、両手にも皮製の手袋を嵌めているので、首から下には肌の露出がない。そのせいか、戦闘服を脱いだら気体になって消えてしまうのではないか、なんていうおかしな想像まで浮かんでくる。 怜次が黙り込んでいると、黒河内はくるりと踵を返して歩き出した。「お、おい。どこ行くんだ」「中隊長に戦果を報告するだけだよ。私達の任務は、さっきの奴を山狩りで追い立てて仕留めることだったからね」「さっきの奴って……」 怜次は死んだばかりのグレムリンの亡骸を見やった。通常、グレムリンは蟻や蜂に似た群れを形成して活動している。単体で活動しているとすれば斥候の線が強いが、この近辺にグレムリンの巣があるなんて聞いたことがない。「ああ、たまにいるんだよ。巣を潰された後も生き残って『はぐれ』になる奴が。こんなところまで逃げてくるケースは珍しいけどね」 黒河内は怜次の考えを読んだように解説を入れた。その間も、振り返ることなく淡々と歩き続けている。 そうかと思うと唐突に振り返り、返怪訝そうな眼差しを怜次へ送ってきた。「ついて来ないのか?」「先を急ぐに決まってるだろ。俺は偶然居合わせただけなんだから」「ふぅん。この様子じゃ鉄道は当分運休だろうし、ここから第三特機群の駐屯地まで二十四、五キロはあるけど、歩いて行くのか。そうか凄いな」「…………」 またも怜次は返答に詰まってしまった。 破壊された車両の周りでは、迷彩服姿の男達が乗客を外に避難させている。あの車両をどうにかした後でレールの損傷の有無を確かめなければ、鉄道の運行は再開させられないだろう。鉄道の代わりにバスを使いたくても、土地勘がなければどうしようもない。「君が良ければ、撤収するときに送っていこうと思っていたんだけど」「分かった……頼んだ」 怜次が降参すると、黒河内は再び目を細めた。口の端も上向きに動いているように見えたので、やはり微笑んでいるつもりらしい。 正直なところ、贔屓目に見ても『不敵な笑い』か『皮肉げな笑い』としか思えない表情だ。もしかしたら本当にそういう意味合いを込めた表情なのかもしれないが、怜次はわざわざ確認するような度胸を持ち合わせてはいなかった。 だが、さっきからいい様にあしらわれているのも気に食わない。怜次は黒河内の後ろを歩きながら呼びかけた。「俺からも一つ、私的な好奇心の質問していいか?」「どうぞ。答えられる範囲なら答えるよ」「それじゃ遠慮なく。……あんた幾つなんだ? 見たところ子供っぽく見えるんだけどさ」 怜次は冗談めかした口調でそう言った。怒らせるかもしれない質問のは承知している。それでも黒河内の感情的な表情を引き出せるなら悪くない、なんて失礼な考えが、怜次の行動を後押ししていた。 ところが、黒河内の反応は至って平然としたものだった。「ああ、そうか。自己紹介が中途半端だったね」 黒河内は相変わらずの不敵な笑み――ということにしておこう――で振り返り、怜次の目をまっすぐ見据えた。鳶色よりも深く黒いその瞳は、見つめられているだけで吸い込まれてしまいそうだった。「私は第三特機群第一中隊第三小隊、特機三号機操縦士の黒河内月子。年齢は今年で十六歳になる。君とは同じ小隊の同僚だよ」「えっ……? お、おい……」 怜次の思考回路は、一気になだれ込んできた情報を処理しきれずフリーズ寸前になった。 同じ隊の所属だというのはともかく、十六歳の軍人なんて現代日本に存在するわけがない。「十六ってどういうことだ? そんなの有り得ねぇだろ」「今はまだ十五歳だって。それに、ありえないなら私が今ここにいるがわけないじゃないか。常識的にものを考えてくれないかな」 やれやれとばかりに肩を竦める黒河内月子。怜次はその態度に軽い苛立ちを覚えたが、表に出すのは全力で堪えた。怒らせても構わないという意図で投げかけた質問なだけに、こちらから怒りを露わにするなんて大人気ないことこの上ない。 それに同じ部隊に配属されることになるなら、下らないことで不和を生じさせても損をするだけだ。「十五も十六も大して変わらないだろ。……ったく、何がどうなってるんだか」「さぁね。ひとまずここは、コンゴトモヨロシクとでも言うべきかな」 月子は左手の手袋を外すと、色白の掌を上にして怜次に差し向けた。「……何?」「握手だよ。ほら」「ああ……なるほどね」 本人から説明されて、怜次はようやく月子の意図を把握した。握手は右手でやるのが普通だと思っていたので、咄嗟に理解することができなかったのだ。 左利きだからつい左手を出してしまったのだろうか。そう考えてもみたが、よく見ると左の手首に自衛軍推奨モデルの腕時計が巻かれていた。普通、これは右利きの付け方だ。「……よろしく、黒河内」「こちらこそ。久我さん」 怜次は月子と左手での握手を交わした。少女らしい滑らかな肌触りで、華奢な骨格をした小さな手だ。 互いの手が離れた直後、月子はあっさりと踵を返して歩き出した。 よく分からない子だ。ここでさり気ない笑顔の一つでも浮かべれてくれたら、これまでとのギャップもあって、好感度が跳ね上がっていたかもしれない。 ストイックな性格のせいで、そういう仕草が嫌いなのか。それとも不器用な性格のせいで、そういう表情が苦手なのか。出会ったばかりだから当然なのだが、久我怜次という男は黒河内月子という少女のことをあまり理解できていないらしい。「私は中隊長に報告を入れてくるから。君、特機の操縦は出来るだろ? 三号機をトレーラーに乗せておいてくれないかな」「それが年上にものを頼む態度かよ。そりゃ階級は同じだけどな……って、おい! 聞いてんのか? ていうか、俺はまだ正式配属されてねぇんだぞ」 悠然と歩き去る月子に文句をぶつけつつ、怜次は三号機の胸部装甲に手をかけた。 装甲の出っ張りを足場にして機体をよじ登りながら、今後のことを思い浮かべてみる。あんな変わり者が同僚にいるのだ。少なくとも退屈だけはしない筈だ。 もっとも、怜次は退屈しない生活なんて望んでいるわけではないのだが。 ――望む望まざるに関わらず歴史は動いていく。 この瞬間の出会いも、きっと小さなターニングポイントになるのだろう―― 二〇一一年 九月三十日 鳥取県鳥取市 津ノ井駐屯地 第一中隊将校室「失礼します」 律儀に扉をノックして、曹長の階級章を付けた男が将校室にが入室した。 新築の趣きを色濃く残す将校室には、執務用の事務机が六つほど並べられている。卓上の様子は様々で、書類が積み重なっているものもあれば、最近置かれたばかりのようにすっきりとしているものもある。 机は片手に余るほどの数が置いてあるが、室内にいる人間はそれよりずっと少なかった。士官の制服を着た男が二人座っている以外は空席だ。曹長はそのうちの一人のところまで大股で歩いていった。「中尉殿。四号機の帰還を確認しました。残る三号機は現在トレーラーにて移送中です。それと、最後の新入隊員も県内に到着した模様です」 よく通る低い声が将校室に響く。 本人としては普通に言葉を発したつもりなのだろう。しかし無人に近い将校室では音が必要以上に反響し、曹長自身の肺活量の大きさも合わさって、部屋いっぱいに響き渡る大声となっていた。 中尉が事務用の椅子を回して曹長に向き直る。手にしているファイルの表紙には『機密 新設特機小隊編成報告書』と印刷されていた。「そうか。部隊での訓練は予定通り十月から始められそうだな」 若々しい声で言いながら、中尉は白髪頭を掻いた。 二十代半ばという実年齢とは裏腹に、この青年将校の頭髪は大量の白髪に占拠されていた。黒髪の中に白髪が混ざっているというよりも、白髪に黒髪が溶け込んでいると表現すべきだろう。見方によっては白と黒の虎縞模様といえるかもしれない。「はい。特機は搭乗員になれる人間が限られていますから、頭数が足りなくて編成中止なんてことにならなくて良かったですよ」 そう言って曹長は生まれつき薄い眉を僅かに寄せた。何気ない仕草であるはずなのに、曹長の強面が更に威圧感を増したように思われた。 曹長と中尉、二人の年齢を比べれば明らかに曹長の方が年上である。だが実際は、曹長の方が年下の相手に敬語を使っている。軍隊とはそういう組織なのだ。少なくとも表向きの態度では、年齢よりも階級の方が優先される。中尉は曹長よりも三つほど上の階級だ。「確かに。特機が兵器として実用化されて僅か数年。今年に入ってようやく配備数が大幅増になったけど、人材育成の制度はさっぱり整備されてないからな。……それはそうと」 白髪頭の中尉は、自宅のソファーで寛いでいるかのように緩慢な動作で、椅子の背もたれを軋ませた。ゆっくりと体重をかけて背を反らし、曹長の顔を仰ぐように見上げる。上官の唐突な奇行に対して、曹長は困惑した様子で一歩退いた。「何ですか、いきなり」「猪熊。新兵のことが気になるのか?」 中尉は不真面目な姿勢のまま、真剣な口振りで問いかけた。 曹長こと猪熊竜馬は思わず口篭った。しばしそのまま押し黙り、やがて観念したように短く息を吐く。「やはり……分かりますか。今回の新兵どもには心の底から同情します。まさか上層部が『あの制度』をこういう風に利用するとは思ってもみませんでしたよ。理解に苦しむと言わざるを得ません」 竜馬の言葉には明らかな怒気が含まれていた。放っておいたら小一時間は熱弁を振るっていそうな勢いだ。 中尉はまだまだ語り足りない様子の竜馬を制し、軽い口調で嗜めた。「確かに『あの制度』は兵隊集めなんかに使っていいものじゃない。文句を言いたくなる気持ちも分かる。気持ちは分かるんだが、今の発言は軽率だな。悪い奴が聞き耳を立ててるかもしれないぞ」 そう言いながら、白髪頭の中尉は斜め向かいの席をちらりと見た。眼鏡を掛けた士官が仕事の手を止めて冗談交じりの苦情を返す。「おい、悪い奴って俺のことか」「違うのか? そりゃ失礼」 士官同士が笑い合っている間、竜馬は神妙な面持ちで直立不動の体勢を維持していた。傍から見る限りでは、不相応な発言をしたことを自戒しているようにも、真面目な話を冗談で誤魔化された憤りを我慢しているようにも見える。あるいは、この態度こそが彼にとっての自然体なのかもしれない。 中尉はおもむろに立ち上がると、機密書類のファイルで竜馬の肩を軽く叩いた。腑抜けた笑い顔は完全に影を潜め、真剣な面持ちで竜馬に声を掛ける。「変えられないことに文句を言っても仕方がない。俺達は俺達にできることをするだけだ。そうだろ、猪熊」「ハッ!」 竜馬は返答として背筋を完璧に正した。「よろしい。頼りにしてるぞ、猪熊曹長」 そして中尉はひらひらと手を振りながら、将校室から出て行こうとする。「……どちらに行かれるのですか?」「格納庫。そろそろ指揮官用の『特機』が到着するんだが、車庫入れは自分達でやってくれって言われてるんだ。輸送部隊にはアレを動かせる奴がいないんだとさ。まったく、人材不足は辛いよな」 白髪だらけの後頭部を見やりながら、竜馬は訝しげに首を傾げた。強面の竜馬には妙に似合わない仕草だった。「自分も『特機』が到着することは知っていますが、それ以外は初耳です」「俺もさっき電話で聞いて初めて知った。連絡が遅いっての」 中尉は振り向きざまに機密書類のファイルを竜馬へ放り投げた。 突然の行為に竜馬は目を丸く剥いて、書類が折れ曲がらないように両腕でファイルを受け止めた。「新人が集まり次第、顔見せと部隊説明を始めておいてくれ。納車が間に合ったら俺も後から行く。相手は餓鬼なんだから、あまりビビらせるなよ」「……善処します」 そう答える竜馬の顔は、既に相当な威圧感と圧迫感に満ちていた。これでも、自分の顔の怖さをどう抑えるべきか真剣に悩んでいる表情なのだから困ったものである。 中尉は苦笑しながら士官室を後にした。
金属食性異星生物関連年表 陸上自衛軍教育用資料より抜粋一九八〇年 新たに発見された超巨大彗星に『シュレット彗星』という名称が与えられる。 この名称は発見者のゲオルグ・シュレットから取られたものである。 同年年末、シュレット彗星の地球最接近が来年八月であると予測される。一九八一年 八月、シュレット彗星が地球と月の中間点を通過。 その後、原因不明の爆発現象を起こし、地表に大量の破片が落下する。 これにより世界六十以上の国と地域で多大な被害が発生。 人類は前代未聞の天体災害への対応と復興に追われることになる。 全世界の合計死傷者数は現在も明らかになっていない。 ただし、最も被害を多く見積もる説でも死傷者数は一億人を下回っている。 破片の落下による被害は、むしろ経済的なものが大きいというのが定説である。 彗星破片の調査は暫く放置され、本格調査の開始は災害から二年後であった。一九八三年 破片落下地点において未確認生物を発見。機械類に攻撃的な反応を示す。 この性質から『グレムリン』との通称が付けられる。 グレムリンとは、飛行機などの機械に悪戯をすると伝えられる妖精である。 同年、機械への攻撃的反応は捕食行動であることが判明。 調査中の生物に『金属食性異星生物』という正式名称が与えられる。一九八五年 世界各地の破片落下地点を中心に、金属食性異星生物が大量発生。 それらは無数の群れを構成し、近隣の都市や鉱床に攻撃を開始した。 同年、異星生物の活発な行動には生物由来の栄養が必要となることが判明。 これにより、金属食性異星生物によって人間が捕食される原因が解明された。 二〇一一年 九月三十日 鳥取県鳥取市 国道二十九号線 郊外の静かな街並みがゆっくりと流れ去っていく。 怜次は輸送トレーラーの荷台の隅に座ったまま、目の前の巨大な積荷を見上げた。荷台の大半を占める人型の巨体――三式特機。二〇〇三年に制式採用されたことから『三式』と名付けられたこの機体は、世界で初めて実用化された『人間の形をした兵器』である。 本当にこんなものを造ってしまう辺りが日本らしい。怜次は三式を見るたびにそんなことを考えてしまう。 戦車と同じ迷彩塗装の装甲。その奥に潜む、灰色の保護皮膜に包まれた金属質の人工筋肉。右肩から手先に掛けてを覆う増加装甲と、それに護られるようにして搭載された三五ミリ口径機関砲。 陸戦兵器としては、いや、史上全ての兵器と比較しても異端。グレムリンという怪物が出現しなければ、この兵器も永久に現れることはなかっただろう。 赤信号でトレーラーが停車する。エンジン音が静かになったせいか、他の音が聞こえやすくなった気がした。「おーい、久我さん」 不意に名前を呼ばれ、怜次は顔を上げた。 開け放たれた三式の胸部装甲から、月子がひょこっと顔を覗かせている。戦闘服は脱いでしまったらしく、白いシャツを着た肩も見える。 怜次が何事かと思っていると、月子は躊躇うことなく荷台へと飛び降りてきた。「よっと!」「うわっ! ……黒河内、お前いつか大怪我するぞ」 月子は怜次の苦言を聞き流して、荷台の後方中央に座り込んだ。皮手袋を嵌めたままの左手に銀色で直方体の機械らしき物が握られている。「何だ、それ」 そう訊ねてしまってから、怜次はもっと疑問に思うべきものを目にしてしまい、そちらに意識を奪われた。 月子は戦闘服を完全には脱いでいなかった。上下でひとつなぎになった戦闘服の上だけを脱ぎ、袖を腰元で括って固定している。白い半袖シャツは戦闘服のアンダーウェアとして着ていた服らしい。 だが、服装自体は別にどうでもいい。怜次の意識を惹き付けたもの。それは、月子の右腕を完全に包み隠す真っ白な包帯だった。手首から先は皮手袋のせいで確認できないが、少なくとも肩口まではしっかりと巻きつけられている。まさか、左手で握手をしようとしたのはこれのせいだったのか。「ただのラジオだよ。ニュースでも聞く?」 そう言って、月子は右手でラジオのチューニングをし始めた。器用で淀みのない動きだ。右腕に大怪我をしているのではないか――そんな怜次の考えはあっさりと否定された。 右腕が使えないわけではないようだが、それでも腕全体を包帯で隠しているというのは尋常ではない。しかし、怜次はその理由を訊ねるタイミングを完全に逸してしまっていた。身体的な特徴に関する話題は往々にしてデリケートな問題だ。出会ったばかりの現状では、勢いに任せなければ訊けたものではない。『次のニュースです。日本時間の本日未明、ロシアの首都モスクワで都市奪還の記念式典が開催されました。この式典は、ロシア西部の都市エカテリンブルグの支配権完全奪還を記念したもので――――』 そこまで聞こえたところで信号機が青に変わり、トレーラーが動き出した。ラジオの音声がエンジン音にかき消され、怜次のところまで届かなくなる。「ふぅん。そんな都市が奪われてたんだね」 ラジオから流れる国営放送のニュースに対し、月子は冷ややかな反応を見せた。ニュースが伝えている内容は、人類がグレムリンから生活圏を奪い返したことを伝えるものであり、本来なら喜ぶべき報道のはずだ。 しかし、これに関しては怜次も月子と同じ感想を抱いていた。「俺も初耳。負けたときは申し訳程度に報道して、勝ったときは大々的にアピールしまくるんだから現金だよな。エスカルゴなんとか何て聞いたこともないっての」「エカテリンブルグだよ」 月子はちらりと怜次に視線を送り、ラジオの音量を調節する。『――――ロシア政府は今回の都市奪還成功を、ウラル山脈権益とシベリア鉄道運行の復活の足がかりとする考えを表明し、更なる攻勢を強める意向を明らかにしました』「都市を取り返しても、金属という金属を食べられて廃墟になってるだろうね。シベリア鉄道もレールは壊滅状態じゃないかな」「黒河内……お前、ニュースに突っ込みいれながら聞くタイプか」 たまにそういうタイプの人間がいるとは聞いていたが、よもやこんなところで出会うとは。それも妙に筋の通った突っ込みだ。これでは聞かされている方も反応に困ってしまう。 このままだと、また月子の独壇場になりそうだ。怜次は疲労を溜息と共に吐き出した。「そういや、さっき鉄道を襲った奴はレールじゃなくて車両を食べてたよな。あいつらにも好みとかあるのかね」「え? ……ああ、まだあの報告を聞いてないのか」 何気ない一言に月子が食いついてきた。月子はラジオの音量を大幅に絞ると、怜次に面と向かう形で体勢を変えた。「あのグレムリンは最初レールを齧っていたんだ。それで警報装置が作動して鉄道が緊急停止したんだが、その直後に捕食の標的が切り替わったらしい」 そういうことだったのかと、怜次は内心で納得した。月子の説明は怜次が体験した一部始終と合致している。唐突な急停車と、直後のグレムリンの強襲。月子達の部隊がタイミングよく到着したのも、レールが破損した際の警報を受けて即座に駆けつけたからだろう。「てことは、グレムリンも選り好みはするんだな」「酸化物よりも精製された金属を好む傾向があるそうだ。だから錆びだらけのレールよりも、メンテナンスの行き届いた車体の方が美味しそうに見えたのかもね」 滑稽な表現だが、それを語る月子は苦笑すら浮かべていない。 とりとめのない会話をしているうちに、周囲の街並みは見晴らしのいい田園風景に取って代わられていた。トレーラーの後方、つまり北側にはそれなりに広い町が広がり、トレーラーの前方にはまた別の集落が見える。そのまた向こうには、秋の装いを整えつつある里山が軒を並べている。「駐屯地はあの町の向こうだ」 月子は遠くを眺める眼差しでトレーラーの進行方向を見やった。 三号機と二人を乗せたトレーラーは、月子が示した町を左手に南下を続けていく。遠目に見る限りでは、生活に必要そうな設備が一通り揃っていそうな雰囲気の町だ。「特機群の他に輸送隊や整備隊なんかも駐留しているから、他の小規模な駐屯地と同じくらいの規模はあると思うよ。後は特機の修理用パーツを加工する工場も併設されているね」 地図の上では、あれが駐屯地に最も近い町である。南にも別の町もあるのだが、そこへ行くには山を一つ越えなければならない。恐らく駐屯地の兵士や工場の職員はあの町を活動の拠点として暮らしているのだろう。 国道と県道の合流点の付近で、トレーラーは国道を降りて国有地へと入っていった。厳重なゲートを通り過ぎたところで、月子が例の不器用な笑みを浮かべる。「ようこそ。私達の津ノ井駐屯地へ」「…………」 怜次は少々緊張した面持ちで辺りを見渡した。 ちょっとした住宅地ほどの広さがある敷地内に、大小様々な施設が立ち並んでいる。新築同然の新しいものから、築十数年くらいかと思われるものまであるが、極端に古びた建物は見当たらない。 建物の集まっている場所から少し離れたところには、平らに整地された広い空き地がある。運動場というには広すぎるので、恐らく特機の操縦訓練に使われる場所なのだろう。 駐屯地の一角、倉庫群の手前でトレーラーが停車する。運転席から輸送隊の兵士が身を乗り出して声を上げた。「着いたぞ、デカブツ」 デカブツとは特機のことだろう。確かに戦車の車高と比べると、特機は一回り背が高い。だが奥行きは戦車の方がずっと大きいのだ。特機と関わりの薄い人間は、この辺をよく勘違いしている。 月子は立ち上がってから軽く伸びをして、包帯に覆われた右手で装甲の出っ張りを掴んだ。「私は三号機を格納庫に入れてくる。後は一人でよろしく。迷子になるなよ?」「誰がなるか」 挑発に悪態を返し、怜次はトレーラーの荷台から飛び降りた。 三号機が曲げていた脚を伸ばして立ち上がる。怜次は降車の邪魔にならないように、足早にトレーラーから距離を置いた。 駐屯地の空気は街中とはまるで異質なものであった。 軍用車両が敷地内を行き交い、道行く人は軍服や作業服姿の軍人ばかり。喧騒も街の騒がしさとは全く違う。 怜次は半年間の訓練期間を通じて軍の雰囲気に慣れたつもりだったが、こうして実際に活動している駐屯地を訪れると、自分が駆け出しの新兵に過ぎないことを改めて実感させられてしまう。「えっと、まずは小隊本部に行かないと……」 怜次は忙しなく辺りを見渡した。 予め駐屯地の地図を用意してはいたが、初めて訪れる場所では、今いる場所が地図のどこに相当するのか調べるだけでも一苦労だ。「えっと、久我怜次君だよね」 何の前触れもなく、そんな言葉が耳に飛び込んできた。軽い口調の女の声だ。誰かが出迎えに来てくれたのだろうか。怜次は安堵して振り返り――盛大に硬直した。 原因は女の容貌だ。スカートタイプの白い夏服に身を包み、律儀に制帽まで被った姿は、あまりにも幼すぎた。月子と出会ったときも似たような感想を抱いたが、それとはまた性質が違う違和感だ。 第一に、背丈が小さい。小学校高学年の女子の平均身長といい勝負だ。自衛軍の採用基準は女性の場合で身長一五〇センチ以上だが、それを満たしているかすら際どいほどである。その上、痩せ気味で身体の線もかなり細く、化粧も質素に留めているものだから、余計に若々しさが増している。 怜次は念のため制服左腕の階級章を確認した。桜の刺繍の下に、矢印の先端のように折れ曲がった直線が三つ。兵長の階級章であった。二等兵である怜次よりも階級が二つ上だ。怜次は慌てて姿勢を正そうとしたが、女にそのままでいるよう制されてしまった。「まぁまぁ。そんなに気張らないの」 女は怜次のことを頭から爪先までじっくり眺めていたかと思うと、一人で勝手に満足したらしく、大袈裟な素振りで頷いた。「うん、理想的な体格ね。背は高過ぎないけど、しっかり鍛えてある。頼りになりそう」「……それは褒め言葉なんでしょうか」「特機は操縦席が狭いからね。大柄だと色々苦労するんだよ」 どうやら褒め言葉ではあったらしい。男としては背が高くないことを褒められてもあまり嬉しくはないが、相手が上官なだけに、それを素直に表すのは憚られる。怜次は戸惑いを愛想笑いで誤魔化して、説明を理解できたことと伝えようとした。そこでようやく、女の名前を聞いていないことに気がついた。「えっと……」「あ、名前教えてなかったか」 女は怜次の様子を察したらしく、質問に先回りして答えを返した。「岸田佐代子。私の名前ね。君と同じ第三小隊に配属されてるわけだけど、岸田兵長とか兵長殿とか、堅っ苦しい呼び方は嫌いだから……そうだね、佐代子ちゃんとかどうかな」「……よろしくお願いします、岸田さん」 怜次は本能的に無難な呼称を選択した。 女――岸田兵長はわざとらしく顔をしかめた。どうやら怜次の呼び方がお気に召さなかったらしい。 怜次は凄まじい勢いで精神的な疲労が蓄積していくのを感じていた。早く話題を変えなければ、小隊長に顔見せをする前に力尽きてしまいそうだ。「素直じゃないな。上官命令はちゃんと聞かないと」 あんな命令は軍規に違反していないんですか、と言い返す気力はとっくに失せていた。 恐ろしい想像が脳裏を過ぎる。よもや、この小隊には変な奴しか早くいないのではないか。特機の操縦士の数が足りていないというのは、訓練生時代に何度も聞かされている。その穴を埋めるために、多少問題のある人材でも配属しているのでは――「あっ! お帰りなさい、佐代子さん」 突然、背後から少女の声が飛んできた。振り返ると、真新しい制服に身を包んだ見知らぬ少女が、元気に手を振りながら駆け寄ってくるところだった。「玲奈ちゃんもお帰り。今日の戦果はどうだった?」「それが……私は歩き回ってるだけで終わっちゃいました」 岸田兵長は自分より背の高い少女の肩を両手で叩いた。着ているのが軍服でなかったら、女子校生同士のじゃれあいとしか思えない光景だ。 怜次は少女のことを知らなかったが、岸田兵長は顔見知りのようだ。兵長に敬語を使っていて、新品の制服を着ている辺り、怜次と同じく新兵なのだろう。だとすると、年齢は十八かそこらに違いない。……それにしては、妙に体付きが幼い気がしたが。「おや、もうマークしちゃったんですか? れーじ君?」 岸田兵長が、顔面に下世話な感情を満遍なく貼り付けて、からかうように怜次を見上げた。怜次は口元を歪めて顔を背ける。少女をあからさまに観察しすぎていたらしい。愉快犯に犯行の動機を与えてしまった。 兵長は当然のように怜次の反応を無視し、一人で楽しそうに笑っている。彼女のことを軍人だと信じられる人間が、果たしてこの世に何人いるのだろう。怜次は、仮に物好きな民間人のコスプレだったと聞かされても驚く気がしなかった。むしろ軍人だという事実にひどく驚いているくらいだ。 兵長のペースについて来られないのか、玲奈は怜次と兵長を交互に見つめていた。「えっと……この人が久我怜次さんですか?」「うん、そうだよ」 玲奈は兵長にそんなことを尋ね、兵長はさらりとそれに答えた。 会話の内容から察するに、玲奈は『久我怜次という人間がいる』という事前情報を与えられていたらしい。そして兵長の横にいる男がそうだと思い、確認を取ったのだろう。 そこまで分かれば、この少女と岸田兵長の関係を推測するのは簡単だ。「岸田さん、もしかして自分と同じ小隊の……?」「察しがいいね。玲奈ちゃんも新人さんだよ。可愛いでしょ」 最後の一言は無視することにした。 怜次は改めて玲奈を観察する。岸田兵長ほどではないが、小柄な部類に入る体格である。清潔なショートカットの頭髪は、茶髪どころか赤毛と呼べるほどに淡い色合いだ。これが生まれ持った髪色なのだろう。二重瞼の目は綺麗な鳶色で、顔の輪郭に骨ばった感じがない。確かに可愛らしいという印象を受ける外見だ。 玲奈は怜次と目があったことに気付くと、ぺこりと丁寧なお辞儀をした。「榊玲奈です。よろしくお願いします」「あ、ああ、こちらこそよろしく」 内心、怜次は戸惑っていた。同輩にしては仕草や外見が幼すぎる。外見については、岸田兵長という極端な例が目の前に存在しているが、態度の違和感は拭えない。まるで、年の離れた後輩とでも話しているような雰囲気だ。 いや、明らかにおかしい。岸田兵長のせいで感覚が麻痺しかけていたが、玲奈を見たときの違和感は月子と初めて出会ったときのそれとよく似ている。 つまり、この少女も。「私、隊長に報告しに行かないといけないので。失礼します」 玲奈は丁寧に一礼して立ち去っていった。月子とは人当たりの良さがまるで違い、岸田兵長とは常識の度合いがまるで違う。怜次は荒んだ心が癒えていく感覚を覚えた。 岸田兵長は笑顔で玲奈を見送ると、くるりと怜次に向き直った。「ねぇ、怜次君。あの子何歳だと思う?」 兵長の唐突な質問に、怜次はびくっと身体を震わせた。突然話しかけられて吃驚したのもあるが、それ以上に、今まさに考えていた疑問をまるで心を読まれたかのようなタイミングで訊ねられたことが驚きだった。 岸田兵長は怜次の反応をけらけらと笑うと、同じ質問を繰り返した。「玲奈ちゃんって何歳くらいに見える?」 口元は悪童のように笑みを作っていたが、眼差しは笑っていなかった。嫌な予感が怜次の胸中を駆け巡る。どうしてそんな質問をするんだ? 分かりきったことじゃないか。 ……そう笑い飛ばすことができればどんなによかったか。「……ひょっとして兵長の同類なんですか?」 怜次は精一杯の冗談を返した。想像してしまったコトよりも、見かけ以上の年齢だと言われたほうがマシだった。「同類って何さ。珍獣扱い? 私はこれでも立派な成人女性なんだけど。……やっぱり答えにくい質問だったかな。ごめんね」 岸本兵長は声のトーンを落とす。快活そのものだった声色が影を潜めると、雰囲気が急激に深刻さを帯びてしまう。 更に悪いことに、兵長が話そうとしている内容は、相応に深刻なことに違いないのだ。「あの子はまだ十五歳なんだ。三月に中学校を卒業したばっかりの」 怜次は無言で兵長の言葉を受け止めた。想像した通りだった。月子と同じだ。 あれだけ幼い容姿と人格で十八歳というのはありえない。大人と子供のメンタリティには著しい違いがある。岸田兵長でさえ、内面的には年齢相応の年長者であるはずなのだ。容姿が同い年くらいに見えたとしても、玲奈の言動は明らかに子供のそれだった。 果たして、十五歳の兵士は存在しうるのか。無論、怜次が知る限りの常識では絶対にありえないことである。 自衛軍の兵員募集年齢は前身である自衛隊の募集規定を踏襲して、十八歳が下限とされている。六十五年以上前の旧軍ですら、戦争末期になるまでは、そんな年齢の子供を引っ張り出したりはしなかった。「そんなの有り得ないでしょう。完全に違法行為ですよ!」 怜次は語気を荒げた。それに対して、岸田兵長は諦観の表情を浮かべ、首を左右に振るだけだった。「君、戦災者救済法っていう法律は知ってるよね」「当たり前じゃないですか。グレムリンとの戦闘で受けた被害を補償する包括的な法律ですよね。それがどうかしたんですか」 二十年以上の長きに渡る戦いは、人類に多くの被害と犠牲をもたらした。 それは日本も例外ではなく、際限なく増え続ける被害者に対応するため、今から十五年ほど前に『戦災者救済法』という法律が施行されていた。この法律は人々の生活にも深く浸透しており、先の鉄道襲撃で生じた被害も、この法律を根拠に保証されるはずである。 戦災者救済法の存在は、今や日本人の常識になっていると言っても過言ではあるまい。「この法律は、親を亡くした子供や経済的に追い詰められた家庭の子供を支えることも目的にしてるの。家計の状況によっては、十八歳未満の戦災児童を公的機関で雇用して、職業訓練と収入確保を同時に進めるとか、とにかく色々な方法でね」 岸田兵長の語る内容は怜次も聞いたことがあった。 通常は学費免除や生活費支援などで対応するのだが、それでも不足を補いきれない場合は、公的機関で収入を得つつ、学費免除の通信制高校に通うという援助方法を選択することもできるのだ。 この方針自体は、働き口に困った子供が悪条件で労働せざるを得なくなる悲劇を防ぐことにも繋がり、国民の好評を得て現在に至るまで継続している。「けど、その公的機関に自衛軍は含まれていないはずでしょう。そんなの聞いたこともない」「実は含まれてるのよ。救済法が施行された当時からずっと。単にこれまでは軍の判断で雇用を見送っていただけなの。子供を受け入れる制度が整っていないっていう理由でね」 兵長の言葉には明らかな怒気が含まれている。怜次はさっきまで語気を荒げていたことも忘れて、兵長の外見に似合わない気迫に飲まれてしまっていた。「公的機関といっても雇用できる人数や職場の種類には限りがある。その点、自衛軍は色々な職種があるし、人材は慢性的に足りていないくらい。だからあちこちから催促され続けてたのよ。早く戦災児童を受け入れろって。……本末転倒よね」 最後の一言は、まるで吐き捨てるような言い方だった。岸田兵長は現状に彼女なりの憤りを感じているのだろう。 怜次が黙り込んでいることに気が付くと、兵長は表情を和らげた。「ごめんね、愚痴っぽくなっちゃって。とにかく、自衛軍は各所からの要請を無視しきれなくなって、今年から『自衛軍特別年少採用制度』っていう制度を開始したの。読んで字の如く、戦災者救済法の一環として戦災児童を雇用する制度ね」 岸田兵長はここで一旦言葉を切り、怜次の反応を確かめるような視線を送ってきた。「この制度で採用された兵士は、原則的に戦闘部隊には回されない。通信とか輸送とか、後は整備とか。要するに後方の裏方ばかり」「じゃあどうして!」 怜次は思わず大きな声で口を挟んだ。まるで理屈に合わない。岸田兵長の言うとおりなら、これまで会ってきた彼女達がここにいるはずがない。「話は最後まで聞きなさい。原則的ということは例外も有り得るってことでしょ。どういうつもりかしらないけど、自衛軍は戦闘部隊の中でも特機部隊だけは例外扱いにしたのよ。本当、何を考えているんだか」「…………」「じゃ、行こっか。隊舎はこっちよ」 兵長は建物が建ち並んでいる方へ向き直ると、ついて来るように手振りで示した。 もはや、怜次の中に岸田兵長を子供と看做す価値観は存在しなくなっていた。年長の上官に向けるに相応しい態度で、どうしても気になっていたことを口にする。「黒河内……っと、黒河内二等兵と榊二等兵のような特例の兵士は、他の隊にも配属されているんですか?」「第一中隊ではうちの小隊だけだったと思うけど、他の中隊がどうかは知らないなぁ。小隊長なら知ってるんじゃないかな。……そうだ、大事なことを伝え忘れてた」「まだ何かあるんですか」 怜次の問いに岸田兵長は頷きを返した。嫌な予感は今もフル稼働だ。どんなことを言われるのか見当が付いてしまう。 それだけに、怜次の気分は重くなる一方だった。「うちの隊……第一中隊の第三小隊は、君を含めて五人の新人が配属されることになってる。そのうち、正規兵は君だけなんだ。他の四人は特別採用制度で入隊した……子供なの」 兵長は『子供』という表現を使うときに、微笑を浮かべながら悲しそうに肩を竦めた。その仕草だけで、怜次は彼女がこの事態に納得できていないのだと理解できる。この人は子供みたいな外見とは裏腹に、本物の子供達のことをひどく気にかけているのだ。 重苦しい雰囲気を払拭したいのか、岸田兵長は明るい声で前向きな情報を付け加えた。「でも、小隊長と曹長はベテラン中のベテランだから。曹長はこの分野じゃ指折りの古参兵だし、小隊長は伝説の特機兵って呼ばれるくらいの凄腕なんだよ。怜次君みたいに頼りになりそうな新人も来てくれたことだし、きっと大丈夫だって」 岸田兵長の口調には気楽さが戻ってきていた。 怜次は力なく顔を上げた。何が大丈夫なのかは分からなかったが、兵長が自分を元気付けようとしていることは分かった。「さっき言ってた『頼りになりそう』って、こういうことですか」「うん。君ならあの子達の良い先輩になってくれそうだと思って」 兵長はあっけらかんと言い切った。早くも信頼されたことを喜ぶべきか、大役を押し付けられそうなことを嘆くべきか悩みどころだ。怜次はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決して宣言する。「分かりましたよ。頼られたらいいんでしょう、頼られたら」 半ば自棄になって言い放つ。どうせ一介の兵士に拒否権などないのだ。思い悩むだけ無駄というものである。 岸田兵長は満面の笑みを浮かべ、ぱちぱちと拍手をした。「流石はお兄ちゃん。そうそう、新入生は女の子が多いんだけど、みんなレベルが――」「そういうのは訊いてないです」 からかい文句をばっさりと切り捨てる。 このとき、怜次は確信した。今後の軍生活で最も頭を悩ませることになるであろう要因は、中学校を出たばかりの同僚などではなく、雲のように掴みどころのない彼女であると。いくら根は真面目なのだと分かっていても、言動がとにかく予測不可能で、まともに受け止めるのは難易度が高過ぎる。 願わくば、小隊長と曹長が真面目な人であって欲しい。怜次は心の底からそう思った。
二〇一一年 九月三十日 津ノ井駐屯地 第一会議室 学校の教室の倍ほどの広さがある会議室に、簡素な長机とパイプ椅子が規則正しく並べられている。本来は一個中隊に所属する兵を全て収容できる広さの部屋なのだが、今は片手で数えられるだけの人数が、互いに距離を取ってまばらに座っているだけだった。 会議室に集まっているのは怜次を除いて四人。内訳は少年が一人に少女が三人。その誰もが真新しい陸軍の制服を着用している。「それじゃ、私は隊長達を呼んでくるから。ちょっと中で待ってて」「分かりました。また後で」 岸田兵長は怜次を会議室に残し、廊下の向こうへ歩き去っていった。「あ、怜次さん」 笑顔を向ける玲奈に、怜次は軽く手を振って応えた。相変わらず人好きのする笑顔だ。 何気なく周囲を見渡すと、初めて見る顔の少年と少女が、怜次に対して好奇の眼差しを向けていた。 一人はよく日に焼けた少年だ。かつては体育系の部活に所属していたのだろう。運動しなれているのが分かる体形をしている。少々背丈は低めだが、平均身長に少し届かないくらいという程度で、小柄というほどではない。 もう一人は、見るからに生真面目な雰囲気を湛えた少女だった。制服をきっちりと着込み、髪型も規則通りに整えてある。表情にも緊張感が満ちているが、顔のところどころに幼さが垣間見え、それが少女に愛嬌を与えていた。 この二人に玲奈を加えて三人。残りの一人は、他のみんなから離れた窓際の席に座り、無言で外を眺めている。怜次からは身体の右側と綺麗な短めの黒髪しか見えず、表情を伺うことすらできない。 それが誰であるかは、わざわざ顔を見なくても分かる。黒河内月子だ。出会ったときは戦闘服姿だったので、軍服を着た姿を見るのは初めてだ。右手には相変わらず皮手袋を嵌めていたが、左手には何も付けていない。やはり、あの包帯を隠すためなのだろうか。 岸田兵長が言っていた通り、怜次と比べて一回りも年下の子供ばかりだ。 自衛軍の駐屯地にいるという実感は全く感じない。軍服を着用しているという点に目を瞑れば、部活動のミーティングのために集まった面々といった雰囲気である。 怜次が適当な席に腰を下ろすと、日焼けした少年が近くの席に移動してきた。「こんちわ。えっと……レイジさんでしたっけ」 外見から年上だと見定めたのだろう。少年は敬語で怜次に話しかけてきた。「久我怜次だ、よろしく」「よろしくっす、久我さん。俺、長谷川翔也っていいます」 少年は歳相応に砕けた敬語で自己紹介をする。話し方が軍隊的というより運動部のようで、怜次は少しだけ懐かしい気持ちになった。高校生だった頃、入学したばかりの後輩と話しているときの気分とよく似ている。「そうだ。さっき来たばかりなら、俺が他の連中を紹介しますよ」 少年――翔也はやけに嬉しそうな態度で怜次に接している。まるで他人との会話に餓えていたかのようだ。 特に断る理由もないので、怜次は翔也の提案を受けることにした。「それじゃあ頼めるか?」「了解っす。まずは、一番前の奴から……」 そう言って、翔也は赤毛の後頭部を見やった。怜次は既に玲奈のことを知っているが、とりあえず翔也の紹介を聞いてみることにした。「あのやたら目立つ頭をしてるのが、榊玲奈っていう奴っす。さっき一度だけ話したけど、とにかくテンションの高い奴でしたね」 おまえも相当テンション高いけどな、という突っ込みは心の奥に秘めておいた。 翔也は湧き上がる高揚感を抑え切れていない様子だった。楽しみにしているイベントを目前に控え、我慢できなくなっている状態と表現すれば近いだろうか。不安で饒舌になっているわけではないようだ。 生真面目そうな雰囲気の少女が立ち上がり、こちらに向かって近付いてきた。「長谷川君、さっきも注意したでしょ。遊びに来たわけじゃないんだから、大きな声で騒ぐのは止めなさいって」 少女は腰に両手を当てて翔也を注意した。強気な口調と表情が実によく似合っている。 さっきというのは、恐らく玲奈と翔也が話したときのことだろう。怜次はそのときの光景を想像してみた。二人が元気に会話を交わしているところから、この少女が注意をしにやってくるところまでが、容易に脳内に浮かび上がる。 一応、声が大きくなっていた自覚はあったのか、翔也は声量を絞って話を続けた。「はいはい。それで、こいつが……あー、えっと……」 目の前の少女を紹介しようとして、急に翔也は言葉を濁す。 何があったのかは考えるまでもあるまい。単に彼女の名前を思い出せないのだろう。「すんません。委員長っぽい奴だから、頭の中で『委員長』って呼んでたら、名前の方をド忘れしちゃいました」 本人を前にして、翔也は包み隠すことなく正直に言い切った。 委員長という表現に、怜次は思わず吹き出してしまった。彼女の第一印象をこれほど的確に表す単語は他に思いつかない。委員長のステレオタイプにありがちな、眼鏡に三つ編みという姿をしていないのが不思議なくらいだ。 少女は頭痛を堪えるように額を押さえた。「ド忘れも何も、あなたに名前を教えた覚えはないんだけど」「あれ? そうだっけ」 首を傾げる翔也。 少女はその抜けっぷりに呆れ返り、怒る気力すら削がれたようだった。「はぁ……先が思いやられるわ」 溜息を吐き、少女は翔也から怜次へと向き直った。「上原亜由美と申します。若輩者ですが、全霊を尽くして職務を全うする所存です。久我二等兵、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します」 少女こと亜由美は、しゃんと背筋を伸ばして口上を述べた。社会人の挨拶の指南書を丸暗記してきたような型通りの内容だ。 あまりにも丁寧すぎる物言いに、逆に怜次の方が怯んでしまった。二等兵は軍隊における最下位の階級だ。指導だの鞭撻だのを乞われる立場ではない。そもそも怜次と亜由美はどちらも同じ階級なのだ。 確かに怜次は亜由美よりも年上ではあるが、それでも高校を卒業して半年程度しか経っていない。プロの軍人と比べれば、若輩者という点ではどっちもどっちだ。こんな台詞はベテランだという小隊長達に向けるべきだろう。「大袈裟だな……。もう知ってるみたいだけど、俺は久我怜次。よろしくな、上原」「はいっ。この単細胞よりは役に立ってみせます」 亜由美は妙に毒のある表現で翔也を引き合いに出した。どうもこの二人は波長が合わないようだ。体育会系と学級委員長の関係を想像すれば、不思議と納得のいく相性ではある。 机の陰で足を蹴りあう二人を横目に、怜次は月子の方を見やった。 自衛軍特別年少採用制度――このとんでもない制度を知ってからというもの、月子に対する印象がもやもやとしたものに変わっていた。 あの制度は戦災によって真っ当な生活を送ることが難しくなった児童――法的には高校生以下の子供を指すらしい――を対象としたものだ。それを思うと、月子の右腕を覆う包帯にも重大な意味があるように思えてくる。 印象が変わってしまうのは、月子だけに限った話ではない。ここにいる年少兵は例外なく特別採用で軍に入ったはずである。各々が、それ相応の理由を背負った上で。「なぁ、長谷川。あと一人は……」 怜次が翔也に紹介の続きを頼もうとした矢先、会議室の前側の扉が勢いよく開かれた。 そして、もう聞き慣れてきた感のある岸田兵長の声が響き渡る。「集まったな野郎ども! それじゃミーティング始めるぞー」 この場の誰よりも小さな身体がホワイトボードの前に立つ。 上官がやってきたにも関わらず、会議室の空気は引き締まるどころか、逆に弛緩すらしたように思えた。だが、それも次の瞬間までだった。「全員揃っているな。よろしい」 岸田兵長の後に続いて、屈強な体格の男が論壇に立つ。その途端、会議室は水を打ったように静まり返った。 一目で歴戦の兵士だと分かる。年季の入った軍服を着こなし、鋭い眼光で新兵達を睥睨する様は、まさに軍人と呼ぶにふさわしい。年齢は三十に達したくらいだろうか。短めの髪を後ろに撫で付けた髪型が、その強面ぶりを遺憾なく強調している。 言葉を失った怜次達を、どういうわけか男はじっと見据え続けていた。彫りの深い三白眼というものは、黙っているだけでも相当な威圧感があった。「怯えてますよ、曹長」 岸田兵長が男の脇腹をからかうように肘で突く。男は気難しそうに表情を崩した。「む、むぅ……」 大きな咳払いをして、男は改めて話を切り出した。「まずは自己紹介から始めておこう。小隊付き下士官と諸君らの訓練教官を兼務する、猪熊竜馬曹長だ。そこにいるのは岸田佐代子兵長。もう会った奴もいるはずだな。こんななりだが、訓練教官補佐を務める予定だ。見かけに騙されるなよ」「曹長、二言くらい多いです」 岸田兵長は素敵なスマイルのままで毒づいた。曹長とは兵長よりも格段に上の階級だ。それなのにここまで砕けた態度を取る岸田兵長に、怜次は何とも言いがたい感情を抱いていた。物怖じしない態度への尊敬が三割と、こんな大人にはなるまいという反面教師的な思いが六割。残り一割は、この人は本当に軍人なのだろうかという純粋な疑問だった。 子供の雇用に苦言を呈したときとはまるで別人のようだ。もしかしたら、本当に同じ顔の人間が入れ替わって登場しているだけなのかもしれない。怜次はその光景を想像し、表情に出さず密かに笑った。 猪熊曹長は何事もなかったかのように、岸田兵長の苦情を無視して話を続行する。「諸君らが配属されたこの部隊は、中部方面隊隷下第三特機隊第一中隊所属第三小隊、いわゆる『特機小隊』の一つだ。諸君ら五名と我々二名、それとここにはおられない小隊長を加えた八名で部隊が発足することになる」 一旦言葉を切り、新兵達を一通り見渡してから言葉を継ぐ。「とはいえ、黒河内二等兵と榊二等兵は一週間早く着任していたから、実質的には新たに三人が着任して小隊が完成した形になるな」 なるほどそういうことか、と怜次は納得した。 月子が実戦参加しているのはこの目で見ており、玲奈も実戦に関わっていたことを匂わせる発言をしていた。怜次と同期の隊員になることを考えると不自然だが、一足先に配属させられていたなら話は別だ。「ここまでで、何か発言しておきたいことはあるか」 そう言われて、翔也が遠慮がちに手を挙げた。「質問、いいっすか」「許可しよう。言ってみろ」「えっと、八人って少なすぎじゃないですか?」 翔也の疑問は、特機部隊の内情を知った者が必ず一度は思うことだ。 軍隊において最もメジャーな兵科である歩兵部隊の場合、一個小隊はおよそ四十人で構成される。八人というのは、それのたったの五分の一でしかない。小隊を幾つかに分割して行動するときは分隊という小集団を構成するのだが、それですら十人前後が一般的だ。「長谷川二等兵か。お前がいた教育隊では一隊二十人編成だったな。それなら少なく感じるのも止むを得まい」 猪熊曹長はその質問を予想していたらしく、淀みなく回答を返した。「確かに歩兵小隊なら四十人前後が定数だ。だが他の部隊には、それぞれに適した人数というものがある。例えば戦車小隊は十六人から十二人で構成されている。上原二等兵、理由が分かるか?」 猪熊曹長は亜由美に話の矛先を向けた。 亜由美は驚いて目を瞬かせていたが、すぐに気を取り直して立ち上がった。「はい。戦車小隊は戦車四輌で一個小隊を構成するからです。四人乗りの戦車なら十六人、三人乗りの場合は十二人が小隊の人数となります」 まるで教師に問題を解くよう命じられた優等生のような語り口で、亜由美は答えた。曹長は別に起立しろとは言っていないのだが、学生だった頃の癖が残っていたのだろう。彼女が送ってきた学園生活を想像させるには充分な態度である。「模範的な回答だな。特機小隊もこれと同じだ。一個小隊の配備数は四機で、一機あたりの乗員数は最大二人。一人で操縦することも不可能ではないが、身体的な負担を考慮して長時間の単独操縦は非推奨とされている」 鉄道が襲撃されたとき、月子は単独で特機を動かしていた。非推奨といっても禁則事項というほど厳しい制限ではなく、できれば二人で動かしたほうが良いという程度なのだろう。 実際、教育隊のカリキュラムにも単独操縦の訓練が組み込まれている。絶対に行ってはならない事柄なら、わざわざ時間を割いてまで習得させたりしないはずだ。「そういうわけで、合計八人が特機小隊の標準的な員数となる。これくらいは事前に知っておいて欲しかったが……戦線に投入されて十年も経っていない兵器だからな、仕方がないか」 曹長は会議室を端から端まで見渡して、ふむと頷いた。「そろそろ小隊長に同席して頂いた方がいいな。よし、総員起立。これから特機の格納庫へ移動する。そこで小隊長と特機に挨拶だ」「やった!」 先に部屋を出た猪熊曹長と岸田兵長の後を、翔也が嬉しそうに追っていった。感情が顔に出ないよう気をつけてはいるらしいが、誰が見ても喜んでいるのは明らかだ。怜次は他の隊員達から少し遅れて、猪熊曹長に置いていかれない程度の速さで歩いていく。「久我二等兵、ご存知ですか」 亜由美が怜次に身を寄せて、小声で囁く。「長谷川君……長谷川二等兵のことですけど、特機のことをヒーローが乗るものか何かだと勘違いしているみたいなんです。年甲斐もなくはしゃいでいて……」 怜次は内心で首を捻った。これは世に言う告げ口というものか? 不満を述べる亜由美の顔は、言うことを聞かない悪餓鬼に手を焼いているまとめ役の生徒といった雰囲気だ。ここまで見事に委員長気質の性格だと、彼女を頭の中で『委員長』と呼んでいた翔也の気持ちも分かってしまう。 それはそうと、彼女の発言にどんな答えを返せばいいのだろう。適当に同意するべきか、反対意見でも考えてみるべきか。どちらを選んでも角が立つ気がした。「まぁ、確かに特機は凄い外見してるから、分からんでもないが……」 そこまで言って隣に視線を移す。亜由美は不服そうに眉をひそめていた。「……見かけが良くても兵器は兵器だからな。真面目に取り組んでもらわないと」「当然です」 結局、怜次はどっちつかずの返答をするに留まった。 亜由美は線の細い肩を怒らせて、曹長達のすぐ後ろまで早足で掛けていった。本当に、亜由美と翔也達は相性が良くないらしい。 怜次は大雑把な仕草で後頭部を掻いた。当面の間、小隊はこの面子で運営されていくことになる。いわば一蓮托生の共同体なのだ。初日からこんな様子では、これから先を不安に思わないほうが難しい。 格納庫は、会議室のある建物から少し離れたところに建てられていた。 高さ十メートル強、奥行き三十メートル以上はある、白いプレハブ造りの建造物。それが十五棟ほど規則正しく並び建っている。まるで工場地域の一画を切り出して、駐屯地の敷地まで持ってきたかのような風景だ。 隊員達は猪熊曹長を先頭にして、格納庫の間を歩いていく。路面は土で薄汚れ、ところどころが浅く陥没していた。 やがて、曹長は真新しいプレハブの前で立ち止まった。「ここが我々の小隊の格納庫だ。他はよその小隊の格納庫だからな。間違えるなよ」 プレハブの外見自体は、他の格納庫と全く同じものだ。同一規格のプレハブを建てているのだろう。しかし外壁の汚れは他より格段に少なく、最近になって新築した建物だということが見て取れる。 屋根の真下まで届く大きなシャッターが、鈍い金属音を立てながらゆっくり上がっていく。地面から一メートル程度の高さまで上昇したころで、一人の男がシャッターを潜ってひょっこりと姿を現した。「ん、全員揃ったのか?」 男は気さくな態度で笑った。 最初に目に付いたのは、豊かな白髪に黒い毛髪がまだらに混ざった模様の頭髪だった。顔付きや身体はかなり若々しいのに、髪のせいで実年齢が分かりにくくなっている。一見すると、男はスラックスにワイシャツという極めてラフな服装をしているようにも見える。だがよく見れば、男が肩に掛けている上着は陸軍士官の軍服であった。 猪熊曹長がお手本のような敬礼をして、白髪頭の士官に現状を報告する。「中尉。猪熊竜馬以下七名、全員集合致しました」「ご苦労さん」 白髪頭の中尉は猪熊曹長を労うと、新人達の方を向いた。 その間にも格納庫のシャッターは少しずつ開き続けている。「俺が第三小隊の小隊長、日向虎彦だ。正式な隊の発足は明日付けだが、顔と名前くらいは今のうちに覚えといてくれ」 日向中尉は、猪熊曹長とは正反対の飄々とした態度で、格納庫の前に並んだ新人達に名前と肩書きを名乗った。 そのタイミングを狙っていたかのように、岸田兵長が茶々を入れる。「顔より頭の方が覚えやすいと思いますよ?」「ははは、違いない」 小隊長に対する新人達の反応は十人十色であった。 亜由美は不真面目な態度に閉口している。 翔也は今までの騒々しさがすっかり影を潜め、がちがちに緊張して立ち尽くしている。 そして、月子は今まで見たことがないくらいに真剣な顔つきで、小隊長のことをまっすぐ見据えている。 ふと、怜次は岸田兵長と交わした会話を思い出す。確か兵長は『小隊長は伝説の特機兵って呼ばれるくらいの凄腕』だと言っていた。 それが誇張でないとしたら、この気さくな青年が『伝説の特機兵』なのだろうか。 確かに日向中尉の肉体は無駄なく引き締まっている。しかし、まさしく歴戦の兵士といった風体の猪熊曹長とは違い、優男という表現がしっくりくる容姿である。 巨大なシャッターが全開になる。がしゃんという音を立て、シャッターの巻き上げが停止する。日向中尉は不敵な笑みを浮かべて、格納庫の照明スイッチに手を掛けた。「さて、せっかくここまで来たんだ。自分達が乗る機体くらい確認しておきたいだろ?」 スイッチが入り、格納庫の照明が一斉に点灯した。 殺風景な格納庫の内装が次々と照らされていく。巨大なクレーン。二階通路を繋ぐ空中の渡り廊下。唸りを上げる発電機。山と詰まれた大型コンテナの数々。 それらに囲まれて、人造の巨兵が静かに立っていた。 頭までの高さは三メートルから四メートル。脚の付け根までの高さだけで人間の身長に匹敵する。胸部は前後に張り出し、強靭な足腰と上半身を柔軟な腰部が連結している。金属繊維で編まれた筋肉を合成皮膜で包み、グレーの外装で装甲した巨大なヒトガタ。 月子が乗っていた機体と同型だが、まだ迷彩塗装を施されておらず、武装も未搭載だ。他に違いがあるとすれば、頭部周辺のアンテナ類が大幅に増設されているくらいだろうか。「正式名称、三式特殊駆動機械。通称『三式特機』――当分の間、お前達が世話になる機体だ。しっかり挨拶しておけ」 日向中尉は特機の爪先に腰を下ろしてそう言った。先ほど、顔と名前くらいは覚えてくれと言っていたが、別にそんな心配をする必要はないだろう。 こんなに印象の強い人なのだ。覚えないほうが難しいに決まっている。 二〇一一年 十月一日 津ノ井駐屯地 司令官執務室 第三特機群群長、天野大佐はデスクの椅子に深々と腰を降ろし、四十歳という年齢を感じさせない眼光で、整列した若い部下達を見渡した。駐屯地の司令官は、その駐屯地に配備されている部隊の隊長の中で最も階級の高い者が兼任する。津ノ井駐屯地の場合は第三特機群の群長がこれに該当していた。「予定通り、特機群隷下の五個中隊に小隊を一個ずつ新設することができた。これも諸君らの尽力があってこそだ」 天野大佐は型通りの言葉で部下を労った。 司令室に集まっているのは、七月一日付けで新設された特機小隊の小隊長達だ。階級は少尉か中尉のどちらかで、五人全員が二十代前半から二十代半ばまでの年齢層に収まっている。軍人としては若手と呼ばれる年齢の者ばかりである。「諸君らには、これから小隊長として新設小隊を率いてもらうことになる」 大佐は椅子から立ち上がると、壁に貼り付けられた東アジア地区の地図を示した。敵勢力地域を示す赤いマーカーが、大陸沿岸部を中心に、陸地の二割から三割の面積を制圧している。その一方で、日本列島を始めとした島嶼地域には殆ど赤マーカーが乗っていない。 天野大佐は地図の枠外に除けられていた赤マーカーを一つ取ると、マレー半島の南端に配置した。「五時間前に入った情報だ。シンガポールにまとまった戦力を持った敵勢力が上陸した。即座に排除したものの、軍事関連の港湾施設が多大な損害を被ったらしい。この結果、諸君はどう見る?」 小隊長達は僅かにざわついたが、すぐに冷静な分析を開始した。「マラッカ海峡を守る戦力が一次的に低下して、石油タンカーの運行が滞る危険が考えられますね。日本が輸入している原油の殆どはあそこを通りますから、海上交通の停滞は大きな打撃になります」「そこを通っているのは石油タンカーだけではない。他の物資にも影響がある」「金属資源の輸入が途絶えれば大変なことになるな」 天野大佐は小隊長達の議論に耳を傾け、大きく頷いた。大佐が何かを話そうとしていると察し、小隊長達はすぐに静かになった。「金属食性異星生物――いわゆるグレムリンとの戦いは今も世界規模で続いている。今日、我が国に資源を輸出している国が、明日も同じように輸出を存続しているという保証はどこにもない。そうでなくとも、他国への輸出に回す余裕がなくなるかも知れん」 一旦そこで言葉を切る。天野大佐は小隊長の顔をひとりひとり順番に見据え、充分な間を置いてから改めて口を開いた。「故に、今後の戦いでは特機が重要となるのだ。諸君らが育てる新設部隊もまた、将来の防衛戦線を支える大切な柱となることだろう。そのことを肝に銘じて、部隊運営に臨んでもらいたい。私からは以上だ」 そして、天野大佐は解散を命じた。小隊長達は頭を軽く下げ、順番に退室していく。 自衛隊とその後継組織たる自衛軍では、額に手をかざす形の敬礼は帽子を被っているときにしか行わない。脱帽時の敬礼は文字通り『礼』となる。「――ああ、日向中尉は残ってくれ」 天野大佐に呼び止められ、虎彦は足を止めた。他の四人が執務室を出ていったのを見届けてから、執務用のデスクの前へ戻る。「君の小隊には、特別採用の年少兵が割り当てられていたな」「はい。それが何か」 虎彦は無感情な声で答えた。 割り当てられているというよりは、それしか割り当てられていないという方が正確である。配属された新兵五人のうち実に四人が年少兵なのだから、普通の新兵こそが少数派だ。それどころか小隊の半分が年少兵という勘定になる。 こんな異様極まりない編成の部隊は、新設された五個小隊の中でも虎彦の隊だけである。 天野大佐は蛇のような眼差しで虎彦を見据えている。痩せ気味の顔の中で、無機質で切れ長の眼球だけが爛々としている様は、まるで人の形をした爬虫類と向かい合っているかのような感想を抱かせる。「第三小隊に配属された黒河内二等兵……決して彼女を戦死させてはならない」「それは命令でありますか」 努めて無表情を維持したまま、虎彦は問い返す。「厳命だと言っておこう。私よりも上の権限からの要請だ」 大佐も無機質な表情を崩そうとしない。表情筋がこれ以外の形を作れないのではと思ってしまうほどだ。「拝命します」 虎彦は素直に要請を受け入れた。ここで問答をしたところで何の意味もない。天野大佐は上からの要請を伝えたに過ぎず、また大佐自身にも拒否権などなかったに違いない。 どこからの要請なのかは凡そ検討がつくが、つくづく無意味な要請をしたものだ。部下を死なせたがる上官などいるわけがなく、そう願っていても死んでしまうときには死んでしまう。配属された後になって、戦死させるなという圧力を掛けるくらいなら、最初から特機部隊に配属させない方向で圧力を掛ければよかったのだ。 更に言えば、自衛軍に入隊させたこと自体が理屈に合っていない。 天野大佐は一冊の書類を虎彦の方へと滑らせた。「君の部隊に配備される予定の新型特機、一〇式の仕様書だ。後で目を通しておきたまえ。現在、追加改良のため製造に遅れがみられるが、半年以内には定数を揃えられるだろう。それまでは三式を継続して運用するように」 虎彦は書類を受け取り、一枚目をめくってみた。そこには、三式よりも洗練されたフォルムの設計図が描かれていた。新型機の配備が半年以内。その間に何も起こらなければいいが――虎彦は内心の不安を隠したまま、新型機の仕様書を受け取った。 そのとき、執務室の扉が軽くノックされた。「空木です」「おお、君か。入りたまえ」 現れたのはスカートスーツに身を包んだ妙齢の女だった。軍人という雰囲気ではないが、化粧が薄くやたらと愛想のないその表情は、軍需製品を売り込みにきたセールスレディとも思えない。 女は無関心に虎彦を一瞥したが、すぐにもう一度顔を向け、目を丸くした。「驚いた。まさか、あの日向少尉か?」「今は中尉だ、空木技官」 天野大佐が訂正を入れる。「なるほど、昇進されたのか。大佐殿、彼と少々話がしたいのですが、お借りしてもよろしいでしょうか」「構わんよ。こちらの話は済んだばかりだ」 どうやら本人の意思が介在する余地はないようだ。虎彦は大佐に屋内式の敬礼をし、空木という技官の後に続いて廊下へ出た。 司令官執務室から少し離れたところで、空木は虎彦に向き直った。「私は技術研究本部、陸上装備研究所の空木都子。お会いできて光栄だ、日向中尉。神奈川へ帰る前に大佐殿に挨拶をしようと思ったら、とんだ有名人に出会えたものだ」 そう言って、空木は握手を求めてきた。虎彦はそれに応じながらも、空木のことをさりげなく観察した。 技術研究本部――通称『技本』は防衛省の下部組織で、自衛軍の装備品全般の研究開発を行う組織である。単に『技官』と呼ばれていたので、軍人ではないらしい。軍人と技官を兼務している場合は特別な階級名で呼ばれるのだ。 技本の職員が一地方の駐屯地を直接訪れるのはかなり珍しい。それこそ珍客の部類に入るくらいだろう。「はじめまして、でいいのかな。空木技官」「ああ。私が一方的に知っているだけだからな。というより、私の同業者で『日向少尉』のことを知らない者はまずいないよ」 昇進前の階級をあえて使うのは、虎彦が少尉だった頃の行為が有名なのだという意味を込めているのだろう。となると、理由は一つしか思い浮かばない。 空木は虎彦が手にしている書類に目を落とした。冷徹な美貌に喜色が浮かぶ。「中尉に昇進したということは、一〇式の小隊を指揮するのか?」「予定上では。今のところは、練習用の三式しか届いていないけどな」 それを聞いて、空木は自嘲気味に髪を掻き揚げる。「とんだご迷惑をおかけしているようだ。メーカーには性能に妥協しない方針で生産させていたのだが、現場に行き渡るのが遅れては元も子もない。開発メンバーの一員として切にお詫び申し上げる」 なるほど、と虎彦は内心で納得した。空木技官は一〇式開発のプロジェクトチームの構成員で、一〇式に関する用件で駐屯地に来訪していたということだ。そんな相手と遭遇できたのは随分と気前のいい偶然だといえるだろう。「お詫びといってはなんだが、一個小隊分計四機、耳を揃えて五週間後にはお届けできることを約束しよう。十一月第二週には新たな特機への移行訓練を始められるはずだ」「そいつは有り難いが、こんなところで安請け合いしてもいいのか?」「なぁに、うちの業界には君のファンが多いんだ。なにせ上海から特機を連れ帰ってきたのは君だけだからな。多少の贔屓くらいできるさ」 やはりあのことか。虎彦は押し黙り、睨むように目を細めた。忘れたくとも忘れられない出来事。地獄の縁を覗いた瞬間。あれを評価し、あまつさえ感謝すらできるのは、最前線と無縁に生きてきた人間に違いあるまい。「怖い顔だ。しかし我々が君に感謝しているのは本当だよ」 薄い口紅で彩られた唇が、にやりと歪む。「地獄の上海戦役。自衛軍結成以来、空前絶後の大敗。君があの戦地から持ち帰った機体は、我々にとって何物にも代えがたい貴重なサンプルだったよ。おかげで一〇式に更なる改良を加えることができたんだからね」 そして、空木は笑った。
二〇一一年 十月六日 島根県奥出雲町 猿政山周辺部 まさしく日本の山というべき風景を眺めながら、怜次は嘆息した。山肌に沿って続く日当たりの良い林道からは、中国山地を構成する山々をぐるりと一望することができた。十月の彩りに染まった木々と青空のコントラストは、まさに絶景と呼ぶに相応しい。 大きく息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気が胸を満たしていく。空気が美味しいという表現は、決して比喩ではなかったらしい。都会では決して体験できない贅沢な味わいだ。 見事な展望に澄み渡った空気。休暇で訪れるには最高の環境に違いない。 惜しむらくは、怜次がここを訪れた理由が休暇ではないことである。「久我さん。小休止はそろそろ切り上げよう」 月子が相変わらずの口調で呼びかけてきた。 怜次は溜息を吐いた。今度は感動を込めた嘆息ではなく、疲労感がたっぷりと詰まった溜息である。「……そんなに急がなくてもいいだろ。時間はたっぷり余裕があるぞ」 愚痴りながらも、声のした方へ向き直る。 登山客の団体が余裕を持って通過できる道幅の林道に、迷彩塗装の特機がしゃがみこんでいる。第三小隊の三号機だ。張り出した胸部を下に、箱を背負ったような背部を上に傾けているので、窮屈な体勢で片膝を抱えているようにも見える。 右腕には三五ミリ機関砲を装備し、背部左寄りには機関砲の弾装を背負っている。いわゆる標準戦闘装備という兵装である。 月子はその足元に座って地図を広げていた。 近くへ来いと手振りで示されたので、怜次は月子の正面に腰を下ろした。「にしても、まさかこんなに早く出撃させられるなんてな。小隊の編成が一日で、今日が六日だから、まだ五日しか経ってないってのに」 怜次と月子は揃いの戦闘服に身を包んでいる。二人が初めて出会ったときに月子が着ていた装備と同じものだ。どちらの戦闘服も陸戦用の迷彩服と対G装備を組み合わせたようなデザインで、それぞれにサイズ以外の違いはない。 それに加え、月子は例の皮手袋を両手に嵌めていた。「特機兵は常に不足しているそうだ。私なんか小隊発足より前から駆り出されたくらいだよ。考えようによっては、気軽な実地訓練と言えなくもないさ」「……確かに、下手すりゃ待機してる間に作戦終了ってことも有り得るしな」 怜次達が猿政山を訪れた理由。それは、第三小隊に下された任務のためである。 特機部隊は各方面隊に一個もしくは二個ずつ配置されており、中部方面隊の場合は第二特機群と第三特機群が該当する。 中部方面隊の管轄は岐阜富山愛知の三県から山口までの西日本と四国であり、第二特機群は中部地方西部と近畿地方を、第三特機群は中国地方と四国をそれぞれ担当している。 つまり、島根県と広島県の県境で特機部隊が必要となった場合、怜次達の所属する第三特機群から部隊が派遣されることになるのだ。「再出発の前に、今後の行動指針を確認しておこうか」 月子は膝の上に地図を広げた。地図上には、猿政山の周りの計八箇所に赤インクで印が付けられている。「私達の待機地点はここだ。現在位置はそこだから、林道をもう少し登れば到着する」「それで、歩兵大隊からの連絡を受け次第、攻撃に移る。だろ? 日向中尉と岸田兵長の一番機の待機地点はその赤丸で、向こうの四つは第二小隊の場所、と」 任務の内容自体は出撃前に何度も確認している。しかし、いざというときに思い出せなければ何の意味もない。だからこそ、こうして何度も確認することが大切なのだ。 怜次は自分が新兵に過ぎないことを自覚している。それ故に、当たり前としか思えないことでも繰り返し確認するようにしていた。きっと月子も同じ考えなのだろう。 例えば地図に記された印の意味。月子が指で示した待機地点には、赤い丸印と、算用数字で一‐三‐三という書き込みが記されている。これは第一中隊第三小隊三番機の待機場所を示す印という意味だ。この任務には第一中隊第二小隊も参加しているので、印は全部で八つ記入されている。 いざ戦闘となったときに、この読み方を間違えれば悲惨な事態になる。馬鹿らしいと思われるかもしれないが、混乱した人間は馬鹿らしい間違いを平気で犯してしまう。それが新兵であれば尚更だ。「私が先週参加した任務と似たようなものだな。巣を潰されて『はぐれ』になったグレムリンを歩兵部隊が追い立て、先回りした特機でトドメを刺す。典型的な山狩りだよ」「あのときは先回りできずに列車がお釈迦になってたぞ?」「それは……歩兵部隊が追い込みに失敗したからであってだな。私は精一杯やったんだ」 怜次が茶々を入れると、月子は不愉快そうに眉をひそめた。これ以上からかうと本気で反論してきそうだったので、怜次は話題を戻すことにした。「それはそうと、この山の近くで目撃されたっていうグレムリンは、二ヶ月前に壊滅に成功したっていう巣の生き残りで間違いないのか?」「恐らくはそうだろうと推測されている。巣のあった赤名峠からここまでは二十キロ程度しか離れていない。それに、中国地方で他の巣が発見されたという報告もない。この前みたいに単独で百六十キロも逃走するのは珍しい事例だ」 先週グレムリンが鉄道を襲った場所は、鳥取県の北東の隅に位置する。一方、そのグレムリンの巣があったとされる赤名峠は、島根県中部の県境にある。 首都圏を例に挙げれば、東京都の都心から静岡県静岡市までの距離に近い。 下っ端のグレムリンが単独でこんなに移動するのはかなりのレアケースである。「例外的に『女王』が群れを率いて移動する場合は、何千キロだろうと平気で移動するらしいけど、赤名峠の巣穴は『女王』も仕留められてるから……いや、これは関係ないか」 月子は地図を折り畳んで立ち上がった。ついでにズボンの砂を払ってから、しゃがんだままの三号機の胸部装甲に手を掛ける。 外部からのレバー操作で内蔵モーターが作動し、張り出した胸部の前面装甲が開いていく。開閉時には下半身に近い側が軸となるので、必然的に装甲の一部が地面と接触して、地表を浅く掘り返す。 開閉する側の装甲の内側にはちょっとしたステップが設けられており、通常はこれを使って乗り降りすることになっている。月子のように平然と飛び降りるほうが少数派なのだ。「ここまでは久我さんが操縦だったから、今度は私が動かすよ」 そう言って、月子は怜次に手招きをした。「……お言葉に甘えるかな。操縦頼んだ」 先ほど、怜次が疲労感の篭った溜息を吐いていた理由がそれだ。特機の操縦は見た目以上に心身の疲労を招く。まして不整地を行軍するとなれば、単に平地を移動するよりも何割増も疲れてしまう。 まず怜次は上半身を操縦席の乗降口に入れて、前部座席の背もたれを手前に倒した。次に、両手と膝を使って後部座席のところまで移動する。そして、座席の上で身を捩って着席し、ベルトで身体を固定する。これが特機の後部座席への搭乗手順だ。「搭乗完了っと。黒河内、もういいぞ」「了解」 月子は倒された背もたれを元に戻し、そこに腰を下ろした。前部座席は後部座席よりも乗りやすくなっている。それでも天井が低く幅が狭いことに変わりはなく、月子が簡単に乗り込めるのは、歳相応の少女らしい小柄な体格のお陰である。「閉めるよ」 内部からのレバー操作によって、開放されていた胸部装甲がゆっくり閉まっていく。それが完全に閉じきった頃には、操縦席を深い暗闇が覆い尽くしていた。 特機の操縦席は凄まじく狭い。文字通り、座った状態の人間が辛うじて納まるくらいの高さしかなく、奥行きも座席二つ分しかない。積載機器も必要最小限に留まっており、操縦席の左右に通信機や各種計器が取り付けられている程度だ。 月子は薄手のベルトを首に巻いて、手元のボタンを押した。そのベルトは細い配線の束で操縦席と連結していた。まるで月子と機体を繋ぐ神経節のように。「っ――神経系インタフェース、接続完了」 狭い操縦席に搭載可能な機器で、人型という複雑な機構を制御する手段。それがこの神経系インタフェースという技術だ。 この技術は、医療方面でも頭で思い浮かべた通りに動く義手などの研究に用いられている。これにより、特機の操縦士は肉体の延長のように特機の四肢を動かすことができるようになるのである。 月子が始動ボタンを押しながら足元のペダルを踏み込む。まもなく充電器が動き始め、操縦席のコンソールが次々と起動していく。機体の下部で燃料槽のポンプが作動し、鈍い鼓動を立てながら、金属製の筋肉繊維に動力溶液を行き渡らせる。「筋動力安定。平衡調整完了。……三式、起動確認」 機動シークエンスを済ませてから、月子は座席越しに振り返った。後部座席の方が僅かに高い位置にあるため、軽く見上げるような眼差しになっている。「久我さんもインタフェースを付けておいてくれ。何かあったらいけないから」「ん、分かった」 怜次は座席の脇から神経系インタフェースのベルトを引っ張り出し、月子と同じように首に巻いて手元の接続ボタンを押した。ヴン、というスイッチが入るような幻聴の後で、身体の感覚が延長された錯覚が訪れる。 事故などで四肢を失ったとき、稀に失くした手足の感覚が残り続ける『幻肢痛』という症状が起こるという話を聞く。この場合は、最初からありもしない手足の感覚が新たに生じるようなものだ。 今は機体全てのコントロールを前部座席に預けているので、その錯覚も大して強くはない。だが、前部座席に座っていたときは身体が二つあるように思えて仕方がなかった。「これって便利だけど、色々疲れるんだよなぁ……」「そうか? 私はあまり気にならないけど」「……慣れるの早いな、おい」 雑談をしている間にも、月子は手早く準備を整えていた。操縦席の左側に折り畳まれていた二本のアームとその先に取り付けられた液晶ディスプレイを正面まで引っ張り出して、右側のもう一対のアームと連結させ、前部座席の正面にしっかりと固定する。 電源を入れると、画面上に外の風景が映し出された。頭部カメラが撮影している映像だ。 三式特機は胸部装甲を開閉させて乗り込む構造のため、前部座席の正面にディスプレイを配置することができない。そのため、わざわざこんな回りくどい手順を踏んでセッティングする設計になってしまったらしい。「立ち上がるぞ」 計器の淡い光に照らされた前部座席で、月子が独り言のように宣言する。 三号機が曲げていた脚部をゆっくりと伸ばす。 ゆり籠のように傾く操縦席の中、怜次は通信機のスイッチを入れた。「こちら一‐三‐三。小休止を終了。これより待機地点へ向かいます」 少しばかりの間を置いて、耳に馴染んだ感のある岸田兵長の声が返ってくる。『りょーかい。変に緊張しちゃダメだからね。隊長機はすぐ近くにいるから、何かあったら頼りなさいよ』「何も無いことを祈ります」 通信を終え、怜次は深く息を吐いた。どうにも気分が重たい。胸の奥に鉛の塊が入っているかのようだ。 認めたくないことだが、自分は緊張しているのだろう。 三号機が歩き出す。機体の幅よりも多少広い程度の林道を、一歩ずつ前へ進んでいく。すぐ左手は崖に近い角度の急斜面になっている。自分の足で立っているときは風光明媚な絶景ポイントでも、特機に乗っている状態では恐怖の対象にしか感じられない。 もし月子が操作を誤れば、三号機はたちどころに斜面を転げ落ちて無残な残骸に成り果ててしまうだろう。 怜次は心臓の高鳴りを押さえるように。もう一度息を吐き出す。「……ふぅ」「何だ、初めての実戦で緊張してるのか」 前部座席から、からかうような声が投げかけられる。怜次はむっとした表情を浮かべた。確かに図星ではある。しかし、それを三つも年下の少女に指摘されるのはどうしても腹が立ってしまう。「そんなわけないだろ。教育隊の訓練でも実戦には参加してるんだからな」「訓練課程の実戦参加なんてエキストラみたいなものじゃないか。ちなみに私は、これで三回目の出撃だぞ」 月子はどこか自慢げにそう言った。 これで三回目ということは、先週の鉄道襲撃事件より以前に初陣を終えていたということになる。「どうせ最初の出撃は見学同然だったんだろ?」 怜次は妙な対抗意識を覚えてしまっていた。これでは売り言葉に買い言葉だ。もしかしたらすぐにでも戦闘が起こるかもしれないのに、操縦席の中で不和を生じさせるなんて論外もいいところだ。 しかし、月子の反応は以外と素直なものだった。「……まぁね。実は、私も少し緊張してる。こんなに狭い山道を歩くなんて初めてだからね。足を踏み外したらどうなるか、正直想像もしたくないよ」 軽い感じで笑いながらも、月子はディスプレイから顔を離していない。 正面ディスプレイの四分の三には機体前方の風景が映し出され、左下の四分の一には機体左側の足元の様子が表示されている。特機には頭部のカメラ以外にも幾つかのサブカメラが搭載されており、必要に応じてディスプレイの表示を切り替えられるようになっている。 怜次は、ばつの悪さを誤魔化すように頭を掻いた。これでは自分の方が子供みたいではないか。「こういう任務が多いのは仕方がないと思ったほうがいいな。不整地や山道でも移動できるのが特機の強みなんだから」 もっともらしいことを言いながら、怜次は後部座席のディスプレイを準備した。表示するのは機体左側の風景。急斜面の向こうに広がる山々である。 こうして複数の方向を同時に確認できるのも、操縦士が二人いることのメリットだ。 やがて林道は斜面から離れ、機体の両側を木立が取り囲んだ。当分は見通しの悪い状態が続くが、また暫く進めば別の斜面に行き当たるはずだ。「それにしても、まさか黒河内とペアを組まされるとは」「……不満なのか?」 月子は低い声で言い返してきた。「いいや。小隊の男女比が一対一なのに、わざわざ男女で組ませる意味があるのかなって思っただけだよ」 今回の第三小隊の編成は次のような内訳だ。 一号機、つまり小隊長機に日向虎彦中尉と岸田佐代子兵長。 二号機に猪熊竜馬曹長と長谷川翔二等兵。 四号機に上原亜由美二等兵と榊玲奈二等兵。 そして、この三号機には怜次と月子が乗っている。「どうなんだろうね。もしかしたら、くじ引きで決めただけとか」「流石にそこまでいい加減じゃないだろ。岸田兵長ならやりかねないけど、曹長あたりが止めてくれるはずだ」「ああ、それは確かにありそうだね」 任務と関係ない雑談を繰り返す。作戦中に不真面目だと叱られるかもしれないが、こうでもしなければ緊張が解れそうになかった。 少なくとも月子と離している間は、胸の奥に掛かる重みを忘れられる。それだけでも、作戦遂行上の利点があるとは言えないだろうか。 木立を抜け、再び見晴らしが良くなる。 後部座席のディスプレイに紅葉した山々が映し出される。少し前まで見えていた山とは違う風景だ。「久我さん。そろそろ待機地点だから、隊長機に連絡を――」 その瞬間、斜面を挟んだ向かい側の山肌で何かが動いた。 木々の梢が局所的に震動し、不可思議な形の物体が飛び出してくる。「黒河内! 左から来る!」「えっ――――きゃあ!」 『それ』は瞬く間に谷を飛び越え、三号機に激突した。 左側面から凄まじい衝撃が襲い掛かる。 三号機は成す術もなく山肌に叩きつけられた。「くぅ……」 月子が苦悶の声を漏らす。三号機の右半身は山肌の柔らかな土にめり込み、立ち上がることを困難にしていた。機体の四肢に搭載された金属製筋肉が唸りを上げる。それでも三号機が起き上がる気配はない。「どうした、黒河内! 立てないのか?」 ディスプレイから得られる外の情報はまるで役に立っていない。幾らカメラを切り替えても土や空しか映し出されていない。 ガリガリと金属の削れるような音が響く。あまりにも耳障りな雑音で、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。どこから聞こえてくるのか分からないが、まさか四肢に故障でも発生したのだろうか。「違う! 何かに押さえつけられてるんだ!」「何かだって……?」 怜次は次々とディスプレイの表示を切り替える。やがて、機体左側面のカメラの映像が映し出される。 どういうわけか、ディスプレイは真っ暗なままだった。 明らかにおかしい。三号機は右半身を山肌に押し付ける形で倒れている。ならば、左半身に取り付けられたカメラは向かい側の山々を映していなければならないはずだ。 故障か、あるいは――「黒河内! 機体側面に何か張り付いてる!」「やはりか!」 月子は右手のレバーの撃鉄を引いた。 機体右腕の三五ミリ機関砲が轟音を唸らせて回転し、無数の砲弾を吐き散らす。山肌に押し付けられた状態での砲撃だったため、激しい震動と砲弾の衝撃波が山肌の土砂を吹き飛ばして土煙を巻き起こす。 粉塵に追い立てられるように、三号機を押さえ込んでいた『何か』が飛び退いた。それと同時に、金属を削る不快な音も消え失せた。 怜次のディスプレイに光が差す。 後光を背に飛び退き、斜面から突き出した大木にぶら下がった『何か』は、形容しがたい奇怪な形状をしていた。「……っ!」「まさか、あれは……グレムリン?」 怜次は言葉を失い、月子もその正体を断定できないでいる。 その生物は、まるでヒトデのような姿をしていた。 いい加減な比喩ではない。星型をした典型的なヒトデではなく、触手に近い柔軟な腕を持つ類のそれだ。金属質の筋肉で構成された六本の触腕をうねらせ、そのうちの一本を大樹の枝に引っ掛けてぶら下がっている。触腕の先端には一本ずつの鉤爪があり、それを用いて重量を支えているらしい。 触腕の付け根は金属の殻のような装甲で覆われている。恐らくはあそこが胴体に相当するのだろう。胴体の底には黒い穴が開いており、その周囲を鋭い牙が覆っていた。 大きさは、胴体の直径が一メートルほどで、触腕の長さはそれぞれ三メートル前後。触腕を伸ばせば特機など容易く包み込めるに違いない。 怜次はディスプレイに映る異形に視線を奪われながら、一号機への通信回線を開いた。「こちら一‐三‐三、グレムリンと遭遇。繰り返す。こちら一‐三‐三、グレムリンと遭遇。形状は六本腕のヒトデ型。それ以外の情報はまだ何も分かりません」 自分でも驚くほど淡々と報告することが出来た。決して緊張していないわけではない。むしろ、心臓の鼓動が激しすぎて胸が痛むほどに緊迫している。『グレムリン? 嘘でしょ?』 通信越しに聞こえる岸田兵長の声は明らかに動揺していた。「本当です! 今、目の前に……」『そんなはずはないよ! だって……』 食い違う怜次と岸田兵長の会話に、日向中尉の鋭い言葉が割って入った。『いいか、よく聞け! 標的のグレムリンは歩兵部隊が追撃している! お前達の前にいる奴は違う!』 操縦席の空気が凍りつく。 怜次だけでなく月子までもが言葉を失い、思考をフリーズさせた。『それは未確認の標的(アンノウン)だ!』 海星型グレムリンが五本の触腕を同時に振り抜き、大樹の枝を大きくしならせ、その反動で上方へ吹き飛んでいった。「逃走……!」 月子が機体の頭部を動かし、天を仰がせる。誰が見ても逃亡としか思えない行動だ。 メインカメラに映るグレムリンの影はだんだん小さくなり――「違うっ! 黒河内、避けろ!」 ――直滑降で三号機へ襲い掛かった。 六本の触腕を振り乱して風車のように高速回転しながら、真下に位置する三号機目掛けて急降下。強靭な触腕が大気を掻き乱し、操縦席まで響く轟音を撒き散らす。 咄嗟に飛び退こうとする三号機だったが、左脚の反応が僅かに鈍い。「脚がっ……!」 高速で唸る触腕が三号機の左脚を打ち据える。衝撃でバランスを崩され、三号機は林道に膝を突いた。 地面に落下したグレムリンは手近な木に触腕を絡め、瞬く間に梢の間へ姿を消した。「どうしたんだ。やっぱり脚に故障が……」「……今確かめる」 メインカメラが機体の左脚を映し出す。それを見て月子は絶句した。 先ほどの攻撃で刻まれた爪痕の他に、膝関節の付近に刃物で削り取ったような跡が残されている。不調の原因は間違いなくこれだった。 怜次の脳裏に、金属を削る耳障りなガリガリという音と、グレムリンの鋭い牙が重なって浮かび上がる。「喰われてたのか……」 怜次の呟きを聞いて、月子が操縦席の壁を殴りつけた。座席越しにも苛立ち焦っていることが見て取れる。これは不味い状況だ。焦燥感に任せて戦っても、碌なことにならないのは明白である。 冷静になるよう注意しようとした矢先、ディスプレイの隅をグレムリンの陰が過ぎった。 六本の触腕と鉤爪を使って木の幹や枝を掴み、木々の間を滑るように移動していく。「このぉ!」 月子は三号機の右腕を振り向けて三五ミリ機関砲を乱射した。大口径の機関砲弾が枝を吹き飛ばし、樹木に直撃して幹を抉り取る。だが、身軽に動き続けるグレムリンには一発たりとも当たらない。 あのグレムリンにとって、立ち並ぶ樹木は絶え間ない移動のための足場であり、同時に砲弾を防ぐ盾でもあるのだ。「黒河内! 落ち着け! 黒河内ッ!」 操縦席に怜次の叫びが響き渡る。このまま連射し続けても当たるはずがない。一度体勢を整えて、狙いを定められる状況で攻撃しなければ。 海星型のグレムリンは不恰好な車輪のように木々の間を走破し、砂埃を上げて山道を横断。勢いのまま斜面へ飛び出した。 滑り落ちる刹那、二本の触腕が三号機の足首に絡み、鉤爪を突き立てる。「なっ……何!」 三号機が一気に斜面へ引きずり寄せられる。グレムリンが残りの触腕を斜面に突っ張って支えとし、総身の力で三号機を引き落とそうとしているのだ。 月子は機関砲を足元に向けて撃鉄を引いた。無数の砲弾が地面を吹き飛ばし、そのうち数発が触腕を傷つけ破壊する。 千切れた触腕が体液を撒き散らしながら斜面へ引っ込むと同時に、新たな触腕が機関砲の砲身に爪を立てた。「くっ……」 触腕を振り解こうとした結果、機関砲の砲口が斜面から逸れる。 まさにその瞬間、斜面の下からグレムリンが身を躍らせた。「――あ」 回避する猶予すら与えられない。 咄嗟にかざした左腕に、グレムリンの鋭い牙が深々と突き刺さる。 そこから先は目にも留まらぬ早業だった。四本の触腕が三号機の左腕を何重にも締め上げ、肩から先の自由を完全に奪い取った。 間髪入れず、金属を削り砕く不快音が操縦席に反響する。 ――喰われている。三号機の左腕が無残に食い散らされていく。「嫌あああああああああっ!」 絶叫が不快音を塗り潰す。 余りに唐突の出来事に、怜次はその悲鳴が月子のものであると、すぐには理解することができなかった。「黒河内! どうした! おい!」「嫌ああああっ! あああああ!」 怜次は混乱を抑えることができなかった。こんなにも取り乱した月子など見たことがない。これはもう混乱という域ですらない。――――恐慌だ。 左腕に喰らいついたグレムリンの背で眼球が光る。触腕の数と同じ六つの目が、ぎょろりと三号機の頭部を睨みつけている。こんなところに目があったのか――怜次は不思議なくらいの冷静さでそんなことを思った。 ごきり、と関節を喰い折る音がした。 次の瞬間、グレムリンと三号機の左腕に大穴が穿たれる。 亡骸と化したグレムリンが腕から滑り落ちた後には、肘から先を失った左腕が残された。『黒河内! 久我! 無事か!』 通信機から日向中尉の声がしたかと思うと、山道の向こうから一号機が姿を現した。その手には機関砲よりずっと細身の単発砲が握られている。 グレムリンと左腕を穿ったのは、あの火砲から放たれた徹甲弾だったのだろう。 情けない――怜次は心の中で自嘲した。結局、あれこれ叫ぶだけで何も出来なかった。奇跡的な発想や技術で窮地を抜けるなんてことは起こらずに、救援に駆けつけた味方の手によって救われる。泣けてくるほどに現実的な決着だ。「怪我はありません。けど、黒河内が……」「……私なら……大丈夫だ」 途切れ途切れの言葉が聞こえてくる。月子は前部座席の背もたれに体重を預け、力なく項垂れているように見えた。「んなこと言われてもな……」 こちらに意識を向けさせようと、怜次は月子の右腕に手をかけた。「触るなっ!」 悲鳴も同然の叫びと共に、強引に腕を振り解かれる。 怜次が過剰な反応に唖然としていると、月子はハッとした顔で振り返り、気まずそうに視線を伏せた。「……ごめん、久我さん」「いや、俺こそ悪かった。驚かせたりして……」 怒る気にはなれなかった。理由は分からないが、あんなに怯えてしまった直後なのだ。些細なことで過剰に反応しても仕方がない。しかも、こちらを振り返ったときの目は明らかに不安と恐怖に満ちていた。 そんな目を見せられた後で、どんな風に怒ればいいというのだ。「それにしても……」 怜次は自分の右手を見下ろした。ほんの一瞬の出来事だったので、単なる勘違いだったのかもしれない。 だが、これだけは確信できる。 月子の右腕を掴んだときに感じた感触は、当分忘れることができないだろう、と――