病院からの帰り道、車の中には長い沈黙が流れた。助手席で黙ったままの妻(36)に、運転していた夫(33)が言った。「2人でも幸せだし、子供がいなきゃいけないわけじゃない」
06年春。愛知県に住む夫婦は2回子供を授かったが流産し、染色体検査を受けたところ、妻に異常があるとの結果が出たのだ。46本ある染色体の一部が入れ替わる「転座」だった。本人の健康には問題ないが、夫婦の染色体が組み合わさる受精の時に異常が生じ、流産につながることがある。
「離婚に至るケースもあり、検査を受けない夫婦もいます」。検査前、医師はそう説明した。胎児を調べ、妻のほうに異常がある可能性が高いとも示唆されていた。それでも流産の原因が知りたかった。夫も同意した。「離婚したいと言われるかも」。不安を抱きながら待った末に出た結果だった。
染色体異常は治療のすべがない。子供が得られるまで、妊娠・流産を繰り返すしかない。「ほかに方法がないならがんばろう」。妻は心を決めた。最初の妊娠を伝えた時の、夫のうれしそうな顔が忘れられなかった。夫のためにも子供を産みたいと願った。
少しでも早く妊娠しようと不妊治療にも通ったが、思うようにはいかず、焦りが募った。生理が来る度、1人で泣いた。
08年夏、4回目の妊娠がわかった。不安を抱えながら09年春に長男を出産。病院に駆けつけた夫がぎこちない仕草でわが子を抱き、「どっちに似てるかな」と喜ぶ姿に涙が出た。つらかったことがすべて吹き飛んだ気がした。夫の前で泣いたのは、結婚式以来だった。
厚生労働省研究班の報告によると、不育症患者のうち染色体異常があるのは4・6%。異常が見つかった場合の告知について、研究班は「どちらかを特定することは必ずしも夫婦にとって長所につながらない」としている。染色体異常が夫婦のどちらにあるか伝えない医療機関もある。
妻は出産後も、長男が健康に育つか心配だった。首がすわって笑うようになり、身長や体重が標準並みに成長するのを見て、少しずつ気持ちが楽になった。ただ、自分の転座が遺伝している可能性はある。検査を受けるかどうかは、本人の判断にゆだねようと思っている。
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おなかの子供に自分と同じ転座があるのではないか。近畿地方の主婦(36)は3回の流産を経て4回目の妊娠中、不安に駆られた。このままでは、無事に生まれてくるかどうかもわからない。羊水を採取して胎児の異常の有無を調べる検査を受けた。異常が見つかった場合に出産をあきらめるかどうか決心はつかなかったが、検査を受けられる妊娠週数の期限が迫っていた。少しでも不安を打ち消したかった。
転座は遺伝していなかった。やっと普通の妊婦になれたと思った。子供も、自分と同じ苦しみを味わわなくてすむ。今年7月末、長男を出産した。
生まれることができなかった3人の子のことは忘れたくない。食事時は今も、3枚の皿を用意して少しずつご飯を盛り、テーブルに並べる。いずれ長男にも、兄か姉がいたことを伝えるつもりだ。
子供が無事に生まれるまで流産を繰り返すしかない。そんな女性たちの負担を減らすため日本産科婦人科学会(日産婦)は06年、正常な受精卵を選んで子宮に戻す「着床前診断」を転座のある不育症夫婦に認めた。
診断には、精子と卵子を取り出して受精させる体外受精が必要だ。心身の負担は重く必ず妊娠できるものでもないため、着床前診断を勧める医師は多くはない。
岡山大病院は不育症専門外来を設けているが、着床前診断は行っていない。担当する中塚幹也教授は「体外受精の妊娠成功率は30%程度とされ、着床前診断には時間もお金もかかる。染色体異常があっても、自然妊娠で出産できる可能性がある」と話す。
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大阪府の主婦(41)は4回の流産を経験した。夫(41)に転座があるため、受精卵の着床前診断に踏み切った。不育症専門クリニックの担当医は「自然妊娠で出産を目指すのと、成功率は変わらないだろう」と言ったが、出産できる年齢の限界が近づいていることも不安だった。
診断の意味や受け止め方を学ぶ遺伝カウンセリングを夫と受け、日産婦に着床前診断の認可を申請した。手続きが終わるまで数カ月かかった。
体外受精では、まとめて卵子を採るため排卵を促す薬を使う。最初は17個も採取できた。治療がうまくいったようでうれしかったが、その後はつらいことが続いた。
着床前診断で異常のなかった受精卵を子宮に戻したが、妊娠には至らない。クリニックに電話すると「着床しなかったんですか」と驚かれ、傷をえぐられる思いだった。
体外受精のうえ着床前診断すると1回約80万円かかる。2回目は3個、3回目は6個が受精したがすべて染色体に異常が生じた。正常で体内に戻せた受精卵は結局、最初の1個だけだった。
次はどんな手を打てばいいのか--。クリニックから、第三者の精子を使って人工授精してはどうかと勧められた。もう、自分たちの遺伝子では無理なのだろうか。
卵子の採取から診断まで一喜一憂するのに疲れた。この1年間、治療から距離を置いている。主婦は言う。
「流産の喪失感を埋めるには、妊娠するしかないと思ってきた。でも、何もない穏やかな生活もいいのかも」。心は、夫と2人の人生を歩む道に傾いている。=次回は29日
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体外受精によってできた受精卵の遺伝子を調べる技術で、異常がなければ子宮に戻す。「生命の選別につながる」との批判はあるが、日本産科婦人科学会が学会規則に基づき、重い遺伝病に限り認めてきた。拘束力や罰則はなく、法律による規制はない。実施には症例ごとに学会の承認が必要で、今年6月25日現在、229件の申請があり204件が承認された。このうち、不育症患者の承認件数は161件。
毎日新聞 2011年8月26日 東京朝刊