創価学会と日蓮正宗のバトルについて思う所がある。
創価学会は、そもそも日蓮正宗創価学会と言って、富士大石寺の信徒団体だった。
それが、平成3年ごろ、池田大作氏の総講頭罷免をきっかけに、断絶。
平成10年に大石寺から破門され、関係ない団体になった。
しかし、新興宗教である創価学会は、平成10年の破門まではとりあえず日蓮正宗の教義をほぼそのまま信望していた訳で、それまでは、厳密には新興宗教ではなく在家信者団体という仏教徒の集まりだった。
で、最近Youtubeでの創価学会と日蓮正宗のバトルを見て思った。
教義的には、明らかに創価学会の方が負けている。
創価学会側は、自己に都合がいいように教義を解釈してるとしか言いようがない。
なぜなら、富士大石寺は750年もの間、同じ教義をまんまやってきた実績がある。その信者が、信者にだけ都合の良いように教義を解釈し新たに別な宗教を作るのは、法盗人(ほうぬすっと)ではないのかな。
つまり、人の説いた教義を自分に都合よく解釈し、新しい教祖(牧口、戸田、池田の歴代3代会長を永遠の指導者とした)を頂き自分らの方が正しいと日蓮正宗を誹謗中傷してるのは、どう見ても間違ってると思う。
なぜ、そう思うかと言うと、平成3年に池田氏が総講頭を罷免された時に、信者なのだから謝るのが筋。その後お寺側からの沙汰を待ち、新たな代表者を出せば良いだけの事だったからだ。信者と僧が対等と言うのも増上慢。信者は、僧に教えを聞く立場にある。あたかも、信者側が僧よりも教義を知っているかのごとき態度は、信仰に対する冒涜だろう。つまり、己義を構えても誰も咎めるなと言っているようなものだからだ。教義に対する信憑性を保障するのは宗門側であり法主であるのが常識的な仏教の世界だ。
その事を具現化しているのが、ほかならぬ池田氏の師匠である戸田氏、また牧口氏が共に宗門を跳び越した教義の解釈や己義を構えていない事と新御書編纂もまた宗門トップをサポートする形で行い出版している事にも伺える。
本当の第六天の魔王、現代のダイバ・ダッタの破和合僧は池田氏の方のようだ。
池田氏の主張に、教義的正当性はなんら見られないからだ。
彼の本部幹部会での例えばなしは教義からのものは殆ど無く、歴史上の話や、文学者の主観などを当てはめた話しに終始し、教学的確信を得られる核心に触れた事は一度も無い。また、池田氏の話しで教学的に自分の立場や創価学会の立場はなんら立証されておらず、ただ、主観的に大聖人直結と叫んでいるにすぎない。教義の継承すらない信徒団体がなにおかいわんやである。で、信者には信ずる心に血脈があるなどとオカルトなことを言って騙している。
客観的に見て、血脈とは教義の継承権のことと考えられる。この継承が正しく間違いなくされなければ、いつか教義は狂い違うものへと変質してしまう。だから、法主から法主へと1人だけに伝授される形式を宗門はとっているのだと思う。これは、古より伝わる先人の知恵であろう。それをとらまえて、教義の母体である宗門をオカルトなどと呼ばわる言われは信徒団体である創価学会にはないであろう。それをオカルトと言い張るのであれば、それこそ欺瞞でしかない。
分裂後の創価学会は精神分裂状態にある。
教義自体は、日蓮正宗とおおまか変わらず自主プリントした本尊を帰命の対象としながら、日蓮正宗を否定、侮蔑、批判、悪口、憎悪する生活をしているからだ。つまり、彼らは何の教義を信望しているのかわからなくなっている。
日蓮を宗祖としながら、歴代3会長を永遠の指導者とする?教義をパクッているのに、自分たちの方が正しいと信じる?
だから、日々の会合には池田への賛辞はあっても深い教学への掘り下げは一切無い。そして、法論すらまともに出来なくなる。すれば多分負けるし、詭弁に終始することしか出来ない。あとは、感情的に怒鳴るだけ。狂気の沙汰である。
創価学会が放つプロパガンダから目覚めれば、冷静な眼差しで両者を見比べれば、どちらが正論かが解ってくる。
分裂前の教義に造詣があれば、創価学会の主張がいかに欺瞞に満ちたものか本来わかるのだ。
しかし、私はどちらにももう戻る気はない。
信仰は、強制されるものではないからだ。
自分の信仰心にまかせて、大石寺へ行きたければ行くし、教義も勉強する。またご供養もする。
信仰は、本来自分の己心の精神世界で深化していくものであり、そこから派生する求道心が宗教施設へ行く事を命じ、精神の安穏をもたらしてくれるべきものだ。
組織に縛られ、命令され、強制されて行動なんてできない。
一心欲見仏 不自惜身命
”一心に仏を見らんと欲して、自ら身命を惜しまず”
人々それぞれに備わる一念三千の仏界を見ようと思えばというか、感じようとおもえば、いや、あると思い込めば(信じれば)、あらゆる人々に仏界を見出せる。この生命尊厳の精神性だけは、仏法が持つ普遍的な人間の心の良心だと思う。
いずれにしても、依法不依人(えほうふえにん)、訳すと、法によって(従う)人によらない(従わない)、さらに訳すと、法(経文)に従って、人(人師)には従わない、事がお釈迦さんが涅槃に言い残した仏法の掟。
日蓮正宗に当てはめれば、”御書によって、人によらざれ”なのである。
その意味では、血脈相承は御書にもあることであり、正宗の方が正しい。否定する事は日蓮を否定する事に等しい。
だから、創価学会は、完全無欠のただの新興宗教に堕ちてしまった。世界最高の仏法の相伝者ではなく、教義パクリ教団でしかなく、信者団体の長を教祖に変えた狂気の沙汰の実践者の集まりで擁護できない。
PS.
今から10年前に本部担当創価班を1年(年に4回着任)経験し、任務は仕事より優先されるとかで、なにがなんでも欠席は許されなかった。しかし、その年最後の3月の任務を私は欠席した。理由は、職場の超繁忙期で係長として会社の仲間を見捨てて創価班の任務を優先する事など出来なかった。後悔はない。
ちなみに、手弁当で本部周辺の警護を担当するが、池田氏はその報いにパンと牛乳で答えてくれた。資産1兆円超と噂される男が、パン牛なのだよ諸君。それから、日顕上人を金の亡者と散々罵っていたくせに、森田理事長は2000万はするベンツのリムジン(防弾ガラス仕様)で本部会館に運転手つきで乗りつけたのだよ。政治家か大企業の重役か?その時見た光景は創価学会の詭弁の真実を曝け出していた。
で、俺たちはあくまで、パン牛だ。馬鹿にしやがって。
創価学会は、そもそも日蓮正宗創価学会と言って、富士大石寺の信徒団体だった。
それが、平成3年ごろ、池田大作氏の総講頭罷免をきっかけに、断絶。
平成10年に大石寺から破門され、関係ない団体になった。
しかし、新興宗教である創価学会は、平成10年の破門まではとりあえず日蓮正宗の教義をほぼそのまま信望していた訳で、それまでは、厳密には新興宗教ではなく在家信者団体という仏教徒の集まりだった。
で、最近Youtubeでの創価学会と日蓮正宗のバトルを見て思った。
教義的には、明らかに創価学会の方が負けている。
創価学会側は、自己に都合がいいように教義を解釈してるとしか言いようがない。
なぜなら、富士大石寺は750年もの間、同じ教義をまんまやってきた実績がある。その信者が、信者にだけ都合の良いように教義を解釈し新たに別な宗教を作るのは、法盗人(ほうぬすっと)ではないのかな。
つまり、人の説いた教義を自分に都合よく解釈し、新しい教祖(牧口、戸田、池田の歴代3代会長を永遠の指導者とした)を頂き自分らの方が正しいと日蓮正宗を誹謗中傷してるのは、どう見ても間違ってると思う。
なぜ、そう思うかと言うと、平成3年に池田氏が総講頭を罷免された時に、信者なのだから謝るのが筋。その後お寺側からの沙汰を待ち、新たな代表者を出せば良いだけの事だったからだ。信者と僧が対等と言うのも増上慢。信者は、僧に教えを聞く立場にある。あたかも、信者側が僧よりも教義を知っているかのごとき態度は、信仰に対する冒涜だろう。つまり、己義を構えても誰も咎めるなと言っているようなものだからだ。教義に対する信憑性を保障するのは宗門側であり法主であるのが常識的な仏教の世界だ。
その事を具現化しているのが、ほかならぬ池田氏の師匠である戸田氏、また牧口氏が共に宗門を跳び越した教義の解釈や己義を構えていない事と新御書編纂もまた宗門トップをサポートする形で行い出版している事にも伺える。
本当の第六天の魔王、現代のダイバ・ダッタの破和合僧は池田氏の方のようだ。
池田氏の主張に、教義的正当性はなんら見られないからだ。
彼の本部幹部会での例えばなしは教義からのものは殆ど無く、歴史上の話や、文学者の主観などを当てはめた話しに終始し、教学的確信を得られる核心に触れた事は一度も無い。また、池田氏の話しで教学的に自分の立場や創価学会の立場はなんら立証されておらず、ただ、主観的に大聖人直結と叫んでいるにすぎない。教義の継承すらない信徒団体がなにおかいわんやである。で、信者には信ずる心に血脈があるなどとオカルトなことを言って騙している。
客観的に見て、血脈とは教義の継承権のことと考えられる。この継承が正しく間違いなくされなければ、いつか教義は狂い違うものへと変質してしまう。だから、法主から法主へと1人だけに伝授される形式を宗門はとっているのだと思う。これは、古より伝わる先人の知恵であろう。それをとらまえて、教義の母体である宗門をオカルトなどと呼ばわる言われは信徒団体である創価学会にはないであろう。それをオカルトと言い張るのであれば、それこそ欺瞞でしかない。
分裂後の創価学会は精神分裂状態にある。
教義自体は、日蓮正宗とおおまか変わらず自主プリントした本尊を帰命の対象としながら、日蓮正宗を否定、侮蔑、批判、悪口、憎悪する生活をしているからだ。つまり、彼らは何の教義を信望しているのかわからなくなっている。
日蓮を宗祖としながら、歴代3会長を永遠の指導者とする?教義をパクッているのに、自分たちの方が正しいと信じる?
だから、日々の会合には池田への賛辞はあっても深い教学への掘り下げは一切無い。そして、法論すらまともに出来なくなる。すれば多分負けるし、詭弁に終始することしか出来ない。あとは、感情的に怒鳴るだけ。狂気の沙汰である。
創価学会が放つプロパガンダから目覚めれば、冷静な眼差しで両者を見比べれば、どちらが正論かが解ってくる。
分裂前の教義に造詣があれば、創価学会の主張がいかに欺瞞に満ちたものか本来わかるのだ。
しかし、私はどちらにももう戻る気はない。
信仰は、強制されるものではないからだ。
自分の信仰心にまかせて、大石寺へ行きたければ行くし、教義も勉強する。またご供養もする。
信仰は、本来自分の己心の精神世界で深化していくものであり、そこから派生する求道心が宗教施設へ行く事を命じ、精神の安穏をもたらしてくれるべきものだ。
組織に縛られ、命令され、強制されて行動なんてできない。
一心欲見仏 不自惜身命
”一心に仏を見らんと欲して、自ら身命を惜しまず”
人々それぞれに備わる一念三千の仏界を見ようと思えばというか、感じようとおもえば、いや、あると思い込めば(信じれば)、あらゆる人々に仏界を見出せる。この生命尊厳の精神性だけは、仏法が持つ普遍的な人間の心の良心だと思う。
いずれにしても、依法不依人(えほうふえにん)、訳すと、法によって(従う)人によらない(従わない)、さらに訳すと、法(経文)に従って、人(人師)には従わない、事がお釈迦さんが涅槃に言い残した仏法の掟。
日蓮正宗に当てはめれば、”御書によって、人によらざれ”なのである。
その意味では、血脈相承は御書にもあることであり、正宗の方が正しい。否定する事は日蓮を否定する事に等しい。
だから、創価学会は、完全無欠のただの新興宗教に堕ちてしまった。世界最高の仏法の相伝者ではなく、教義パクリ教団でしかなく、信者団体の長を教祖に変えた狂気の沙汰の実践者の集まりで擁護できない。
PS.
今から10年前に本部担当創価班を1年(年に4回着任)経験し、任務は仕事より優先されるとかで、なにがなんでも欠席は許されなかった。しかし、その年最後の3月の任務を私は欠席した。理由は、職場の超繁忙期で係長として会社の仲間を見捨てて創価班の任務を優先する事など出来なかった。後悔はない。
ちなみに、手弁当で本部周辺の警護を担当するが、池田氏はその報いにパンと牛乳で答えてくれた。資産1兆円超と噂される男が、パン牛なのだよ諸君。それから、日顕上人を金の亡者と散々罵っていたくせに、森田理事長は2000万はするベンツのリムジン(防弾ガラス仕様)で本部会館に運転手つきで乗りつけたのだよ。政治家か大企業の重役か?その時見た光景は創価学会の詭弁の真実を曝け出していた。
で、俺たちはあくまで、パン牛だ。馬鹿にしやがって。