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(cache) 例  言
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例  言
 本報告書は、以下の研究の平成 17 年度の成果を報告する。研究参加者による調査研究報告、 研究論文、資
料収集整理等の成果を掲載した。
   文部科学省科学研究費補助金特定領域研究(2)
   課題番号   15068212
   領域課題名  「中世考古学の総合的研究−学融合を目指した新領域創成−」
   区   分  空間動態論研究部門計画研究 C01-2
   研究課題名  「北東アジア中世遺跡の考古学的研究」
1.研究組織
   代   表   臼杵 勲(札幌学院大学・人文学部)
   研究分担者   鶴丸俊明(札幌学院大学・人文学部)
           小畑弘己(熊本大学部・文学部)
           白石典之(新潟大学・人文学部)
   海外研究協力者 D.ツェヴェンドルジ(モンゴル科学アカデミー)
           Yu.二キーチン(ロシア科学アカデミー極東支部)
           N.クラーヂン(ロシア科学アカデミー極東支部)
           魏 堅(中国人民大学)
   研究協力者   相馬秀廣(奈良女子大学・文学部)
           村上恭通(愛媛大学・法文学部)
           武田和也(奈良市教育委員会)
           井黒 忍(大谷大学)・文学部)
           三宅俊彦(東洋文庫)
2.研究経費    平成 17 年度  890 万円
3.研究目的
本研究では、北東アジアにおける 10 ∼ 14 世紀ころの社会を、遺跡を中心とした考古資料から明らかにしよ
うとするものである。特に、遼朝を建国した契丹族、金朝を建国した女真族、モンゴル帝国を建てたモンゴル族
の歴史を主要な対象とする。いずれの集団も、世界史的に大きな影響を与えた集団でありながら文献資料が限ら
れるため、その社会の解明に考古資料を活用することが有益である。
また、鉄生産・陶磁器生産など当時の社会を特徴付ける広域的な生産・流通の研究の進展にも考古資料の果
たす役割は大きい。
具体的な研究内容は、ロシア極東・モンゴルにおける主要遺跡の調査(城址、宮殿、生産遺跡等)、中国領内
も含めた遺跡地理情報の取得、遺跡・出土資料(陶磁器・貨幣等)の分析による流通の解明、出土植物遺存体に
よる農業生産の解明、出土文字資料の収集分析による政治・生産体制の解明、北東アジアにおける中世土器編年
の整備、GIS やインターネットなどを用いた研究成果の情報化と公開活用の促進である。これらの作業には、考
古学、歴史学、地理学に加え、文化財科学、情報科学との協業が不可欠であり、本特定領域研究の他部門の研究
者と具体的な作業を進めながら学融合を模索していく。さらに地元の研究機関との協力・連携を進めながら研究
の国際化を進める。

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文部科学省科学研究費補助金特定領域研究
中世考古学の総合的研究
空間動態論研究部門計画研究 C01-2
北東アジア中世遺跡の考古学的研究
平成 17 年度研究成果報告書
目  次
平成 17 年度の活動概要・・・・・・・1
報 告 編・・・・・・・・・・・・・3 
    ロシア沿海地方金・東夏代遺跡の調査      木山克彦・布施和洋            4
    モンゴル国ヘンティ県アウラガ遺跡の調査    白石典之                 17
    内蒙古自治区契丹・遼代遺跡の調査       武田和哉・高橋学而・藤原崇人・澤本光弘  21
   
論 考 編・・・・・・・・・・・・・31
    アムール女真文化の土器に関する基礎的整理と編年について      木山克彦       32
    耶懶と耶懶水―ロシア沿海地方の歴史的地名比定に向けて―      井黒忍        50

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平成17年度の活動概要
1.大規模遺跡調査法の検討
対象とする都城・城郭等の大規模遺跡の効率的調査方法の確立のため、平成 15・16 年度より、GPS を用い
た位置測定、森林調査・環境調査等で用いられる測量法を応用した調査法を検討し、レーザーレンジファイン
ダー・電子コンパスを併用したコンパス測量を試行した。17 年度は、位置測定の精度を高めるために、GPS に
よる位置測定の精度改善、コンパス測量の誤差の改善を図った。GPS 精度の改善には、後処理によるディファ
レンシャル補正法を試用した。これは、海外調査では補正情報をリアルタイムで取得することが難しいためであ
る。そのため、長時間連続計測による基準点の設置、基準局と移動局双方での同時測定、後処理補正という流れ
で GPS の精度向上と全体的なゆがみの調整を図った。使用したソフトウェアは Trimble 社のデータ取得ソフト
Terrasync2.51 と後処理補正ソフト Pathfinder Office3.10 である。国内において、リアルタイム補正、長時間
連続計測、仮基準局による補正を同地点で行い、比較を試みた。まだ試験的段階であるが、仮基準局による補正
は GPS の単独測位のみのものと比較した場合、全体的に個々の取得点のずれが緩和されるなど明らかな効果が
認められた。さらに、コンパス測量の際の角度誤差によるゆがみの補正のため、閉合を用いた周囲測量法の試行
を開始した。以上の改善点については、次年度以降、現地調査でのさらなる運用を行いながら、より効果的な活
用法を検討していく予定である。
2.GIS 構築に向けた資料収集と整理
 上記の測量成果などを活用するため、関連する旧ソ連製地形図・モンゴル国土地理院発行製地形図、米国地質
調査所(USGS)の提供する全世界高度情報(SRTM・DEM)、ロシア科学アカデミー極東支部歴史考古民族研
究所所蔵図面などの収集とデジタル化を継続した。また、モンゴル・ロシア・中国領内遺跡の、書籍等で公表さ
れている図面・写真を収集した。一部については、GIS 上で展開させるため、現地調査の際に GPS による位置
測定を実施した。さらに、今年度は CORONA 衛星画像から、スキャニングによる各地の土城データの取り込
みを行った。中国領内については、書籍等にある地名・データから遺跡の位置を割り出し、さらに今年度より一
般公開されている『Google Earth』により遺跡保存状況・位置・方位の確認を行い、位置情報を取得した。
さらに昨年度から作成を継続している「出土官印データベース」の情報を用いて、出土地点の記載から緯度・
経度を算出し位置情報を与え、GIS 上への展開が可能な形にした。
以上の情報の一部は、「北東アジア主要遺跡地図」としてグロ−バルベース上での閲覧が可能な形とするため
に総括班へデータ提供を行った。
3.ArcView を用いた中世城郭 GIS の 作成
 以上の収集データを用いて、実際に ESRI 社 ArcView による作業を進め、収集資料を組み合わせたデジタル
マップ作成を行っている。平成 17 年度は、ロシア沿海地方の金・東夏代土城分布図、中国領内を含めた北東ア
ジア全体の遼金元土城分布図の作成を開始した。この作業には、調査報告・出版物・地図などで地籍・地形等が
公表されている城址を、『Google Earth』による衛星画像で位置の確認を行いながら進めている。官印データベ
ースの GIS 化に関連しては、城郭情報との重ね合わせのため、グローバルベースとは別に独自で GIS 上での展
開を進めた。また城址の遺構については、平面図や衛星航空写真を UTM 座標上にのるように、GIS 上で調整を
行った。
4.現地調査の概要
モンゴルでは、7 月にアウラガ遺跡の周辺の地形調査、次年度に計画しているモンゴル国内の契丹州県城調査
のため、ブルハン県内において予備調査を行い、チントルゴイ城址、ウラーンヘレム城址等を視察した。なお、
契丹遺跡調査には、日本における中世城郭との比較のため、総括班前川要、A01-1 班千田嘉博も参加した。8月に、
継続中のアウラガ遺跡の発掘調査を実施した。今年度は鉄工房推定地域と地形の検討により存在が想定された水
路部分の発掘調査を行った。

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さらに、8月に中国内蒙古自治区赤峰市管内において、契丹都城の位置測定、墓誌・碑文等の実見調査と資
料化を行った。
10 月 13 ∼ 27 日に、ロシア沿海地方において、大規模調査法の検討を行いながら、金・東夏代城郭遺跡の広
域調査を進めた。イマン川流域ではノヴォパクロフカ城址の詳細測量を完了した。また、沿海地方北部の沿岸部
において土城の確認と位置測定を行った。
5.出土資料等の検討
遼・金・東夏・元代遺跡についてロシア・中国の出土官印の情報の収集とデータベース化を進めている。また、
今年度は流通の実態の解明のために、ロシア科学アカデミー極東支部の所蔵資料の出土銭貨に関する情報収集を
行った。また、中国東北部銭貨に関して公開されている資料収集と分析に着手し、中国東北部と華北地域の比較
を行った。また、北東アジア中世土器の広域編年作業も継続して行っている。
6.海外との連携
 今年度は、ロシア国立極東工科大学と研究協力の協定を正式に締結した。また、モンゴル国立歴史博物館とも、
契丹遺跡調査に関する協力関係を構築した。モンゴル科学アカデミー考古学研究所ツォクトバートル氏を、平成
17 年 12 月に招聘し、調査に関する打ち合わせを行なった。
7.研究成果公開
研究成果は各種の学会・学術雑誌等で随時公開を図っている。本領域関連では、総括班とロシア科学アカデ
ミー極東支部主催のウラヂオストック国際シンポジウム(平成 17 年 5 月 29 日∼ 6 月5日)、A01-3・B01-2・
C01-2 班による公開シンポジウム「中世総合資料学と歴史教育」(8月4・5日)、B01-2 班主催の国際シンポ
ジウム「奴児干永寧寺碑文と中世の東北アジア」(11 月 12 日)において研究成果を発表した。
研究班のホームページ運営も、従来同様に継続している。: http://jinbunweb.sgu.ac.jp/ siberia/
8.その他
シャイガ城址の3DCG の改良を今年度も進めた。平成 17 年度は、城内地形の修正、家屋の修正、製鉄工房
の修正を行った。特に家屋については発掘データの再検討、『松漠紀聞』等の文献資料の記述、ナナイ等の民族
資料などを参考に、壁・屋根などの復元を行った。学融合推進の検討のため、今年度は B02-1 班・B02-2 班の
協力を得て、探査・古地磁気等の調査への活用、出土種子の DNA 解析による農業生産の解明に着手した。また、
北東アジアと日本列島の城郭の比較研究のため、モンゴルにおいて総括班・A01-1 班と共同で予備調査を実施
した。
現地調査
 平成 17 年 7 月 3 日∼ 7 月 10 日
  モンゴル国ヘンティー県アウラガ遺跡の地形調査、ブルガン県契丹代土城の予備調査
 平成 17 年8月7日∼8月 15 日
  中国内蒙古自治区契丹・遼関連遺跡予備調査
 平成 17 年8月
  モンゴル国ヘンティー県アウラガ遺跡発掘調査
 平成 17 年 10 月 13 日∼ 10 月 27 日 
  ロシア連邦沿海地方土城測量・計測調査
会 議
 平成 17 年 12 月 17・18 日:奈良女子大学・龍谷大学
  C01-2 班総合会議 平成 17 年度研究成果の報告と次年度の計画について協議した。

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報 告 編
       ロシア沿海地方金・東夏代城址の調査
       モンゴル国におけるチンギス = カン関連遺跡の調査
       内蒙古自治区赤峰市管内契丹遺跡・文物の調査

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ロシア沿海地方金・東夏代城址の調査
木山克彦・布施和洋
はじめに
 女真族が建国した金(1115 ∼ 1234)とその東北部の版図を引き継いだ東夏(1215 ∼ 1233)代の遺跡は、
中国東北部、ロシア連邦ハバロフスク州、沿海州において数多く確認されている。中でも城郭遺跡は、行政・流
通面で中心的な役割を果たしていたと考えられ、当該期の状況を判断する上で重要な遺跡である。これまでに中
国、ロシアそれぞれで遺跡の踏査・測量・発掘調査が実施されてきた。しかし、主に政治・軍事上の理由から地
形図の利用が困難だったこと、大型遺跡に対する調査密度が低いことも相俟って、位置・地形等の詳細が明らか
でない部分が多く、総合的な研究は今後に残されている状況にある。その為、本研究では、まず金・東夏代の城
址の情報を管理・分析する為の地理情報システム構築を目標として調査を進めた。特にロシア沿海州においては、
2004 年から、金・東夏代の城郭遺跡を対象に、現地踏査・測量を実施し、城址の地理情報の詳細を把握するこ
とに努めてきた。2004 年に実施した調査は、ロシア沿海地方の中央部付近を対象としたものであった。沿海州
全域における当該期の状況を把握する為に、2005 年は、前年から行ってきたノヴォパクロフカ 2 城址の測量と、
沿海地方の日本海側にある城址を中心に調査を実施することとした。以下、2005年の現地踏査の結果を報告する。
現地調査は、10 月 13 日∼ 27 日に行った。調査参加者は以下の通りである。
 日本側参加者;臼杵勲(札幌学院大学人文学部助教授)、小畑弘己(熊本大学文学部助教授)、木山克彦(北海
道大学大学院生)、布施和洋(同前)、中澤寛将(中央大学大学院生)。
 ロシア側参加者;Yu.G. ニキーチン、N.N. クラーヂン、(ロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考
古・民族学研究所)。
  
1.調査の経過
10 月 13 日 臼杵、小畑、木山、布施の 4 名は新潟を出発し、ウラジオストック空港に向かう。空港にてニキ
ーチン氏らと合流し、ウラジオストック市内に向かう。食事を取りながら、簡単な調査打ち合わせを行なう。ウ
ラジオストック泊。
10 月 14 日 ロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所にて、調査の打ち合わせを
行ない、踏査を予定している城址プランの複写や調査機材の準備をする。ウラジオストック工科大学に留学中の
中澤が合流する。ウラジオストック泊。
10 月 15 日 午後よりウラジオストックを出発。東走し、アルチョーム周辺で北に向かい夕方、オトラドノエ
村に到着。昨年踏査したオトラドノエ城址を見学。オトラドノエ村泊。
10 月 16 日 オトラドノエ村よりイリスタヤ川を北に向かう。チュグエフカ城址を見学し昼食を取る。昼食後、
同市の郷土資料館を見学する。各時期の遺物が展示されていたが、付近で採集されたという完形の細形銅剣が目
を引く。同市を出発し、夕方ノヴォパクロフカ村に到着。
10 月 17 日∼ 19 日 ノヴォパクロフカ 2 城址の測量調査。19 日、臼杵とロシア隊が周辺の踏査に出て、ゴゴ
レフカ村周辺で城址を発見する。
10 月 20 日 ノヴォパクロフカ村を出発。東に向かい、シホテ・アリャン山脈を越える。夕方頃、沿海州の日
本海側のプラストゥン村に到着する。プラストゥン泊。
10 月 21 日 プラストゥン村北郊のジギトフスコエ、クナレイ城址の踏査を行う。午後より雨が強くなり、踏
査を中止する。プラストゥン泊。
10 月 22 日 午前 7 時、北のアムグ村に向け出発。午後 12 時、同村到着。ソープカ・リュブヴィ城址の踏査を
行う。プラストゥンに戻り、同村泊。
10 月 23 日 南下し、カヴァレロ地区に向かう。ゼリカリナヤ川流域のゴルノレチェンスコエ 1、2、シバイゴ
ウ城址の踏査を行う。プラストゥンに戻り、同村泊。
10 月 24 日 プラストゥン村を出発し、南下する。ルドルナヤ・プリスタニ、オリガ湾等、海岸側に沿って移動する。

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サドヴィ・クリューチ城址、シニィ・スカルニィ遺跡を踏査する。リストベンナヤ集落のキャンプに泊まる。
10 月 25 日 西走し、ラゾ城址を踏査する。その後スゥチャン(パルチザンスカヤ)川流域に入り、セルゲェ
フカ村の瓦窯跡、シャイガ城址、ニコラエフカ城址の踏査を行う。夕方、シコトフカ流域に入りステクリャヌハ
城址を踏査する。夕方、ウラジオストック着。同市泊。
10 月 26 日 採集遺物と収集データの整理を行う。ウラジオストック泊。
10 月 27 日 ウラジオストックを出発。昼過ぎ、新潟着。2005 年の現地調査を終了する。
2.測量の方法とデータ管理
 この2年で、現地踏査・測量を行った城址は 25 ヶ所である。踏査をした土城については GPS(Trimble 社製
GeoExplorer XT・Pathfinder Pocket を使用)を用いて位置座標を取得した。2004 年度は GPS と米国 ESRI 社
の ArcPad を用いて定点測量を実施したが、2005 年度はより精密な位置情報の取得を目指し、後処理による補
正が可能な Trimble 社のデータ取得ソフトウェア(TerraSync)と後処理補正ソフト(PathfinderOffice3.10)
を併用し、踏査時に土城プランの変化点の定点測位と外郭土塁のトラッキングを行った。沿海地方には、日本国
内の電子基準点からの直線距離が 500km 以内の地域が存在するため、可能なものについては、帰国後国土地理
院の電子基準点より補正情報を取得し、GPS 取得位置座標の補正を試みた。各位置座標は Pathfinder Office に
て Shapefile に変換し、ArcView にて管理している。
 Arcview 上では旧ソ連邦全図(1 / 20 万)、SRTM、土城簡易測量図、CORONA 衛星写真など、複数の情報
を重ね合わせ、データベース化している。ロシア側で作成された簡易測量図に記載されているのは、三角測量・
スケッチによる、土塁などの構築物、絶対標高がない等高変化線であるため、位置座標と等高線が欠けている。
今後は、GPS の計測値と SRTM より作成した等高線から、土城の正確な平面図を新たに作成する予定である。
 また、ノヴオパクロフカ 2 城址に関しては、レーザーレンジファインダーによるコンパス測量を 2004 年度に
引き続き実施した。
3.ノヴォパクロフカ(Новопокровское)2 城址の測量調査(図1・2)
 本城址は、中央やや北よりに城内を横断する小丘により大きく南北に2分され、それぞれに施設が配置されて
いる。2004 年は全体の外形の測量を完了することを目的に、西・南の土塁、堀、門、城内南側の地形測量を完
了した。2005 年は、城内施設の測量と北側の地形測量を実施した。測量した遺構の概要を以下に記す。
北東の内郭:城址の北東端は小高い丘となっており、この部分にL字状に土塁と堀を巡らし、区画を築いてい
る。堀と土塁は交互に築かれ、三重に巡っている。土塁の高さは約 50cm、堀の深さは約 30cm と規模は大きく
ないが、交互に作られることから、高低差を生み出している。土塁、堀とも幅 1m 前後である。郭内には階段状
に平坦面が少なくとも 5 面ある。本遺構からは、城址の北、東側に接するイマン(Иман)川の流れが一望
でき、見張り場的な機能を有していたと推定できよう。本遺構は鉄器時代の構築とされているが(Крадин・
Никитин 2001)、遺構の遺存状況、規模からすると城址の壁と時間差はないものと思われる。周辺から
北宋銭(太平通宝)、瓷器が採集されていること(Крадин・Никитин 2001)もこの証左となろう。
東門周辺の平場:城の東側にはイマン川に続く沢が入り込んでいる。東側の沢入り口に門址があることは既に昨
年、報告している。東側では、門から沢を上がった北側の斜面に2ヶ所平場が作り出されている。斜面を掘削し
平坦面を作り、周囲にコの字状に低い土塁を回している。東側谷部にある平場の中央には住居址の落ち込みがあ
り、また西側土塁には浅い堀が築かれている。上記の郭、沢入り口の門と合わせて考えるならば、水運による物
資の管理施設の存在が推定できよう。
北側区画の沢周辺の平場:北側にも浅い沢がいくつか走るが、そのなかで最大の北西部の沢周辺には階段状に平
場が作り出されている。ここには、東側に見られる門のような施設はないが、やはりイマン川を利用した水運に
関わる施設と考えられよう。しかし、東側に比べると規模が小さく、周囲には住居が多数分布することを考慮す
ると、より生活に密着した施設と思われる。
住居址:101 ヶ所の住居址の落ち込みを確認した。いずれも平面形は長方形で、長辺 3 ∼ 5m を測る。深さは
20cm 程と浅い。住居は竪穴式ではなく、平地住居で、壁材などが周囲に堆積することにより落ち込み状となっ

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ていると思われる。北側の区画には、ほぼ全域に住居が分布し、居住区画と考えられる。この内の 1 基は過去
に発掘調査されており、コの字形の炕を持つ住居址が検出され、パクロフカ(アムール女真)文化の土器片が出
土している(Крадин・Никитин 2001)。一方、南側は現在畑地となっており、落ち込みが確認で
きない部分が多いが、ここでも土器・鉄器等の遺物が散布しており、おそらくは城内のかなりの部分に住居が分
布していたと考えられる。ただし、土塁周辺の平坦部や東門近くには、他の城址にも見られる方形内郭、倉庫群、
大型建物、工房などが存在した可能性があり、探査や発掘調査による確認が必要であろう。
 今回の測量は、実働 3 日であった。昨年の日数を足せば、本城址の測量は計 8 日間で行ったものとなる。昨
図1 ノヴォパクロフカ 2 城址平面図(座標は UTM)

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年に報告したとおり、今回の測量結果と SRTM のデータはよく整合しており、同一基準点を利用できた今年の
測量も同様の結果が得られた。また、城内が広く起伏に富んでいるため、何度か基準点を移動して計測する必要
が生じたが、2000 分の1程度の縮尺では、計測結果の齟齬はほとんど生じていない。これはレーザーレンジフ
ァインダーでは 200 mまでの距離が計測可能なため、基準点の移動を最小限に抑えたことが影響したのかもし
れない。縄張り図の精度を目安とすると、ほぼ目的を達成できたものと考える。ロシア等の海外調査では基準点、
標高データの取得が困難となる場合が多い。日数、人員、遺跡規模を考えるならば、海外調査における測量方法
として一定度の成果を挙げたものと考えている。しかし、より大型、あるいは地形が複雑な城址の場合は、誤差
の影響がより大きく現れる可能性もあり、今後は基準点設置の精度の向上を図る必要がある。現在、GPS によ
る位置測定の際の仮基準局の利用、周囲測量による閉合などの方法を国内において試行中であり、次年度には実
際の測量で運用する予定でいる。
3.2005 年度踏査の金・東夏代城址の概要
 2005 年の調査では、12 基の城址を踏査した。ロシア側が作成している城址のプラン図を利用し、土城の四
隅、突出地等、特徴的な地点で GPS による定点測量を実施した。この測量結果とロシアの既成地図、世界高度
情報と重ねて GIS で活用することを予定している。現在、整理途中にあり、その報告は他日行いたい。ここでは、
踏査時に得られた各城址の状況と概要を記しておく。なお、ニコラエフカ、シャイガ、ラゾ以外の城址の周長、
土塁長については、GPS で定点測量した結果得られた数値を記す。その為、これまでロシア側で報告されてい
る数値とは変動がある。
図2 金・東夏代城址分布図
1, ノヴォパクロフカ2 2, ノヴォパクロフカ 1 3. ゴゴレフカ 4. クナレイ 5. シバイゴウ 6. スカーリストエ 7. シェルバコフ
スコエ 8. マリャノフカ 9. ユルコフスコエ 10. プラホトニュンスコエ 11. コクシャロフカ 1 12. コクシャロフカ 5 13. パ
ブロフカ 14. チュグエフカ 15. シクリャエフスコエ 16. ノヴォガラディエフカ 17. アウロフカ 18. ソトゴヴァヤ・ソプカ 
19. ゴールヌィ・フトル 20. ラゾ 21. キシャニェフスコエ 22. シャイガ 23. ニコラエフカ 24.エカテリノフカ 25. ワシレ
フスコエ 26. ノヴォニジネンスコエ 27. ステクリャヌハ 28. スモリャノフスコエ 29.クラスノヤロフスコエ 30. ザパドゥノ・
ウスリースク 31. ユジノ・ウスリースク 32.アナネフカ

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ゴゴレフカ(Гоголевка)城址
 ノヴォパクロフカ城址の測量と並行して、イマン川流域で実施した踏査により、新たに確認した城址であ
る。ノヴォパクロフカ 2 城址から同河川に沿って北西約 40km の地点にある。イマン川北岸の、川に面して
切り立つ断崖を持つ段丘上に位置する。中央部の地点は北緯 46 01 18.56 、東経 134 04 57.96 。周長は約
620m。段丘は北西−南東方向に傾斜した独立丘であ
る。断崖の北西部に丘陵の最高点があり、そこを中心
に扇状に平坦面が数段作られ、その外側に弧状に城壁が
設けられている。城壁には馬面が設けられ、中心部に位
置する門は、甕城となっている。リドフカ文化、ポリ
ツェ文化 3 期の土器片と壷形の陶質土器片(渤海代後
半以降)が採集されている。現存する城址の形状・構成
は、パブロフカ(Павловка)、コクシャロフカ
(Кокшаровка)5 城址等と一致しており(木山・
布施 2005)、金・東夏代の構築と思われる。
ジギトフスコエ(Джигитовское)城址
 ジギトフスコエ川左岸の平坦な低位段丘上に位置する平城である。中央部の位置は、北緯 44 51 15.40 、東
経 136 05 01.54 。東西に谷が入りこむ、舌状の丘陵上の平坦地上に立地する。城址の南側は現在の幹線道が
走り城址との比高が大きいが、築造当時も一段上がった平坦地であったと思われる。北側には城外に平坦地が広
がり、その背後にはシホテ・アリャン山脈に続く山並が迫る。平面形は平行四辺形となる。一辺約 250m、周長
1006 mを測る。城壁現存高は低く、高さ約 1 m、下面幅約 5m である。北西部分は破壊されており、50 ㎝程
の高さしかない。城壁の南西隅は破壊されており、断面観察では、城壁は土盛により構築され、やや密な白色と
黒色砂が約 10cm 互層堆積しており、荒い版築によると思われる。東側の谷部には城址南東壁の城壁が延びて
谷の上がり口まで及んでおり、谷を城内に取り込み、水場として管理していた可能性がある。門は北側、南側に
1 ヶ所ずつあるが、城壁を切った棟門と考えられ、甕城等の付属施設はない。城址内では、囲郭があるとされて
いたが、今回の調査ではその明瞭な痕跡を確認できなかった。城址内・外の北東、東部分には大型の不整形の落
ち込みが点在しているがその性格は不明である。ただし、城壁周辺に特に集中する傾向があり、城壁構築の際の
土取りよる可能性がある。
 城址内では 2 回の発掘調査が行われており、文化層は 1
層しか確認されていない。いわゆる「靺鞨罐」とロクロ成
形の壷形土器片が得られており、渤海代併行(9 ∼ 10 世
紀代)の築城の可能性もあるが、資料が断片的ではっきり
としない。クナレイ土城の築造のさいに短期に利用された
城郭の可能性もあるという(ニキーチン氏の教示による)。
版築を用いている点から見ても、金・東夏代の可能性が高
い。また、構造的には、サハリンのシラヌシ土城に類似し
ている点は興味深い。
クナレイ(Куналейское)城址
 ジギトフスコエ川、クナレイ川の合流地点の丘陵頂部に位置する。中心部の位置は、北緯 44 50 49.69 、東
経 136 16 35.18 。城址の北、西、南の麓下には、両河川が流れている。この山の頂を中心として、稜線沿い
に通路状の平坦面と土塁を築いている。周長約 790 mを測る。土塁の高さは北東、南東部で 1.8 m、北西部で
1m である。東側は最も高く 5 mを超える。北東部分では、平坦面と土塁が 2 重に巡っている部分がある。この
東部分で土塁の断ち割り調査が行われている。密に締まった白色と黒色砂が互層堆積しており、版築により築
写真1 ゴゴレフカ城址全景
写真2 ジギトフスコエ城址南面土塁

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かれていることが分かる。土層の堆積状況は下面が広く上面に行くにつれて段々に狭くなる階段状を呈す。シ
クリャエフスコエ(Шкляевское)城址、ノヴォパクロフカ2城址と同様の状況である(木山・布施
2005)。東面の城壁には楕円形の馬面が 2 基築かれているが、元々山の突出部であった地点を削りこんだものと
思われる。北側の馬面上には投石の人頭大の丸石の集積がある。この地点は発掘が行なわれ、投石機の設置跡が
検出されている。城内北側はやや傾斜が緩やかで、平坦面や区画が作り出されている。北東部には高さ約 1 m
の土塁で囲まれた 20 20 mの堡塁(редут)がある。その西側には北面城壁に沿うように、70m 15 m
の低い土塁で囲まれた平場が作り出されている。堡塁と平場の間には。弧状の土塁が設けられ、両者を区画して
いる。この区画内は、工房が存在した空間と推定されている。その西側にも、25 15 mのテラス状の平坦面が
作られている。城址北西端付近にも平場が設けられ、発掘の結果、溝で区画された2列に並ぶ掘立柱建物群が存
在する。柱穴の状況から、2間 2間の総柱建物が連続する並び倉と思われ、貯蔵施設が存在したと思われる。
南側は谷を内包している為、勾配が強いが、幅の狭い平坦面を階段状に作り出しており、ここに住居が構築され
ていると思われる。
 城内には住居址の落ち込みが各所に認められるが、北側の堡塁の南側と南の谷の上がり口に集中する。南側の
落ち込みの集中では、急傾斜の斜面を階段状に削平して、狭い通路状の平坦面を築いている。この他谷の入り口
の両脇を塞ぐように土塁が迫っており、おそらくは城
の入り口であったのではないかと考えられる。
 これまでの調査で新石器時代、青銅器時代∼初期鉄
器時代のリドフカ文化、リドフカ−ヤンコフスキー
(Лидвско - Янковская)文化、初期中
世期の靺鞨、渤海、東夏代の資料が得られている。し
かし、城址構成の特徴はシャイガ城址、アナニエフカ
(Ананьевка)城址、ラゾ城址に類似してい
ることから、本城址も金・東夏代に築城・利用された
ものとされる(Дьякова・Сидоренко
2002a)。
ソープカ・リュブヴィ(Сопка Любви)城址
 アムグ(Амгу)村の南、シェルバトフカ(Щербатовка)川と本流のアムグ川の合流点にある独
立丘上に位置する。中心部の位置は北緯 45 50 00.17 、東経 137 40 14.66 。川は合流後そのまま海に流れ込
んでいる。独立丘は北西側に頂点を持ち、南、南東側に傾斜する面を持つ。南、南東側以外は断崖となり、崖下
を川が流れている。城址の頂点(北西部)に立てば、河川の流れと海岸線を一望できる。城址南側は斜面が緩や
かになりそのまま平地へ繋がっている。傾斜と平地の傾斜変換線に沿うようにして、南−北方向に弧状を描くよ
うに土塁を3重に巡らしている。長さは 300 m。南側が
最も残りが良く、各土塁は下面幅 3 m、高さ 1.5 ∼ 1.8
mを測る。城址の北側、西側は稜線が境界となっている
が、北側の一部には低い土塁も認められる。城址の周長
は 790 mを測る。平面形は不整の楕円形を呈す。また土
塁の東側縁には沢が入り込んでおり、沢の入り口を塞ぐ
ように門状の土塁が作られている。城内の北側半分、独
立丘の中腹に削平された平坦面が階段状に広がり、住居
址の落ち込みが認められる。1982 年に、イブリェフに
より炕付き住居が発見され、パクロフカ文化の土器片に
類似する土器が採集されている。
写真3 クナレイ城址東面投石弾集積付近
写真4 ソープカ・リュブヴィ城址南面土塁列

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シバイゴウ(Сибайгоу)城址
 ウスチノフカ(Устиновка)村の南西
2km、ゼルカリナヤ川とその支流ウスチノフカ川
に挟まれた舌状に張り出した山の先端の南斜面に
位置する。中央部の地点は、北緯 44 14 19.71
、東経 135 11 43.94 。北側は断崖で麓下にゼル
カリナヤ川が流れる。北西側から東側に向かって
谷が入り込み、そのままウスチノフカ川の河畔に
繋がる。コクシャロフカ 2、シャイガ、ラゾ城址
のような包谷式の山城である。北側、東側には山
の稜線沿いに土塁が築かれている。南側では、城
内に入り込む谷を囲む稜線沿いに土塁を巡らす。
城壁となる土塁は山の形状に沿って築かれており、東西方向に延びる不整形となる。周長は約 1900m を測る。
土塁の高さ、幅は場所によって異なるが、北側の遺存状態の良好な部分では、高さ 3 ∼ 5m、幅は上面で 2 ∼
3m、下面で 10 m前後となる。北西側、西側を中心として、楕円形状の馬面が 10 基付いている。上面は平坦で
幅は長軸 1.5 ∼ 3 短軸 1 ∼ 2m である。馬面の城外下場には馬蹄形状の平坦面とそれに付随した低い土塁の付
くものがある。南西には外郭が付き、ここには門が2ヶ所ある。一方は片方の土塁が外に延びる甕城となってい
る。城内は谷を取り囲んで扇状に、階段状の細い平坦面が造られており、各平坦面には住居址が並ぶ。また北側
には 25 25m の堡塁がある。周壁の高さは 1.5 ∼ 2 mである。北側城壁に近い地点には、比較的広めの平坦面
が作られている。また城址西側では、傾斜面に平面形が靴型の囲郭(長軸約 50 m 幅約 20 m)があり、内部に
は階段状の平坦面を持っている。
 城址内外の構成、土器の形状から東夏代、13 世紀前半と考えられている(ニキーチン氏の教示による)。
サドヴィ・クリューチ(Садовый крюч)城址
 スヴォロヴォ(Суворово)村の西 2km、ゼルカリナヤ川右岸の低位河岸段丘上に位置する。中央部
の位置は、北緯 44 15 04.04 、東経 135 19 04.46 。磁北に角を向ける方形の平城である。一辺は約 100 m。
土塁は高さ50㎝、上面幅80㎝程である。土塁上面には角礫が散乱しており、石と土で造られていると想像される。
門は確認できない。地域色の強い渤海代の土器片が採集され、その年代は 9 ∼ 10 世紀代とされる。また城址周
辺には青銅製の帯金具、鈴が纏まって採集できる地点があり、墓址が破壊されたものと推定されている(ニキー
チン氏の教示による)。
ラゾ(Лазо)城址
ラゾ村から北西5㎞、キエフカ(Киевка)川上流の右岸、キエフカ川流域の平野部に突出する山に位
置する。中央部の地点は、北緯 43 25 56.91 、
東経 133 52 18.42 。山の稜線に沿った形状で不
整形である。周長は 2850 mを測る。城壁の高さ
は一定しないが、東側が最も高く 3 ∼ 5 mを測る。
12 基の馬面が付設されている。門址は不明瞭な部
分も多いが、城壁が明瞭に残る東側には土塁の切
れ目とそれを取り囲むように外側に土塁を巡らし、
「枡形囲い」のような形式をとっている。この周辺
には内側の城壁に沿って浅い堀が巡っている。城
址内南側に谷が入り込んでおり、これを上がると
緩斜面が広がる。殆どの建物跡はここにある。東
側城壁の内側に沿って、幅 3 ∼ 5m の削平された
写真 5 シバイゴウ城址全景
写真 6 ラゾ城址東面土塁

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溝があり、溝より内側に所々に平坦面が作られている。門から 50 m程に 100 100 mの方形の内城がある。囲
郭の高さは約 60 ∼ 80 ㎝程である。堡塁は2基あるとされていたが、今回の踏査で南西城壁の内側にもう 1 基
確認できた。2 基は 25 25 m程の堡塁で、1基は 50 40 mとやや大型である。
内城、堡塁、城址内で数次に渡る発掘調査が行われており、住居址 68 基と柱穴群が検出されている
(Леньков・Артемьева 2003)。いずれもコの字形の炕が付設する住居で、鉄鍋、車轄、斧、鉄
鏃、鉾、甲札、坩堝、金梃等の各種鉄製品、陶質土器が出土している。また開元通宝(621 年初鋳)、各種北宋
銭から大定通宝(1161 年初鋳)も得られている(Леньков・Артемьева 2003)。金∼東夏代の
築城・利用と推定されている。尚、ラゾ城址周辺のあるキエフカ川上流は、隣接する西のスウチャン川、東のチ
ョルナヤ(Черная)川の上流域に接続することから、峠越えの道を掌握する為の位置付けがなされている
(Леньков・Артемьева 2003)。なお、今回の踏査の際に、GPS による計測を各所で行ったが、
報告されている平面図と、地形・土塁形状・施設の位置などにかなりのずれが見られ、あらためて測量調査の必
要性があることを確認した。
シャイガ(Шайгинское)城址
 スウチャン(パルチザンスカヤ;Партизанская)川の左岸にある丘陵に位置する中央部の地点
は、北緯 43 16 48.34 、東経 133 20 37.57 。城址内には長軸方向に谷が入り込み、これを囲む丘の稜線が城
址の境界となり、平面形は北東−南西方向に延びる不整形を呈す。周長 3600 m、土塁の高さは 0.5 ∼ 4 mを測
る(Артемьева 2005)。城壁には楕円形に突出した馬面が付されるとともに、城壁そのものを舌状に
屈曲させる部分もある。門は4ヶ所に認められる。北門は、甕城となっている。北東側にも土塁が切れる門が
2ヶ所あり、その内の 1 ヶ所は外側に弧状の土塁が巡る。また谷の入り口は両側から土塁が迫っており、その
まま平地に繋がるので、門として機能したものと考えられる。周辺を発掘した結果、瓦の集積が検出されている
(Артемьева 1998)。城址内は谷筋に平行して両側の斜面には、細い階段状の平坦面が形成され、それ
ぞれに建物跡の浅い落ち込みが並ぶ。谷を挟み、南側には隣接する 3 ヶ所の大型内城と堡塁が認められており、
北側とは異なる利用状況となっている。北側の谷筋に近い低位の平坦面には工房址が検出されている。
シャイガ城址は、1960 年代初頭から継続的に発掘調査が実施されている。内城、工房址、堡塁、住居址群が
発掘されており、沿海州で内部構造が良く把握されている城址のひとつである。住居址は、これまでに全体の約
2 / 3 にあたる 278 基が発掘されている。いくつかの種類に分けられるようであるが、いずれも炕付きの住居
址である。平面形は方形で、面積は、53%が 40 ∼ 50 ㎡、22% が 30 ∼ 40 ㎡と規格性がある(Артемьева
1998)。
 城址の規模、内城の大きさ、工房址から金代における当該地域の行政−経済の中心的な城と考えられており、
東夏代にも機能したと推定されている(Артемьева 1998)。
 155 号住居址出土の銀牌は金代末と比定されている(高橋 1993)。
ニコラエフカ(Николаевка)城址
 ヴォドパドナヤ(Водпадная)川左岸、
スウチャン川との合流点の段丘上に位置する。中
央部の地点は、北緯 43 06 31.50 、東経 133
13 12.74 。城を北西−南東に横断する線路があ
る以外は極めて保存良好である。北西側は同川に
接しており、こちらに開口部を向け凡そコの字状
に土塁と堀を巡らす。城壁の高さは 10 m、下面
幅25mを測る。城址全体の周長は2350mである。
城壁には 12 基の馬面がつく。城壁外の堀幅は 20
∼ 25 m、深さ 3 ∼ 4 mで、底面は平らで箱掘状
である。河川に臨む北西側にも高さ 1 ∼ 2 mの城 写真7 ニコラエフカ城址城内・南面土塁

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壁が築かれている。またその中央部には河畔に下
りる通路状のスロープが造られている。北東、南
側に門があり、片方の土塁が鉤手状に延びる甕城
となっている。城内東側には、高さ 1 m程の土塁
を長方形に巡らした内城(約 40000 ㎡)がある。
内城は発掘調査され、鬼面瓦、龍形の鴟尾、有翼
の仏像等が出土している。内城には南側に門があ
り、基部を磚で造った三孔門であることが判明し
ている(シャフクノフ 1982)。寺院跡とされたが、
官衙的な機能も推定されている(高橋 1984)。近
年、改めて内城内部が調査され、50 50 mの平坦
面が 2 ヶ所あり、それに併行するようにやや小型
の平坦面が並んでいることが報告されている。ま
た、この大型の平坦面の一部が調査されており、大量の瓦と柱穴群が検出され、大型の瓦葺建物が存在したこと
が判明している。城内では、クロウノフカ文化、ポリツェ文化後半期、渤海、金、東夏代の土器が採集されてい
るが、内城も含めて現存する構築物は 12 ∼ 13 世紀代に建設、利用されたと考えられている(Артемьева
2005a)。
ステクリャヌハ(Стекрянуха)1城址
 シコトフスカ川(Шкотовска)右岸に位置し、四方に城壁を持つ平城である。中央部の地点は、北
緯 43 20 56.63 、東経 132 28 32.92 。平面形は東西がやや長い長方形を呈す。四方に門があり、北側を除
き、いずれも片方の城壁から鉤手状に土塁が延びる甕城となる。北側はU字状の土塁が門を囲む。城壁の高
さは約 5 ∼ 7 mで、下面幅約 10 mを測る。周長は 1045 m(短辺約 233m、長辺約 261 m)である。城内の
文化層は 2 枚確認されている。下層は 8 ∼ 10 世紀の渤海代、上層は 12 ∼ 13 世紀の女真代の文化層である
(Артемьева 2005a)。ただし、現状の城郭は女真代の構築であろう。
4.その他の遺跡
 靺鞨・渤海期と推定される遺跡について報告しておく。
ゴルノレチェンスク(Горнореченское)1遺跡
 ゼルカリナヤ(Зеркальная)川左岸、ゴルノレチェンスク村の段丘縁に位置する。西側が段丘縁
で、断崖となっている。段丘縁側に開くようにU字形に土塁とその外側に堀を巡らしている。段丘縁の反対側の
土塁には 2 m幅の切れ目が造られている。土塁の高さは 1 m、幅は上面で 2 m、下面で 5 mを測る。土塁の造
り方は不明。堀の底面は丸みを帯び、浅い。幅約 2.2 m。土塁の周長(門状の切れ目を含む)は約 110 mである。
土塁内は平坦面となっており、表面観察では特に構築物跡は認められなかった。9 ∼ 10 世紀代に比定できる遺
物が採集されているらしく、本遺跡の年代も同様に推定されている(ニキーチン氏の教示による。)。
ゴルノレチェンスク 2 遺跡
 上記ゴルノレチェンスク 1 と同一段丘上で、別地点の段丘縁に位置する。段丘縁に沿って土塁が巡り、平面
形は多角形を呈す。北側は段丘面に繋がり、それ以外は崖面である。土塁の南北長は 49.5m、東西長は 43 mを
測る。土塁上面には礫が密に認められる。土塁の高さは約 0.5 m、幅は下面で 3 ∼ 3.5 mである。北側には土
塁の外に浅い堀が巡る。城址内は平坦で特に構造物等の跡はない。9 ∼ 10 世紀代に比定できる遺物が採集され
ているらしく、本遺跡の年代も同様に推定されている(ニキーチン氏の教示による。)。
尚、周辺にはゴルノレチェンスク 3 遺跡(以前のケンツヘ 2 遺跡)がある。上記 2 例と同様に段丘縁を利用
した例である。舌状に突出した段丘縁にあり、基部に 3 重の土塁を築き、境界を作っている。スタンプ文を持
写真8 ステクリャヌハ城址西面土塁・甕城

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つ陶質土器片、瓦片が出土している(Медведев 1969、メドベヂェフ 1982)。現在は道路建設の為に破
壊されている。
5.ロシア沿海地方における金・東夏代城址の特徴について
2004 年、2005 年を通じて踏査を行った金・東夏代の城址は、全体の一部であるが、当該期における城址の
特徴もある程度把握することができた。ここでは、金・東夏代における城址構造の特徴と立地、配置の傾向につ
いて現段階の所見を纏めておく。
(1)城址形態
 平城と山城に分けられる。後者は山頂に築き、平地との比高がかなりあるものや、ノヴォパクロフカ 2 城址
のように平坦面がある程度広がる段丘上に位置するものとに細分が可能である。ここでは、完全な平地に囲壁を
巡らす例を平城、その他を山城としておく。平城のプランは方形のもの(ex.;チュグエフカ、ステクリャヌハ
1城址)と不整形のもの(ex:ニコラエフカ城址)に分かれるが、後者に方形を意識して設計されているよう
である。山城は山の稜線等、自然地形の起伏を利用しており、不整形を呈するが、大型城郭は谷を内包する形態
をとるものが多い。沿海州では、当該期以前から平城、山城の 2 種が認められるが、金・東夏代においては山
城の数が極めて多く、また規模も大きくなるのが特徴である。
(2)城址の規模
 沿海州でみると、周長 1000 m後半∼ 2000m 前半の城址が多い。これまで収集した城址データ 29 基の平均
周長は 2053 mである。平城と山城を比べると、概して後者の方が大きいが、造成された平地の面積での比較が
必要であろう。尚、恤品路、開元府と推定されるウスリースク市にあるクラスノヤロフスキー城址、双城子(ユ
ジノ/ザーパトノエ・ウスリースク城)は、他と比較すると大型である。
(3)城壁構造
 城壁は版築による構築である。その上面や壁面を石によって強化・修飾する例は少ない。しかし、チュグエフ
カ城址のように城壁上面に石敷が見られる例もある。また城壁には馬面、角楼が付き、門は甕城となるのが一般
的である。平面形が方形の平城は四方に門を持つ。馬面の平面形は隅丸の長方形ぎみの台形や楕円形である。厳
密ではないが、凡そ等間隔に付いている。山城では、地形に応じた平面形態をとるため、門数、馬面数、設置
箇所の特徴は各城址で異なる。尚、甕城、馬面は沿海州においては渤海代後半には現れた可能性がある(田村
2005 ほか)。しかし、例数が増加し一般化するのは、金・東夏代であり、各城址においてこの3つがセットと
なるか、少なくとも 2 つは備えているのが当該期の特徴といえようか。幾つかの城址では渤海代からの継続利
用が考えられる為、城壁の断ち割り調査等により、築城の変遷過程の解明を目指した今後の調査を期待したい。
また山城では城壁に接して大型の外郭を持つものも現れる。城内には、平面形が方形で、小型の独立囲郭である
堡塁(редут)を持つことも当該期の特徴とされる(Артемьева 1998 ほか)。実際ほとんどの山
城で確認できる。1 辺 20 ∼ 25 m程、壁の高さは 1 ∼ 2 mを測る。内部には、3 つの炕跡が三角形に並んでい
ることが多い等、画一性が高い。官吏の住居址と推定されている。内城や堡塁は山城では城内でも高位に配置さ
れる傾向にある。
(4)城址の配置
 山城は河川合流地点や河川に突出する山地、段丘に位置する。平城も河川に接して作られている。これまで
踏査した沿海州の地形的な特徴は、シホテ・アリャン(Сихоте - Алянь)山脈を挟んで東西に分ける
ことができる。シホテ・アリャン以西は、更に、ウスリー川流域、ハンカ湖周辺に広がる平原地域と、流量と
河川幅の減じたウスリー川上流域とウスリー川の支流にあたるイマン、ビキン川や各河川の流域とに分けられ
る。後者では、各河川がシホテ・アリャン山脈に繋がる山間地の間を抜け、狭い小平野が複雑に入り組んでいる。
2004 年に踏査した主な城址、2005 年踏査のシャイガ城址、ニコラエフカ城址、ステクリャヌハ1城址、ラゾ
城址は主にこの地域に当たっている。この地域では、各流域の合流点やその付近に城が築かれることが多い。1
基が単独で配置される場合もあるが、多くは 2、3 の城址が、各流域に等間隔か(ex. スウチャン川流域)、近距
離に纏まって(ex. ウスリー上流、ウスリースク市の城址群)配置される。沿海州シホテ・アリャン山脈以東の
地域では、複数城址を1単位として一定の間隔で配置する構成で、当該期の行政、流通面での統治を行っていた

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可能性が指摘できよう。尚、中国領内の依蘭県や綏濱県周辺の金代城址の報告にみるように、同一規模の平城が
近距離に配された例もあり(王・王 1988)、より広い範囲でこの傾向を適用できる可能性もある。
またこの城址の組み合わせの中でも、山城と平城という異なる種類の城址が近接して配置される傾向もある
ようだ。ノヴォパクロフカ村には、ノヴォパクロフカ 2 城址(山城)と、同じく金・東夏代にあたるノヴォパ
クロフカ 1 城址が存在したことが確認されている。これは現在既に壊滅しているが、地形的に平坦地に築かれ
たものである。同様の関係が指摘できるのは、ユジノ・ウスリースク城址・ザーパトノ・ウスリースク城址とク
ラスノヤロフスク城址、コクシャロフカ 1・2城址と同 5 城址、ニコラエフカ城址とシャイガ城址(いずれも山
城、平城の順)等、各地に認められる。いずれも近接あるいは近距離に築かれており、それぞれの城址の規模を
比較しても大きな差はない。
一方、シホテ・アリャン山脈より東側の間宮海峡側は、急峻な断崖と河川流域の狭い沖積平野の連続する地
形となる。いずれも東西方向に延びる狭い平野部で、それぞれが独立している。この平野部が、シホテ・アリャ
ン山脈以西の河川流域に対応する1単位であり、ここに城址が 1 基ずつ配置されている。いずれも山城で、金・
東夏代と確実に比定できる平城は今のところない。この傾向は、ラゾ城址のある河川流域より北東に認められる。
シホテ・アリャン山脈以西と以東における各河川流域の城址分布密度に認められる粗密は、ひとつにはシホテ・
アリャン山脈以東は各河川流域の平野部の幅と奥行きが小さいという自然環境によるものと推定できる。また、
この自然環境とともに、金・東夏代における当該地域における人口の分布密度の低さ、統治や流通面で複数城址
を配置する必要性を持たない「辺境性」も想像できるであろう。
尚、シホテ・アリャン山脈以東でもコクシャロフカ1、5城址周辺とノヴォパクロフカ城址周辺とでは城
址の空白地域がある。またノヴォパクロフカ城址以北では、ビキン(Бикин)川流域のワシレフスコエ
城址、クングラーザ(Кунклаза)城址、ベルフニーペルバール(Верхний Первал)城
址、更に北のホール(Хор)城址、アムール河下流のジャリ(Джари)城址等が当該期の城址と考えら
れるが、いずれも規模は小さく、それぞれの城址間の距離もかなり空く(Галицкий и др . 1998、
Медведев 2005)。踏査密度がバイアスとなっている可能性は残るが、沿海州南部と北部では城址分布
の密度に粗密があることは確実である。沿海州北部の特にシホテ・アリャン山脈に入る地域では、河川の流域面
積が、スイフン川流域などと比較し狭く、人口の収容力が低いことも考えられる。沿海州南部に恤品路治を核と
した中心部が位置することを考慮すると、この北部の城址の少なさはまた金・東夏代における中心と辺境の差を
反映しているものと考えていいだろう。
(5)交通路の推定
 城址の配置が、流通面での統治に係るものとするのであれば、当時の交通路の推定も可能となろう。シホテ・
アリャン山脈以西は、地理的にも城址の配置からもウスリー川支流の流域が往時の道路として機能したものと考
えられる。またノヴォパクロフカ 2 城址での水辺の門構造や河川流域に配置される城址と河川を意識した立地
傾向からすると、河川交通は当時の交通網の一翼を担うものと考えられる。
シホテ・アリャン山脈以東、間宮海峡側では各平野部に 1 基ずつ城址が配置されている。各城址は、平野部
のやや内側に位置している。各平野部は内陸に行けばシホテ・アリャン山脈の中でも比高が小さくなる部分に繋
がり、西側を含めて隣接平野部との接続がし易くなる。またここにも小規模な城址が存在している為、峠越えの
道が機能していたものと考えられる。但し、内陸に位置するものの、踏査して立地の詳細をみると、海に注ぐ河
川が城址に近接する例がよく認められる。この立地と地理環境から見れば、間宮海峡側では磯回りの海上交通と
河川を利用した物資の運搬もまた重要な役割を担っていたと考えられる。このような交通網の要所に城を配置し
たものと推定される。
おわりに
2005 年の調査結果と2ヵ年を通じて把握できた沿海地方金・東夏代の城址の特徴について報告を行った。当
該期研究は、遺跡規模の大きさと調査密度の低さが相俟って、検討すべき問題が多く残されている。
城址の築城技術については、金・東夏代の特徴が判別できる場合もあるが、山城・平城の 2 種の城址がある
ことや築城技術の幾つかは、沿海州で前代以前から認められる。沿海州における渤海滅亡後、遼代(10 世紀前

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半∼ 12 世紀まで)の考古学的様相はほとんど解明されておらず、城址構造も同様の状況である。今後各時期の
城址構造や立地傾向の特徴を明らかとし、技術的な変遷と当該期の特徴を鮮明なものとしていきたい。また前代
以前にあった城址を再利用する城址が存在しているが、金・東夏代では、山城の数が増加している。この傾向が
当該期のどのような状況を反映しているのか注意しておく必要もあろう。
沿海地方の金・東夏代において認められる山城と平城のセット構成は、山城と平城の持つ機能に差異があっ
た事を反映したものとみられるが、一方で当該期の細かな時期差に起因する可能性も残る。今後、出土遺物の分
析を進め、構築時期・存続年代を決定し、城址構造の差、遺物構成の差を見極めていく必要がある。
ここでは河川流路や海岸沿いの交通という当該期の水運発達と城址との関係を指摘したが、2004・2005 年
に踏査やデータ収集の対象とした城址は沿海州における代表的な事例に限られている。各城址周辺には他にも小
規模の城址が存在しており、これらについても今後調査や資料の収集を図り、遺物の分布状況も加味した上で各
城址間の総合的な関係を明らかにするとともに、当該期の流通経路や行政単位の把握に努めたいと考えている。
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モンゴル国におけるチンギス = カン関連遺跡の調査
白石典之
1.平成 17 年調査の概要
本報告は、2005 年に行われたヘンティ ( Хэнтий ) 県デリゲルハーン ( Дэлгэрхаан ) 郡アウ
ラガ ( Аврага ) 遺跡における日本・モンゴル共同考古学調査の概要である。調査目的はチンギス = カンに
関係する遺跡から、モンゴル帝国の強大化の背景を明らかにすることである。
調査は 2001 年から継続的に進めている。2005 年の調査期間は8月 12 日から8月 23 日の 12 日間であった。
メンバーは D. ツェベーンドルジ・B. ツォグトバータル・N. エルデネオチル(モンゴル科学アカデミー考古学
研究所)、白石典之(新潟大)、村上恭通(愛媛大)、三宅俊彦(東洋文庫非常勤)、出穂雅実(札幌市埋蔵文化財
センター)、伊藤孝・岸田徹(富山大院)、加藤晋平・石崎悠文(國學院大院)である。
アウラガ遺跡はチンギス = カンの本拠地「大オルド」の跡と推定され、東西 1200 m、南北 500 mの範囲に
建物遺構が認められる。その中央に位置する「中央基壇(第1建物跡)」を宮殿址であると特定できる。本年度
は4ヵ年継続した宮殿跡調査を一時中断し、遺跡の西隅と東隅にそれぞれ調査区を設定した。目的は製鉄関連の
工房を発見することである。なぜなら、モンゴル強大化の背景に、チンギスによる鉄資源確保の成功と高い鉄製
武器製作技術の存在を想定しているからである。
地表における村上によるスラグ(鉄滓)の採集の結果、東側調査区ではおよそ1ha の範囲に製鉄関連遺物が
分布していることが明らかになった。東アジアの古代製鉄が専門の村上にしても、このような大規模な鉄関連遺
構の存在を、いままで見たことがないという。その範囲内で伊藤・岸田が地中レーダ探査を実施したところ、周
辺の土壌と明らかに異なる反応を示す地点が数ヶ所確認できた。そのひとつを発掘したところ、地表下 0.5 mか
ら 1.2 mの深さの土層中に、何枚ものスラグ層が重なって検出できた。村上の所見によると、精錬あるいは鍛冶
段階で生じたスラグ類を廃棄した場所、すなわちゴミ捨て場であった。
物理探査の結果得られた異常を示す地点が、すべてこのような場所とは限らないが、地表調査から想定でき
ることは、かなり大規模の鉄器製作工房がこの地に存在していたことである。通常、スラグは、炉の至近距離に
廃棄されると村上は指摘している。そうだとすれば、今回の調査地域内には、かならず、精錬炉や鍛冶炉が存在
したことになる。この探査は次年度以降の課題となる。
2.GPS による基準杭の測定
 本遺跡では、平成 13 年に遺跡全体をカバーする局地的な座標系を設定した。以後、それに則して調査をおこ
なっている。平成 17 年は、これまでの測量成果を GIS 上で展開することを目的に、出穂と岸田が遺跡内に設け
られた代表的な座標点(杭)について、GPS により緯度・経度を計測した。その結果は別表にまとめてある。
3.東地区の調査
今年度は、市街地部分の建物の機能を明らかにすることを目標に、第7地区、第8地区、第9地区で調査を
おこなった。これらの地区は、以前から、鉄関連工房が存在していたと考えられてきた。
まず、村上が磁石を用いて、地表面に散布する、製鉄や鉄器製作の際に生じた微細な鉄関連遺物の収集をお
こなった。遺物の分布範囲は、およそ 10000 ㎡にも及ぶ広大なものであった。遺物の内容は、製錬、精錬、鍛
冶の3工程を示すものであった。ここで原料を調達し、製品に仕上げるまでのすべての工程が存在したことが想
定された。
ついで、伊藤と岸田が、村上の指示に従い、とくに遺物の分布が濃密な第8地区で 2025 ㎡、第9地区南(Loc.
9S)で 2700 ㎡の調査区を設定し、地中レーダ探査と磁気探査をおこなった。その結果、いくつかの異常値(今
回の場合は、炉など鉄工房関連遺構の可能性がある地点)が確認できた。そのうち第9区南地区で3ヵ所を選び、
考古学チームが発掘調査をおこなった。
調査区は Loc. 9S の L- 1・2グリッド(2㎡)、L - 5・6グリッド(2㎡)、そしてL -14 ∼ 17 グリッド(4
㎡)の計8㎡である。発掘の結果、L - 1・2グリッドからは鉄滓(スラグ)の層が、上中下の3層に重なって

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検出、L - 5・6グリッドでは灰の詰まった坑が、L -14 ∼ 17 グリッドでは鉄滓の混ざった灰が廃棄された溝
跡が見つかった。伊藤・岸田によると、地球物理学的調査による異常値は、いずれもそれらに反応した可能性が
高いという。
ここではL - 1・2グリッドについて、詳しく解説しよう。3枚のスラグ層のうち上部スラグ層は、地表下
28cm のところから見つかった。内容物にはスラグ以外に、鉄器片、木炭、炉壁とみられる粘土塊が認められた。
厚さは約5cm で、1.5 ㎡の範囲に、約5cm というほぼ均一の厚さで敷き詰められていた。同じレベルで柱礎
石や壁の日干しレンガも配置されていたので、建物の床部分と考えられる。おそらく操業を終えた炉の廃材とス
ラグなどを、建物の床下に防湿あるいは断熱材として敷き詰めたものと想定している。
上部スラグ層を発掘によって取り除くと、地表下 30cm ほどの所から、中部スラグ層が顔を出した。おそら
く穴を掘って、その中にスラグや木炭殻を廃棄したと考えられ、穴の大きさは南北 40cm、東西 25cm、深さ
40cm であった。鉄器片とともに、オオムギやキビなどの炭化穀物粒、サケ・マス属の魚骨が出土していること
は興味深い。
下部スラグ層は地表下 50cm から、径 30cm、深さ 30cm ほどの穴のなかに、廃棄された状態で見つかった。
スラグや木炭とともに、ここからもオオムギとキビの炭化穀物粒が出土している。
これら3枚のスラグ層から出土した木炭を使い、放射性炭素年代測定(C -14・AMS 法)を外部の研
究所に委託しておこなった。その結果、上層からは AD1215-1270(IAAA-51542)、下層からは AD1205-
1270(IAAA-51543) という年代が得られた。
4.西地区の調査
東地区と同様に、西地区でも市街地の機能を特定するための調査をおこなった。調査は第2地区を中心にお
こなった。
伊藤と岸田が探査機材の性能を確認するために、試験的に磁気探査をおこなったところ、強い異常値を見つ
けたので、考古学チームがそこを中心に発掘をおこなった。発掘面積は約 15 ㎡であった。
まず、異常値のみられた部分を掘り下げたところ、版築法で造った土壁を持った建物が検出され、その床部(地
表下 60cm)から大型の鋳鉄鍋の破片が出土した。伊藤と岸田は、磁気探査の異常値はこれに対応すると想定し
た。鍋周辺には灰色陶器片や木炭が散乱していた。その木炭を研究機関に委託し、放射性炭素年代測定法により
年代を測定したところ、AD1205-1260(IAAA-51540) という年代が得られた。
さらに調査区を拡張すると、布掘り構造を伴った木柱が出土した。この柱が先に述べた土壁のある建物に
伴うかどうかは、現地では判断できなかった。柱材の丸太の樹皮部分を採集し、年代測定を委託したところ、
AD1150-1210(IAAA-51541) という年代が得られた。
さらに南側に拡張したところ、地表下 20cm で、長軸方向北 20 度西、長軸長 168cm、短軸長 94cm、深さ
65cm の素掘りの土坑が見つかった。その穴の底部からは北 20 度西に頭を向けた、仰臥伸展葬された人骨が検
出された。身長は約 70cm、性別は女性で、乳歯の臼歯の一部が未萌芽の幼児であった。副葬品と思われるもの
は、頭部付近から出土した、ヒツジ・ヤギ属の上腕骨のみである。この墓の年代は、前述の建物の年代よりも新
しいことは確かであるが、どのくらい新しくなるかは、現在検討中である。
その後、伊藤と岸田は、村上の指示に従って、発掘区の東側に 1300 ㎡の区域を設定し、磁気探査と地中レー
ダ探査をおこなった。しかし、特筆すべき異常値は、現地で確認できなかった。

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図1 平成 17 年度調査地点
写真 1 東調査区建物跡土壁・柱
写真3 東調査区スラグ層検出
写真4 東調査区スラグ中層鉄器出土状況

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写真5 西調査区土坑墓
写真6 西調査区調査風景
写真4 東調査区出土鉄製品
表1 アウラガ測位ポイント

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内蒙古自治区赤峰市管内契丹遺跡・文物の調査
武田和哉・高橋学而・藤原崇人・澤本光弘
1.調査の経緯と体制
2004 年度調査に引き続き、2005 年度も赤峰地区の調査を実施した。実施にあたっては、2004 年度同様に、
武田和哉が組織編成・中国側との折衝・日程調整等を行い、高橋学而がこれを補佐した。その結果、昨年度の調
査経験者と新たな参加者からなる研究者4名により調査団を結成した。さらに、調査の受入に際しては、2004
年度同様に現地機関より合計5名の人員派遣があり、合計9名の編成となった。このほか訪問先の赤峰市管区内
の各機関の多くの関係者より、2004 年度同様の手厚い歓迎とご案内・ご教示・ご協力を頂いた。その詳細は以
下のとおりである。関係者の諸氏に対しては、多大のご助力を賜ったことについて心より感謝申し上げたい。
2005 年度赤峰地区契丹遺跡文物調査団調査参加者
 武田和哉(奈良市教育委員会・立命館大学文学部非常勤講師)
 高橋学而(福岡文化学園博多女子高校)
 澤本光弘
 藤原崇人(大谷大学文学部非常勤講師)
 訪問団受入担当 馬 鳳磊(赤峰市博物館研究員)
 通訳・写真撮影 龐  雷(中国社会科学院・内蒙古文物考古研究所専門員)
調査協力者   魏  堅(中国人民大学歴史系教授)
   同    相馬秀廣(奈良女子大学文学部教授)
   同    舘野和己(奈良女子大学文学部教授)
   同   ナラントヤ(奈良女子大学大学院人間文化研究科大学院生)
   同    重森 博((有)エムズ代表取締役)
調査日程 
 8月 11 日 午前 成田・関西各空港より出発・フライト
      午後 北京空港に集合、北京人民大学に魏堅教授と打ち合わせ
      夜  北京北駅より赤峰行き列車に乗車
8月 12 日 午前 赤峰駅到着 松山州故城調査
      午後 恩州故城調査 寧城県遼中京博物館調査 敖漢旗新恵鎮へ
 8月 13 日 午前 遼武安州故城、遼降聖州故城想定地(元寧昌路故城)調査
      午後 敖漢旗博物館調査 翁牛特旗烏丹鎮へ
 8月 14 日 午前 翁牛特旗博物館調査、蕭孝恭墓探索
      午後 阿魯科爾沁旗天山鎮へ 阿魯科爾沁旗博物館調査 宝山貴族墓地視察
 8月 15 日 午前 白城故城調査
      午後 耶律羽之家族墓地調査 巴林左旗林東鎮へ
 8月 16 日 午前 韓匡嗣一族墓地、四方城、洞山石窟寺 調査視察
      午後 遼上京博物館調査
 8月 17 日 林東周辺遺跡および遼上京博物館調査視察
 8月 18 日 午前 祖州城、祖陵調査 巴林右旗大板鎮へ 巴林博物館調査
      午後 友愛故城、慶州故城・白塔調査 林西県林西鎮へ
 8月 19 日 午前 林西県博物館視察 遼饒州故城調査
      午後 赤峰市へ 赤峰市博物館へ劉冰館長を表敬訪問

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      夜  赤峰駅より北京北駅行き列車乗車
 8月 20 日 午前 北京北駅到着 調査総括会議 中国歴史博物館展示見学
      午後 白塔寺視察 北京国家図書館調査 市内書店へ
 8月 21 日 午前 北京空港到着 解団式 出国手続き・フライト
  午後 各自成田・関西・福岡各空港へ帰国 調査終了
(武田和哉)
2.都城遺跡調査の概要
 2005 年度は上京、中京、祖州、慶州各故城を再訪し、松山州、恩州、武安州、寧昌路、饒州、白城、四方城、
黒河州等の故城を踏査した。以下にその概要を記す。
( 1 ) 松山州故城
 松山州故城は、赤峰市の西南西約 25km、城子郷城子村に位置している。故城は、半支箭河上流の北岸に築か
れ、城子村から徒歩 15 分程度で北壁に達す
る。地勢は平坦であるが、北壁付近は南に
下る緩斜面となっている。周囲は丘陵地帯
であるが、特に故城北面は東西になだらか
な丘が延びている。城内では、中央に地表
面から 1.5 mの高さを有する一辺 80 mの方
形の建築基壇が残されている。更に、城内
東北部には北壁に連接し、南北 15 m、東西
40 mの規模を有する敵台と推測される基壇
が確認されている。現在までの調査で確認
された遺物は数多く、陶磁器片の堆積が深
さ 2 mに達する地点も見出しうるのであり、
それらはその多くが赤峰缸瓦窯系に属する
図1 調査団行程図
写真1 松山州故城西北隅郊外專塔址から西壁址を望む

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ことが知られている。故城西北隅後背の山丘の突
端上に位置する塔址については、基壇は方形で一
辺 8 mの規模を有し、更にその北面からは塼・瓦
片など多くの建築部材が出土している。約 60m 平
方の面積を有するこの一帯は現在寺院址に推定さ
れている。このほか、西城外西南隅からは寺廟址
が確認されている。
( 2 ) 恩州故城
 喀喇沁旗西橋郷七家村、現在の恩州村に所在し
ている。故城は、幹線道路から徒歩5分程で、城
門に達することができ、南面 500m には老哈河の
支流である坤兌河が流れている。項春松氏の調査
によれば、その平面は南北 200m、東西 150m の長方形プラン
を示している。外周は 700m。四面に各1門を開き、版築の城
壁は基底部 15m、現高 5 ∼ 8m を測る。西門址内部には一辺
80m の築基壇が確認されている。今回の踏査では北西部を中
心とする城壁の確認だけに終始したが明瞭な馬面の存在を確か
められなかった。
( 3 ) 武安州故城
武安州故城に比定される白塔子古城は、赤峰市敖漢旗政府
の所在する新恵鎮の東約 28km に所在する南塔郷の白塔子村
に位置する。古城については早く清乾隆年間に『塔子溝紀略』
に記載が見られるが、1972 年以来、敖漢旗文物管理所の邵国
田氏によって調査が進められ、多くの知見が明らかにされてい
る。古城は、村の西方に位置するが、報告に拠れば古城は全体
として三重の城壁から構成されている。外城はほとんど失われ
てしまっているが、外城から内側最初の囲郭は一辺が約 650m
と推測され、最も内部の囲郭はやや北にすぼまりつつ、一辺約
270m の方形プランを呈すると理解される。故城内外には多く
の遼代の多くの遺跡が分布するが、特に城址北面の丘陵突端に
所在する塼塔およびその背面の寺院址、白塔子村に西方の呉家
墩村、及び白塔子村南面の寺院址、下湾子・北三家・韓家窩鋪
の壁画墓・火葬墓をはじめとする多くの墓群は注意されるべき
である。
( 4 ) 寧昌路故城
 寧昌路故城に充てられるのは敖漢旗瑪尼罕郷五十家子村の西
側に所在する五十家子古城である。故城は元代に機能したこと
が推測されているが、それ以前の遼代に造営されたことが遼塔
の存在とも併せ理解されている。しかし、その州の比定につい
ては儀坤州に充てる理解と降聖州に求めるものとが同時に存し
ており、目下定論を見ていない。故城は平面、方形を呈し、南
北約 250 m、東西 225 mであるが、更にその外周りには城壁
が確認されている。城壁は版築でその基底部は 6 ∼ 8m、現高
1 ∼ 2m である。城内では建築基壇も数箇所確認され、礎石・
石製の獅子像・至大元宝・遼代陶磁片・磚瓦片など多くの遺物を
写真2 恩州故城北西隅から西壁を望む
写真3 武安州故城の白塔
写真4 寧昌路故城南東隅から東壁を見る

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出土しているが、現在は耕作地となっている事も
あり詳細を知りえない。今回の踏査は、故城の南
壁と東壁のみに限られ、全体の構造を理解するに
は至らなかったが、城内中軸線やや北寄りに遼代
後期の八角十三級の磚塔が残されている。詳細に
ついては今後の調査によるところが大きい。
( 5 ) 白城故城
 城址は、赤峰市阿魯科爾沁旗の北部に所在する
罕蘇木査干浩特嘎査、阿魯科爾沁旗政府所在地の
天山鎮からは北方 75km に位置している。諸報
告によれば、故城は遼代に造営され、明代末期
にまで沿用されたことが推測されているのである
が、とりわけ注目されるのは、城壁・建築基壇をはじめ大規模な破壊をほとんど受けていないことである。故城
は内外二重の城壁から構成されているが、外城西壁は西白城と称される故城を圧して築かれている。先ず、外城
は東壁 584 m、西壁 510 m、北壁 1000 mの規模を有している。南壁は南隅に位置する東西二つの棋盤山とい
う天然の障壁を利用し、その間を基底部2m、頂部1m、現高 1.7 mの石墻で繋ぎ、中央に幅 10 mの南門を開
いている。また、西白城も同じく内外の二重の城壁を巡らしているのであるが、その外城の南北は 260m、東西
164m である。城門はともに南に一門が開くのみで、甕城の遺構は確認されていない。
( 6 ) 四方城
 巴林左旗西北の白音勿拉蘇木白音罕山に所在する韓匡嗣一族墓の東南 15km、四方城郷四方城村に位置する。
故城については、目下、韓匡嗣墓の発見から彼の私城である全州に比定する理解も呈されている。故城は東西の
二城から構成されており、その間は 160m である。東城は不規則な形態を示し、その外周は 1060m、 かって城
門は2基が確認されている。城内では多くの建築址の存在が知られていた。現在は大きく撹乱されていて具体的
状況を知りえない。一方、西城は大凡長方形を呈
し、南北 300m、東西 320m で、馬面が 11 基確
認されている。版築で築かれた城壁は現高 1.5 ∼
2m を測り、城内からは定窯、倣定窯の陶磁器片、
箆点紋土器片等が出土し、城址近郊の四方城遼墓
からは緑釉鳳首瓶、白釉鶏冠壺が出土した。
( 7 ) 黒河州故城
 巴林右旗都希蘇木友愛村の南 100m、北方背面
にはモンゴル語で『文字のある山』という名の必
其格図山に連なり、前面は査干沐倫川に臨む平野
に所在している。古城は、1970 年代末に発見され、
1989 年の遺跡の分布調査の際に再度調査を受け
ている。1950 年代には城壁の痕跡が確認されてい
たが現在は削平されており、城内北半部に4箇所
の建築基壇が確認されている。直径 30m 前後、現
高 3m 前後のそれらの建築基壇からは、石礎、溝
紋塼、布紋瓦等が出土している。本故城址につい
ては、巴林右旗博物館の巴図氏の案内を乞い、踏
査することができたのだが、現在は耕作地となっ
ており、南壁の比定地についても何ら他の地表面
と相違を見出せなかった。
写真5 白城北西より外城西壁と内城を望む
写真6 四方城西城南壁
写真7 黒河州故城南壁推定地より城内を望む

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( 8 ) 饒州故城
 林西県双井店郷西英桃溝村の東方、シラムレン川
北岸 250m の台地上に所在する。故城については
1912 年にこの地域一帯で布教活動を展開したミュ
ーリー師が踏査を行なった後、以前の昭烏達盟文物
工作站の蘇赫氏、林西県文化館文物組呉宗信氏、次
いで遼寧省文物工作隊の馮永謙、姜念思両氏らによ
って調査がなされている。故城は大小二城が連結さ
れた平面横長の長方形を呈し、東西 1400m、南北
700m の規模を有している。その東部が大城であ
り、東西 1055m、南北 700m、版築された城壁の
基底部は平均 18 m、現高 2m 前後である。城門は
各壁略中央に一門築き、また、甕城の備えを有している。甕城の設けられた四門のうち、東西二門は南に、南門
は西に門口を開き、北門は不明瞭ながらも東に開口することが推測されている。ただ、現在、城内は一面の玉蜀
黍畑となり、城門の開口方向はじめ、城内諸施設の現状についてもしばしば定窯系の白磁片が見出されるという
以外は明確な報告をなし得ない。次に小城であるが、小城は大城西部に連なっており、その南北は大城と同じく
700m、東西は 345 mである。城門は西面に一門確認されており、やはり甕城が設けられている。 ( 高橋学而 )
3.陵墓遺跡調査の概要
 2005 年度は宝山貴族墓地、耶律羽之家族墓地、韓匡嗣一族墓地等を踏査した。以下にその概要を記す。
( 1 ) 宝山貴族墓地
宝山貴族墓地は、阿魯科爾沁旗東沙布日台郷の西南約 12.5 ㎞の、巴林左旗との境界に近い山中に存在する契
丹時代の墓地であり、旗の中心地である天山鎮の北東約 35 ㎞に所在する。1993 年に盗掘がきっかけで発見され、
1994 年に内蒙古文物考古研究所が緊急的な調査を実施したという。その際に調査された墓は2基であるが、と
もに素晴らしい壁画墓であり、その様相は簡略ながら既に報告されている。この報文によると、出土遺物は金銀
器や陶磁器があったというが、その大半は盗掘に
よって持ち去られた模様である。
 この2墓は契丹建国直後の比較的初期の段階の
墓であるとみられ、ごく初期の墓葬例として極め
て貴重な事例であると言える。墓地は、北面に岩
山を仰ぐ斜面地にあり、墓域は築地で囲まれてい
る。この築地には、少なくとも南・東方向に門が
あることが、現地での調査でも確認できた。この
ほか、祭壇のような基壇状の高まりの跡も見受け
られた。当時の陵園の施設の様相を知る上では貴
重である。
( 2 ) 耶律羽之家族墓地
 耶律羽之は、
『遼史』によれば契丹の皇族の出身であり、その父・偶思は迭剌部の夷离菫〔部長〕にあった人物で、
また兄曷魯は太祖の信任が非常に厚い人物で建国期の功臣である。羽之も契丹の建国直後に大きな政治的役割を
果たした人物で、渤海滅亡後の故地を契丹が東丹国として統治経営に乗り出した際の右次相に任命されているが、
実質的に東丹国すなわち渤海故地の統治経営の責任者であったのはこの耶律羽之であったとみなしてよいであろ
う。渤海故地の統治・経営の基盤を作った人物として政治史的にも極めて注目される人物である。その耶律羽之
の墓地は、阿魯科爾沁旗の罕廟蘇木に所在している。旗の中心地である天山鎮より東北方に約 130 ㎞の地点に
ある。調査の時点では、すでに発掘区は埋め戻されており、墓室の状況などは見ることはできなかった。現状で
は、耶律羽之家族墓地との表示板のみが存在している。耶律羽之墓地に到達してみて気づいたこととしては、や
写真9 宝山貴族墓地
写真8 饒州故城大城北西隅から南を望む

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はり契丹の墓地が多く構築されるにふさわしい地理的条
件を満たしていることである。すなわち、南方に向かっ
て開く細長い谷である「溝」とよばれる地形の最奥地に
位置している。往々にして、北方には岩稜を伴った山が
存在していることが多いのだが、これは赤峰地方によく
みられる地形であり、多くの契丹墓はこうした岩稜をひ
とつのモニュメントとしてとらえて、その上で墓地の選
定を行っているような印象を受けた。耶律羽之墓地の場
合も、やはり谷の奥正面からやや左手の稜線上には、岩
が裂けたような奇岩が続く「裂縫山」と地域では称され
る特徴的な山がある。この山の様相は、墓地のはるか手
前の海哈爾河からも仰ぎ見れた。
( 3 ) 韓匡嗣一族墓地
 韓匡嗣一族墓は、巴林左旗内の白音勿拉蘇木の白音罕山の山腹に築造されている。当墓地内には、現在 45 基
程度の墓の存在がしられているが、そのすべては盗掘により発現したもので、その中で調査がなされたのはわず
かに3基しかない。今回の調査で訪れた契丹墓の中で、ここの3基の墓のみが現状でも開口している状態にあり、
内部に立ち入ることができた。最初に訪れた標高が最も高い部分にある1号墓が、3基の中では最も大きく、出
土墓誌からみて韓匡嗣の墓と想定されている。墓は、墓道が約 17 mあり墓門へと至る。墓門から甬道を経て前
室へと至る。その両脇には左右耳室があり、ともに平面方形で一辺約 2.2 mの規模である。そして最奥にある後
室は径約 5.5 mの平面円形で、屋根はドーム状に構築され、頂部の高さは 5.5 mを測るという。墓の建築部材は
基本的には塼であり、その上に漆喰状の壁化粧を施して、その上からさまざまな壁画が描かれている。主室の内
部は、著しい湧水によってか、床面の敷かれた塼は崩壊している部位が多く、さらには多くの木材が放置されて
いて、極めて歩きにくい状況であった。この木材の多くは、恐らく墓室内で棺を納めるために構築されていた木
室の部材と想定される。壁画は、主室天井面や甬道側面に多く描かれていた。冠をつけた漢人像や、鷹を手にし
た契丹人像、鳥類等の描画が認められた。これ以外の2墓についても、同様に内部をのぞくことができたが、こ
ちらの耳室は平面円形である点で1号墓とは異なる。規模は1号墓よりはいずれも規模が小さいが、ともに壁画
の存在するもので、その資料性は極めて高い。さらにより良い環境での保存が望まれるが、現状では湧水や風化、
その他の諸条件によって年々劣化する傾向にある。今後の遺跡・文物保護が待たれる。      ( 武田和哉 )
3.寺院・仏塔遺跡調査の概要
 2005 年度は、新たに弘法寺、開龍寺、開化寺、平頂山雲門寺、武安州仏塔、元寧州路仏塔等を調査した。以下、
写真 10 耶律羽之家族墓
写真 12 韓匤嗣墓甬道鷹匠像壁画
写真 11 韓匤嗣墓羨道

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その概要について記す。
( 1 ) 弘法寺
 内蒙古・巴林左旗林東鎮西の白音高洛村北山に所在する。1975 年 11 月に白音高洛村北山に見つかった小型
火葬墓から骨灰匣が発現しており、その匣板に二行に分けて縦書きで、
  弘法寺前管内都僧録弘覺大師賜沙紫門釋
  大康二年三月三十日乙時掩閉記
と三十二字が墨書されている(第二行の「乙時」二字は「日掩」の右脇に小字で附す)。白音高洛村北山一帯に
は火葬墓が集中し、そのなかには墓室に僧の壁画が確認されるものもあり、これらの墓群が遼代弘法寺に居住し
た僧たちの墓であったと王未想氏により考察されている。
 現在、この匣板は遼上京博物館に展示されている。寸法は縦 48 ㎝・横 18 ㎝・厚さ 1 ㎝、墨書はやや色褪せ
ているが文字判読は可能である。第一行の十四字目以下は「賜紫沙門」とすべきところを、誤って「沙」と「紫」
の字を逆に書いている。
 第一行の「前管内都僧録」は「前上京管内都僧録」の略記である。この骨灰匣に納骨された釋某は、弘覚大師
の二字師号および紫衣を賜り、また前任の上京管内都僧録としてかつて臨潢府内の僧尼および寺院を統べ、その
宗教行政を管轄していた。彼が上京方面の高位僧であったことが分かるとともに、弘法寺が僧官の輩出寺として
この地域に重きをなした大刹であったことが推測される。
( 2 ) 開龍寺
 内蒙古・巴林左旗林東鎮北山に所在する。1986 年 6 月に当該地域より磚室墓が出土したが、その墓室から遼僧・
鮮演大師の墓碑が発現しており、彼の墓であることが判明した。墓碑については既に巴林左旗博物館と朱子方に
よって録文および注釈が公表されており、また近刊予定の報告書において遼上京博物館所蔵拓本に基づく録文を
提示している。
 これらによると、鮮演、俗姓は李氏、懐州(巴林左旗西崗崗廟古城)の人である。同郷の太師大師(不明)に
礼して出家し、上京臨潢府の開龍寺に住した。清寧五年(1059)に十三歳で試経具戒し、燕京に赴き、同八年(1062)
以降に秦楚国大長公主(聖宗第二女の巌母菫か)の請をうけて竹林寺の講主となる。咸雍三年(1067)、改めて
開龍寺および黄龍府(吉林省農安県)講主に充てられ、大安五年(1089)に「円通悟理」の四字師号を特授される。
寿昌二年(1096)、崇禄大夫検校太保に遷り、旨を奉じて菩薩戒壇を開くこと七十二回に及ぶ。以後、特進守太保、
特進守太傅と進み、天慶二年(1112)帝闕を辞し、※※同八年(1118)に示寂した。生涯に『仁王護国経融通疏』
をはじめ多くの著作をのこしたが、現存するものは『花厳経玄談決択記』全六巻のみである。
 墓碑には鮮演が隠遁して余生を送った場所が開龍寺であるとの記載はないが、1987 年 6 月、鮮演墓と同一場
所において「開龍寺堆燈」の五字が墨書された匣板が発現したことから、王未想氏はこの付近一帯が遼代の開龍
寺に当たると考えているようである。この匣板は現在遼上京博物館に展示されており、その寸法は縦 26 ㎝・横
15 ㎝・厚さ 2 ㎝、墨書は縦書きで色褪せているが文字判読は可能である。
 開龍寺は文献史料にもその存在が認められ、『遼史』11・聖宗紀・統和四年條に、
  秋七月、‥また敵を殺すこと多きを以って、詔して上京開龍寺に佛事を建てしむこと  一月、僧萬人に飯す。
とあり、統和四年(986)七月、聖宗はこの年の戦役(承天皇太后の率いる遼軍が北宋の曹彬らを河北・山西に
破った戦い)において多数の北宋将兵を殺したことを理由に、開龍寺において仏事を執り行っている。
( 3 ) 開化寺
 内蒙古・巴林左旗林東鎮の南約 17km、真寂之寺からは東に約 3km の地点に所在する。遼代に建てられた石
窟 寺院のひとつである。聖水山の東峰、宝頂山と呼ばれる山の東側中腹に南北に連ねて大小2窟が現存してい
る。窟前には清代に建立されたチベット仏教寺院・隆善寺(通称前召廟)の寺址がのこる。北よりの大窟に関し
ては、1983 年に窟口に接して小廟が増築されたため、入窟には廟内を通る必要がある。今回調査に赴いた際に
は廟門が閉ざされており、残念ながら大窟の調査を行うことはできなかった。
 小廟後方の岩山頂上、すなわち石窟寺の頂蓋にあたる場所は平面になっており、その北隅には柱が嵌め込まれ
ていたと見られる複数の穴が円状に穿たれている。かつてこの頂上には遼・乾統九年(1109)の紀年をもつ陀
羅尼経幢一基が安置されており、ここに刻された題記から本寺が開化寺と呼ばれていたことが判明した。現在、

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本経幢は遼上京博物館に移管されているが、報告者
は確認できていない。
 開化寺の大小2窟については李逸友氏と金永田氏
その他に調査報告あるいは概要説明があるため、こ
れに基づき、実見に至らなかった大窟の状況を述べ
ておくと、窟口は東南に向いて開いており、窟室の
広さは 6.8 m、奥行きは 5.2 m、高さは 3.4 mある。
西壁の中央 1.5 mの高さに大型仏龕があり、その両
脇および南・北両壁に上下2層に分けて計 58 の小型
仏龕が確認される。南・北両壁の仏龕は楼閣を模し
ており、各龕の両側に柱を、上部に栱斗・檐椽を刻
している。かつてはこれらの仏龕に釋迦如来・羅漢・
仏弟子の尊像が安置されていたが、いまは見る影も
ない。
 現地関係者の話では文革において隆善寺の諸施設
が破壊されたとのことで、大窟仏龕内の諸尊像もま
たこの時に大半が毀たれたのであろう。報告者たち
が小廟後方の岩山頂上を調査していた際、頭・腕・
脚部を欠く仏像の胴部一体を見つけたが、元々はこ
の仏龕内に安置されていた尊像であったのかも知れ
ない。
 小廟の南側(左方)に位置し、窟口が外部に露出
しているのが小窟である。窟口の大きさは幅約 1.6
m、高さ約 1.4 mで、その右側に窓のような長方形
の穴が開いている。窟室は内部で2室に分かれており、南よりの窟室の西壁中央には方形の穴(仏龕?)が穿た
れている。金永田氏は、この小窟を開化寺住持僧の居住空間と見做す。
 小窟から小廟をはさんで北側(右方)の岩山壁面に仏龕とおぼしき大小のくぼみが確認されるが、多くは摩滅
しており、わずかに、中央やや北よりの高さ約 0.5 mの位置にあるものがそれと判別されるに過ぎない。この仏
龕壁に連なる北側の壁面に、チベット文字で刻された六字真言(六字大明呪)が確認されるが、これはおそらく
清代に隆善寺僧が刻したものであろう。
( 4 ) 平頂山雲門寺
内蒙古・巴林左旗林東鎮の北約 25km、 豊水山郷洞山に所在する。遼代の石窟寺院のひとつ。本寺の所在地一
帯は遊覧区になっており現地観光客も多い。洞山の名称は山内に百余の洞窟を有することに因む。
 ただし現在観覧できる洞窟は水帘洞・長仙洞・鴿
子洞・朝陽洞と呼ばれる四窟のみである。山内の寺
院建築物としては、入山口からほどない山麓に観音
菩薩・文殊菩薩・金剛手菩薩を安置した慈智殿が、
その西の高台五方如来を祀った千仏殿が確認される
が、これらは 2000 年に新たに建立されたものである。
遼代のものは現存しておらず、朝陽洞をはじめ数所
に寺址が残るに過ぎない。慈智殿の脇から石段を上
っていくと山頂付近の峭崖につきあたる。崖壁には
線刻添彩尊像が確認されるが、刻写年代は不明であ
る。山頂にはかつて仏頂尊勝陀羅尼経幢一基が安置
され、その七面に梵文陀羅尼が、残る一面に漢文の
写真 13 宝頂山
写真 14 隆善寺址
写真 15 小廟北側の仏龕

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題記が刻されていたという。残念ながら報告者はその実物・拓本と
もに実見できていないが、蓋之庸氏の『内蒙古遼代石刻文研究』に
題記録文が収められている。
 洞山頂上付近の峭壁を左(西?)に折れ、崖を下ると水帘洞に出る。
高さ約 10 m、幅が 8 m、奥行きが 34 mの大窟で、東向きに窟口
が開いている。現地関係者の話によると、本窟は人工的に開鑿され
たもので、石窟寺をつくる予定であったが中断されたとのことであ
る。東を尊ぶ契丹人が真寂之寺や開化寺の窟口を東方あるいは東南
方に向けて開いたことを踏まえれば、同方向に窟口を開く本窟は遼
代に開鑿されたものと見てよかろう。ただし窟内には仏像や仏龕な
どの信仰設備は一切確認されず、かつ真寂之寺や開化寺の窟室の奥
行きがせいぜい 5 ∼ 6 mほどであるのに対して、本窟はその7倍近
い 34 mもあり、仏殿として使用するにはいささか広すぎる感が否
めない。あるいは本山に住する僧の寝食の場として予定されていた
のではないだろうか。なお、この水帘洞の窟口の右脇、高さ約 1 m
の位置に線刻添彩大日如来像が見つかっており、その
上方にチベット文字で真言が記されている。洞山頂上
付近の峭壁に刻まれた菩薩像と様式が似ており、これ
とほぼ同時期に刻写されたものと考えられる。
( 5 ) 武安州仏塔
 内蒙古・敖漢旗新恵鎮東 28km の白塔子村北に所在
する。武安州は唐の沃州に当たる。中京大定府の属州
である。太祖がかつて木 葉山麓に居せしめた漢戸を
移住させたもので、当初は杏堝新城と称した。のち遼
西戸を増して新州と名を改め、統和八年(990)に武
安州と号した。州格は初め刺史州であったが、のち観
察州に昇格している(『遼史』39・地理志・中京道条)。
 武安州城址は白塔子村の西に位置しており、城址の北・西2辺は2河に囲まれ、北には験馬河(教来河支流)、
西には護城河が流れている。仏塔は城址から河を挟んだ北側、すなわち験馬河北岸の丘陵上に在る。本塔は遼代
初期に建立された八角十一層の密檐式磚塔で、塔高は 36 m、塔座
は毎辺が 6.2 mあるという。保存状態は良いとは言えず、塔刹は既
に倒壊し、さらに第一層塔身の南壁が抉れるように破損しており、
塔内部の空心が露出している。東・西・北三面の塔壁には仏龕 ( 仮
門? ) が確認されるが、本来は南壁にも同じものが設けられていた
筈である。本塔の他にも武安州城址附近には寺院址が2箇所確認さ
れている。ひとつは城址南の台地に在り、規模は比較的小さく、地
表には磚瓦の残片が確認される程度である。いまひとつは城址から
河を挟んだ西側、すなわち護城河西岸に位置する呉家墩遺址にある。
建築台基が9箇所見つかっており、4箇所は更地にされたが、5箇
所が現存している。ここからは三彩仏の腕部、緑釉仏の衣片、陶製
仏の腿部、泥塑仏の一部、瑠璃仏像座などが 見つかっていると報告
されている。
( 6 ) 元・寧昌路仏塔
 内蒙古・敖漢旗瑪尼罕郷 五十家子村西、孟克河西岸の台地上に
所在する。本地域には南北 250 m、東西 225 m、高さ約 2 mの長
写真 16 開化寺小窟
写真 18 武安州仏塔
写真 17 水帘洞

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方形の土築城墻が存し、また、これを取り巻くように
辺長約 600 mの外城墻が残っている。本城址は、遼
代の降聖州城または儀坤州城のいずれかに当たるとさ
れるが、いまだ確定には至らない。近年、本地域から
至大元宝や銀器など元代の遺物が見つかり、そのなか
のひとつである「加封孔子制詔碑」(至正二年 1342
記)の刻記に「寧昌路」の地名が確認されたことから、
元代寧昌路に相当する地域と考えられている。本塔は
城址内中央やや北よりの位置に立っている。八角十三
層の密檐式磚塔で、塔高は 34 m、塔座は毎辺が 6 m
ある。建立は遼代であるが、元・明代の重修を経てお
り、とくに塔刹は元代に新たに加えられたものであろ
うと、邵国田氏は考察する。現在、本塔周囲には穀物畑が広がっているため、近づいて調査を行うことができな
かった。遠方より観察したところ、第一層塔身の各面には仏龕が設けられており、その両脇に菩薩(?)立像の
浮雕が、その上方に飛天の浮雕が配されている。                      ( 藤原崇人 )
4.墓誌調査の概要
 2004 年度の調査に引き続いて、2005 年度は、遼中京博物館にて「鄧中舉墓誌」、また敖漢旗博物館にて「耶
律元寧墓誌」、阿魯科魯沁旗博物館にて「北大王墓誌」( 漢文・契丹文 )、遼上京博物館にて「韓匡嗣墓誌」、「秦
国太夫人墓誌」、「韓徳威墓誌」、「蕭興言墓誌」、「鮮演大師墓碑」、巴林博物館にて「羲和仁壽皇太叔祖哀冊」、「羲
和仁壽皇太叔祖妃蕭氏哀冊」、
「耶律弘世墓誌」、
「耶律弘世妻蕭氏墓誌」、翁牛特旗博物館では「蕭孝資墓誌」を各々
調査した。このうち、現地機関による報告が終了していない「蕭孝資墓誌」を除く各墓誌については、近刊予定
の報告書において、録文等の詳細を別途報告の予定である。
(武田和哉・澤本光弘・藤原崇人)
写真 19 寧昌路仏塔

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論 考 編
アムール女真文化の土器に関する基礎的整理と編年について
耶懶と耶懶水―ロシア沿海地方の歴史的地名比定に向けて―

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アムール女真文化の土器に関する基礎的整理と編年について
木山克彦
はじめに
アムール女真文化あるいはパクロフカ文化は、アムール中・下流域を中心に分布した靺鞨文化に後継する中
世文化である。アムール女真文化、パクロフカ文化という 2 つの名称は、担う集団に関しての見解の相違によ
り生じたものであるが、考古資料の内容には差はない。また年代観においても異同があり、アムール女真文化は
7世紀から 12 ∼ 13 世紀、パクロフカ文化は 9 世紀から 13 世紀とされている。文化領域はアムール河右岸の
中国領にも及び、遼代の綏濱 3 号文化類型や金代の資料に対応し、松花江中流域まで広がる。この為、同文化
を巡っては中国・ロシア双方で研究が進められてきた。近年、北海道のオホーツク海沿岸やサハリンにおいても、
同文化に比定しうる資料が増加してきており、靺鞨文化とオホーツク文化の間で認められたような交渉関係が、
規模は小さいながらも引き続き継続されていたことが明らかになりつつある。最長で約 600 年もの長期に渡り
存続したとされるアムール女真文化は、当時の政治情勢や周辺文化との関係の中で幾度かの文化変遷を遂げたと
みられ、その背景について言及した論考も出されている。しかしながら、日本では、アムール女真文化あるいは
パクロフカ文化として一括される傾向にあり、存続期間のいつ頃にあたるかという問題はあまり検討されてこな
かったように思われる。その原因のひとつとして、同文化の編年的整理が日本側であまり顧みられなかったこと
が挙げられよう。今後、大陸とサハリン、北海道との交渉関係について検討していく為には、同文化に限らず、
大陸の諸文化に対する理解と整理が必要となろう。本稿ではその端緒としてアムール女真文化の出土土器に関す
る基礎的整理を行うとともに、その編年について検討していきたい。
尚、同文化の名称はロシア側、中国側あるいは研究者間でそれぞれに異なるが、本稿では、アムール女真文
化として統一しておく ¹。
1.アムール女真文化の研究略史
 アムール河流域に展開する中世期のアムール女真文化は、当初、北宋銭が出土したことから、存続年代が 10
∼ 13 世紀とされ、靺鞨文化に後継するものと捉えられた。しかし、コルサコフ遺跡の調査成果が公表され、同
遺跡中に放射性炭素年代の古い墓壙が含まれることや靺鞨文化の土器と非常に類似した土器が出土することが
明らかとなったことから、上限が 8 世紀代まで引き上げられた(Медведев 1982、1986)。これにより
同文化は、存続年代が 4 ∼ 8 世紀(Деревянко 1975)あるいは 10 世紀まで(Дьякова 1984)
とされる靺鞨文化の年代観と部分的に併行することになったのである。メドベージェフ氏は、資料的に靺鞨文化
との共通性が高いことから、同じツングース系の異なる集団が担っていたとし、別集団が異なる時期にアムール
流域に流入してきた為、部分的に併行すると解釈した。
また沿海州における女真族の文化(金代)とは多くの考古資料に相遺点が認められることから、同文化は、
女真族ではなく室韋族が担ったものであるとして、パクロフカ文化という新たな名称に替えようとする提言も出
されている(シャフクーノフ他 1993 ほか)。但し、特に新たな資料が追加公表されて設定されたものではなく、
年代の上限設定に差はあるものの、資料の特徴はアムール女真文化と同一のものである。
このような状況の中、注目されたのはヂャーコヴァ氏の極東初期中世に関する検討である。氏は靺鞨文化、
アムール女真文化、パクロフカ文化、渤海文化等、関連諸文化は国家、族属の概念に捉われて設定されている点
を指摘し、各文化の土器を対照させながら、文化間の交渉関係について検討している。アムール女真文化に関し
ては、コルサコフ遺跡の一部は靺鞨文化に属するトロイツコエ墓の資料と同一であり、文化的な相違は存在しな
いとしている(Дьякова 1993)。
日本側では、菊池俊彦氏によるオホーツク文化と靺鞨文化、アムール女真文化との比較に代表されるように、
主に大陸と北海道との関係を検討する中で同文化に対して関心が注がれてきた(菊池 1995)。近年、その年代
や系統、解釈について積極的な検討を行った研究として、臼杵勲氏によるものが挙げられる。氏はコルサコフ遺
跡とトロイツコエ遺跡の資料に一致する部分があることを指摘し、さらに先に見たメドベージェフ氏の年代引き

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上げについては、新資料を包括する為に既に設定されていたアムール女真文化の枠を広げることで対応した為に
生じたと指摘している(臼杵 1996)。またヂャーコヴァ氏の提唱に賛意を示し、極東中世期のロシア・中国の
諸文化を一旦「同仁系統」と包括して広域編年を示している。そこでは主に方形透入帯金具の編年によって相対
的な前後関係を示すとともに、これに共伴する土器群の組成変化についても言及している。アムール女真文化は、
氏のいう「同仁系統」内の 5 期から 9 期が対応し、実年代として 8 世紀後半から 12 世紀初頭と想定されている
(臼杵 2004)。
 一方、中国側の松花江と黒龍江の合流点付近でも、1970 年代中頃からアムール女真文化と類似する遺跡が調
査され、公表されている。綏濱 3 号文化類型は、綏濱 3 号遺跡や永生遺跡等を基準資料とするもので、ロシア
側のアムール女真文化に対比され、9 世紀から 10 世紀の年代が与えられている。遼代の五国部に対応するとさ
れる。
また遼代から金代に位置づけられる奥里米遺跡、金代中期以後とされる中興古城周辺で見つかった墳丘墓群
(以下、中興古城遺跡とする)の資料も注目される。アムール女真文化は 13 世紀代まで存続し、後半期は金代
の領域に入っていたと認識されている(Медведев 1986)。これは共伴する鉄製品の形状が沿海州にお
ける金代の資料に類似することを主な根拠にしたものであったが、出土状況については明瞭でなかった。その為、
中興古城遺跡でアムール女真文化の系譜を引く土器と大定通宝が共伴した事例は、アムール女真文化が 12 世紀
後半まで存続することが確認された点で重要な意味を持つ。また、奥里米遺跡の土器は、永生遺跡と中興古城遺
跡の資料の中間的な性格を持つとされ、遼代から金代にかけて当該地域の土器に系統関係が存在することが指摘
されることとなった(胡 1995)。
アムール女真文化の土器の編年や年代観については、これまでに幾度かの検討がなされている。メドベージ
ェフ氏は、アムール女真文化の土器群を類型化して概括的な説明を加え、年代については 3 期に細分している
(Медведев 1986)。1 期はコルサコフ遺跡群の一部が該当し、花瓶形の土器の形状や放射性炭素年代の
数値から 8 世紀後半から 9 世紀前半に位置づけている。2 期は北宋銭や放射性炭素年代の数値から、9 世紀終末
から 12 世紀第 1 四半世紀に当てる。コルサコフ遺跡の大半、ボロニ湖、ナデジンスコエ遺跡等の多くの遺跡が
ここに属し、アムール女真文化として知られる特徴は概ねこの段階にあたっている。3 期は、ツングースカ遺跡、
ジャリ城址が該当する。沿海州における金代の鉄製品との類似から 12 世紀第 2 四半世紀から 13 世紀後半とし
ているが、年代の根拠は明瞭ではない。その後、氏はコルサコフ遺跡を再分析し、同遺跡を 7 段階に分類して
いる(Медведев 1991)。氏の前稿における 3 期を除いた細分である。この中で、最初期については 6
世紀末まで上限を引き上げている。土器群の変遷については、コルサコフ遺跡の初期には、靺鞨文化やポリツェ
文化に類する資料があるとし、幾つかの器種については時間的な変化があることを指摘している。また回転台に
よって成形された硬質土器が途中から増加し、最後に野焼き土器が消失して鉄製品の模倣品が流入することも指
摘している。
シャフクーノフ氏等の提唱するパクロフカ文化も、コルサコフ期(9 世紀末から 10 世紀)、ナデジンスコ・
ルダニコフスキー期(11 世紀から 12 世紀)、クラスノアルメイスキー期(12 世紀から 13 世紀)と 3 期に区分
されている(シャフクーノフほか 1998)。いずれの段階も資料の特徴は判然としないが、細分段階の名称とな
っている遺跡からは、初期には古手の花瓶形の土器があることや 2 期の遺跡では北宋銭が出土していること等、
概ねメドベージェフ氏の見解が基礎となっているようである。しかし、コルサコフ遺跡の上限については、メド
ベージェフ氏の示した放射性炭素年代の数値は一部のデータに過ぎず、その他多くのデータは 9 ∼ 10 世紀に安
定しているとして引き下げており、見解の相違点が明確である(シャフクーノフほか 1993)。
 一方、中国側では、綏濱 3 号文化類型について、アムール女真文化(特にナデジンスコエ遺跡)との類似か
ら遼代とされる。この文化を単独で扱った土器研究はないが、アムール・松花江流域の靺鞨から女真期(同仁一
期文化から綏濱 3 号文化類型)にかけての編年については、幾つかの検討例がある。譚英傑と趣虹光氏による「黒
龍江中流鉄器時代文化分期浅論」(譚・趣 1993)、「再論黒龍江中流鉄器時代文化晩期遺存的分期−科薩科沃墓
地試析−」(趣・譚 2000)が代表的なものである。前者では、中国・ロシア双方の靺鞨文化(=同仁文化一期・
二期)、アムール女真文化(=綏濱 3 号文化類型)に属する 9 遺跡の資料について前後関係を付け、出土土器を
10 器種に分類した上で器種ごとに型式学的検討を加えて、全体的な傾向の把握に努めている。アムール女真文

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化に当たるのは、氏等の鉄器時代晩期前段・後段である。この段階の特徴として、前代からの連続性が認められ
るとともに以前には見られなかった器種が増加することを指摘している。この中には「製陶土器」も含まれ、土
器生産に大きな変化があったとしている。その年代については、晩期後段に比定されるナデジンスコエ遺跡で出
土した北宋銭から 10 世紀から 11 世紀としている。後者の論考では、鉄器時代晩期前段にあてたコルサコフ遺
跡を対象として、更に細別している。それによると、コルサコフ遺跡では、長軸が東西方向の墓壙と東南−西北
方向の墓壙に分類が可能であり、幾例かの切り合い関係から前者から後者という新旧関係が認められるとする。
また両墓壙を検討すると出土土器の組成に差が認められるとしている。東西方向の墓壙では、深鉢や壷が出土
し、トロイツコエ遺跡や石場溝遺跡の資料と類似する。一方、東南−西北方向の墓壙では、胴部に縦位の溝やへ
こみを入れる「瓜棱」文様を持つ土器が出土すると指摘する。瓜棱文様は、ナデジンスコエ遺跡で認められる土
器の特徴であることと先に見た切り合い関係から、東西方向に延びる墓壙より新しいとする。また東南−西北方
向の墓壙の内、瓜棱文様を持たない土器群については、新旧の中間に位置づける。すなわち、コルサコフ遺跡を
3 期に区分しており、先に公表された論文とあわせると、氏等の指摘する鉄器時代晩期は早期段階(コルサコフ
遺跡:東西方向の墓)、中期段階(コルサコフ遺跡:東南−西北方向の墓の内、瓜棱文様を持たないもの)、晩期
段階(コルサコフ遺跡:東南−西北方向の墓の内、瓜棱文様を持つもの。ナデジンスコエ遺跡等)となる。
 以上、簡単にアムール女真=パクロフカ文化を巡る研究について振り返った。当該文化における年代研究は、
メドベージェフ氏をはじめとして、細分段階の設定が可能であることで一致している。しかし、各段階によって
土器群の特徴や組成がある程度判明しているものの異同もあり、未だ検討の余地を残すものと思われる。また各
時期を区切る指標となる特徴も提示されているが、それぞれに相違も認められる。文化の下限についても、上記
のように金代にまで下ることが確認されながらも(他にも大貫 1998、桝本 2001 等がある)、土器群の構成はは
っきりしていない。年代観に関しても統一見解が得られているとはいえない状況である。本稿ではアムール女真
文化の土器群の基本的な特徴を整理し、類型化しながら、各時期を区分しうる土器群の特徴と変遷について検討
を行う。
2.アムール女真文化における土器群の成形・整形について
中国とロシアに跨るアムール女真文化は、双方に異なる考古学的手法が存在しているため、土器の分類単位
についても異同がある。本稿では、双方の資料を総合的に用いることも目的のひとつとしている。まず、アムー
ル女真文化の土器の基本的な属性である成形・整形からみていきたい。
ロシア側では、アムール女真文化の土器は胎土の質、成形から以下のように 3 分類される
(Медведев 1986)。
1.Лепная:非回転台使用の粘土紐積み上げによる低温焼成。
2.Станковая/круговая:土器製作時に回転台を利用して成形し、且、高温焼成のもの。灰色、
黒色を呈する。
3.керамика доработтанная на круга:上記 2 者の中間形態。土器製作におい
てロクロ使用が認められ、焼成はЛепнаяに近いとされる。
一方、中国側における遼代の綏濱 3 号文化類型、金代の土器は夾砂陶と泥質陶に大別されている。夾砂陶は
鉱物や砂の粒が残る粗い胎土を持ち、泥質陶は細密な胎土の土器とされる(耿・林 1987、飯島 2003)。
ロシア側では成形、中国側では胎土の質を上位として分類しており、一致しない。しかし、中国側の報告か
ら成形の記載を集成し、双方の要素を対照させると(表 1)、概ねЛепнаяと夾砂陶、Станковая
と泥質陶が一致する ²。しかし、泥質陶の中に回転台を用いない成形も含まれることや、夾砂陶の中に回転台
により整形を施したものもあることから、完全一致はしない。特に後者は、ロシア側分類のкерамика
доработтанная на кругаに対応する。
ここで取り上げたロシア側の分類単位は、当該期のみならず広くロシア中世考古学で用いられている。しか
しロシア人研究者の間でも見解が一致しない部分はある。керамика доработтанная на
кругаとСтанковаяとの間で、成形あるいは整形時に回転台がどの程度利用されているのか区分が
不明瞭であるとするゲリマン氏の見解は、その代表例といえよう(Гельман 1998)。氏の指摘にある通

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り、確かに当該期を含めた中世期の土器において製作時に回転台がどのように利用されていたのかは明らかでは
なく、分類基準として曖昧さを残す。しかし一方で、資料を実見する限り、胎土に鉱物や砂粒を多く含む点では
Лепнаяに近いながらも回転台を利用したと思われる土器は実在し、СтанковаяとЛепнаяと
の中間的資料としての位置付けも可能であると思われる。
また胎土の質や回転台利用の痕跡から、ЛепнаяとСтанковаяは明確に判別できる。
Станковаяの土器は色調、胎土の質から還元炎焼成と考えられ、酸化炎焼成と考えられるЛепная
の土器とは生産技術において差があると理解できる。この質的な差は当時の土器組成を把握する為に重要な属性
であるといえる。また、これらの中間形態についても時間的あるいは地域的な趨勢を明らかにすることで、ア
ムール女真文化の土器生産の技術的な変遷に迫ることができよう。しかし、個体ごとの事実記載が詳細ではない
為、本稿でそれぞれを分類しながら確認していくことができない。その為、中間形態に関しての区分に問題は残
すものの、本稿では、野焼き非回転台使用の土器(Лепнаяと夾砂陶)と還元炎焼成による回転台使用の土
器(Станковаяと泥質陶)に区分しておく。特に後者については便宜的に「硬質土器」とする。
3.アムール女真文化の土器について
(1)器種について
アムール女真文化の器種組成は多様であるが、ここでは、主要構成器種を靺鞨罐、壷、盤口壷、広口罐、孟、盆、
短頸瓶に大別して説明する。
靺鞨罐
アムール女真文化に先行する靺鞨文化や同仁一期文化から引き継がれる系譜の土器である。「靺鞨」の分布し
た極東地域で使用されたとされ、ロシア側で「典型的な靺鞨タイプの土器」、中国側で「靺鞨罐」と呼称される
土器と系統的連続性を持つ資料である。後者の名称を取って分類する。資料の特徴としては、口縁部に隆帯を有
し、深鉢形、筒形を基本とする。いずれも非回転台使用による成形で、焼成温度が低く酸化炎焼成による。回転
台による整形も一部に認められるが、硬質土器は存在しない。色調は褐色から黒褐色が多い。
アムール女真文化を含めた隣接・先行文化の分布圏内において普遍的に認められる。靺鞨罐の変化方向は基
本的に一致しており(臼杵 1995、2004)、年代的な位置付けを知る基準のひとつとなる。渤海領内における靺
鞨罐について足立拓郎氏の示した口縁部と胴部文様の組み合わせによる分類は、靺鞨罐の基本的特徴を示してい
る(足立 2000)。但し、アムール女真文化に関してはヂャーコヴァ氏(1993)、趣氏等(趣・譚 2000)、臼杵氏(2004)
が示すように、器形と器面調整痕も年代的な段階を画す重要な属性である。ここでは器形、口縁部形態を主な基
準として以下のように分類する。
靺鞨罐 1 類(図 1 − 1):器形は、伸張する頸部を持ち、胴部最大径が器形の中位あるいはそのやや下にある
ことを特徴とする。口縁部は頸部から緩やかに外反し、直下に隆帯を持つ。隆帯の作出は、貼付によるものと口
縁部となる粘土帯をやや厚く積み上げ、その上端を撫で付けて隆起させる手法がある(Медведев 1986)。
隆帯に刻みを持つ資料もあるが、殆どは無文である。胴部文様は頸部と胴部の境に水平の隆帯が付く。ごく少数
例だが、胴部隆帯は一周して閉じず、いわゆる「巻き蔓状」を呈すものもある。無文のものも多い。
靺鞨罐 2 類(図 1 − 2):靺鞨罐 1 類に比較して、器高が低く、胴部幅が 1 類と同じか幅広である為、やや偏
平な印象を与える。口縁部は大きくまた急に外反するものが多い。頸部は口縁部に程近くに位置し、短い。口縁
部直下に隆帯が付くが、口唇が外に折れるようになる為、肥厚帯が 2 重に見える効果がある。文様は口縁部肥
厚帯に刻みを持つものもあるが、殆どが無文である。頸部と胴部の境に 1 類と同様に水平の隆帯が付くが、頸
部が 1 類に比べ上位にある為、隆帯もやや高い位置を占める。無文のものも多い。
靺鞨罐 3 類(図 1 − 3):頸部は殆ど作出されず、胴部下半から口縁に向かってほぼ直立するか、外にやや開
いて立つ器形である。口唇部の端面から外に張り出す隆帯を持つものもある。胴部文様はなく、方格の叩き目文
を持つものが多い。
靺鞨罐 4 類(図 1 − 4):口縁は大きく外反し開く。短い頸部を持つ。2 類と比して胴部以下は膨らまず、底
部に向かって収縮する。隆帯は 2 類のように口唇とその直下に付すものと、3 類と同様に口唇に直接付くものが
ある。隆帯には粗い刻みを持つ。また大きく外反した口唇の下端に刻みを持つものもある。

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壷形土器
長頸壷 1 類(図 1 − 5、6):胴部が大きく膨らみ、肩部が張り出し、頸部が伸張する土器。口縁部直下には
靺鞨罐 1 類と同様の隆帯が付く。硬質土器と、回転台により整形されるが酸化炎焼成による土器(上記の中間
形態に属する土器)がある。
長頸壷 2 類(図 1 − 7):1 類と類似する器形だが、頸部がより伸張する。口縁部に隆帯を持たない。硬質土
器である。
長頸壷 3 類(図 1 − 8):頸部と胴部以下の長さが近づく小型の土器。多くは硬質土器だが、稀に非回転台使
用の成形による酸化炎焼成の土器もある。
短頸壷 1 類(図 1 − 9 ∼ 12):長頸壷に比べ頸部は短い。口縁部は外に折れ曲がり厚いものが多い。この肥
厚部の中央に沈線を引き、段をつけるものもある。硬質土器が主体だが、稀に非回転台利用の成形による酸化炎
焼成の土器を含む。
短頸壷 2 類(図 1 − 13):短頸壷 1 類に比べより頸部が短くなる。また器高も低く、胴部が大きく横に張り出す。
口縁部は外反し肥厚し、この肥厚部に段を付けるものもある。ほとんどが硬質土器だが、稀に酸化炎焼成の土器
もある。
短頸壷 3 類(図 1 − 14):短頸壷 1 類、2 類に全体の形状は近いが、口頸部に蛇腹状の微隆起を持つものを
分類する。硬質土器のみである。
盤口壷 1 類(図 1 − 15、16):皿状あるいは碗状の口縁部を持つ壷形土器。硬質土器が主体である。
盤口壷 2 類(図 1 − 17):盤口壷 1 類と同様であるが頸部が消失し、肩部に直接碗状の口縁が付く壷形土器。
硬質土器である。
 広口罐(図 1 − 18 ∼ 21):短い頸部を持つ壷形土器。器高と器幅の関係は短頸壷 3 類に近いが、頸部の横の
縮約が小さく、口径が大きい土器。硬質土器を主体とする。
 短頸瓶(図1− 24、25):胴部は底部からあまり広がらず、肩部は張りだす。縮約した短い頸部を持つ。硬
質土器を主体とする。
 孟(図 1 − 22):渤海土器の分類(劉ほか 2003)に倣い名称をつける。胴部から口縁にかけて大きく内湾す
る器形である。内湾する口唇部が直前で真っ直ぐ立ち上がるものが多い。硬質土器である(Медведев1986
ほか)。
盆(図 1 − 23):渤海土器の分類(劉ほか 2003)に倣い名称をつける。器高に対して胴部幅、口径が大きい
鉢形の器形。大きく開く口縁を持ち、口縁下に頸部を持つ。胴部に橋状の把手や突起を持つものもある。多くは
硬質土器のようである。
碗(図 1 − 27):底部から外反しながら立ち上がる形状が多い。多くは無文であるが、胴部に方格の叩き痕
を残すこともある。非回転台利用の酸化炎焼成による。
器蓋(図 1 − 26):碗を逆さにした形状に近いが、開く形状は碗に比べ大きく喇叭状となる。鈕は円柱やく
ずれた宝珠形がある。
(2) 文様構成について
文様帯
靺鞨罐、碗、器蓋を除いた器種において、文様施文の基本となるのは肩部と頸部を中心とした水平方向の文
様帯である。文様帯の数と個体内での位置に基づき以下のように分類する。

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1 類:頸部と胴部の境にのみ文様を持つもの(図 1 − 5 ほか)。
2 類:頸部と胴部の境に文様を持ち、隣接する上下いずれか、あるいは両方に文様帯が付加されるもの(図 1
− 7、15 ほか)。
3 類:頸部に文様帯を持つもの。頸部に縦方向の短い沈線を等間隔で充填するもの(図 1 − 12 ほか)や稀に
波状の沈線を横方向に施文するものがある。尚、この中には暗文も含まれるが、一括する。多くは文
様帯 1 類あるいは 2 類とともに施文される。
4 類:胴部に水平方向の文様帯を複数持つもの。スタンプ文か沈線文が水平方向に巡る(図 1 − 24 ほか)。1
例のみ格子状の沈線文を全面に施すものがある。尚、胴部に付される文様種である把手と瓜棱文様は
除く。
5 類:水平方向の文様帯を持たないもの。
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図1 アムール女真文化の土器 (S = 1 / 8)

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文様の種類
隆帯:文様帯 1 類にのみ施文され、頸部と胴部の境に一周巡らす。略して「R」とする。
沈線:文様帯 1 類の場合、頸部と胴部の境に 1 条の沈線が巡る。文様帯 2 類では、数条の沈線が引かれる。
また 2 条の沈線を引き、この間を鋸歯状、三角形の沈線を規則的に充填することもある。3 類の頸部に施される
沈線は、等間隔に施文された縦方向の沈線である。「C」とする。
スタンプ文:菱形、格子状の幾何学文や短い刻線、櫛状と多種類あるが一括する。文様を刻んだ多面体工具
による回転施文と推定されている(Медведев 1986)。特に幾何学文に関しては、スタンプの間隔が規
則的で一定している為、回転施文の可能性があるが、今後、全形の分かる資料を分析した上で判断したい。「S」
とする。
減少
靺鞨罐
長頸壺
短頸壺
図2 アムール女真文化の土器の変遷(1) (S = 1 / 12)

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橋状把手:アーチ状の把手が胴部の中位に 1 ∼ 2 対付される。「H」とする(図 1 − 19)。
突起:円柱状の突起が胴部の中位に 1 ∼ 2 対付される。「T」とする。
瓜棱文 1:縦方向に 4 ∼ 8 条の沈線を持つもの。「K 1」とする(図 1 − 9 ∼ 11、16、17)。
瓜棱文 2:縦方向に凹みを加えるもの。「K 2」とする(図 1 - 8)。
他にも暗文や彩文(図1−17)が存在する。後者は特定遺跡でしか見つかっていないが、前者は一定量存在する。
しかし、実測図からは沈線と判別しにくい為、ここでの分類には入れていない。
(3) 分類について
アムール女真文化の土器文様は、以上の文様帯と文様種の組み合わせから成る。これらの重複関係を示す為、
盤口壺
広口罐
短頸瓶
図3 アムール女真文化の土器の変遷(2) (S = 1 / 12)

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本稿では記号化して分類する。記号化の順は器形、文様構成、文様種とする。また文様帯に用いられる文様種は、
隆帯、沈線、スタンプ文で構成されており、橋状把手、突起、瓜棱文 1、2はここに含まれない。これらは、単
独か水平方向の文様帯と共に付加される。後者の場合、施文順は最後となる。これらの文様種がある場合、文様
帯種とそれを構成する文様種を示し、その後に「/ H」等として記す(Ex4 参照)。少数例しかないが、把手(突
起)と瓜棱文の両方が付く場合は「/ H(T)/ K 1(2)」とする。
また文様帯1類では文様種は1種類に限られるが、文様帯 2 ∼ 4 類に関しては、複数の文様種が用いられる
こともある。文様種が 2 種以上ある場合は、頸部と頸部の境にある文様種を先に記し、そこに組み合う文様種
を後に表記する。文様種が同一である場合は 1 種類のみを表記する。水平方向の文様帯がない場合は「5M」と
表記する(Ex4 参照)。以下、いくつか例示しておく。
Ex1) 長頸壷1類1R:頸部と胴部の境に文様帯を持ち、それが隆帯による長頸壷1類(図 1 − 5)。
Ex2) 長頸壷 1 類 2 C:頸部と胴部の境に複数の沈線文が巡る長頸壷 1 類(図 1 − 6)。
Ex3)盤口壷 1 類 2CS:頸部と胴部の境に沈線を持ち、その上下いずれかあるいは両方にスタンプ文を持つ
盤口壷1類。(図 1 − 15)
ここで用いる記号化では、文様意匠が反映されない。基本となる意匠を述べておくと、文様帯 2 類の内、沈
線文のみの構成(2C)では、頸部と胴部の境に平行沈線が引かれるものと 2 条(あるいは数条 1 組)の沈線間
を縦、横方向の短い沈線で充填するものがある。沈線文とスタンプ文(2CS)による構成は、平行に引かれた 2
条の沈線間をスタンプ文で充填することが多い。
Ex4)盤口壷 2 類 5M / K2:瓜棱文以外は無文の盤口壷 2 類(図 1 − 8)。
尚、文様帯 3 類の頸部の文様は、沈線(あるいは暗文)以外存在しない。その為、記号の表記は省略する。
文様帯 3 類の内、頚部と胴部の境に文様帯 2 類を持つ場合は、この文様帯を構成する文様種を記す(Ex5 参照)。
文様帯3類の内、頸部と胴部の境に文様帯を持たないものは「M」の表記を付けるが(Ex6 参照)、文様帯 4 類
で同様の例の場合は「M」の表記を省く。文様帯 4 類で文様帯1類あるいは 2 類を併せ持つ場合は、末尾の記
号が文様帯 4 類を構成する文様種である(Ex 7参照)。また頚部文様帯 2 類と 3 類と胴部全面の文様帯(文様
帯 4 類)を併せ持つ資料もある。この場合、頸部文様帯の記載の後、「+ 4 種文様帯の内容」としてする(Ex8
参照)。
Ex5)短頚壷 1 類 3RC:頚部と胴部の境に隆帯が巡り、その上下一方あるいは両方に沈線による文様を持つ。
また頚部に沈線文を持つ短頚壷1類(図 1 − 12)。
Ex6)広口罐 3M:頚部と胴部の境に沈線文による文様帯を持つが、肩部以下の水平方向の文様帯は持たない
広口罐(図 1 − 18)。
Ex7)短頚瓶 4RS:頚部と胴部の境に隆帯を持ち、胴部にスタンプ文による圧痕列を複数帯持つ短頚瓶(図 1
− 24)。
 Ex8)短頚瓶 3R + 4S:頚部と胴部の境に隆帯を持つ短頚瓶で、頚部には沈線文が引かれ、胴部に複数帯のス
タンプ文が横冠するもの(図 1 − 25)。
尚、アムール女真文化の土器には、底面に沈線や隆起線による印文が付されることがある。靺鞨罐、碗以外
の器種に認められる。
4.アムール女真文化の段階区分と器種組成
本稿で分析対象とするのは、コルサコフ(Медведев 1982、1991 の内、土器を伴う墓壙 139 基)、
ナデジンスコエ(Медведев 1977)、ボロニ湖(オクラドニコフほか 1975、Медведев 1977)、
綏濱 3 号(干ほか 1984、譚英傑ほか 1991b)、綏濱永生(譚英傑ほか 1991c、田ほか 1992)、奥里米(黒龍江
省文物考古工作隊 1977b、胡秀傑 1995)、中興古城遺跡(黒龍江省文物考古工作隊 1977a 胡秀傑・田華 1991)
の資料である。
これまでアムール女真文化の資料で、遺跡中の層位関係によって新旧関係が判明しているものはない。上記
の遺跡から出土した資料は、いずれも墓壙出土のものである。またコルサコフ遺跡を除いて墓壙間に切り合い関

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係は認められない。その為、墓壙内での器種組成と、遺跡間の器種組成における排他的な関係を見出し、遺跡間
の相対関係と型式学的な相対関係によって新旧関係を判断していく。まず上記の遺跡の内、資料的に最も充実し、
アムール女真文化の古手をその一部に持つとされるコルサコフ遺跡の分析を行う。
これまでの研究から、コルサコフ遺跡には古手の土器組成があるという点で意見の一致を見ている。特に、
ヂャーコヴァ氏(1993)や趣氏等(趣ほか 2000)、臼杵氏(2004)は、靺鞨罐の変化として、胴部が長胴から
短胴に変化すると指摘している。本稿での分類を対応させると、前者は靺鞨罐1類に、後者は靺鞨罐2類にあて
られよう。靺鞨罐1類と2類の出土状況を検討すると、共伴事例は 4 例のみである(表 3)。また靺鞨罐1類と
2類に共伴する他の器種についてみると、靺鞨罐1類では、長頸壷1類、短頸瓶、孟を主体とし、これに碗、盆
が加わる。靺鞨罐2類ではこれらに加えて、短頸壷、盤口壷、短頸壷 1 類、広口罐が主体となる。また長頸壷 1
類のように両者に共通する器種においても数量的な変化が認められる。つづいて文様についてみると、靺鞨罐1
類の土器組成では、長頸壷の文様帯は1類あるいは2類に限られるのに対し(表 4 − 1)、靺鞨罐2類の土器組
成では、文様帯 3 類、4 類が増え、把手、瓜棱文が付加される(表 4 − 3)。また同じ文様帯 2 類中でも、前者
は単一文様種による構成であるのに対し、後者は 2 種以上の文様種の混合による(表 4 − 3.2RS 等の増加)。尚、
靺鞨罐 1 類の組成中でも、短頸瓶は文様帯 4 類となるが、この器種は胴部全面に文様帯を持つことを基本的な
特徴としている。以上から、靺鞨罐1類と 2 類を指標とした土器組成は、明確に排他的な関係にあるといえる。
ではこの相違は何に起因するのであろうか。靺鞨罐 1 類の頚部が伸張する形状は、靺鞨文化のナイフェリト群
(Дьякова 1984)に類似するが、口縁部のキザミや胴部文様に型押しや沈線を付さない点では同文化の
トロイツコエ群と類似する。ナイフェリト群とトロイツコエ群は新旧関係にあるとされる(Дьякова1984、
臼杵 2004 ほか)。この関係は同仁文化一期と二期における靺鞨罐の差からも追認することができるが(譚ほか
1991)、同仁遺跡の詳細は公表されておらず、層位的な関係については不明な部分が多かった。近年、渤海領内
である牡丹江中流域における河口遺跡、振興遺跡等の発掘調査で両者の関係が層位的に実証されている(黒龍
江文物考古研究所・吉林大学考古学系 2001)。振興遺跡では、ナイフェリト群にあたる土器 4 期で、口縁部の
キザミが消出し胴部文様として隆帯を持つトロイツコエ群に比定できる靺鞨罐が 5 期でそれぞれ出土しており、
新旧関係が明らかとなっている。振興 5 期の土器と本稿の靺鞨罐 1 類の特徴は基本的に一致しており、相対的
関係としてナイフェリト群に後続する位置を与えることができる。
靺鞨罐 2 類についてはどうであろうか。この土器組成の内、注目されるのは瓜棱文を持つ盤口壷(以下、盤
口瓜棱壷とする)である。盤口瓜棱壷は、遼代の契丹土器としても知られる資料である。契丹の盤口瓜棱壷と比
較すると、共通性が高いことは明らかである。遼代の契丹土器研究によれば(今野 2002、彭 2003)、耶律羽之
墓(941 年没)(内蒙古文物考古研究所 1994、盖 2004)や沙子溝墓(敖漢文物管理所 1987)等で出土し、遼
代でも 10 世紀中葉頃に盛行している。その共通性からしてアムール女真文化においても盤口瓜棱壷を中心とす
る土器組成は、概ね同時期と考えてもいいだろう。
以上からすると、靺鞨罐1類を含む土器組成は、アムール女真文化において初期の段階であり、靺鞨罐 2 類
を含む土器組成との排他的関係は時間差に起因するものと考えられよう。また靺鞨罐1類の土器組成で注目され
るのは、硬質土器の存在である。靺鞨罐1類が出土する墓壙 29 基の内、硬質土器を伴わない墓壙は 13 基を数え、
一定して存在している。ナイフェリト群以前の段階には硬質土器は共伴しない ³。一方、靺鞨罐 2 類の土器組成
では、硬質土器が器種、数量ともに増加している。年代が下るに従い硬質土器が組成に編入され、器種が増加す
ると考えることができよう。土器組成の変化方向からすると、靺鞨罐 1 類の土器組成においても硬質土器の共
伴の有無を基準として、時間的な細分を行うことは可能と思われる。
では靺鞨罐 2 類における土器組成は全て一時期といえようか。次に靺鞨罐 2 類の土器組成について文様の変
化を見ていく。先に見たように瓜棱文は時間差を見極める指標となりえる。瓜棱文は長頸壷 3 類、短頸壷1、2
類、盤口罐 1 類に認められる文様種である。これらに対して瓜棱文の有無を基準にして共伴関係を見てみる(表
4 - 3)。瓜棱文の有無を基準としても器種組成に顕著な変化は認められないものの、上記 4 種の中で瓜棱文を持
つ土器を出土する墓壙 24 基中、瓜棱文を持たない土器が伴う例は 13 号墓、154 墓、292 号墓、48 号墓のみで
ある。コルサコフ遺跡において瓜棱文を持つ個体と持たない個体は、基本的には共伴しないと考えられよう。
瓜棱文は、他のアムール女真文化の遺跡でも出土している(表 5)。これらの遺跡の年代については後述するが、

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共伴する銭貨から 12 世紀後半以降まで続く文様要素であることが分かる(表 6)。靺鞨罐 1 類の土器組成に存
在しない文様要素であることから、瓜棱文は新たに追加される属性と考えられ、この文様を持つ土器を指標とし
た土器組成は、靺鞨罐 2 類が共伴する段階でも新しいものと判断できよう。
以上の検討から各期の区分とその内容について纏めておく。
・Ⅰ期:靺鞨罐 1 類のみで占められる時期。Ⅱ期に認められる碗はナイフェリト群から存在するので、この段
階にも碗は伴うと思われる。
・Ⅱ期:靺鞨罐 1 類に硬質土器が加わる段階。靺鞨罐以外の器種は、長頸壷 1 類、孟、短頸瓶が主体となる。
他に碗、盆もある。長頸壷 1 類の文様帯は1類か 2 類、文様種は隆帯、沈線が主体となる。文様帯
2 類の意匠は水平の沈線、隆帯が複数巡るのみである。短頸瓶のみ文様帯4類とスタンプ文の組み
合わせを持つ(表 2 − 1)。
・Ⅲ期:靺鞨罐 2 類+Ⅱ期の 5 種に加え、短頸壷、広口罐が主体となる。長頸壷は減少する。文様帯は 2 類
と 3 類を主体とする。短頸瓶に限られていたスタンプ文が、他の器種にも施文されるようになる。
また個体内で 2 種以上の文様種の混合が認められるようになる。沈線や隆帯により区画帯を作り、
その間をスタンプ文や格子文の充填する文様意匠が展開し始める。橋状の把手や突起が出現する(表
2 − 2)。底部に印文が付されるようになるのもこの段階からである。
・Ⅳ期:土器組成はⅢ期と同様である。長頸壷、短頸瓶はこの段階まで存在するが、数量は前代に比べ少なく
なる。文様帯は 2 類と 3 類を主体とする。文様種に瓜棱文が加わる。盤口瓜棱壷の存在から 10 世
紀中葉頃と年代推定ができる(表 2 − 2)。
尚、Ⅱ期とⅢ期の間では、器種の多様化という点で差異が大きい。この間を埋めるものとして、Ⅲ期の内、
長頸壷 1 類が共伴する墓壙は、Ⅱ期との共通性から古手に置くことも可能であろう。またⅣ期で盤口壷 1 類が
盛行する為、Ⅲ期の内、盤口壷 1 類を持つ土器組成は新しく、この種を除いた土器組成もⅢ期の古手と想定す
ることもできる。しかし、コルサコフ遺跡においては墓壙 1 基あたりの土器の共伴関係に限りがあり、明瞭な
差異を導き出して段階区分を行うことは、現状では難しい。今後、より質・量ともに充実した集落遺跡や遺物包
含層によって検証していきたい。
次にコルサコフ遺跡以外のアムール女真文化の遺跡について検討してみよう。各遺跡で出土した銭貨により
(表 6)、ナデジンスコエ遺跡は 10 世紀以降、ボロニ湖遺跡、永生遺跡は 11 世紀代以降、奥里米遺跡、中興古
城遺跡は 12 世紀後半以降の墓壙を遺跡内に含んでいることが分かる。この年代は上限を示しているにすぎない
ことは言うまでもないが、永生遺跡、奥里米遺跡、中興古城遺跡に関しては、墓壙の配置からして、遺跡内の各
墓壙の年代が大きくかけ離れるとは考えにくい。また土器組成から見ても、遺跡の状況が公表されていないナデ
ジンスコエ遺跡以外は、纏まりがあると判断できよう(表 3、5)。
表 3、5 からは、各遺跡出土の土器組成に共通性と差異を読み取ることができる。ナデジンスコエ遺跡はⅣ期
の土器組成に近い一方で、靺鞨罐 4 類や短頸壷 3 類が含まれ、永生遺跡に近い。しかしながら、後者において
数量的に一定して存在する短頸壷 2 類が含まれない点で異なる。また永生遺跡と奥里米遺跡を比較すると、短
頸壷 2 類を主体とする土器組成が共通するものの、後者では広口罐、盤口壷 1 類が欠如する。また後者では靺
鞨罐が姿を消し、基本的に回転台を使用した土器で占められるようになる(表 2)。奥里米遺跡と中興古城遺跡
を比較すると、短頸壷 2 類を主体とする土器組成は共通するものの、後者に盤口罐 2 類が存在する点で異なる。
また中興古城遺跡に関しては、青銅製や鉄製の鍋が 6 点、盤、碗を中心とした瓷器が 17 点と容器組成の様相が
異なっている(表 2)。
Ⅳ期が 10 世紀中頃で、金代の遺物を含む中興古城遺跡が 12 世紀後半以降であり、相互に認められる共通性
と差異は、この間を繋ぐものと考えられる。各遺跡に認められる土器組成の差異は新旧関係に起因しており、そ
の関係から、古い順にナデジンスコエ遺跡、永生遺跡、奥里米遺跡、中興古城遺跡と考えられよう。他に、ボロ
ニ湖遺跡については靺鞨罐 4 類の存在から概ね永生遺跡と併行するものと考えられる。綏濱 3 号文化類型の標
識遺跡である綏濱 3 号遺跡は土器が数点しか公表されていないが、他の遺跡の土器組成と比較すると、永生遺
跡よりは古く、Ⅱ期からⅣ期までを含んでいる遺跡と思われる。
資料が少ないが、これらの遺跡の土器組成に文様の展開を加え、画期を設定すると以下のようになる。

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Ⅴ期:ボロニ湖遺跡、永生遺跡を代表とする。靺鞨罐 3 類、4 類に加え、短頸壷 2 類を主体とする。他に短
頸壷 3 類、広口罐、鉢がある。靺鞨罐は数量的に少なくなり、硬質土器の割合が高まる(表 2.永生
遺跡の容器組成参照)。文様帯は 1 ∼ 4 類まで存在するが、2 類、3 類は数量的に少ない。文様帯 3
類についても前代に見られた縦方向の沈線列はなくなり、波状の沈線がめぐるものに変化するようで
ある。この段階から頸部と胴部の境に複数の文様種を用いることが減少する(表 5.2RC 等の減少)。
代わって前代の短頸瓶に多く見られた胴部をスタンプ文により複数条施文する文様帯 4 類が主要な文
様となる(表 5.短頸壷 1 等への 4S の追加と増加)。尚、スタンプの原体は前代に比べ小型化するよ
うである。瓜棱文は継続する。容器組成の中に鉄鍋(吊鍋)が入るが、数量は少ない。
Ⅵ期:奥里米遺跡、中興古城遺跡を代表とする。後者の方が新しいと思われるが、一括しておく。靺鞨罐は
なくなり、硬質土器により構成される(表 2)。盤口罐 2 類が出現する以外は、Ⅴ期と類似した土器組成、
文様構成を示す(表 3、表 5)。文様帯 2 類、3 類は見られなくなる。Ⅴ期の特徴と合わせると、時間
が下るに従い頸部と胴部の境の文様は減少する傾向にある。文様種はスタンプ文が主要な位置を占め
ている。またこの段階では、青銅製や鉄製の三足羽釜、瓷器が一定量出土しており、容器組成はかな
りの変容を遂げている。出土した銭貨からこの段階は金代にあたる。この他、ジャリ城址における土
器を見ると(Медведев 1986)、器形そのものは不明であるが、胴部を横冠する複数条のスタ
ンプ文や羽釜の模倣品が出土している。同時期のものと推定される。
 尚、ナデジンスコエ遺跡は、Ⅳ期とⅤ期の中間的な土器組成を示しており、この間を埋めるものと考えられる。
しかし、共伴資料が不明である為、土器組成を示し難い。敢えてその特徴を挙げておくと、靺鞨罐 3 類の卓越
と短頸壷 3 類の出現、文様帯 4 類の増加の開始、盤口壷 1 類において口縁部の碗状部分が崩れ始めており、こ
れが移行過程を示すものと思われる。また鉄製吊鍋が出現するといったⅤ期の萌芽も見出せる。
 以上の検討を纏めたものが、図 2、図 3 である。各時期に共通性と差異があり、漸移的に変化していることか
ら、各期の土器群が系統的に連続しているといえる。
5.年代について
Ⅲ期以前については明確な年代を示し難い。Ⅰ期は靺鞨文化のナイフェリト群に後続すると考えられる。ナ
イフェリト群の年代については、臼杵氏がナイフェリト遺跡 9 号墓の轡の検討から 6 世紀後半以降としている。
ナイフェリト群は極東地域に広域に分布しており、地域的により南に離れるが、老河深遺跡 M33 墓ではナイフ
ェリト群の土器と五行大布(571 年初鋳)が出土していることから(吉林省文物考古研究所 1987)、少なくと
も 6 世紀後半以降とする年代観は妥当である。Ⅰ期がナイフェリト群より新しいことは確実であるが、型式学
的に直接後続するとは考えにくい。Ⅱ期の年代を見ておこう。Ⅱ期の年代推定にはその器種構成が参考になる。
この段階の組成は、孟、盆、短頸瓶が特徴的である。これらに類似する資料は、いずれも渤海領内に認められる。
渤海領内において、これらが出揃うのは六頂山遺跡においてである(中国社会科学院 1998)。同遺跡は貞恵公
主墓(780 年没)を含む墓域が形成されており、周囲の各墓とも埋葬形態に差が認められないことから、概ね 8
世紀後半から 9 世紀初頭にあたると想定できる。Ⅱ期に関しては、少なくとも 8 世紀後半以降の年代とするこ
とができる。但し、盆の形状はより新しい型式に類似するので(劉 2003)、Ⅱ期は 9 世紀代のある段階までは
続くと考えられる。Ⅰ期とⅡ期における靺鞨罐の形状は殆ど同じである為、年代的にかけ離れたものではないと
想定される。Ⅰ、Ⅱ期あわせて 8 世紀中葉から 9 世紀代と想定しておきたい。後続するⅢ期の短頸瓶も(図 1
− 25)、渤海領内にあるクラスキノ城の井戸出土土器に類似している(Гельманほか 1999)。この遺構で
は 10 世紀前半頃の契丹の長頸壷が共伴している。また一部の広口罐の形状(図 2 −Ⅲ期の大形広口罐)は、振
興 5 期出土資料(黒龍江文物考古研究所・吉林考古学系 2001)や上京龍泉府出土資料(中国社会科学院考古学
研究所 1997)に類例が求められる。Ⅲ期の土器はⅣ期との共通性も非常に高い為、9 世紀代後半から 10 世紀
中頃までと考えられようか。Ⅳ期については、先述したように、盤口瓜棱壷から 10 世紀中頃前後と考えられる。
Ⅵ期については、出土金銭から 12 世紀後半以降であることは確実である。Ⅴ期についても北宋銭の示すように
11 世紀代で一部 12 世紀代はかかると考えられよう。ナデジンスコエ遺跡はⅣ期との間を繋ぐ様相となる。

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6.アムール女真文化における土器製作の展開について
土器の組成、文様、製作技法から見てアムール女真文化の初期については、靺鞨文化の伝統にあることは明
らかである。途中より硬質土器が取り入れられるが、靺鞨文化内にこの種の土器に関する技術は存在せず、その
器形からも明らかに靺鞨罐を製作していた伝統から外れている。先述の通り、初期におけるこの種の土器の多く
は渤海領内の土器に対比できる資料である。しかし、一方で相違も多い。例えば、本稿で孟とした形態は口縁部
形態の類似によるものであり、渤海領内の孟はより低く横方向に扁平な器形で統一されている。短頸瓶も形状は
類似するが、渤海領内のⅡ期に併行する段階では胴部にスタンプ文を多用することはない。また渤海領内におけ
る硬質土器の全器種が、アムール女真文化に認められるものではない。以上から硬質土器の技術については、ア
ムール女真文化の初期に渤海領内から移入されたが、独自に製作されたと考えるのが妥当であろう。
またアムール流域において盛行する盤口壷は、渤海領内においては一部にしか認められない。一方で盤口瓜
棱壷は上述のように遼の土器と極めて高い共通性を持っている。橋梁氏は、盤口壷がアムール女真文化において
「十分成熟した形」で出土することから、アムール女真文化から遼に伝播した可能性も考慮すべきであるとして
いる(橋 2004)。Ⅲ期以降盤口壷が一定して認められることからはその可能性は検討すべきであろう。しかし、
遼以前の土器が不明瞭であることもあり、その起源については現時点では判断しがたい。いずれにせよ、10 世
紀中葉頃に契丹とアムール女真文化があるレベルでその関係を深めたと判断はできる。但し、遼代の契丹土器
とも相違点は存在する。遼の土器における瓜棱文は盤口壷にのみ施文される文様種であるが、アムール女真文化
においては短頸壷にも施文される。また遼では 10 世紀後半以降には瓜棱文が姿を消すものの(今野 2002、彭
2003)、アムール女真文化では、瓜棱文は 12 世紀後半以降の中興古城遺跡の土器にも付される。また盤口瓜棱
壷は遼の土器に類似するものの、鶏腿瓶、鶏冠壺といった契丹土器を特徴づけるものは、アムール女真文化の土
器組成の中に編入されない。前代から続く土器組成の中に盤口瓜棱壷が入るのみである。つまり、仮に 10 世紀
中頃に契丹からの影響を受けたとしても、一部を取り込む形であったと考えられる。
以上を纏めると、靺鞨文化から続く土器生産技術の中に、9 世紀頃、新たに渤海領内から硬質土器の製作技法
を取り入れた。その後 10 世紀中頃には契丹との(土器における)「関係」が深まる。一方で、それぞれの地域
との相違からは、他地域の土器製作技法や形状、文様は随時、選択的に取り入れたものの、土器組成や製作は独
自の特徴を保持し続けながら展開したと見ることができる。アムール女真文化における硬質土器の生産状況は、
土器窯等の生産地が調査されたことはない為不明だが、器質から考えると専門の工人集団による生産が予想され
る。アムール女真文化で確認できる独自性は、その生産地がアムール女真文化圏内に存在しており、製品の嗜好
や生産技術の管理は同文化圏内独自のものであったと推測できる。
尚、Ⅵ期において容器組成に大きな変化が認められるが、これは金の統治下に入る時期と一致しており、こ
のことが土器の生産や鉄製品、瓷器の流通に影響を与えているものと考えられる。
7.アムール女真文化の展開
ここまではアムール女真文化の土器について基礎的な整理と段階区分について述べてきた。ここでは本稿の
分析結果から検討できる他の文化要素の展開についても簡単に触れておく。ワシーレェフ氏は、
「パクロフカ文化」
の初期段階であるコルサコフ期の特徴として墳丘墓の欠如を指標のひとつとしている(ワシーレェフ 1994)。
しかし、墳丘墓であるペトロパブロフカⅠ遺跡の土器組成と文様構成をみると、本稿のⅡ期に属すと判断できる
(表 3、5)。またオリスキー遺跡やガレーチカヤ・カサ遺跡(Медведев 1998)についてはⅢ期、Ⅳ期に
あたると考えられ、コルサコフ遺跡と併行関係にある(表 3、5)。つまり墳丘墓はアムール女真文化の初期段階(Ⅱ
期)から埋葬形態の中に含まれるといえる。永生遺跡の墓壙は墳丘を持たないと考えられており(黒龍江文物工
作隊 1977)、後続する中興古城遺跡は墳丘墓である為、少なくともⅤ期− 10 世紀頃までは墳丘墓と土坑墓の双
方を埋葬形態としていたといえる。但し、墳丘墓は靺鞨文化にはなく、アムール女真文化になって現れる文化要
素である。墳丘墓の出現時期が渤海領内からの硬質土器の技術流入と同時期であることは注目できよう。アムー
ル女真文化の墳丘墓の起源については渤海との関連を視野に入れて検討していくことも必要と思われる。
またアムール女真文化ではその後半期において城址が認められるが、現状で遺物組成が明瞭であるのは中興
古城遺跡、奥里米古城遺跡、ジャリ城址である。先述の通りこれらはⅥ期に属している。アムール流域において

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城址が構築され始めるのはⅥ期以降と予想される。
またアムール流域以外でも、近年アムール女真文化の資料が見つかっている。これらの年代についても若干
の検討をしておこう。沿海州との関係については、先に述べたように初期の段階で硬質土器の技術を取り入れ
ていたが、逆にアムール女真文化に特徴的な盤口壷がマリャノフスコエ城址(Гельман 1998)やニコ
ラエフカⅡ城址(Шавкунов 1994)から出土している。前者はⅣ期、後者はⅢ期以降にあたる資料で
あり、10 世紀前半から中頃と推定される。先述のようにⅢ期の短頸瓶の形状も類似する。渤海滅亡後と推定
され、この段階でアムール流域から土器が流入し始めていることは、当該期の地域間の関係を考える上で興味
深いものといえる。沿海州北部のイマン川、ビギン川においてもアムール女真文化の遺跡は見つかっているが
(Галицкий и др .1998)、資料の内容は不明な部分が多い。筆者等が調査したノヴォパクロフカ 2 城
址(木山・布施 2005)では、器形不明(但し、瓶ではない)の硬質土器片 4S(文様帯 4 類、スタンプ文構成)
と鉄製の三足羽釜が見つかっている。容器構成からⅥ期−金代以降に比定できる。
サハリンの白主土城や北海道のモヨロ貝塚で出土している土器に関しては小片であり、器形も不明な為、年
代の特定には至らない。しかし、器形から瓶形ではなく胴部にスタンプ文列を持っている点からすると、両方遺
跡出土資料の土器ともⅢ期を遡るとは考えにくい。白主土城の構築時期や存続年代については歴史的な位置付け
もあり注目されるところである。アムール流域における城址の構築時期からするならば、白主土城もⅥ期以降と
考えるのが妥当であろう。しかしながら、Ⅵ期以降、鉄製鍋が容器組成にかなりの割合で増加するものと思われ
るが、アムール女真文化の伝統上にある土器もある程度までは時間を経ても継続して製作、使用されると推測で
きる。その為、白主土城についてもⅥ期より新しい可能性も残す。アムール女真文化系統に属する土器生産の下
限については、今後の課題としたい。
おわりに
 本稿では、アムール女真文化の土器群に関して基礎的な整理を行い、土器組成の変化について検討した。資料
の量・質に問題があり、十分な段階区分の詳細や生産状況の復元については課題を残している。また年代につい
ても確定できたとはいえない。これらの課題について今後の調査、資料の公表を待ち検討を加えていきたい。
 但し、今回の検討によって変化の方向性の大要については凡そ示せたものと考える。各時期において周辺の文
化との関係や時代背景を基に変遷を遂げていることは不明瞭ながらも分かるだろう。特に先ほど触れたように、
後半期には城址が作られる等、金の領域に入り、前段階とは異なった集団の統治体制が布かれたものと推測され
る。一口にアムール女真文化(あるいはパクロフカ文化)といっても、その背景にある社会状況を問題にしてい
かなければ、当該期の状況や「文化」内容を捉えたことにはならないだろう。また他地域において遺物が点的に
出土する状況のみを取り挙げてみても、地域間の交渉関係という課題を追求できるわけではない。土器研究に関
しても課題を残すが、今後これらの問題を論じていく為にも、各遺物の分析を進めるとともに、社会的状況を反
映する墓制や城址の配置や構造から行政単位についても検討していき、当該期の周辺文化との関連を含めた歴史
的・社会的状況を明らかにしていきたい。
 本稿を作成するにあたり、ロシア科学アカデミーシベリア支部、同極東支部、ハバロフスク州郷土博物館収蔵
の関連資料を実見させていただいた。その際には、ネステロフ , S.P. 氏、シェフコムード , I.Ya. 氏、ニキーチ
ン ,Yu.G. 氏、クラージン ,N.N. 氏に御助力を賜った。末筆ながら記して感謝いたします。
1) パクロフカ文化の名称はその内容が紹介されて以来(シャフクーノフほか 1993)、日本では既に定着した
観がある。しかし、年代観や時期別の遺物や遺構の構成に見解の差があるものの、メドベージェフ氏のいうアム
ール女真文化との差異は基本的にない。アムール女真文化は名称通り、女真族によるものとされる。筆者自身は、
同文化は概ね女真族が担ったものだろうと考えているが、それが単一族集団によるものか複数の族集団が関与す
るのか判断できない上に、シャフクーノフ氏等の指摘するように考古学文化に族名称を冠するのは適当と思わな
い。しかし、パクロフカ文化という名称も、同文化を担うのは室韋族であり、女真族の名称を使うのは適当でな

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いという理由から設定されたものである。したがって、両名称とも担う族集団に規定されている点で問題を持つ。
この為、アムール女真=パクロフカ文化と記載したいところだが、煩雑になる為、アムール女真文化としておく。
2) 特に夾砂褐陶とЛепная、泥質灰陶とСтанковаяについては、焼成についても対応し、その
特徴は一致する。
3) ブラゴスロベンノエ遺跡の「水波文」を持つ長頸壷(Дьякова 1984)と団結遺跡において同様の文
様を持つ深鉢(李 1989)は硬質土器である。しかし数点しか存在しない為、この時期の土器組成を構成する土
器ではないだろう。形態的にみて高句麗領内からの搬入品である可能性が高いと思われる。
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Г е л ь м а н , Е . И . 1998 К е р а м и к а М а р ь я н о в с к о г о г о р а д и щ а
Археология и этнология Дальнего , Востока и Центральной
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Россия и АТР 1993 - 3.
Деревянко , Е . И .1975 Мохэские памятники Среднего Амура .
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Дьякова , О . В .1993 Происхожение , формирование и развитие
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Медведев , В . Е .1977 Культура Амурских Чужрчэней конце Ⅹ - Ⅹ
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­ 48 ­
表2 アムール女真文化の容器組成
лепная
станковая 鉄鍋 瓷器
コルサコフ
- 土器組成の比率は凡そ38:5:57(%:Медведев1998)
ナデジンスコエ
1
- 鉄製吊耳鍋。土器組成の比率は凡そ38:5:57(%:Медведев1998)
ボロニ
ペトロパブロフカⅠ
9
6
オリスキー
5
19
- 鉄鍋片出土。吊耳鍋と推定。
ベンゼルスキー
2
3
ガレチヤ・カサ
モルチャニハ
ジャリ城址
15
85
Дьякова1993より。
*ペトロパブロフカ1以下のデータは、Медведев1998より。
夾砂
瓷器
綏濱三号
14
永生
3
- 鉄製吊耳鍋
奥里米
3
中興
17 鉄製三足羽釜4点、銅製三足鍋2点(内、羽釜1点)。
12
12
4
11
20
1
泥質 鉄鍋
備考
3
керамика доработанная на
круге
備考
表1 アムール女真文化の土器の種類
лепная
станковая
керамика доработанная на круге
胎土
小礫・鉱物粒を含む
精錬された灰色粘土
小礫・鉱物粒を含む
成形
粘土紐輪積み
ロクロ使用
粘土紐輪積み/ロクロ使用
整形
入念なミガキ
焼成
野焼き。低温焼成。焼きムラ有。
高温焼成
色調
暗褐色∼黒色、暗灰色
暗褐色∼黒色、暗灰色
表4 コルサコフ遺跡の文様構成
表4-1 靺鞨罐1と共伴する土器群の文様構成。
長頸壷1
広口罐1
短頸瓶
数量
9
1
4
1
文様構成
1R:2
2S:1
1C:1
3M+4S
:数量
2R:4
5M:4
5M:2
表4­ 1 靺鞨罐1と共伴する土器群の文様構成
表4-2 320号墓
*靺鞨罐1と2が共伴。M7
短頸壷1
短頸瓶
数量
1
2
文様構成
2CS:1
3RS+4S:1
:数量
4RS:1
表4­2 320 号墓
*靺鞨罐 1 と 2 が共伴。M79A、143、204 号墓では他の器種を伴わない。
表4-3 靺鞨罐2と共伴する土器群の文様構成。
長頸壷1
長頸壷2
長頸壷3
短頸壷1
短頸壷2
盤口壷1
広口罐
短頸瓶
数量
2
2
3
11
2
11
11
2
1
2
文様構成
1R:1
2C:2
1R:1
5M:1
1R:1
1R:1
3S
1R:1
:数量
5M:1
2C:2
2C:2
2R:1
5M:1
2RC:1
3RS:1
2RS:1
3RC:1
3RC:1
3S/H:1
5M:1
5M/T:2
2R/K2:2
3R/K1:2
2S/K1:1
1R/K1:1
2R:1
3C:2
5M:1
5M/K2:1 3M/K1:1
2R:1
3R:1
5M/K2:2
2R/K1:1
3C/H:1
2C/K1:2
5M:1
2C/K2:1
5M/T:3
2CS:1
2CS/K1:1
1
10
6
4
2
5M:1
1R:1
1R/K1:1
1C:1
3RC:1
1R/K1:2
2C/K1:3
1S/H:1
5M:1
1C/K1:1
5M/K1:1
2C/T:1
2C/k1:1
5M/K2:1
5M/H:1
2C/K2:3
3R/K1:1
3RC/K1:1
瓜棱文を持つ
土器との共伴
瓜棱文を持つ
土器と共伴す
る土器群の文
様構成。靺鞨
罐との共伴関
係なし。
表4-3 靺鞨罐2と共伴する土器群の文様構成
表3 アムール女真の器種組成
靺鞨罐
1
靺鞨罐
2
靺鞨罐
3
靺鞨罐
4
長頸壷
長頸壷
長頸壷
短頸壷
短頸壷
短頸壷
盤口罐
盤口罐
広口罐 孟
盆 短頸瓶 碗
蓋 その他
靺鞨罐Ⅰ
44
4
0
0
8
0
0
1
0
0
0
0
1
4
1
3
2
1
1
靺鞨罐Ⅱ
4
69
2
0
2
2
3
13
2
0
11
0
15
1
2
5
0
1
2
0
12
13
4
0
0
0
21
0
3
7
0
11
1
0
0
0
0
3
0
1
0
3
0
1
0
4
0
0
0
0
4
0
0
0
0
0
0
0
3
1
0
1
1
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
3
0
0
0
5
11
1
0
0
1
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
8
1
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
2
5
0
0
3
0
0
2
0
0
0
0
コルサコフ
ナデジンスコエ
ボロニ
綏濱3号
永生
奥里米
中興
表3-1 アムール女真文化の器種組成(墳丘墓群)
靺鞨罐
1
靺鞨罐
2
靺鞨罐
3
靺鞨罐
4
長頸壷
長頸壷
長頸壷
短頸壷
短頸壷
短頸壷
盤口罐
盤口罐
広口罐 孟
盆 短頸瓶 碗
蓋 その他
3
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
2
0
3
0
0
0
5
2
0
0
0
0
0
3
0
0
0
0
3
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
3
0
0
2
2
0
7
0
0
2
0
1
0
0
4
0
0
0
オリスキー
ペトロパブロフカ1
ガレーチヤ・カサ
ベンゼルスキー
モルチャニハ
表3­ 1 アムール女真文化の器種組成(墳丘墓群)
遼・金代の土器
夾砂陶
泥質陶
胎土
小礫・鉱物粒を含む
小礫含まない細密な胎土
成形
多くは非ロクロ
多くはロクロ使用
焼成
低温焼成
高温焼成

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ナデジンスコエ
*靺鞨罐2∼4出土。共伴関係不明。
短頸壷1
短頸壷3
盤口壷1
広口罐
数量
21
1
7
11
1
文様構成
1R:7
5M:1
2S:4
1R:4
1R:1
:数量
2R:4
2CS/K1:1
2R:2
2RC:1
3S/K1:1
2RC:1
2RC/K1:2
3R:2
3RS:4
5M:2
3R:6
4S:1
4RS:1
ボロニ
*靺鞨罐4出土。
永生
*靺鞨罐3出土。
短頸壷1
広口罐
短頸壷1
短頸壷2
短頸壷3
広口罐
数量
4
4
数量
5
11
1
1
1
文様構成
1R:2
1R:1
文様構成
1R:1
2CS:1
2C/K1:1
5M/T:1
4S:1
:数量
4RS:2
2R:1
:数量
2C/K1:1
4S:4
3R:1
4M:1
5M:6
3RS:1
4S:1
3C+4S:1
奥里米
*靺鞨罐なし。
短頸壷2
短頸壷3
数量
8
1
1
文様構成
1R/K1:1
5M/K1:1 5M:1
:数量
4S:2
5M:5
中興古城 *靺鞨罐なし。
短頸壷1
短頸壷2
盤口壷2
広口罐
数量
2
5
3
1
2
文様構成
1S/K1
1R:1
1R:1
5M/T:1
5M:2
:数量
1C/K1
1S/K1:1
1S/K1:2
4S:1
5M:1
ガレーチヤ・カサ
*靺鞨罐1、2出土。共伴関係不明。
ペトロパブロフカ1
*靺鞨罐1出土。
短頸壷1
広口罐
短頸敏
数量
3
3
数量
2
2
文様構成
2RC:1
1R/K1:1
文様構成
4S:1
1R:1
:数量
2CS:1
2RC:1
:数量
5M:1
3RS:1
2RCS:1
2R/K1/T
オリスキー *靺鞨罐2出土
遺跡
遺構
上限
ナデジンスコエ
至道元寶(995)、咸平元寶(998)
10c
*左の墓壙のいずれか、または全てで出土。
ボロニ 1968年
2号墓
祥符元寶(1008)、元豊通寶(1078)
11c
永生
8号墓
景祐元寶(1038)
11c
10号墓
咸平元寶(998)
11号墓
祥符通寶(1008)
中興
2号墓
祥符通寶(1008)、皇宋通寶(1039)
5号墓
至道通寶(995)
8号墓
大定通寶(1178)
12c後半
9号墓
紹興通寶(1094)
11号墓
大観通寶(1107)
奥里米
22号墓
正隆元寶(1157)
12c後半
24号墓
政和通寶(1111)
()内初鋳年
出土銭
51号・54号・
68号墓
表5 アムール女真文化の土器群の文様構成
表 6 アムール女真文化の遺跡から出土した銭貨

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­ 50 ­
耶懶と耶懶水
―ロシア沿海地方の歴史的地名比定に向けて―
井黒 忍(大谷大学)
はじめに
ロシア沿海地方の地名に関しては、もとより文献資料の稀少な地域であることに加えて、咸豊 10 年(1860)
10 月の北京条約締結によるロシア帝国への同地域割譲の後、ロシア語名への変更がなされたことにより、現段
階における歴史的地名の比定は困難を極める。こうした状況のもと、既に戦前・戦中期より国内の東洋史・日本
史の専門家らによってなされた所謂「満蒙研究」の中心的テーマの一つとして、歴史地理分野に多大な関心が寄
せられ、東北アジア史の理解に大いなる貢献を果たしたことは言うまでもない。
戦後の研究の途絶期を経て、再び東北アジア研究に注目が集まる今日、諸先学の研究成果を公平に見つめ直し、
再評価を行う必要性が様々な方面で興りつつある。さらに近年の活発な学術交流を通して、同地域における考古
学の成果を国家の枠を越えて共有し得るといった現状に鑑みれば、文献史学・考古学双方の成果を融合する上で
の基礎作業とも言うべきロシア沿海地方の歴史的地名比定という作業が持つ意味は決して少なくない。
そこで、本稿においては、同地域において発掘された多数の城址群を文献資料によって特定し、その歴史的
変遷を跡づけるための第一歩として、金代 1 の耶懶[yalan ∼ jalan2]及び耶懶水に関する位置比定を行うとと
もに、同地域に居住した耶懶路完顔部の動向を考察することとする。併せて、従来ともすれば内陸部における諸
勢力の興亡に関心が集中しがちであった東北アジア史における沿海地域の歴史的役割を検討することとしたい。
1. 研究史の整理
金代の耶懶とその居住地域の中心となる耶懶水に関しては、既に先学諸氏により様々な角度から地名比定の
試みがなされてきたものの、決め手となる同時代史料を欠くという根本的原因により、未だ一致した見解を見出
し得ていないというのが現状である。そこで、まずはこれまでに提示された耶懶及び耶懶水に関する諸氏の見解
を確認しておこう。
以下に三田村泰助(1977, p. 6)及び古松崇志(2003, 注 20)の整理を基に、各研究者の見解を表示すると
ともに、その根拠と検証過程を示す。
比定者
耶懶水
耶懶
備考 3
松井 1913
雅蘭河
内藤 1915
ウラジオストック西北
津田 1918
噶哈里河(図們江支
流)
嘎呀河
池内 1924
馬耳河
東京城(渤海上京龍泉府)
小川 1937
牡丹江中流域
三上 1943
図們江上源
三川洞・三江口
和田 1955
スーチャン(蘇城)
蘇城
Partisanskaya
張 1981
蘇昌河
同上
譚 1988
塔烏黒河
Milogradvka4
賈 1993
塔烏黒河(双城子西
南)
松井説:『吉林通志』巻 11 に拠り 5、金代の耶懶水が清代の雅蘭河に当たると指摘。
内藤説:根拠は不明。
津田説:耶懶が耶侮・統門・曷懶と近接する地域であり(『金史』巻 1・世紀)、かつ安出虎水完顔部と甚だしく
遠隔の地ではないことから(『金史』巻 71・婆盧火伝)、金の上京より瑚爾哈河(牡丹江)の地を経由し、

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­ 51 ­
統門・耶侮・曷懶方面を過ぎて高麗に通じる要道に当たる噶哈里河流域を比定地とする。
池内説:完顔氏の本拠(阿勒楚喀地方)と遠く距たる地ではなく、石土門の所部が「嶺東諸部」と並記されるこ
とに加えて(『金史』巻 1・世紀)、耶懶路を襲撃した辞勒罕がその後に特隣城、即ち東京城(渤海上
京龍泉府)西南に位置する徳林石附近の城郭に拠ったことから(『金史』巻 2・太祖本紀)、東京城に
隣接して流れる馬耳河を比定地とする。なお、同地域が火山活動の結果として痩せ地であったことが
後に述べる耶懶路完顔部の移住の原因となるとともに、渤海の故地であり文化的伝統を有したことが、
完顔部始祖兄弟の説話が形成される背景となったとする。
小川説:根拠は不明。「稿を改めて述べるであろう」と記されるが、管見の限り関連の記載を同氏のその他の論
考中に見出すことができない。
三上説:耶懶路は合懶路や胡里改路などと同じく一個の行政路であるから、その路域としては相当広大な地域を
必要とするとの前提から、阿什河(安出虎水)の東南方面に位置し、曷懶(咸鏡平野)と土骨論(咸
鏡南道端川)に挟まれた東南僻遠の地を候補地に設定。また、耶懶水は恤品と同一路域に含まれるが、
相当に隔たった薄瘠の地であること、さらに耶懶が女真語[ilan:三]と関係のある名称であることから、
鴨緑江上流の三水(虚川と烏梅川が鴨緑江に合流する地点)、或いは図們江本流が紅旗・西豆の二大
支流と合流する三川口(三川洞)の二カ所に絞り込み、特隣(上記池内 1924 の比定とは異なり、西
豆水上流の徳立に比定)との位置関係より後者を比定地とする。
和田説:『清内府一統輿地秘図』及びダンヴィルの支那新図に Yalan(雅蘭)河、Sirin(錫林)河などが標示されるが、
図形が不正確なため比定は困難とした上で、『龍飛御天歌』巻 7・52 章に見える「錫林」との位置関
係から、耶懶河を蘇城河に比定。なお、自然地理学的見地からしても、綏芬河域の東方で一地方の中
心となるべき地域は限定され、北緯 45 度以北において、相当の開発の期し得られるのは、興凱湖よ
り南方で朝鮮に連なる海岸一帯の地方だけとする。
三田村説:独自の根拠は示されないが、和田の「金代に至って恤品路の東方千里に耶懶路が現れた」との見解を
支持し、渤海の率賓に由来する恤品の名が遼代には既に知られていたのに対して、耶懶の名が『金史』
巻 1・世紀・景祖条に初めて現れるのは、金代になって遼代よりその勢力が東方に延びたことを誇示
するものであるとする。
張説:次章にて詳述。
譚説:根拠は不明。
賈説:耶懶路都孛菫であった完顔忠の神道碑が双城子にて発見されたことより、その葬送の地こそが耶懶路であ
るとした上で、蘇頻路を双城子に、耶懶路をその西南の塔烏黒河に比定する。
2. 清代における耶懶の理解
上で保留した張博泉の見解は、『吉林通志』、『籌辦夷務始末』、『琿春辺界地方図』など、いずれも清代光緒年
間(1875 ∼ 1908)成立の史料を根拠とし、耶懶水を蘇昌河(蘇城・スーチャン河)に比定するというものである。
結論から述べれば、筆者は張氏の見解を支持するものであるが、氏が史料の有する時代的な距たりを説明するこ
となく、論を展開することにはいささかの抵抗を覚えざるを得ない。そこで、氏の根拠とした史料の背景を考察
するとともに、新たな史料をも加えて耶懶=蘇城説に対する再検証を行いたい。
まず、氏が挙げる光緒 22 年(1896)成立の『吉林通志』巻 23 の記事を見てみよう。
雅蘭河は烏済密河の東に在り、金の耶懶路なり。所謂る「耶懶・率賓相い去ることを千里」6 なる者なり。
錫赭特山(Sikhote-Alin:筆者注)より出で、南して海に入る。海は其の処より趨きて北し、衆水は皆な
西より之れに入る(巻 23・輿地志・山川・水道)7
氏の挙げる上記史料以外にも、同書中には以下の関連記事が見える。
扎蘭は、元と耶懶に作る。蓋し即ち今の琿春以東、海に入るの雅蘭河なり。所謂る「耶懶・率賓相い去る
こと千里」、今の綏芬河の里到と、正に自ら相い符するなり(巻 11・沿革志・完顔部)8
札蘭は原と耶懶に作り、又た阿懶に作る。今の綏芬河以東千里許り海に入るの水に雅蘭河有り。耶、阿と
雅と皆な同声の字なれば、金の札蘭は即ち今の雅蘭河の地なるを知る。史志の「相い去ること千里」と云

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うと正に合し、亦た以て此の説の誣りならざるを証すべし。(巻 11・沿革志・率賓路)9
いずれも、綏芬河と千里(およそ 500 ㎞)を隔てるという位置関係、耶懶と雅蘭の音通を根拠として、清代の
雅蘭河を金代耶懶の地であるとする見解を示すものである。
但し、綏芬河との位置関係を示す「相去千里」の記載自体には、これを実数と捉えることに対して疑義が呈
されており(津田 1918, p. 188・古松 2003, 注 20)、上記史料をもって直ちに金代耶懶水を清代雅蘭河に比定
するには問題が残る。そこで、改めて『吉林通志』巻 23 に見える「雅蘭河在烏済密河東、金之耶懶路」の記載
に着目してみよう。
『吉林通志』に述べられる「烏済密河」と「耶懶」の対応関係は、1737 年刊『中国新地図帖〈ダンヴィルの地図帳〉』
10 及び『大清一統輿図』(乾隆 25 年[1760]銅版印行)、『盛京・吉林・黒龍江等処標注戦蹟輿図』(乾隆 41 年
[1776])にも見え、それぞれ Oujimi pira 、烏集米必拉 、烏済密河 の東に Yaran pira 、雅蘭必拉 、雅
蘭水 が位置している。
同系統の情報に基づくと考えられる三図が同様の記載内容を見せることに疑問はないが、両河川の対応関係
は 18 世紀中期に朝鮮にて製作された『西北界図』11 にも確認でき、烏鳴米河 の東に 雅蘭河 が位置する。『西
北界図』に関しては、李 1991 所載の写真の状態によりその詳細を窺い知ることはできないが、上記三図には見
られない雅蘭河の北方に山嶺を挟んで「烏蘇里江源」の記載が見えることなど、三図とは別系統の情報が記載さ
れている。
さらに、時代は降るが、同地域における漢文地名を記載する『中俄交界図』にも大烏得密河(da-udemi)の
記載を確認することができるが、但し、同図においてはその東に素昌河(蘇城河)の名が記され、雅蘭の名称は
見えない。さらに、素昌河流域中には郭魯博甫喀(Golbovka)・阿列克三得羅甫喀(Alexandrovskoye)とい
ったロシア語地名と並んで、烏諾什・馬治・平哨・山嘴子などの原地名とおぼしき記載が見られる。素昌河と雅
蘭河との関係、さらに同図に見られる原地名の情報源などがいかなるものであったかを知るため、矢野 1941 及
び董 1992A・B、楊・霍 1998 らをもとに、19 世紀後半の沿海地方の歴史を概観してみよう。
1860 年の北京条約、さらに国境確定のために翌年に行われた興凱湖会談を通して、ロシア帝国のウスリー方
面に対する領土拡大の意図は表面化し、両国間の緊張は日増しに強まっていった。こうした中、清朝政府は東三
省の防備を重視し、呉大澂を国境画定交渉の責任者として吉林に派遣する。呉大澂は吉林において軍隊や軍事施
設を整え、移民を用いた屯田の開発に努めるといった防衛策を展開する他、自身が国境付近の調査に赴くなど、
前回会談の反省に立って状況把握に努めることとなる。
さらに、光緒 11 年(1885)東北アジアにおけるロシア勢力の状況を把握し、防衛強化に資することを目的
として、三姓を起点として松花江を下り黒龍江口に至り、さらにウスリー江を遡上して海参 (Vladivostok)
に至る視察の命が曹廷傑に下される。曹廷傑は、調査に先立って、諸文献中から関連記事を抽出した『東北辺防
輯要』を著すとともに、調査後にはその報告書たる『西伯利東偏紀要』を、さらに光緒 13 年(1887)には『東
三省輿地図説』を出版し、東北アジアの情勢把握に寄与することとなる 12。呉大澂はこうした成果を基に再度ロ
シアとの国境交渉に臨み、光緒 12 年(1886)10 月 12 日に「中俄 琿東界約」を締結して、銅柱界牌を設置
し国境確定の任を遂げることとなるのである。
作製者洪鈞の識語によれば、『中俄交界図』の作製年代は光緒 16 年(1890)4 月、同図が光緒 10 年(1884)
のロシア製地図を基に作製されたものであることが分かる 13。まさに、呉大澂ら清朝側との国境交渉の最中にロ
シア側が地図作製を行っていたことが分かる。1880 年代の露清の確執を考えれば、同図に見える記載内容が双
方の領土主張の根拠となるべくして恣意的に作製されたものである可能性も否めない。但し、同図作製時点にお
いては、既に当該地域の国境画定交渉は終結しており、既に蘇城一帯に関してはロシア領として確定され、議論
の俎上にも上がらない地域であったことからすれば、清朝側がその所有権を主張し、ことさらな書き換えを行っ
たとは考えにくい。従って、同図に見える蘇城周辺の記載は、当時ロシアが把握し得た最新のデータに基づくも
のであったと考えられよう。
では、『中俄交界図』作製時点において現地調査を行うことができない状況にあった清朝側の蘇城地域に関す
る理解は、単に旧来よりの地図に基づくものであったのだろうか、或いはロシア側のデータをそのままに利用す
るに過ぎなかったのであろうか。当時の清朝側が有した情報源がいかなるものであったのかは、張博泉が自らの

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主張の根拠として挙げる『籌辦夷務始末』咸豊朝・巻 48 に収録された咸豊 10 年(1860)正月 29 日の吉林将
軍景淳の上奏文から判明する。
その『籌辦夷務始末』編纂の際に利用された原档案が「景淳等奏俄兵強占烏蘇里卡倫及現在籌防情形折」として、
『清代中俄関係档案史料選編』第 3 編下冊(故宮博物院明清档案部 1979)に収録される。その関連箇所は以下
の通りである。
蘇城は即ち古の雅蘭城にして、吉林の東南二千余里に在り。其の地は崇山峻嶺にして、東海に濱臨す。尚
お古城の旧迹有るも、并びに盧舎・居民無し 14
本上奏の内容は、北京条約締結を目前に控えた時期に、沿海地方におけるロシア勢力の拡大を危惧した咸豊帝の
上諭を受けてなされた蘇城及び通溝に関する現地調査の報告である 15。その調査結果として、同地域の地図が上
呈されるとともに、キャカラが居住し 16、狩猟を生業とする「 夫」がロシア勢力の拡大により猟場を失うなど
といった蘇城周辺の具体的状況が報告される 17。さらに、ここで明確に蘇城が雅蘭(耶懶)城の地であるとの指
摘がなされるのである 18。この 1860 年になされた吉林将軍景淳による現地調査こそが、清朝側が行い得た最後
の調査であり、その成果がロシア製地図を基に作製された『中俄交界図』に反映され、原地名の記載がなされた
と考えられる。
以上見てきた様に、清・ロシア・朝鮮それぞれの地図に記される記載内容は、いずれも別系統の情報に基づ
くものでありながら、そろって烏得密河の東に耶懶河(蘇城河)が位置するという共通した理解を示すものであ
った。こうした清代の史料から導き出された耶懶を蘇城に比定するという結論自体は、既に和田清が提示し、三
田村泰助が支持したものと一致するものではあったが、張博泉によって具体的な資料が提示され、より説得性を
増す結果となったと言えよう 19
 なお、当該時期の蘇城に関しては、19 世紀末に同地を訪れた朝鮮人によってなされた調査報告が『江左輿地
記』に記載され、現地を写した彩色の図が『俄国輿地図』として附される 20。『輿地記』の記載によれば、宋皇
営(Ussuriysk)の東 600 里に位置する蘇城は、南北 100 余里、東西 30 里の面積を有し、物産豊富な土地であ
るとともに、河口に良港ナホトカ湾を備えるという好条件から、交通・物流の要衝としてウラヂオストックの開
発以前より当地に兵営が設置された。さらに、現在も残る周囲 30 里の土城内には、多くの朝鮮人が居住してい
たとされる。
また、1870 年にウスリー南部を訪れたロシア北京伝導団団長のパラディウスは「スーチェン」行きを望みな
がらもその願いを果たし得なかったが、クラスノヤルスクにおける伝聞を通して蘇城の城址にまつわる伝説 21
や特別な配列の土塁が存在するとの情報を入手している(井上 1991, p. 141)。
3. 耶懶路完顔部と安出虎水完顔部
耶懶路完顔部とは、耶懶水流域に拠った女真集団を指し、安出虎水完顔部を中核とした全女真の統一及び金
朝の建国に多大な功績を残した人々である。その初出は『金史』巻 1・世紀の冒頭に見え、耶懶路完顔部の部長
(孛菫)を継承する石土門(神徒門・神土懣)[shitumen ∼ shientumen ∼ shentuman22]と完顔忠(迪古乃/
阿思魁)[digunai23]の兄弟が、安出虎水完顔部の始祖函普の弟である保活里[foholi24]の子孫とされる 25
また、『金史』巻 59・宗室表に依れば、完顔氏の中には「宗室」、「同姓完顔」、「異姓完顔」の三種が存在し、「異
姓完顔」が完顔部に属する異姓の構成員を指すのに対して、「同姓完顔」は疎族と位置づけられ、その代表格と
して耶懶路完顔部の石土門・迪古乃が挙げられるのである。既に松浦茂が指摘する様に、耶懶路完顔部を同族と
みなす認識は、金朝末期に至るまで一貫して存在した(松浦 1978, p. 23)。『金史』巻 113・完顔賽不伝に依れば、
完顔賽不、始祖の弟保活里の後なり。……(元光二年[1223])六月、宰臣に詔諭して曰く「枢密副使賽
不は本と皇族なるも、先世偶然に脱遺せり。朕其の旧人にして、且つ久しく王家に労するを重んじ、已に
睦親府に命じて属籍に附せしむ。卿等宜しく之れを知るべし。」26
とあり、完顔賽不[saibu27]は保活里の子孫、すなわち耶懶路完顔部の世系に連なる人物であり、本来は皇族
としての扱いを受けるべき身分であった。しかし、賽不に至る途中で宗譜(皇室の宗譜である玉牒)上から脱落
していたため、宣宗吾睹補[udabu28]の末年に至り、大睦親府 29 に宗譜への再登録が命じられることとなる。
ここで保活里の子孫である賽不が皇族と位置づけられ宗譜に記載されるとともに、その管理が宗室管理を担当す

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る大睦親府に委ねられていることに注目すべきである。
かくも金朝政権に耶懶路完顔部が重視された背景には、いかなる状況が存在するのであろうか。以下、始祖
兄弟の説話形成とも関わる安出虎水完顔部の女真統一さらに金朝建国の過程における耶懶路完顔部の動向を検討
してみよう。
安出虎水に拠って勢力を強めつつあった完顔部の周囲には、その強大化を阻止せんとする敵対勢力が存在し
た。『金史』巻 1・世紀及び巻 67 には、阿跋斯水(牡丹江中流)温都部の烏春[u un30]、活剌渾水(呼蘭河:
松花江支流)紇石烈部の臘 [labi31]・麻産兄弟、統門水(図們江)と渾蠢水(琿春河)の合流地に拠る烏古論
部の留可[loko32]、星顕水(布爾哈通河:図們江支流)紇石烈部の阿疎[asu33]らとの熾烈な戦いの模様が詳
細に記載される。各集団は互いに連携をとり相い、安出虎水完顔部を南北から挟撃する形で、その包囲網を狭め
ていったのである。
こうした中で女真統一を推し進める安出虎水完顔部の強力な支持勢力として登場するのが、完顔部始祖函普
の弟保活里の子孫を名乗る耶懶路完顔部であった 34。彼らの根拠地が沿海地方蘇城河流域であるすれば、安出虎
水完顔部を包囲せんとする敦化地方及び綏芬河・図們江流域の諸勢力をその背後から脅かす形で強力な援軍が突
如出現したこととなる。
同様のケースとして、金朝建国後に引き続く対遼戦争の最中、最重要拠点である遼陽(東京)攻撃に際して、
始祖函普の兄阿古廼[agunai35]の子孫を称する曷蘇館女真が、安出虎水完顔部に帰属し、渤海人高永昌の拠る
遼陽攻略を実現させたことが挙げられる。つまり、女真の統一と金朝による東北アジア制覇のそれぞれの最重要
局面において、敵対勢力を挟撃しえる位置に出現した支持勢力こそが、耶懶(蘇城)・曷蘇館(遼東)の両者であり、
ここから安出虎水(阿城)完顔部と始祖三兄弟とする説話が形成されたのであろう。
 同様の見解は既に三上次男が指摘するところではあるが、氏は耶懶を図們江上流域に比定することから、その
居住地域が持つ戦略的意味自体も相違してくる(三上 1941)。なお、女真統一の過程における耶懶路完顔部と
の連携、また遼東制圧時における曷蘇館女真の来帰以外にも、対遼戦争時における宋からの共同作戦の申し入れ
など、阿骨打時代の金朝政権は、各場面のターニングポイントとも言える時期において、自らの働きかけも含め
た絶妙な機会を生み出し、常に敵対勢力を挟撃する遠交近攻策を用いて有効な成果を収める。こうした戦略上の
セオリーに則った大方針こそが、建国よりわずか 10 年余りという短期間に華北及び東北アジアの制覇を成し遂
げ、一大帝国を作り上げる原動力となったことは言うまでもない。
また、耶懶路完顔部の来帰に関しては、耶懶路完顔部の来帰が昭祖石魯[šilu ∼ šilun36]による初めての耶
懶進出を契機としてなされ、景祖烏古廼の時代に正式な使者が送られであろうことは、彼らが自称するその系譜
が当時の孛菫たる直离海を昭祖と同輩行(始祖兄弟の四世の子孫)に位置づけることからも窺える。直离海の生
没年を確認することはできないものの、その子石土門が天輔 6 年(1122)に 61 歳で没していることから逆算
すれば、その生年は遼の清寧 7 年(1062)となり、系譜上は石土門の二世代下の輩行に当たる太祖阿骨打(咸
雍 4 年∼天輔 7 年[1068 ∼ 1123])とほぼ同年代となる。さらに、この生没年に拠れば、景祖の子世祖劾里鉢
[huribo ∼ huribu37]の生女直部節度使就任の時点で、石土門はわずかに 12 歳でありながら、自らが前線に立
ち一族を率いて周辺諸部連合軍を撃破し、世祖への服属を決定付けるのである 38。こうした点からも、最初に接
触を持った昭祖と自らを同輩行に位置づけんとして直离海ら耶懶路完顔部が系譜を意図的に生み出した可能性が
窺える 39
軍事面における耶懶路完顔部の貢献を考える上で、穆宗末年より生じた高麗との紛争に言及せざるを得ない。
穆宗盈歌[yingge40]・康宗烏雅束時代に 7 年間に亘り繰り広げられた対高麗戦争において、女真側の中心とし
て最も卓越した活躍を見せるのは『金史』巻 13・高麗伝などに見える石適歓[shidihuan41]である。三上次男
は『金史』巻 70・石土門伝に「従撃高麗及伐遼功尤多」と記載されることに依り、さらにその根拠地耶懶が図
們江流域に位置し、石適歓の活動地域と一致すると考え、この両者を同一人物の別表記とし、これが『高麗史』
に見える之訓[朝鮮音は kihun]であるとの見解を示す(三上 1941, pp. 31-35)。但し、両者の音価の相違に
関しては氏は明確な根拠を示すことなく、『金史』編者の疎漏にその原因を求めるに止まる。
これに対して、嘗て長春市郊外の石碑嶺に存在した「大金開府儀同三司金源郡壮義王完顔公神道碑」42 いわ
ゆる「完顔婁室神道碑」には、対高麗戦争に関する以下の記載が見える。

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高麗出兵し、曷懶甸を侵し、進みて九城を築く。宗子贈原王什実款師を帥いて之れを討つに、王従いて其
の城を攻むるも、久くして克たず。王之れを帥に言いて曰く「宜しく彼の外援を遏め、其の餉道を絶つべし。
攻めずして自ら下るべし。」之に従い、其の城五を降す 43
康宗 6 年(高麗睿宗 3 年、1108)尹 に率いられた高麗軍の攻撃により、曷懶甸(咸興平野)における女真勢
力は後退し、高麗側の新たな防衛の基点として九城が建造された。これに対して、失地回復を目的とする女真軍
が編成されるが、それを率いる人物として名の見える宗子贈原王什実款[shishikuan44]こそが、三上が石土門
と同一人物とした石適歓に他ならない。
これにより、『金史』編者の疎漏に両者混合の原因を見出す三上の推測は破綻を見せる。さらに石土門ら耶懶
路完顔部の各リーダーがいずれも金源郡王を追封されたのに対して、ここではさらに上級の封号である次国号の
原王が贈られていることから考えても 45、石土門を石適歓(什実款)と同一視する見解は成り立たない。
とは言え、石土門の率いた耶懶路完顔部が対高麗戦争に従軍したことは間違いなく、実際にその子習失[siši46
は斡賽[ose47]の指揮下において尹 との戦闘に従事している 48。ここで注目すべきは高麗から東女真と呼ば
れた集団と耶懶路完顔部との関係である。東女真とは、東北方面より高麗を襲撃し続けた集団であり、彼らは時
に 100 艘にも及ぶ大船団を率いて高麗臨海部を寇略した。東女真に関して詳細な検証を行った池内宏は、その
集団を城川江流域の咸興平原に居住する女真集団と限定したが(池内 1937B)、高麗から見て東北方に位置し、
天然の良港であるナホトカ湾を擁する耶懶路完顔部が、リマン海流の流れる海岸線に沿って南下し、海賊行為を
行った可能性を排除することはできない。
高麗側から見た耶懶に対する認識を示すものとして、時代は降るが『高麗史』巻 46・恭譲王 4 年(1392)3
月庚子条に見える以下の記事を見てみよう。
斡都里・兀良哈の諸酋長皆な万戸・千戸・百戸等の職を授かるに差有り、且つ米穀・衣服・馬匹を賜るに、
諸酋感泣し、皆な内徙して藩屏と為る。又た諸部落に牓諭して曰く「洪武二十四年七月、李必等を差わし
牓文を賚らし女真の地面豆万等処に前去し招諭せしむ。当年、斡都里・兀良哈の万戸・千戸頭目等、即
タダチ
便
に帰附するに、已に名分を賞賜するを行い、倶に各おの業に復さしむ。所
アラユ
有る速頻・失的 ・蒙骨・改陽・
実隣・八隣・安頓・押蘭・喜剌兀・兀里因・古里罕・魯別・兀的改の地面は、原と本国公嶮鎮の境内に係り、
スデ已に曽
カツ経て招諭せるも、今に至るまで未だ帰附を見ざるは、理に於いて順ならず。此の為に、再び李必
等を差わし牓文を賚らし前去し招諭せしむ。牓文到るの日、各各来帰せば、名分を賞賜し、及び凡ゆる欲
する所は、一に先に附せる斡都里・兀良哈の例の如し。49
李成桂の即位直前に起こった斡都里と兀良哈らの来帰を受けて 50、その他の諸部落に招諭の牓文がもたらされた。
その対象地に関しては、和田清の比定に従えば(1955B)、豆万(図們江)、速頻(綏芬河流域)、蒙骨(ウラヂ
オストック西方の蒙古[Monggu]河)、改陽(海洋即ち吉州)、実隣(Sirin 河)、安頓(南突、即ち那木都魯[namdulu]
と同じく綏芬河下流)、兀的改(綏芬河流域)、喜剌兀(ポシェット湾付近)と兀里因(同左)となり、これらと
並んで押蘭(耶懶)の名が現れるのである 51
いずれも高麗東北方面に当たる地域であり、高麗側が東女真と認識していた斡都里・兀良哈らのさらに遠方
に押懶(耶懶)らが居住するとの情報を有していたことは間違いない。既に紀元前の時代より北海道やサハリン
などとの海上交通を行った同地域の人々が、金代に至りその技術を喪失していたとは考えにくく、しばしば高麗
を襲撃した東女真の人々の中には、彼ら沿海地方の人々が含まれていたと考えるべきであろう 52
さらに、康宗烏雅束時代の対高麗戦争の詳細を記す『高麗史』巻 96・尹 伝に以下の記載が見える。
自ら五万三千人を以て定州大和門を出で、中軍兵馬使左僕射金漢忠三万六千七百人を以て安陸戍を出で、
左軍兵馬使左常侍文冠三万九百人を以て定州弘化門を出で、右軍兵馬使兵部尚書金徳珍四万三千八百人を
以て宣徳鎮の安海・拒防両戍の間に出づ。舩兵別監吏部員外郎梁惟竦・元興都部署使鄭崇用・鎮溟都部署
副使甄応図等舩兵二千六百を以て道鱗浦より出づ。53
定州南東の宣徳鎮より出撃した高麗右軍は舩兵 2,600 を引き連れて海陸並行して進撃している。この舩兵が開
港である道鱗浦から出撃していることから考えて、海洋航海用の船舶であったことは間違いなく、沿岸の女真勢
力の掃討に加えて海戦を意図した高麗側の布陣であったと言えよう。こうした高麗側の水軍の展開を考えれば、
女真側にもこれに相当する水軍が存在したと考えるべきである。

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さらに、時代は降るが、女真の水軍に関する興味深い史料が熊克の『中興小紀』巻 3・建炎 2 年(金天会 5 年、
高麗仁宗 6 年、1128)6 月戊午条に見える。
借刑部尚書楊応誠等使を奉じて髙麗に至る。丁卯、国王楷に見え、聖旨の道を借り以て金国に達せんこと
を伝う。楷拝謝し応誠等と対立して事を論じ、且つ言えらく「大朝に事うるの日久しく、皇帝即位せば、
方に入貢せんと欲するに、遽かに降使を蒙る。昨ごろ二聖遠征せるを聞き、本国惶懼す。金人旧時弱なれ
ども、今兵威此くの如く、亦た嘗て兵を遣わし来りて築く所の九城を奪去せり。此に因りて和せず。」応誠
等言えらく「本朝累聖貴国を待することも最も異にして、他国の比に非ず。今時偶たま多艱にして道を仮る。
此の去は只だ是れ講和のみにて、貴国に害無し。」楷曰く「大朝自から山東の海道有り。何ぞ登州より以て
往かざるや。」応誠等曰く「貴朝の金に去くこと最も径なるに如かず。但だ国王をして金国に報ずるを煩わ
すのみにして、応誠界首に至り報を待ちて後行かん。兼ねて三節人皆な自ら糧を賚たば、敢て以て貴国を
さず、惟だ馬二十八匹を借りるのみ。」楷曰く「諸臣と議するを容せ。」遂に門下侍郎富佾を遣わし館に
至り議せしめて曰く「聞くらくは金人見に海船を造り、両浙に往かんと欲す。若し使を引きて其の国に至
らば、恐るらくは彼却て借路を要めんことを。両浙に至らば則ち何を以て処せん。」応誠等曰く「女真水戦
する能わず。」佾曰く「東女真常に海道に往来す。况や女真旧は本国に臣うるも、近ごろ却て臣事せんこと
を要む。此を以て強弱を見るべし。」54
同年 3 月、高麗を経由して金に赴き拉致された徽宗と欽宗の返還を求めるという自らの発案が認められた楊応
誠は大金高麗国信使に任じられ、杭州より海路高麗へと赴いた 55。但し、既に金朝への臣属姿勢を明確化してい
た高麗にとって、自国を仲介とする宋と金との通交には明らかな危険が予想され、婉曲にその提案を拒否する。
その中でしばしば高麗を海路襲撃した東女真の伝統を継承する金朝水軍の強力さが語られ、両浙攻撃を意図した
造船作業が進行中であるとの情報を伝えるのである。
『高麗史』巻 15・仁宗世家 6 年(1128)8 月庚午条には、高麗側の楊応誠に対する返答の内容がさらに詳細
に記録される。
又答えて曰く「上朝是れより先に詔を降し、小国をして往きて女真を諭し小国に来朝せしむ。窃かに慮る
に女真に中国の富盛を窺わしむるべからずと、敢て詔を奉ぜず。朝廷以て然らずとし、遂に多方招諭し、
厚く金帛を賜う。彼既に中国の虚実を知りて、窺心一動し、長駆深入して、京師を騒擾す。小国は金国と
疆場相い接すれば、情偽を知ること甚はだ熟たり。今使節此によりて往かば、則ち猜疑隙を生じ、禍旋ち
踵らざらん。仮
モ 令し使節此より彼に往かば、彼必ず此より復礼す。又た況や其の国東は大海に浜し、尤も
水戦を善くす。彼托するに復礼を以てし、審かに淮浙の形勢を知り、万一戦艦を具え海に浮かびて下り、
其の不意を撃たば、窃かに恐るらくは北は陸戦に苦しみ、南は水戦に苦しみ、首尾敵を受け、患を為すこ
と必ず鉅からんことを。事此に至らば、悔ゆると雖も追うべけんや。……」56
金と宋との通行を阻害せんとする高麗側の言い分であることを考慮すれば、金朝の脅威を煽るこの返答内容には、
いささか割り引いて考える必要がある。とは言え、後の海陵王の南宋攻撃に際して、浙東道水軍都統制蘇保衡に
率いられた海軍が山東沖を南下し、海路臨安を襲撃していることからしても 57、東部(或いは南東部)に沿海地
域を包摂する金朝の海軍力を寡少評価することはできない。
内陸部に位置する安出虎水完顔部が本来的にこうした造船及び海事技術を有していたとは考えにくく、高麗
側が語る様に金朝水軍は沿海部に居住した東女真以来の技術・伝統を継承するものであったと考えられよう。す
なわち、日本への遠洋航海をも可能にするだけの海事技術力を備えた耶懶路完顔部ら沿海部の女真集団は、金
朝水軍を形成する主力構成員となり、対高麗戦争に従事するとともに、海路を用いた南宋攻撃をも危惧させる存
在であったのである。後に報諭宋国使として南宋に赴いた石土門の子完顔思敬が満ち潮による銭塘江の大逆流を
誇りその参観を進める宋人に対して、それを拒絶するなかで語った「我が国の東に巨海有り、而して江水の銭塘
より大なる者有り」の語からは、沿海地方で年少期を過ごし、海事に馴れ親しんだ思敬の率直な思いが滲み出る
58
4. 耶懶路完顔部の居住地
以下、居住地を中心として耶懶路完顔部の動向を見てみよう。石土門伝に拠れば、

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弟阿斯懣尋いで卒し、終喪に及びて、大いに其の族を会するに、太祖官属を率いて焉れに往き、就ちに伐
遼の議を以て之れを訪う。方に会祭せんとするに、飛烏の東より西する有り、太祖之れを射るに、矢左翼
を貫きて墜つ。石土門持ちて上前に至り慶を称えて曰く「烏鳶は人の甚だ悪む所、今射て之れを獲るは、
此れ吉兆なり。」即ち金版を以て之れを献ず。後本部の兵を以て従いて高麗を撃つ。遼を伐つに及びて、功
尤も多し 59
とあり、石土門の弟阿斯懣の葬儀に際して、耶懶路完顔部人が一同に会したとされるが、その葬儀挙行の地は本
拠地であった蘇城河流域以外には考えられない。また、太祖阿骨打は「官属」すなわち安出虎水完顔部の首脳を
引き連れ、この葬儀に出向くとともに、キタイに対する挙兵案を持ちかけた。その意図するところが耶懶路完顔
部からの軍事的援助を求めるものであったことは明かであろうが、安出虎水から遙かに離れた蘇城の地に太祖自
身が出向いたことが意味するものは大きい。
さらに興味深いことに、石土門の弟迪古乃の伝(『金史』巻 70)にもこれに類似した記載が見える。
完顏忠、本名は迪古乃、字は阿思魁、石土門の弟なり。太祖之れを器重し、将に挙兵し遼を伐たんとするも、
而ども未だ決せざるや、迪古乃と事を計らんと欲す。是に於いて、宗翰・宗幹・完顏希尹皆な従う。居る
こと数日、少間、太祖迪古乃と肩を馮けて語りて曰く「我此に来るは豈に徒然ならん。汝に謀る有り。汝
我が為に之れを決せよ。遼は名づけて大国と為も、其の実は空虚にして、主は驕りて士は怯え、戦陣に勇
無くんば、取るべきなり。吾兵を挙げて、義に杖りて西せんと欲す。君以為らく如何ん。」迪古乃曰く「主
公の英武なるを以て、士衆は楽びて用を為す。遼帝は畋猟に荒み、政令常無くんば、与し易きなり。」太祖
之れを然りとす。明年、太祖遼を伐つに、婆盧火をして来りて兵を徴せしむるに、迪古乃兵を以て師に会す。
60
『金史』巻 2・太祖本紀に拠れば、太祖の挙兵は都勃極烈襲位の翌年天慶 4 年(1114)であり、ここに見える太
祖の耶懶路完顔部訪問は天慶 3 年(1113)の出来事となる。この両伝に記載される事実をそれぞれ別個の出来
事と見れば、太祖ははるかに離れた内陸部の阿城から蘇城に短期間の間に二度も訪れたこととなる。但し、当時
の安出虎水完顔部を取り巻く環境から考えて、この様な想定には無理があり、この両者は同一の出来事を別個に
記したものと推測されよう。これを裏付けるものとして、「大金故左丞相金源郡貞憲王完顔公神道碑」(完顔希尹
神道碑)61 に拠れば、
太祖祭礼を以て移懶河部長神徒門の家に会し、因りて其の兄弟と伐遼の議を建つ。時に王は明粛皇帝・秦
王宗翰と皆な侍行し、与間□□□□□□□王以□指結納沿江鉄驪兀惹諸部。鉄驪の長奪离剌是に於いて款
を献じて曰く「謹んで約を奉ず。」其の還るに比ぶや、師もて寧江州を囲む 62
とあり、まさに上掲『金史』両伝の記事を総合した内容が記載される。つまり、阿斯懣の葬儀に際して、太祖は
宗幹(明粛皇帝)・秦王宗翰・完顔希尹を率いて耶懶に向かい、石土門・迪古乃兄弟とともに対遼戦争の策を議
したのである。また、この耶懶路完顔部首脳の了解を取り終えるや、その翌年に挙兵し寧江州包囲に至ることか
ら、三上次男が石土門=石適歓説の根拠とした、石土門伝の「後以本部兵従撃高麗」という記載は時代的にも齟
齬を来すこととなる。
さらに挙兵に合わせて安帝五世の孫に当たる婆魯火[porho63]を耶懶路に遣わし「兵を徴」したとされるが、
迪古乃自身が兵を率いて出陣していることから考えて、援軍の出兵督促に赴いたというのが実情であろう。また、
これに合わせて耶懶路孛菫として一族を束ねる兄の石土門は 300 人の兵士を率いて呉乞買が留守を預かる阿城
の皇帝寨 64 に赴き、その護衛を果たすなど、対遼戦争に際して耶懶路完顔部は攻守両面における重要な役割を
担うこととなる。
その後、燕京の攻略を終えた天会 2 年(1124)に耶懶路完顔部の居住地に関する大きな変化がおとずれる。
迪古乃伝に拠れば、
太祖燕京に入るに、迪古乃徳勝口より出づれば、以て石土門に代えて耶懶路都勃菫と為す。天会二年、耶
懶の地薄く斥鹵なるを以て、其の部を蘇濱水に遷し、仍お朮実勒 65 の田を以て之れを益す。66
とあり、燕京攻略に際してその北部要衝の一つ徳勝口の攻略に成功した功績により、迪古乃は石土門に代わって
耶懶路完顔部の部長たる耶懶路都孛菫に任じられた。その後、阿骨打の死去に伴い太宗呉乞買が即位した翌年の
天会 2 年に、耶懶の土地が痩せているという理由によって、蘇濱(ウスリースク)への耶懶路完顔部を挙げて

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の遷徙が実施されるのである。
 さらに、迪古乃伝に拠れば、
初め、海陵の諸路の万戸を罷むるに、蘇濱路節度使を置く。世宗の時、近臣奏して改蘇濱を改めて耶懶節
度使と為し、旧功を忘れざるを請う。上曰く「蘇濱・耶懶の二水は相い距たること千里、節度使の蘇濱に
治するは、必ずしも改めず。石土門親管猛安の子孫の襲封せる者は、改めて耶懶猛安と為し、以て其の初
を忘れざるを示すべし。」67
とあり、海陵王迪古乃の天徳 3 年(1151)11 月に至り、各女真集団の猛安を束ねる世襲万戸の制度が廃止され
68、行政区画或いは職名としての耶懶の名は一旦は消滅することとなる。併せて、当該地域には蘇濱路節度使が
設置されることとなったが、耶懶路完顔部の人物中に蘇濱路節度使への就任者が確認できないこと 69、さらに正
隆 4 年(1159)に至って、蘇濱路を含めた東北アジアの全領域において猛安・謀克戸から 20 歳以上 50 歳以下
に対して徹底的な徴兵がなされていることから考えて 70、こうした一連の措置が南伐への布石であることは間違
いない。耶懶路完顔部の長たる都孛菫とは別に節度使を送り込むことで、海陵王政権の必要に応じた兵員及び物
資の確保が図られたと考えられる 71
こうした状況は、海陵王政権に反旗を翻しクーデタによって即位した世宗朝に至り、再び変化を生じ、世宗
の意図する政治的思惑から再び耶懶の名が復活されることとなる。それは石土門親管猛安に限って耶懶猛安を名
乗ることを認めるものであった。但し、ここでも石土門・迪古乃・思敬と継承された耶懶路完顔部の中核をなす
世襲猛安に限って、耶懶の名を冠することが認められたに過ぎない。大定 24 年(1184)に、思敬の孫の吾侃朮
特[ukanjute72]が速濱路宝鄰山猛安を授けられていることからも、耶懶路完顔部の根拠地自体に変化はなかっ
たと考えられる。
従って、同地域において東夏の年号である天泰 7 年の記銘を有する「耶懶路猛安印」が出土したことの持つ
意味は大きく(井黒 2005, No. 359)、金朝滅亡後も耶懶路完顔部の中核である石土門親管猛安が当地に居住し
ていた、即ち耶懶路完顔部を継承する人物、或いは東夏政権によって耶懶路完顔部を継承すると目された人物が
当地に居住したことが分かるのである 73
 これまで述べてきた様に、安出虎水完顔部の女真族統一、さらに遼の覆滅と華北領有といった一連の戦闘にお
いて、耶懶路完顔部は目覚ましい活躍を見せる。さらに、太宗朝より侍衛として皇帝に近侍した完顔思敬は、熙
宗朝において殿前都点検に就任するとともに、皇帝の専権化に反対する宗盤・宗雋の捕縛及び粛正に関わるなど、
一貫して金朝皇帝の側近として帝室を支える役割を果たした 74。特に皇帝熙宗との関係は、後に大定年間に『熙
宗実録』を編纂するに際して、思敬に熙宗朝に関する情報が求められるなど 75、側近中の側近と言うべき存在で
あったと考えられる。
 これに続く海陵王時代においては、皇帝専権体制の確立を目指す中で、耶懶路完顔部を含めた女真貴族層に対
する圧迫が強められ、完顔思敬も中央政権を離れ地方官を歴任するなど、低迷の時期を過ごすこととなる。しか
しながら、世宗朝における耶懶猛安の復活による耶懶路完顔部の功績への見直しの背景には、海陵王による中都
への遷都及び南伐、皇室の粛正といった強引な政治手法によって引き起こされた女真集団の瓦解を未然に防ぎ、
その再統合を図る世宗の意図が窺える。
さらに、こうした女真再統合の動きは、金朝建国期の勲臣 21 人の肖像画を衍慶宮に配し(大定 16 年[1176])
76、太祖の功績を記念した女真文・漢文合壁の「大金得勝陀頌碑」77 を勅撰・立石(大定 25 年[1185])する
などと同一線上に位置づけられるものであろう。また、嘗てウスリースクに存在した迪古乃(完顔忠)の神道碑
のわずかに残る題額には、「大金開府儀同三司金源郡明毅王完顔公神道碑」の記載が確認できる(華 1976・林
1992)。迪古乃の没年は天会 14 年(1136)であり、金源郡王への追封が大定 2 年(1162)であることを合わ
せ考えれば、その撰文・立石が死後少なくとも 26 年以上経過した後であり、完顔婁室神道碑の立石(大定 17
年[1177])、完顔希尹神道碑の立石(大定 21 ∼ 22 年[1181 ∼ 82]:陳 1989)とともに世宗の建国の勲臣を
表彰し、女真の結合を強めるための措置であったことが分かる。
また、21 人の衍慶宮功臣の内、安出虎水完顔部に連なる人物は 12 人もの多きを占めるが、耶懶路完顔部か
らは迪古乃と石土門の子習失の二人が名を連ね、さらにこれに次ぐランクとされた亜次功臣の中には、石土門が
含まれる。完顔忠神道碑の立石及び一族の功臣・亜次功臣への選抜は、世宗の耶懶女真に対する並々ならぬ配慮

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を示すものと言えよう。
こうした耶懶路完顔部に対する世宗の優遇策は直接には海陵王の正隆年間より引き続いた移剌窩斡を中心と
するキタイ大反乱の鎮圧に完顔思敬が大きな役割を果たした点を評価してのことと考えられる 78。思敬伝に拠れ
ば、
大定二年、西南路招討使を授かり、済国公に封ぜられ、天徳軍節度使を兼ぬ。俄かに北路都統と為り、金
牌及び銀牌二を佩ぶ。西北路招討使唐括孛古底之れに副う。本路の兵二千を将い、孛古底に会し、地形の
衝要を視、或いは狗 に屯駐し、契丹賊出没の地を伺い、守禦を置き、斥候を遠くして、賊至らば則ち戦
い、昼夜を以て限と為さず。孛古底に詔して曰く「爾の兵少くして、思敬未だ至らざれば、先戦するを得
ず。」僕散忠義窩斡を陷泉に敗るに、思敬に詔して新馬三千を選びて、追襲に備えしむ。窩斡奚中に入るに、
思敬元帥右都監と為り、旧領の軍を以て奚地張哥宅に入り、大軍と会して之れを討つ。偽節度特末也を敗り、
二百余人を獲う。賊の降将稍合住其の党神独斡と窩斡并びに其の母徐輦・妻子弟姪家属及び金銀牌印を執
え詣思敬に詣りて降る。思敬俘を京師に献ずるに、金百両・銀千両・重綵四十端・玉帯・厩馬・名鷹を賜る。
79
世宗政権成立直後の大定 2 年(1162)、いち早くその帰趨を明らかにした耶懶路完顔部のリーダー完顔思敬は海
陵王政権下での慶陽府尹から西南路招討使へと抜擢され、緊急かつ最大の問題であったキタイ反乱軍の討伐に差
し向けられる。さらに北面軍総帥である北路都統に任じられた思敬は「旧領軍」、すなわち耶懶路完顔部の兵士
を率いて反乱軍リーダーの移剌窩斡を追いつめ、その生擒に成功するといった目覚ましい功績を収めるのである
80。耶懶路完顔部は女真統合から金朝建国に至る期間、さらに第二次建国期とも称すべき世宗のクーデタに際し
て、宗室中でも図抜けた功績を挙げるとともに、一貫して金朝皇室を支える役割を担い続けたのである。
おわりに
 金代耶懶水を現在の蘇城河に比定すること
で、安出虎水完顔部を中心とした全女真の統一、
さらに金朝建国へと到る過程において、耶懶路
完顔部の有した戦略的価値の高さが明らかとな
るとともに、沿海地方の果たした地理的・人的
役割の一端が明らかとされた。
さらに、耶懶路が沿海地方に位置するとい
う状況は、彼らの有する水軍の存在を示唆する
こととなったが、同地域における城址の中には
河川からの水門を有する遺構の存在が報告され
ている。沿海地方南部からオホーツク海沿岸、
さらに朝鮮半島東岸に至る海上交通の積極的評
価が今後の課題となろう。
 さらに、同地域からは東夏時代の遺構が数多
く発見される。耶懶路完顔部らが東夏政権に組
み込まれたであろうことは、その根拠地だけで
なく「耶懶路猛安印」の発現によっても明らか
となった。また、蘇城河流域中にはシャイガ、
ニコラエフカといった 12・13 世紀の大型城址
が発見されている。耶懶路完顔部との関連を含
めた金と東夏を結ぶ連続性という面からも、綏
芬河流域より蘇城河流域に至る沿海地域のさら
なる検討を課題としたい。
表1 完顔部関係系図

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【追記】
本文中で取り上げた耶懶を蘇城に比定する張博泉の見解に関しては、高橋学而氏より教示を受けた。ここに
記して謝意を表したい。なお、筆者は参加し得なかったが、同氏は 2005.3.19 ∼ 21 日に新潟市にて行われた第
5 回遼金西夏史研究会合宿において、「金代東北流通史理解の一資料―シャイガ山城出土銅鏡を事例に―」と題
する発表を行い、張氏の耶懶=蘇城説を取り上げている。発表内容の公刊を切に望むものである。
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図1 (『中国歴史地図集』第 6 冊・宋遼金時期 pp. 48-49 を基に作成)
図2 (国学振興研究事業運営委員会編 1994,p. 184 より) 

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­ 63 ­
1) 正確には収国元年(1115)における完顔阿骨打[akuda:aku ∼ akun は女真語で哥哥・兄を、da は根
本・首領を意味することから、 諸兄の長 の意と解する]の皇帝即位と大金の国号制定をもって金代の開始
とすべきであるが、ここでは便宜上、開国以前の安出虎水[an un ∼ al un:金]完顔部による女真統一の過
程をも含めて金代の呼称を用いる。なお、古松崇志によって正式な国号が大女真金国[Amban Jušen Al un
Gurun]であったことが明らかとされた(古松 2003, 注 1)。以下、女真語の推定音価及びその語義に関しては、
KIYOSE1977 及び金 1984 を参照し、[ ]を用いて表記する。推定音価不明の語に関しては、表記を行わない。
2) 耶懶の表記に関しては、この他に移懶[yilan]、押懶[yalan]の用例を確認することができる。三上次男
はこれを満州語[ilan:三]を意味する語と捉え、その位置比定の根拠とした(三上 1943, p. 134:頁数は三
上 1973 に拠る。次章参照)。但し、モンゴル時代に牙蘭[yalan]、明代に牙魯[yalu]、清代に雅蘭[yalan]
或いは扎蘭[jalan]、札蘭[jalan]、阿蘭[alan]などと表記されること、さらに「女真進士題名碑」に女真語
の[jala-an bira minggan:押懶河猛安]の語が確認できることから(17 行目;金・金 1980, pp.308 / 312 ∼
313)、その音価を[yalan ∼ jalan]と考える。なお、上記「女真進士題名碑」中の女真語[jala]の音価比定
に関しては、『華夷訳語』(乙種本)女真館雑字・鳥獣門に同文字の音価として牙剌[yala:豹](Man: yarha)
が当てられる。その意味に関しては、『満洲源流考』において「満州語隊伍也(巻 12)」、或いは「国語扎蘭、世
代也(巻 60)」と解され、『華夷訳語』(乙種本)女真館雑字・新増にも[jalan:輩]の語が確認できる。孫伯
君は同語を「豹」の意と解し、清代の解釈を斥ける(孫 2004, p. 284)。但し、後に触れる様に、耶懶路完顔部
は金朝の始祖函普の弟保活里を始祖とする集団と名乗ること、さらにその用例が『金史』以前には見られないこ
とから、安出虎水完顔部と世代を同じくするとの意味より[yalan ∼ jalan:世代]の名を耶懶路完顔部が自称
したとも考えられる。注 34 参照。
3) 可能な限り現在の河川名を示す。
4) 塔烏黒河のロシア名に関しては、『中国歴史地図集』第 6 冊・宋遼金時期(pp. 48-49)に示される位置よ
り判断した。但し、賈敬顔は同名の河川を双城子(Ussuriysk)西南とする(賈 1993)。
5) 扎蘭、元作耶懶。蓋即今琿春以東、入海之雅蘭河。所謂耶懶・率賓相去千里、与今綏芬河里到。正自相符也。
6) 『金史』巻 24・地理志・上京路・恤品路条。
7) 雅蘭河在烏済密河東、金之耶懶路。所謂耶懶・率賓相去千里者也。出錫赭特山、南入海。海自其処趨而北、
衆水皆自西入之。
8) 注 5 参照。
9)札蘭原作耶懶、又作阿懶。今綏芬河以東千里許入海之水有雅蘭河。耶、阿与雅皆同声字、知金之札蘭即今雅
蘭河地。與史志相去千里之云正合、亦可以証此説之不誣。
10) 1735 年刊のデュ・アルド『中華帝国全誌』に挿入された図のみを再刊行したもの。
11) 서울大学校奎章閣 1994 に拠れば、同図は作者・年紀ともに未詳、6 帖の写本彩色図で、寸法は 23.5
17 ㎝とされる。また、同図の写真を収録する李 1991(No. 27 ∼ 28)に拠れば、その寸法を 140.0 135.0 ㎝、
18 世紀中期の作製とする。
12) 耶懶に関しては、曹廷傑自身は既にロシア領に編入されていたウスリー江右岸・綏芬河北岸の当地に直接
足を踏み入れることはなかったが、「輿図(未詳)」の記載を基に耶懶河をウラヂオストック東北の海辺に比定す
る見解を示す。「一、恭査国初屢次征服瓦爾喀部諸地、綏芬路即今綏芬河。雅蘭、錫林二路即輿図錫林河、雅蘭河、
在今海参 東北海濱。」なお、曹廷傑の著作及び調査の経緯は、叢・趙 1985A/B を参照。
13) 同図は現在、日本国内において国立公文書館と一橋大学附属図書館に所蔵され、前者はオリジナルの彩色
一枚図、後者は民国 23 年(1934)6 月に北平民社より分割して出版されたものである。識語の内容は以下の通
りである。「俄国是図成於光緒十年。在立約定界而後、西人尚游歴講輿、地無一二十年不修改之図、故新勝於旧、
中国腹地、不過得其大概。若辺外疆域道里、山川沙磧、則彼族躬履周歴測験精詳、雖名称或岐、訳字互異、而按
図索驥、不難辨方。原図寛広僅四五幅。今摸絵之、展為三十五幅。由於中国字体不能再収縮也。原図経度起自俄
都、故中国京師在其東経九十六度九分。若以京師起算、則図中九十七度九分、即為京師東経一度、九十五度九分
為京師西経一度、餘可類推。俄境曰斯克者、名城大郡也。曰斯闊甫者、鎮邑也。曰斯喀雅者、村聚也。光緒十六

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年四月、洪鈞識。」
14) 遵査蘇城即古之雅蘭城、在吉林東南二千余里。其地崇山峻嶺、濱臨東海。尚有古城旧迹、并無盧舎居民。
15) 中国第一歴史档案館 1998 所収「軍機大臣字寄吉林将軍景(淳)咸豊九年十二月二十五日奉上諭」
16) 佐々木 1989(注 24)に依れば、キャカラ(恰喀拉)とは「奇雅喀喇」、「恰喀喇」などとも表されるウス
リー江右岸の支流奥深くから沿海州の海岸地帯にいたとされる住民で今日のウデヘの祖先に相当するとされる。
17) 故宮博物院明清档案部 1979 所収「景淳等奏俄兵強占烏蘇里卡倫及現在籌防情形折(咸豊 10 年正月 29 日)」
18) 筆者は未見であるが、張氏はさらに『琿春辺界地方図』(光緒年間製)の標注「蘇城、一名雅蘭城」、
「蘇城河、
一名雅蘭河」を根拠として挙げ、蘇城=耶懶説を立証する。
19) なお、張 1984 及び 1986 においても、同様の見解が示される。
20) 自入俄界羅鮮洞、至宋皇営及秋豊諸処、已載於輿地記、不可 床而至。若不見処、因熟諳者説道、以定草
本。自海営東距火輪船一日程、有蘇城地方。此亦宋皇営之正東、距六百里地、尽接海処也。南北数百余里、東西
数三十里。土理腆厚、各項物産、多従此処而出。向南水口、開港絶妙。故海参営創設、如前據此徑記。仍罷、移
設於其西南海参営也、此地尚有関守兵、又有胡幕三四百戸。我人戸数、至三十餘戸。所謂蘇城者、有古来土城一座。
周回数三十里、山麓四隅、屏墇樹木、連抱成列、追想創始、不知其幾百年。城中土厚平涅。故清人流離者、取其
方便、徑設居住於城内、則不知暮夜、無知宿人、自出城外、在搆結房屋、自毀抛出城外、無乃被嫌於地霊歟。清
俄人不敢生意入居矣。挽近巳庚前後、我人播流之至此入城搆結、晏然奠居。清俄人皆謂之天定我人地云爾。
21) アルセーニエフが収集した「寛永王伝説」は、蘇城の君主寛永王と寧古塔の金牙太子との間で行われた戦
いの物語であり、蘇城河の河口付近に並ぶ兄弟山(大仍山・小仍山)や龍王廟などに関わるエピソードが含まれ
る(アルセニエフ:金生 1943)。『金史』巻 70・石土門伝に見える周辺諸部連合軍との戦いの中で、北上してく
る敵軍が東の高阜に拠ったとの記載が見られる。或いはナホトカ湾付近より蘇城河に沿って北上し、兄弟山の一
方に拠った敵軍を蘇城流域より南下した耶懶路完顔部軍が撃破したとも読み取れる。注 39 参照。
22) 推定音価及び語義ともに未詳であるが、後に触れる石適歓との問題から現代漢音を示す。
23) 『金史』金国語解・人事に「迪古乃、来也」とあり、『華夷訳語』(乙種本)女真館来文に漢語「往来」に
対応する女真語[geden digun]が見える。また、『華夷訳語』(乙種本)女真館雑字・時令門に「的温阿揑[di
(g) un aniya]:来年]、同通用門に[的温(di (g) un):来」が確認できる。
24) 『金史』金国語解・人事に「保活里、侏儒」とあり、『華夷訳語』(乙種本)・女真館雑字・通用門に[弗和
羅 foholo:短]、会同館『華夷訳語』地理門に[仏活羅:短]が確認できる。なお、満州語には「短」を意味す
る foholon の語が存在する。
25) 金之始祖諱函普、初従高麗来、年已六十余矣。兄阿古廼好仏、留高麗不肯従、曰「後世子孫、必有能相聚
者、吾不能去也。」独与弟保活里倶。始祖居完顏部僕幹水之涯、保活里居耶懶。其後胡十門以曷蘇館帰太祖、自
言其祖兄弟三人相別而去、蓋自謂阿古廼之後。石土門・迪古乃、保活里之裔也。及太祖敗遼兵于境上、獲耶律謝
十、乃使梁福・斡答剌招諭渤海人曰「女直、渤海本同一家。」蓋其初皆勿吉之七部也。
26) 完顔賽不、始祖弟保活里之後也。……(元光二年)六月、詔諭宰臣曰「枢密副使賽不本皇族、先世偶然脱遺。
朕重其旧人、且久労王家、已命睦親府附于属籍矣。卿等宜知之。」
27) 満洲語[saibumbi:咬ませる]の命令形か。渡部 1931(p. 203)では[sabu:短靴]と解する。
28) 孫 2005(p. 268)に依れば、満洲語[udambi:買う]に使役の[-bu]が接尾した形とされる。なお、
清代の『欽定金史語解』及び『満洲源流考』巻 11 に同様の見解が見える。
29) 『金史』巻 55・百官志・大宗正府条に「泰和六年避睿宗諱、改為大睦親府。判大宗正事一員、従一品、以
皇族中属親者充、掌敦睦糾率宗属欽奉王命、泰和六年改為判大睦親事」とある。
30) 孫 2005(pp. 270-271)に依れば、『華夷訳語』(乙種本)女真館訳語・器用門に見える[兀称因(uk in):
甲]に相当するとされる。
31) 渡部 1931(p. 208)に、満洲語[labi:戦船・戦車に用いる防矢用の綿布]に解する。
32) 孫 2005(p. 230)に、満洲語[leke:摩刀石]に相当するとされる。
33) 孫 2005(p. 197)に、『日下旧聞考』巻 154「阿蘇、満洲語網也、旧作阿速」を引く。
34) 『金史』巻 98・完顔匡伝 顕宗嘗謂中侍局都監蒲察査剌曰「入殿小底完顔訛出、侍読完顔撒速、与我同族、

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汝知之乎。」対曰「不知也。」顕宗曰「撒速、始祖九世孫。訛出、保活里之世也。始祖兄弟皆非常人、汝何由知此。」
なお、保活里の子孫とされる完顔訛出とは『金史』巻 104 に立伝される完顔 を指すと考えられ、同伝中には「本
名訛出、西南路猛安人」とある。
35) 満洲語[agu:老兄・兄長]に相当する語か。注 1 参照。
36) 孫 2005(pp. 254-255)では、
『金史』金国語解・人事に「凡事之先者曰石倫」とあり、女真語においては名詞・
形容詞の語尾[-n]がしばしば脱落することから、石倫[šilun]を石魯と同一語と考え、「前駆/先導」の意と
解する。但し、清人がこの両語を別とみなしていることから(『欽定金国語解』巻 1・巻 10)、或いはモンゴル
語[siru γ:墻]の可能性も窺える。
37) 孫 2005(p. 227)では、満洲語[huribumbi:囲う]の語根に使役の語尾[-bu]が接続された語と考え、
「つなぎ止めさせる」の意と解する。
38) 『金史』巻 70・石土門伝「世祖襲位、交好益深、鄰部不悦、遂合兵攻之。石土門使弟阿斯懣率二百人南下拒敵、
敵兵千人、已出其東拠高阜、石土門将五千人迎撃之。」なお、中華書局本『金史』の校勘記(p. 1629, 14)に依
れば、あまりに誇大な数値であることから、末尾の「五千」は「五十」の誤りであろうとされる。
39) なお、陳述 1960(p. 40)では、直离海をさらに一世代上とするが、『金史』中のその他の用例から考えて、
親から子を一世、子から孫を二世とする計算がなされていることは明かであり、氏の見解には従えない。
40) 孫 2005(p. 289)に依れば、満洲語[yengge:えびずる(桜薁)]に相当するとされる。
41) 注 23 に同じ。
42) 同碑は清代には散逸したが、『柳辺紀略』巻 4、『吉林通志』巻 120 に収録された録文によってその内容を
知ることができる。その他、南満洲鉄道株式会社総務部資料課 1936 及び『満洲金石志』外編に録文がある。な
お、同碑の復元案は李澍田 1989 /張 1989 /張・方 1989 に拠る。
43) [高:欠字]麗出兵、侵曷[曷:衍字]懶甸、進築九城。宗子贈原王什実款帥師討之、王従攻其城、久而不克。
王言之於帥曰「宜遏彼外援、絶其餉道。可不攻自下。」従之、降其城五。
44) 注 23 に同じ。
45) 『金史』巻 55・百官志・封王条に大国号に次ぐクラスである次国号三十の中に「昇(旧為原)」が見える
(括弧内は細字注)。なお、原王就封の事例としては、天眷元年(1138)に太宗呉乞買の子宗本阿魯[Mong :
aru γ]の例、大定 25 年(1185)12 月に即位以前の章宗麻達葛[madage:満州語[madage]は老人や子供
の背を叩いて愛撫するの意]が金源郡王から進封された二例が確認できるに過ぎない。
46) 『金史』金国語解・人事に「習失、猶人云常川也」とある。
47) 孫 2005(p. 267)に依れば、『清語人名訳議』「斡塞、瓦」を引き、満洲語[wase]に相当するとする。
48) 『金史』巻 70・習室伝「康宗時、高麗築九城于曷懶甸、習室従斡賽軍。」
49) 斡都里・兀良哈諸酋長皆授万戸・千戸・百戸等職有差、且賜米穀・衣服・馬匹、諸酋感泣、皆内徙為藩屏。
又牓諭諸部落曰「洪武二十四年七月、差李必等賚牓文前去女真地面豆万等処招諭。当年、斡都里・兀良哈万戸・
千戸頭目等、即便帰附、已行賞賜名分、倶各復業。所有速頻・失的 ・蒙骨・改陽・実隣・八隣・安頓・押蘭・
喜剌兀・兀里因・古里罕魯別・兀的改地面、原係本国公嶮鎮境内、既已曽経招諭。至今未見帰附、於理不順。為
此、再差李必等賚牓文前去招諭。牓文到日、各各来帰、賞賜名分、及凡所欲、一如先附斡都里・兀良哈例。
50) 『高麗史』巻 46・恭譲王世家 3 年 7 月に「是月、我太祖献議遣人賚牓文招諭東女真地面諸部落。於是、女
真帰順者三百余人」とある。その他関連する記載が『高麗史節要』巻 35・恭譲王 3 年 7 月、同左 4 年 2 月、『太
祖康献大王実録』巻 1・恭譲王 3 年 12 月条に見える。特に『高麗史節要』4 年 2 月条には「斡都里、即東女真也」
と記される。
51) 失的 、八隣、古里罕、魯別に関しては和田 1955B に言及なし。
52) 王崇実 1992 にはポシェット湾・ピーター湾付近に居住した女真集団の航海・海賊行為に対する言及が見
られるが、その東限を当該地域に限定する理由は見当たらない。むしろ、当該地域における女真集団の海事行動
こそが、同様の自然条件を有するナホトカ湾周辺における女真集団の関与を物語るものと言えよう。
53)  自以五万三千人出定州大和門、中軍兵馬使左僕射金漢忠以三万六千七百人出安陸戍、左軍兵馬使左常侍
文冠以三万九百人出定州弘化門、右軍兵馬使兵部尚書金徳珍以四万三千八百人出宣徳鎮安海、拒防両戍之間舩兵。

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別監吏部員外郎梁惟竦・元興都部署使鄭崇用・鎮溟都部署副使甄応図等以舩兵二千六百出道鱗浦。
54) 借刑部尚書楊応誠等奉使至髙麗。丁卯、見国王楷、伝聖旨借道以逹金国。楷拝謝与応誠等対立論事、且言「事
大朝日久、皇帝即位、方欲入貢、遽蒙降使。昨聞二聖遠征、本国惶懼。金人旧時弱、今兵威如此、亦嘗遣兵来奪
去所築九城。因此不和。」応誠等言「本朝累聖待貴国最異、非他国之比。今時偶多艱仮道。此去只是講和、於貴
国無害。」楷曰「大朝自有山東海道。何不由登州以往。」応誠等曰「不如貴朝去金最径。但煩国王報金国、応誠至
界首待報而後行。兼三節人皆自賚糧、不敢以 貴国。惟借馬二十八匹而已。」楷曰「容与諸臣議。」遂遣門下侍郎
富佾至館議曰「聞金人見造海船、欲往両浙。若引使至其国、恐彼却要借路。至両浙則何以処。」応誠等曰「女真
不能水戦。」佾曰「東女真常於海道往来。况女真旧臣本国、近却要臣事。以此可見強弱。」
55) 『中興小紀』巻 3・建炎 2 年 3 月条「初浙東副総管楊応誠嘗為廉訪使者。至是、頗為帥臣翟汝文所抑、不能自安、
遂首応詔、願使絶域、謂『嘗隨其父任辺吏、熟知敵情。若自髙麗至女真、其路甚徑。請身死三韓結雞林、以図迎二聖。』
是日、詔応誠借刑部尚書充大金髙麗国信使、以武臣韓衍借忠州防禦使副之。於是、汝文奏『応臣欺罔君父、自為身謀、
実無奇策可返翠華。苟応誠至髙麗、辞以大国之使仮道、以問二聖之所、敢不承命。或金人聞使臣至、自敝邑却請
問津以窺呉越、将何辞以対決辱命取侮遠人。臣已檄四明、若応誠至、毋済其行。』不報。応誠聞此、乃自杭州登
海船以往。」なお、出発に際して、政敵である翟汝文によって、四明(寧波)からの出発が阻止されたことから、
杭州からの船出となったことが分かる。
56) 又答曰「上朝先是降詔、令小国往諭女真来朝小国。窃慮女真不可使窺中国富盛、不敢奉詔。朝廷不以然、
遂多方招諭、厚賜金帛。彼既知中国虚実、窺心一動、長駆深入、騒擾京師。小国与金国疆場相接、知情偽甚熟。
今使節由此而往、則猜疑生隙、禍不旋踵。仮令使節由此往彼、彼必由此復礼。又況其国東浜大海、尤善水戦。彼
托以復礼、審知淮浙形勢、万一具戦艦浮海而下、撃其不意、窃恐北苦陸戦、南苦水戦、首尾受敵、為患必鉅。事
至於此、雖悔可追。……」
57) 『金史』巻 89・蘇保衡伝。なお、王 1992 に依れば、蘇保衡に率いられ山東を出発し沿海部を南下した水
軍の中にポシェット湾・大ピーター湾付近の女真人が参加したとされ、さらにモンゴル時代クビライ朝に行われ
た日本遠征に際して、彼らが舵工・水手として加わったとされる。充分な可能性が窺えるものの、参加人員の出
身地域を特定し得る明確な根拠は示されない。
58) 『金史』巻 70・思敬伝「天德初、為報諭宋国使。宋人以旧例、請観銭塘江潮、思敬不観、曰『我国東有巨海、
而江水有大於銭塘者。』竟不往。」
59) 弟阿斯懣尋卒、及終喪、大会其族、太祖率官属往焉、就以伐遼之議訪之。方会祭、有飛烏自東而西、太祖射之、
矢貫左翼而墜、石土門持至上前称慶曰「烏鳶人所甚悪、今射獲之、此吉兆也。」即以金版献之。後以本部兵従撃高麗。
及伐遼、功尤多。
60) 完顏忠本名迪古乃、字阿思魁、石土門之弟。太祖器重之、将挙兵伐遼、而未決也、欲与迪古乃計事、於是宗翰・
宗幹・完顏希尹皆従。居数日、少間、太祖与迪古乃馮肩而語曰「我此来豈徒然也、有謀於汝、汝為我決之。遼名
為大国、其実空虚、主驕而士怯、戦陣無勇、可取也。吾欲挙兵、杖義而西、君以為如何。」迪古乃曰「以主公英武、
士衆楽為用。遼帝荒于畋獵、政令無常、易与也。」太祖然之。明年、太祖伐遼、使婆盧火来徴兵、迪古乃以兵会師。
61) 同碑に関しては、李澍田 1989(pp. 57-61)に詳細な解説が附される。
62) 太祖以祭礼会於移懶河部長神徒門家、因与其兄弟建伐遼之議。時王与明粛皇帝・秦王・宗翰皆侍行、与間
□□□□□□□王以□指結納沿江鉄驪・兀惹諸部。鉄驪長奪离剌於是献款曰「謹奉約。」比其還也、師囲寧江州。
63) 『金史』金国語解・物象に「婆魯火者、槌也」とあり、孫 2005(pp. 241-242)に『満洲源流考』巻 18「仏
勒和者、錘也」を引く。
64) 石土門伝に依れば、「上之西征、諸将皆従、石土門乃率善射者三百人来衛京師、時太宗居守、喜其至、親出迎労。
継聞黄龍府叛、与睿宗討平之、睿宗賜以奴婢五百人、師還、賞賚良渥。至是卒、年六十一。正隆二年、封金源郡
王」とあり、太祖の西征に際して石土門が「京師」の護衛に当たったとされる。但し、上京会寧府の建設自体は
太宗の天会 2 年(1124)に始まることから、ここでの「京師」とは上京会寧府の前身に当たる皇帝寨と呼ばれ
た施設であったと考えられる(朱 1991)。
65) 蘇濱への移住の記事に見える女真語とおぼしき「朮実勒」に関しては、管見の限りこれまでにその語義が
検討されたことはない。但し、移住先の蘇濱の地には東西の二城が存在し、清代には双城子と呼ばれた地である

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ことから、
「朮実勒」を「朮勒実」の誤記と考え、
『華夷訳語』(乙種本)女真館雑字・方偶門に見える「諸勒失[juleši]:
東」に相当するとすれば、具体的な耶懶路完顔部の移住先は清代に「julergi hoton:古城」と呼ばれた西城であ
り(なお東城は「furdan hoton:富爾丹城」と呼ばれる)、これに加えて東城周辺の土地も合わせて耶懶路完顔
部に与えられたとも考えられるが、推測の域を出ない。
66) 太祖入燕京、迪古乃出徳勝口、以代石土門為耶懶路都勃菫。天会二年、以耶懶地薄斥鹵、遷其部於蘇浜水、
仍以朮実勒之田益之。同内容の記事が『金史』巻 2・太宗本紀及び巻 24・地理志・恤品路条にも見える。
67) 初、海陵罷諸路万戸、置蘇瀕路節度使。世宗時、近臣奏請改蘇濱為耶懶節度使、不忘旧功。上曰「蘇濱・
耶懶二水相距千里、節度使治蘇濱、不必改。石土門親管猛安子孫襲封者、可改為耶懶猛安、以示不忘其初。」
68) 『金史』巻 5・海陵王紀「詔罷世襲万戸官、前後賜姓人各復本姓。」
69) 速頻路節度使就任者としては世宗朝における昭祖五世孫の内族襄(『金史』巻 94)、章宗朝における上京
路の人烏古孫兀屯(『金史』巻 121)、章宗朝末年に宗室子の阿喜(『金史』巻 66)、宣宗朝における上京路の人
奥屯襄(『金史』巻 103)が確認できる。
70) 『金史』巻 5・海陵王紀正隆 4 年 2 月「調諸路猛安謀克軍年二十以上、五十以下者、皆籍之、雖親老丁多
亦不許留侍。」及び同巻 129・佞幸・李通伝「(正隆)四年二月、海陵諭宰相曰『宋国雖臣服、有誓約而無誠実、
比聞沿辺買馬及招納叛亡、不可不備。』遣使籍諸路猛安部族、及州県渤海丁壮充軍、仍括諸道民馬。於是、遣使
分往上京・速頻路・胡里改路・曷懶路・蒲与路・泰州・咸平府・東京・婆速路・曷蘇館・臨潢府・西南招討司・
西北招討司・北京・河間府・真定府・益都府・東平府・大名府・西京路、凡年二十以上、五十以下者皆籍之、雖
親老丁多、求一子留侍、亦不聴。」
71) 『金史』巻 133・叛臣・移剌窩斡伝に「会宿直将軍孛朮魯呉括剌徵兵于速頻路、遇括里于信州、与猛安烏
延査剌兵二千、撃敗括里」とあり、速濱路における徴兵のため宿直将軍孛朮魯呉括剌が派遣されたことが分かる。
但し、この軍隊はキタイ軍に呼応して背いた咸平府謀克括里と遭遇し、信州にてこれを撃破した後、東京遼陽府
にあった後の世宗烏禄[uru:満洲語[uru]は是非の是を意味するが、「阿魯」・「石魯」の例から「婚姻」を意
味するモンゴル語[uru γ]の可能性も窺える]の軍に合流することとなる(『金史』巻 86・烏延査剌伝)。さらに、
東京には蘇濱路の他、会寧・胡里改からも南伐要員とされた兵士が駐屯することとなったが、彼らを諸局司承応
人或いは官吏として採用し、成立間もない世宗政権の人材不足を補おうとする意見も存在した(『金史』巻 6・
世宗紀・大定元年 10 月条)。
72) 満洲語[ukanju:逃亡人]に相当するか。
73) 但し、その一部が各猛安に従い各地に移住したであろうことは、思敬伝に見える真定での部人に関するエ
ピソード、さらに「女真進士題名碑」に見える「西南路押懶河猛安」及び『金史』巻 104・完顔 伝「西南路猛
安人」によって確認できる(注 2・24 参照)。特に後者は耶律窩斡追討時に、思敬が西南路招討使に任じられた
ことに由来するものと言えよう(『金史』巻 70・思敬伝)。
74) 『金史』巻 70・思敬伝。
75) 『金史』巻 70・思敬伝「久之、上謂思敬曰『朕欲修熙宗実録、卿嘗為侍従、必能記其事跡。』対曰『熙宗時、
内外皆得人、風雨時、年穀豊、盜賊息、百姓安、此其大概也、何必余事。』上大悦。世宗喜立事、故其微諌如此。
大定十三年、薨。上輟朝、親臨喪、哭之慟、曰『旧臣也。』賻贈加厚、葬礼悉従官給。孫吾侃朮特、大定二十四年、
除明威将軍、授速濱路宝鄰山猛安。」
76) 世宗思太祖・太宗創業艱難、求当時群臣勲業最著者、図像于衍慶宮。遼王斜也・金源郡王撒改・遼王宗幹・
秦王宗翰・宋王宗望・梁王宗弼・金源郡王習不失・金源郡王斡魯・金源郡王希尹・金源郡王婁室・楚王宗雄・魯
王闍母・金源郡王銀朮可・隋国公阿离合懣・金源郡王完顏忠・豫国公蒲家奴・金源郡王撒离喝・ 国公劉彦宗・
特進斡魯古・斉国公韓企先、并習室凡二十一人。
77) 同碑に関する諸研究は、愛新覚羅烏拉熙春 1999(p. 161)に列挙される。
78) 正隆・大定年間におけるキタイ反乱の詳細については、三上・外山 1939 を参照。
79) 大定二年、授西南路招討使、封済国公、兼天徳軍節度使。俄為北路都統、佩金牌及銀牌二。西北路招討使
唐括孛古底副之。将本路兵二千、会孛古底、視地形衝要、或于狗 屯駐、伺契丹賊出没之地、置守禦、遠斥候、
賊至則戦、不以昼夜為限。詔孛古底曰「爾兵少、思敬未至、不得先戦。」僕散忠義敗窩斡於陷泉、詔思敬選新馬

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三千、備追襲。窩斡入于奚中、思敬為元帥右都監、以旧領軍入奚地張哥宅、会大軍討之。敗偽節度特末也、獲
二百余人。賊降将稍合住与其党神独斡、執窩斡并其母徐輦・妻子弟姪家属及金銀牌印詣思敬降。思敬献俘于京師、
賜金百両・銀千両・重綵四十端・玉帯・厩馬・名鷹。
80) 耶懶路完顔部の活躍に加えて、本来蘇濱の地に居住した女真集団も強力な軍事力をもって知られる存在で
あり、大定 25 年(1185)には胡里改路・蘇濱路の猛安から 30 謀克を選抜し、3 猛安に再編成した上で、将来
の緊急時における防衛を想定して上京率督畔窟の地へと遷徙させるという措置が採られる(『金史』巻 8・世宗紀・
大定 24 年 11 月丙午条、同 25 年 4 月甲子条、同 26 年 6 月癸亥条、同巻 44・兵志)。

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北東アジア中世遺跡の考古学的研究
平成 17 年度研究成果報告書
文部科学省科学研究費補助金特定領域研究
中世考古学の総合的研究
̶学融合を目指した新領域創生̶
空間動態論研究部門計画研究 C01-2
  編 集   臼杵 勲(研究代表者)
  発 行   札幌学院大学人文学部
        〒 069-8555 江別市文京台 11
  発行日   平成 18 年 5 月 31 日
  印 刷   北海道図書企画
        〒 063-0829 札幌市西区発寒 9 条 12 丁目 1-55