作隊によって調査が進められている。現在、ケルヴィン報告の哀冊資料などから、東陵が永慶陵、中
陵が永興陵、西陵が永福陵にそれぞれ比定されているが、三陵はいずれも塼築で、陵門・享殿・神道
を設け、全体とし て東南に向いている。墓室の構造は、東陵を例にとると、平面方形の前室、円形
の中室、後室、および四つの側室から構成され、各室は甬道によって連結され、全長 21,2 m、最も
広いところで 15.5 mである。墓内および墓門には石灰を下地に彩色を施した壁画が描かれている。
壁画は、四季捺鉢図を含め、龍鳳・花鳥・祥雲・宝珠などの装飾図案や人物画など題材は豊かで、遼
代の儀衛・服飾などの点でも多くの資料を提供している。とくに人物画は、個々の外見上の特徴が巧
みに表現されており、肩上には自筆かと推定される書体や筆法の異なる契丹字の署名が残されている
のが特筆される。我々は、今回、東陵の前殿址から東陵に進み、次いで陪葬墓の一つで 2002 年に発
掘調査が行われた耶律弘本墓を訪れ、その後、中陵前殿址から中陵へと向かった。残念ながら時間的
制約から西陵の踏査は断念せざるを得なかったが、多くの興味深い事実に接することができた。東陵
の前殿址では今なお緑釉の筒瓦片が散布しており、また東陵後室の主体部直上の盗掘坑からは塼で構
築した室内頂部様子を垣間見ることができた。また、一昨年発掘された耶律弘本墓では発掘後の墓葬
上面が全面的に少し 10 ∼ 20cm ほど周囲から低く沈んでおり、倣木構造を示す塼彫、或いは、木製
品を確認することができた。また、中陵の前殿址やその周囲ではところどころに石造物が見られたが
全体的な位置などを確かめるまでには至らなかった。更に、中陵では幸運にも主体部の崩落坑から墓
門の構造をつぶさに調査することができた。慶陵については、更なる陪葬墓の存在も予期されること
もあり、墓域・陵園全体の調査の必要性を特に痛感している。
祖 陵 遼太祖耶律阿保機の陵墓である祖陵については、早く『遼史』に記載が散見する他、胡嶠の『陥
虜記』、さらには『窈憤録』などにも記録されている。現在、その陵墓は、内蒙古自治区赤峰市巴林
左旗林東の西約 30km に位置する石房子村の西方約4kmの山中に所在する墓葬に比定されている。
墓葬の東方約 1.5km、石房子村との間に祖州城跡が位置している。墓葬は、1954 年内蒙古文化局に
よって調査され、その後賈洲杰らの調査を受けている。
陵園は、南に谷を包む山谷を利用して構成され、その全周は 10km 近く、外縁は尾根を利用し、
平坦な頂部には高さ3∼4m、基底部の幅2∼3mの、上端部が尖った石墻が設けられている。陵園
はこの石墻によって全周を囲郭されている。陵園内部では、いくつかの円坑状の窪みが確認されてい
るが、中でも、陵園内の谷間の西側斜面の山頂上で発見された円坑は、塼瓦片が散布するほか、前面
の台地上には石人など多くの建築跡や遺物が発見されている。従来は、この円坑状の窪みこそが金軍
によって破壊された遼太祖を葬った墓室と推測されていたが、今回の調査では、同行した巴林左旗博
物館康立軍氏より陵内の小山峰こそが太祖陵であるとの教示を得た。即ち、石人・石狗が麓に発見さ
れ(祖陵よりの帰途、本年 12 月に開館予定の遼上京博物館で実見する機会が得られた)、祭祀遺跡
に対面する位置にあり、温泉の湧き出る一山峰が人工的に一部築成された太祖の陵墓だと理解するも
のである。なお、陵門の外、東の斜面上にも遺跡が確認されるが、遺跡内には破損が激しいものの亀
趺と碑石が残されており、その破片には契丹文字が刻まれ、本来、碑文には五千字以上の契丹文字が
記されていたことが推定されている。
懐 陵 遼太宗耶律徳光と穆宗耶律璟の陵墓である懐陵に比定されている墓葬は、内蒙古自治区赤
峰市巴林右旗幸福之路の東北約 20 kmに位置する崗崗廟村の北約3kmの床金溝に所在している。
奉陵邑の懐州城が早い時期に崗崗廟村で確認されているのに対し、床金溝の墓葬が注目されたのは、
1976 年に蘇赫と韓仁信らによってである。その後、王建国、孟慶永両氏が略測を行い、1983 年に
は張松柏らによって調査が進められ、墓葬の基本的な構成が明らかにされている。床金溝は、やや西