「ギンガ=ナカジマ陸曹。“そこ”の“それ”を、我々に引き渡せ」
要求するその声には感情が無く温度も無く、言外に『従わぬのなら実力行使も辞さない』と告げている。
高村勢十郎と名乗った男の後ろには、デバイスを構え臨戦態勢で待機する魔導師の小隊。ギンガが拒否などしようものなら即座に行動を起こすべく、彼女の一挙一動、そしてギンガが背後に庇う少年の一挙一動を注視している。
言うまでも無く、それはギンガにとって、受け入れる事の出来ない要求であった。単に背後の少年、結城衛司がギンガの知己であるというだけでは無い。人をモノの如く扱う言葉に反感を抱いたからというのが大きい。
管理局はまだオルフェノクを人と認める“公式見解”を表明していない――ただそれだけの理由で、この男は雀蜂を、少年を『人ではない』と言い切った。
ギンガならずとも、反感を抱くのは当然だ。
「どうした。沈黙は抵抗と看做すぞ。こちらとしても六課と無用な波風は立てたくは無い。……繰り返す、そこの化物を引き渡せ」
「ば、化物って……! 衛司くんは――!」
「化物でなければ有害鳥獣だ。ペット感覚で連れ回されては困る。如何なる理由があろうとも、人間の居住区域に猛獣が入り込む事態は看過出来ん――違うか、ギンガ=ナカジマ“陸曹”?」
陸曹の部分を強調して、高村は言う。
その強調が何を意味しているか、ギンガも解っていた。時空管理局に属する者として、何が正しいのかを突き付けている。感情で正論を覆すなと、そう言われているのだ。
反論出来ずにギンガが言葉を詰まらせた瞬間、彼女の肩に手が置かれた。ギンガを制止するかの様な、或いはギンガを押し退ける様な。
誰のものかは考えるまでも無い。しかし振り向いたギンガは、そこで予想外の驚きを覚える事になる。
服の袖で目元を拭い、少年が顔を上げた。泣き腫らして真っ赤に充血した目は、だが毅然と目の前の男達を見据えている。
そこに迷いは見られない。怯えも慄きも窺えない。ギンガが驚いたのはまさにそこだ、つい今し方まで無様に泣き喚いていた少年の表情が、僅か数秒で別人と見紛う程に変化していた事実。
「衛司、くん……?」
ギンガの呼びかけに少年は応えず、彼女に一瞥と苦笑染みた微笑を向けて、立ち上がる。
そうして彼は一歩、二歩と前に出て、真正面から高村率いるS.A.U.Lの魔導師達に相対した。
「ほう。殊勝だな、オルフェノク。そのままだ。そのまま――抵抗するなよ」
高村が顎をしゃくると、背後に控えていた魔導師達の中から二人が歩み出て、衛司に近付いていく。無論、後方では残る魔導師達が少年へと照準を定めており、それを理解しているのだろう、衛司は身じろぎもしない。
がしゃん、と重々しい金属音。少年の細い手首に、鉄塊とすら表現し得る無骨な手錠……否、手枷が嵌められた音。
少年が引っ立てられていく。さながら逮捕された直後の犯罪者の様に。その扱いに抗議しようとギンガが腰を浮かせた瞬間、犯罪者扱いを受けている当人の衛司が、それを制した。言葉では無く、視線によって。
射竦められた様にギンガは動きを止め、そうしている間にも少年はギンガから引き離されて、やがて後方に停めてあった数台の車、その中の一台に押し込まれて、姿すらも見えなくなった。
「では失礼する。六課の部隊長に、宜しく伝えておいてくれ」
言って、高村も踵を返す。背後に控えていた魔導師達も、警戒態勢は解かぬまま、高村に付き従って背後の車両へと移動を開始した。
誰もギンガに一瞥すらくれない。彼等がこの場に現れたのは、あくまでオルフェノクを確保・拘束する為だ。ただの人間に――『ただの人間』というのも、あくまで彼等が定義するそれであるが――用は無いと言わんばかりの冷淡な対応は、ギンガに言いようの無い悔しさを覚えさせた。
高村、そして部下の魔導師達を乗せ、車が発進する。見る間に遠ざかっていくテールランプは、すぐに夕暮れの薄闇に溶けて消え失せた。
「衛司くん――」
呟く声に、応える者は無く。
ギンガの脳裏に焼きついて離れない、あの眼差し。つい数分前の彼からは想像も出来ない、あの視線。
その意味を、ギンガは過たず理解していた。幾多の修羅場を潜り、鉄火場を乗り越えてきた魔導師であるギンガ=ナカジマにはある意味で見慣れたものであり、理解するまでに時間は要らなかった。
あれは。
――覚悟を、決めた目だ。
◆ ◆
異形の花々/第十六話◆ ◆
時空管理局未確認生命体専任対策部隊――“S.A.U.L”という頭字語で略称とされている――ミッドチルダで続発する『灰色の怪物』、オルフェノクに対する調査・対処機関として設立された、本局航空武装隊に連なる特殊部隊である。尤も建前上はオルフェノクに限らず、あらゆる“未確認”生物への対処が彼等の役目であるのだが。
立ち位置としてはレリック問題の専任部隊として設立された機動六課に近い。六課がレリック問題を専門に扱う様に、S.A.U.Lはオルフェノクに関する問題を専門に扱う。特異な、或いは複雑な事情が絡む問題に対処する専任部隊。その有用性は六課が既に証明しており、それ故か二匹目の泥鰌であるS.A.U.Lには、六課発足時と比べても相当の優遇がそこかしこに見られる。
設備や装備、人員は元より、隊舎の立地条件に至るまで。部隊の本部を本局に置きながら、支部としてミッドチルダ中央区画、首都クラナガンに程近い場所に隊舎を構えているのもその一つ。
「交通の便がええところに隊舎があるちうんは、ちょう羨ましくもあるなあ」
「確かに。六課隊舎の一番の難点は、移動に時間がかかるという事ですからね」
とは言え、ミッドの何処で起こるか判らないレリック事件に対処するのが六課の任務であり、隊舎がどこにあっても大した違いは無いのだが。
それでも日常において交通の便が悪いというのは何かと不都合なものであり、特に六課発足後しばらくは地上本部に通い詰めだったはやてにしてみれば、地上本部と目と鼻の先にあるS.A.U.Lミッドチルダ支部は少なからず羨ましいものがある。
さておき。結城衛司がS.A.U.Lによって拘束されてから二日が経ったこの日、八神はやてとグリフィス=ロウランの二人は、S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いていた。
「お待ちしておりました」
駐車場に車を停め、隊舎へと這入ったはやてとグリフィスの前に現れたのは、本局の制服を纏った一人の男。
はやてと比しても尚背の低い、その癖服の上からでも見て取れるほど不自然なまでに発達した筋肉で身を鎧った、頑強な岩の様な印象を与える男だった。
恐らくは魔導師か騎士か、前線での戦闘を主とする役職なのだろう。はやてとグリフィスへ向けてくる視線は鋭く研がれた刃を髣髴とさせる。
無論はやてもグリフィスも、そんな視線に臆するほど胆の小さい人間では無かったが。
「……機動六課部隊長、八神はやてや」
「同部隊長補佐、グリフィス=ロウラン准尉です。S.A.U.L支部長、高村勢十郎一佐と面会のお約束を頂いているのですが」
丁寧というよりは寧ろ慇懃と言うべき彼女達の挨拶に、岩の様な男は愛想笑い一つ浮かべる事無く頷いた。
「承っております。ただ一佐は只今別件で手が離せない状態にありまして、十分ほど応接室でお待ち頂きたいとの事です」
「別件……?」
はやてが不快に眉を顰める。アポイントはきっちりと取ってあるのだから、向こうも予定を空けておくのが筋だろう。アポイントメントとはそういうものだ。
もしくは、はやてとの約束よりも優先しなければならない何かが、急に舞い込んできたという事か。設立されて間もない部隊だ、雑事は幾らでも涌いてくる。はやても少し前は同じ様な立場だったから良く解る。
ともあれ、勘繰ったところで答えは出ない。少なくとも今この場においては、考えるだけ無駄な事。
ならば先に、こちらも用事を済ませてしまおう。
「なら先に、衛司くんと会わせて貰えんやろか。こっちも暇やない。時間を無駄にするよりは、そっちの方がお互いに得やろ? ――面会そのものは、ハナシ通っとる筈やけど」
「……少々、お待ちください」
言って、男は目を閉じた――恐らくは念話で連絡を取っているのだろう。
程無く彼は閉じた目を再度開き、じろりとねめつける様にはやてとグリフィスを一瞥してから、口を開いた。
「結構です。許可が下りました。どうぞこちらへ」
はやて達の反応を窺おうともせず、男は踵を返して歩き出す。
なんでこんなコミュニケーション能力に欠陥ある奴を案内に使ってるんだ、と呆れるものの、それは言っても詮無い事。二人は先導に従い歩き出す。
S.A.U.Lミッド支部の隊舎は六課と比べてやや手狭ではあるが、どうやらそれは地上に露出している部分だけの事らしい。通路の突き当たりには一台のエレベーターが設置されており、乗り込んだはやてとグリフィス、そして岩男は一気にエレベーターで地下へと――地下十三階へと下ろされた。
扉が開く。地下フロアの冷気が一気にエレベーターの中へと流れ込んできて、それに押し出される様に、はやてとグリフィスは外へ出る。
「なんや――ここ」
エレベーターホールに相当するものは無く、扉の目の前には一本の通路があるばかり。両側の壁は強化アクリルと思しき透明な建材(無論、強度面において通常の強化アクリルとは比べ物にならないものを使っているのだろうが)で、壁の向こうはベッドや机、便器といった最低限の家具調度が設置された個室になっている。
まるで――否、“まるで”どころでは無い。
ここは、牢獄だ。
「こちらです」
男は相変わらずはやての反応を窺おうともせず、すたすたと先を歩いていく。嫌な予感を噛み殺しながら、はやてとグリフィスはそれに続いた。
通路の突き当たりはT字路状に分かれており、右に曲がって更に真っ直ぐ。やがて再びT字路に突き当たり、また右折。それをもう一度繰り返し、ぐるりとフロアの外周に沿って歩いていくと、漸くT字路では無い行き止まりに辿り着いた。
壁に沿ってずらりと並ぶ独房の最奥。覗くまでも無く無人と知れる牢獄が並ぶ中に、一つだけ、鋼鉄製のシャッターに覆われた一室がある。それこそが目指す独房であると、誰に説明されるまでも無くはやては気付いていた。
「面会時間は五分間です。また会話の内容は全て記録させて頂きます、ご了承ください」
「ええから、早うシャッター開けてや」
焦りか苛立ちか、語調の荒くなるはやてにさしたる反応も示さず、男は壁に備え付けられた端末を操作する。重たい駆動音と共に少しずつシャッターが上へと引き上げられていって、その向こうに強化アクリルの壁が顔を出す。
そして。
「っ――!」
「衛司、くん……!?」
はやてが息を呑む。グリフィスが思わず少年の名を口にする。
透明な壁の更に向こう側、部屋の中央に置かれた椅子の上に、結城衛司は居た――ただしその姿は、およそはやての想像からかけ離れたものであったのだが。
総身を締め上げる拘束衣。その上から黒い革製のベルトが全身を縛り上げている。両足もまた拘束衣に包まれ、歩く事もままならない少年の姿はまるで芋虫の様だ。
更に口には口枷が嵌められ、垂れ流しの涎が襟元を黒々と濡らしている。のみならず首には金属製のチョーカー。それらは無論SM趣味の類では無く、口枷は単に舌を噛んで死ぬ事を防ぐ為であり、首輪は身動きを封じる為の仕掛けという、酷く実際的な理由からの事だった。
眠っているのか、衛司は目を閉じたまま身じろぎもしない。物音も聞こえていないのだろう、はやてやグリフィスに反応するそぶりすら見せなかった。
「なんや――なんやこれ! こんなん、まるで犯罪者やないか!」
こんな独房に入れられているくらいだ、真っ当な扱いは受けていないものと予想はしていた。
しかしそれでも、この扱いはあんまりではないか。犯罪者はおろか、人間として扱われているかどうかも怪しい。
「自分は一佐の指示に従っているに過ぎません。ご意見は直接一佐に仰って頂けるよう願います。……音声を繋ぎます。先も言った通り、会話は五分のみです」
だが噛み付くはやてを男は冷然とあしらって、端末を操作する。ざり、と壁の横に備えられたスピーカーからノイズが漏れ出して、それが通話可能な状態になった事の合図だった。
かしゃんと音を立てて衛司の口枷が外れ、床へと落ちる。だが衛司は俯いたまま顔を上げようとしない。
「衛司くん! ――衛司くん、聞こえとるか!?」
はやての呼びかけにも、まるで無反応。吐息が漏れ聞こえてくる事から察するに、単に意識が無い状態の様だが。
と、その時――男が再度端末を操作し。
「ぎゃうっ!?」
ばちっ、というスパーク音が響いたかと思えば、拘束衣を着せられ、椅子に縛り付けられた衛司が、それでも悲鳴を上げて身を仰け反らせた。
「! な、なんて事を……!」
真っ先に察したのはグリフィスだった。魔導師の素養を持ち合わせない彼だからこそ、直接的に魔法を使わない技術に造詣が深かった。
衛司の首に嵌められた金属製のチョーカー、恐らくはこの首輪から電流が流れる仕掛けになっているのだろう。殺さない程度の苦痛を与える事で抵抗する意思を失わせ、またこちらの指示・命令に従わせる事の出来る、倫理面に目を瞑れば非常に効果的な小道具と言える。
そして彼等S.A.U.Lにとって、結城衛司は倫理の外側に居る存在だ。どれほど非人道的な扱いをしようとも構わない――彼は人間では無いのだから。
グリフィスが男を睨み付けるも、男はどこ吹く風で腕時計に視線を落としている。唇が蠢いているところを見れば何かを呟いているらしい。恐らくは時間のカウント、面会を許した五分間、三百秒を律儀に数えているのだろう。
時間が無い。グリフィスの目配せにはやては頷いて、乱暴にアクリルの壁を叩いた。激しく咳き込んでいた衛司が、その音に顔を上げる。
「――あれ。八神、さん?」
「……はは。元気そうやな」
どこか緊張感に欠ける衛司の反応に、はやては拍子抜けすると同時に安堵していた。
精神的に追い詰められている様には見えない……あくまで、“そう見えない”というだけの事であるが。目や口の端に殴られた跡と思しき痣が幾つも見えて、ごく普通の態度である事が寧ろ不自然だった。
乱暴な起こされ方をしたせいで頭が働いていないのか、衛司は周囲を見回して、そこで漸く、今の自分が置かれた状況を思い出したらしい。暢気というか緊張感が無いというか。
そんな少年にはやては困った様に微笑んで、口を開く。
「オルフェノクやったんか、衛司くん」
「……すみません。騙すつもりは、無かったんです」
「ん。知っとる。……まあ、言えへんよなあ――自分が人間と違います、なんて」
「………………」
勿論、八神はやてに少年を責めるつもりは皆無だった。元より、言えない何かを抱えているのを承知で、はやては衛司を六課に誘ったのだ。むしろ衛司が謝る方が筋違い。今の彼は、ただ人外である事を理由に迫害される、哀れな雀蜂に過ぎないのだから。
だがそれも、一つだけ。もう一つだけ確認してから、初めて言える事で。
「時間ないから、手短に訊くで。衛司くん……衛司くんは、人を殺した事があるんか?」
「人を――」
「ああ、ちょう違うな。人殺ししたちうんは、もう知っとる。ギンガが教えてくれた。……衛司くんは、それを少しでも悔やんどるか?」
時空管理局の基本方針は人命尊重。犯罪や災害に苦しめられる人々を救うのは元より、どんな非道な犯罪者であっても“生かして捕らえる”を前提とする程に。
故に、殺人を犯した者に対して、管理局は酷く厳しい。どこまで逃げても必ず追い詰め、捕らえ、法の下に裁かせる。その断固とした姿勢は管理局創立から一貫して変わってはいない。
しかし一方で、犯した罪を悔やみ、罪を償う意思を持つ者に寛容なのもまた事実なのだ。フェイト=T=ハラオウンやヴォルケンリッターの例を紐解くまでも無く、はやてはそれを知っている。
だから、訊かなければならない。結城衛司は自身の犯した殺人行為を罪と思っているか。償おうという意思はあるのか。
例え人外存在のオルフェノクであったとしても、人として在り、人の法に従おうとするのなら、人として遇するべきである。魔導プログラムとしてのヴォルケンリッターや融合騎を“家族”とするはやてにとって、それは忽せに出来ない信念であった。
「悔やんで、ですか……すみません、良く――解らないです。僕はずっと、殺そうと思って殺してきた訳ですから。殺したくないのに殺した人も、間違えて殺してしまった人も、一人もいません」
「…………」
「けど、被害者面する気はありません。他人事って顔する気も。僕が殺したんです。僕が、僕の都合で、僕の身勝手で。それだけは絶対、忘れちゃいけないって――そう、思ってます」
「そっか」
それは決して、はやての望む答えでは無い。贖罪の意思を明確に伝える言葉では無い。
ただ、充分な答えではあった。八神はやてが動く理由として、充分な。
「少し待っとき、衛司くん。必ずここから助け出したる。必ず六課に戻れる様にしたるから――ちょっとだけ、待っててや」
「六課に……」
だが、はやての言葉に何故か、衛司は迷う様な戸惑う様な、曰く言い難い複雑な表情を浮かべるばかりで。
「……? どないしたん?」
「いえ。その――別に、急がなくてもいいです。てか、無理してここから出して貰わなくてもいいって言うか……」
「は……? 何やそれ、こんな扱いでええ言うんか!? こんな、人間扱いされてへんのに――!」
「いやその、このままで良いって意味じゃないですけど、ほら、変に無理を通すと余計な迷惑かけちゃいますし、八神さんも忙しいでしょうし」
「せやけど――」
「部隊長、少し失礼」
尚も食い下がるはやてだったが、それを遮る様にして、グリフィスが割り込んだ。
「衛司くん。君は、六課に戻りたくは無いのかい?」
「そういう訳じゃ……無いです。出来るなら、また六課で働かせてほしいと思ってます。けど」
「けれど――“オルフェノクの自分が居ると、迷惑になる”?」
「…………そういう訳でも、無いんです。何て言うのか――ちょっと、やりたい事が出来ちゃって」
そうですか、とグリフィスは引き下がった。無論納得はしていない、ただこれ以上の問答は意味が無いと、そう判断しての事だった。
彼の言う“やりたい事”は、六課に居る状態では出来ない事。これは間違いない。だがその詳細について語るつもりは無いのだろう。だからこそ迂遠な表現で、この地下牢からの救出を拒んでいるのだ。
「あの、八神さん。その代わりって訳じゃないんですけど―― 一つ、お願いして良いですか」
「! なんや、何でも言うてええよ。必ず叶えたる」
や、そこまで大層なお願いじゃないです――と、はやての剣幕に寧ろ衛司が困惑して。
「伝言を。六課の皆に、伝言をお願いしたいんです」
◆ ◆
「しかし、俄かには信じられんな。お前と高町が二人がかりでそのざまとは」
「うっせーな。油断したんだよ、油断。次こそはあのゴキブリ野郎、ぼこぼこにしてやる」
シグナムの言葉にそう返すヴィータだったが、それが虚勢以外の何物でも無い事は、誰に説明されずとも瞭然だった。
機動六課隊長室。主である八神はやてが不在のこの部屋で、今、三人の女性が顔を突き合わせている。S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いたはやてからの連絡を待つ彼女達の表情はどれも重く険しく、雑談に興じる余裕など欠片も無いと知れる。
ヴィータの虚勢をシグナムは黙って聞き流し、「お前は大丈夫か」と残る一人の女性――高町なのはへと視線を転じた。
「あ、はい。大丈夫です。ちょっと切っただけですし……」
「頭の怪我は何があるか判らん。暫くは安静にしていろ」
ややつっけんどんな口調で、どこか不器用な感じではあったが、それでもその言葉がシグナムからの気遣いである事に変わりは無く。なのははぺこりと頭を下げて応じる。
そう、今のなのはは手負いであった。と言っても右肩を脱臼し、腕を吊った状態のヴィータに比べればまだ軽傷、額に絆創膏を張った程度。顔の怪我ではあるが、幸いにも傷跡が残る事は無いらしい。そこはシャマルが保証してくれた。
だが問題は『高町なのはが傷を負った』という事実。それは逆説、彼女に傷を負わせた者が居るという事で、エース・オブ・エースとまで謳われる彼女を戦闘において圧倒した何者かの存在は、決して無視出来るものでは無い。
「……強かったのか?」
シグナムの問いは主語を抜いた、酷く曖昧なものだったが――彼女が何を訊きたいのか、なのはは過たず理解していて。
「――はい」
故に。声に苦渋を混じらせていても、即答する事に躊躇いは無かった。
詳しく聞かせろ、とシグナムが視線で促してくる。自他共に認める戦闘道楽の彼女、なのはとヴィータの二人を同時に相手取って、尚彼女達を一蹴したという怪物に興味を覚えない筈も無い。ただしそれが単なる興味本位では無く、脅威に対する備えとしてである事もまた、明白であった。
「あ――えっと、その」
だが、何故かそこで、なのはは言い淀んだ。言い辛そうと言うよりかは、どこか恥ずかしげに目を伏せる。
見ればそれはヴィータも同様で、当然、シグナムは困惑に眉を寄せる。ヴィータはともかく、なのはは敗北を恥として隠そうとする性質でも無いだろう。部下に対しては面子というものもあるだろうが、十年来の付き合いであるシグナム相手にまで見栄を張る意味が無い。
ならばそれは、“敗北した”という事実以外に理由があるのだろうか?
シグナムのそんな予想を肯定するかの様に、なのははこほんと一つ咳払いを置いて――やがて、ぽつぽつと語り始めた。
二日前の夜、先端技術医療センターにおいて、高町なのはとヴィータが遭遇した悪夢を。
抉り出す様にして、語り始めた。
※
身の丈二メートルを超える巨漢が怪物へと姿を変えた。既にそれだけで驚愕は充分、しかし目の前の現実はすぐさまその驚きを上塗っていく。
ゴキブリの特質を備えたオルフェノク、コックローチオルフェノクの手元に、じわりと毒々しい赤色が滲む。空間そのものが出血するかの様な、ある意味で怪奇現象とも思えるそれは、コックローチオルフェノク固有の魔力光がそこで収束を始めた証。
黒ずんだ血液を思わせる赤黒色の魔力光は、なのはに一つの事実を確信させた。この怪物が、結城衛司を拉致した転移魔法の使い手であると。
そして怪物はその巨躯をどこか可愛らしくぴょいんと跳躍させ、地面に両手両足をつく姿勢……四つん這いの姿勢で着地した。何の意味があるのかと思える様な挙動であったが、ある意味これが正当だ。
そも、昆虫は二足歩行などしない。だからコックローチオルフェノクもまた、その通りで。
「ひっ!? い、にゃぁあああああああああっ!?」
「わ、ぁ、あああああああああああっ!?」
かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさっ――と、四つん這いのコックローチオルフェノクが地面を舐めるかの如く、だが恐るべき速度を伴って、なのは達へと文字通り這い寄ってくる。
百戦錬磨の魔導師二人が面白い様にうろたえて、迫る怪物へと向けて魔力弾を撃ち放つ。アクセルシューターとシュワルベフリーゲンが残光を引いて乱舞する。だが当たらない。まるで命中する気配が無い。壁や天井をすら足場として這い回る、その縦横無尽な機動を捉える事が出来ていない。
<うふふふふふふはははははははは! ほぉらほら、ぼけっとしてると食ぁべちゃうわよぅ!?>
床を、壁を、そして天井を這って、奇怪極まりない動きで怪物は迫ってくる。そうして一瞬で間合いを詰めた怪物は、天井を蹴り、上方から標的へと襲い掛かった。
掌に溜めた魔力光が暴風と化す。魔力運用による衝撃波。いつぞやキャロ=ル=ルシエを襲った、しかし加減の為されていないが故に威力は桁違いのそれが、なのは達へと容赦無く浴びせられる。
「っ!」
「らぁっ!」
だがそれを、彼女達はあっさりと捌ききった。バリアや角度をつけたシールドで受け流した瞬間には、既に反撃行動は始まっている。なのはのアクセルシューターが、ヴィータのテートリヒ・シュラークが、それぞれコックローチオルフェノクの急所へと向けて疾走する。
手数と威力を見事に両立させた同時攻撃。差し当たって、怪物はヴィータの攻撃を先に処するべき対象と定めたらしい。
振り抜かれる鉄槌を、驚くべき事に、怪物は片手で受け止めた。いや厳密には、片手だけしか使えなかったと言うべきだろう。残る片手は迫る魔力弾への対処として残しておかねばならないのだから。
<ふんぬっ……!>
鉄槌を受け止める右掌に火花が散る。受け止めきれなかった衝撃が周囲の空間を軋ませる。
めしりと足裏が床面にめり込む。強烈な衝撃は今にも怪物を押し潰さんばかりで、しかしその状態にありながら、コックローチオルフェノクは迫る魔力弾へと向けて翳す。放たれるのは先と同様の衝撃波。それに巻き込まれた魔力弾が次々と爆発し、結界に切り取られた病院の廊下を照らし出す。
と、不意にヴィータが鉄槌を引き、のみならず自身もその場を飛び退いた。シューターとの同時攻撃が失敗した以上、ここに留まるのは却って危険。そういう判断と、そしてもう一つ。
自分があの位置に居たのでは――なのはが、本気で撃てない。
<!>
「レイジングハート!」
【Sacred Cluster.】
怪物が気付いた時には、既に遅い。
高町なのはは判っていた。アクセルシューターは阻まれる。ヴィータの攻撃も防がれる。いかなる手段を以ってするのかはさておき、それは容易に予想出来る事。
故に彼女はシューターの弾幕とヴィータの近接攻撃に紛れ、怪物の側面へと回り込んでいた。横の病室へと飛び込み、壁越しに敵を狙い撃てるポジションへ。射線上からヴィータが退避した事で、最早躊躇すべき要素は何も無い。
放たれるのは拡散射撃魔法セイクリッドクラスター。放たれた大型魔力弾は壁をぶち抜いた時点で爆散、散弾の如き小型魔力弾がコックローチオルフェノクの総身を容赦なく打ち据えた。あのタイミングでは防御もままならなかった筈、灰色の巨体がぐらりとよろめいたところを見れば、効果有りと判断しても良いだろう。
「…………!?」
ぱきん、と乾いたスナップ音。よろめいたコックローチオルフェノクが指を鳴らしたのだが、その意図が掴めず、なのはが怪訝に眉を寄せる。
だがその意味を、すぐさま彼女は知る事になった。ずんと建物を揺るがす振動。不意の強震になのは達が態勢を崩した瞬間、床を、壁を、天井をぶち抜いて何かが飛び出してくる。それは烏賊か蛸といった海洋生物を思わせる、ぬめってうねくる奇怪な触手であった。
召喚魔法の使い手は転移魔法にも長ける――逆もまた真なり。転移魔法の使い手が召喚魔法を習得しているとしても、驚くには値しない。
目の前の怪物が以前に衛司を攫った転移魔法の使い手と知れていたのだから、これくらいは予想出来て然るべきだったのだ。言っても後の祭りだが。
「ひゃっ!? や、にゃぁあああああっ!?」
「わ、わぁあっ!? き、き、気持ち悪ぃい!」
回避も防御もおよそ不可能だった。圧倒的な質量は防御で耐え切れるものでは無く、狭い廊下にそれだけの質量が涌いてきたのだから、避ける隙間もある筈が無い。
あっという間になのはとヴィータは触手に絡め取られ、中空に固定されてしまう。なのははまだしも、ヴィータなどはほぼ逆さ吊りな状態だ。スカートがめくれ割と見えてはいけないところまで見えてしまって映像が無いのがもう本当に申し訳ない。
<あーははは。ひっかかったひっかかった。イイ感じだわ、素敵だわぁ。やっぱり魔法少女と言えば触手よねぇ。『ごらんの有様だよ!』ってゆーの? ま、『少女』ってゆーにはちょぉっと年齢的にぎりぎりだけど、そこは心とおつむが少女だからって事で>
「…………っ!」
<ああ、先に言っておくけど。触手プレイっつってもそこまでえっちな展開にはなんないから、安心してくれて良いわ。ほら、一応全年齢向けのとらハ板に投稿してる訳だし? あまり描写が生々しいとXXX板に移れって言われちゃうからさ、作者的にそれはあまりよろしくないみたいで>
「はい?」
何を言っているのかさっぱり解らない。――が。
この状況はまずい、それだけは解る。
触手に絡め取られた際、二人はそれぞれデバイスを取り落としていた。幸いにして二人とも熟練の魔導師、バリアジャケットまで解除される事は無かったが、規格外の化物を相手に得物を手放す事態がどれだけ致命的であるか、二人は過たず理解していた。
ただ、当面最も重大なのは、デバイスを手放した事よりも――
「ひゃんっ!? や、そこ、だめ――!」
「へ、変なとこ触るな――わひゃぁっ!?」
ぬるぬるうねうねと身体を這い回っていく(一部は服の中にまで入り込んでくる)触手の不気味な感触に、なのはとヴィータもさすがに耐え切れず声を上げる。
痛みには耐えられる。だがこのむず痒い様な気持ち良い様な、快とも不快ともつかぬ奇怪な感覚は、彼女達にとってどう耐えれば良いものか判らないまったく未知の領域であった。
<はーいこっち向いてー。うふん、そうそう、その顔グッドよグッド。もーちょい色っぽく……おーけーおーけー、そんなカンジ>
「ちょ、なに、なに撮ってるんですか!?」
「か、勝手に、ひゃいぅ、撮ってんじゃ、うひゃんっ、ねぇ――!」
触手に絡まれて悲鳴だか嬌声だか判らない声を上げるなのはとヴィータを、事もあろうに携帯電話(と思しき通信機器)で撮影(たぶん動画だ)している化物が一匹。
<うふふ、これマジで売れそうねぇ。『エース・オブ・エース触手緊縛陵辱』なんつって。有名人の裏ビデオっていつの時代も需要あるもんだしねえ>
「それ犯罪! 犯罪ですってば――にゃ、ひゃぁああっ!?」
抗議の声も届かない――いや、届いたところで、それを聞き入れてくれるかどうかは甚だ怪しいものだったが。
ともあれコックローチオルフェノクは携帯電話をぱたんと折り畳むと、ひょいと背後へ放り投げた。中空に展開された魔法陣に吸い込まれたところを見るに、どこかへ転送してしまったのだろう。
<ま、アタシとしちゃほんとーは衛司ちゃんにヤるつもりだったんだけどね、触手プレイ。衛司ちゃんならえろえろにしても文句出ないだろーし。むしろ喜ばれるし? アタシ的にはあの赤くて跳ねた髪の男の子も一緒にヤれると良かったんだけど、そこまで言っちゃうと贅沢かしらねー>
「え、衛司くんだけじゃなくて――エリオも狙ってたの!?」
可愛い部下の貞操が知らない内に危機だった。
<さて、っと。そろそろ向こうもカタがついた頃かしら……衛司ちゃんは抵抗出来るコンディションじゃないだろーし、連れて行く分にはそう手間もかかんないわよね>
「……? 連れて行く……!?」
慮外の言葉に、思わずなのはが反応し――うん? とその反応を受けて、コックローチオルフェノクが可愛らしく(いや実際のところは全然可愛らしくも無いのだが)首を傾げた。
「殺すつもりじゃ――なかったの」
<うん? ああ。あーあーあーあー。そーよねえ、そー思うわよねえ。今までが今までですものねえ。うん、結論から言っちゃうと、今回のアタシ達に衛司ちゃんを殺すつもりは無いわ。寧ろ逆。迎えに来たのよ>
「む、迎えにって……」
<言ったまんまの見たまんま。刺客を放って殺したり殺されたり、ってステージはもうお終いなの。で、見事生き残った衛司ちゃんに、ご褒美としてアタシ達のお家へご招待。って寸法ね>
この怪物の言がとりあえず全て本当だとして、そこに嘘が無かったとして、しかしその内容はおよそ許容出来ない程の図々しさに満ち溢れたものだった。自分達の都合しか考えていない。
まして、その為に衛司を病に侵したと言うのなら、最早どんな理由があろうと、この怪物に衛司を引き渡す訳にはいかない。
<ま、具体的に何処に連れてってどんなおもてなし、ってのはここじゃ言えないんだけど。つーかアナタ達にゃ関係な事だしね。あとほら、トモダチのプライベートに関わってきちゃうから? 仁義とか友情とかは大事にしなきゃ駄目よねえ>
「トモダチ……!? 貴方の?」
<そ。今までに出てきたオルフェノクの誰かが言わなかった? 『結城衛司を殺せば報酬が手に入る』みたいな事。それ主催してんのがアタシのトモダチなのよ。まーアタシが出張ってきた時点でゲーム終了なんだけどね。ちょい不公平でアタシとしてもどーかなーと思ったりするんだけど、ほらアタシ、友情に厚いキャラで売ってるからさ。トモダチにお願いされたら断れないのよねえ>
ごくあっさりと語られたそれは、しかしなのはに……否、時空管理局にとって、聞き逃す事の出来ない重大情報であった。
様々な者の口から、存在だけが断片的に語られるオルフェノクのコミュニティ。この怪物、コックローチオルフェノクの言を信じるなら、彼はそのコミュニティの中心に居る人物と繋がっている。或いは彼もまた、コミュニティの中核に携わっているのかもしれない。だとするなら、ここで彼を確保する事で、謎に包まれたオルフェノクの生態や勢力を解き明かす事が出来るかも――
「ひゃわぁ!?」
とは言え、触手に絡み付かれた状態では、そんな思考もままならず。
実際のところ、触手から脱出する術はあるのだ。年齢に不釣合いとも言える程に高町なのはは百戦錬磨、修めた数々の魔法はいかなる状況にも対処出来るだけの柔軟性を彼女に備えさせている。だがどんな魔法も機を逸すれば効果は半減、今触手から逃れたところで即座に再拘束されるのは明白だ。
一瞬でいい。ごく僅かな時間だけでも、怪物の注意がよそに向いてくれれば。
どこかに隙を見出せないかと、必死になのははコックローチオルフェノクを睨みつける。と、その時、不意に場違いなほど軽薄なメロディが一帯に響き渡った。古い怪獣映画のテーマソング。聞き覚えのあるそれは怪物の懐から聞こえてくる。
正確には、怪物が取り出した携帯電話――先になのはとヴィータの痴態(?)を撮影したものとは別の――から。通話ボタンを押した瞬間に止まったところを見れば、どうやら着メロだったらしい。
<はいもしもし、アタシよぅ。そっち終わった? え? ちょっと、何やってんのよぅ。……え? アルノちゃんが? あらまあ、そりゃ予想外ねえ。ん、りょーかいりょーかい。すぐそっちに戻るから>
明後日の方向を向いて通話を始めるコックローチオルフェノク――それはどこからどう見ても、紛う事無き“隙”であり。
怪物を挟んで向こう、同じく触手に絡まれているヴィータと一瞬だけ、視線を交錯させる。念話すら必要無い、それだけで互いに何をするべきか通じ合う。
「っ! ――レイジングハート!」
【All right.――Drive ignition.】
裂帛と共に気合を込めれば、なのはの纏う白いバリアジャケットの上着が一瞬にして炸裂。周囲の触手を弾き飛ばす。
バリアジャケットの緊急防御機能、リアクターパージ。本来は防ぎきれないダメージを受けた際、自らバリアジャケットを爆破してダメージを相殺する為に使われる魔法であるが、それをなのはは緊急脱出の手段として転用した。
爆発の規模はそう大きくない。触手の戒めを僅かに緩める程度であるが、しかしそれで充分。拘束が緩んだ瞬間、待機形態に戻っていたデバイスを素早く掴んで再起動、なのはは一気に拘束から脱出する。
<あら。抜けちゃった?>
暢気な言葉に取り合わず、なのははレイジングハートを構える――既にその先端には桜色の魔力光が収束し。
「ディバイン――
バスターっ!!」
撃発音声と共に、それが奔流となって解き放たれる。
これぞ砲撃魔導師高町なのはの真骨頂。文字通りに彼女の主砲、ディバインバスターの閃光が、一帯に敷き詰められた薄闇を一片と残さず反転させていく。
怪物に逃れる術は無い。狭い通路は彼の巨躯に逃げ場を与えない。先になのはがやった様に、壁を破壊してその向こうへ逃れる手段もあるだろうが、壁を破壊する一瞬の硬直に砲撃は直撃する。つまり詰みだ。彼は完全に王手をかけられている。
だがそれでも、やはり怪物は埒外だった。いや、埒外であるが故にそれは怪物なのだと言うべきだろうか。埒外、既知外、常識圏外。桜色の濁流を真正面から浴びせられて、それでもコックローチオルフェノクは倒れなかった。抱え込む様に両腕を広げ、ディバインバスターの威力をその全身で受け止めている。
ただし。それはある意味、予想出来て然るべき事で。
目の前のオルフェノクが正真に怪物であるのなら、きっとそれくらいはやってくるだろうと、容易に想像出来る事――だからこそ、駄目押しの一撃が必要となる。
「
おぉおおおおおおおらぁあっ!!」
咆哮と共に、ヴィータが再度コックローチオルフェノクの間合いへと飛び込んでいく。
彼女もまた、なのはと同様に上着を脱いだ状態。リアクターパージ(と同様の魔法)によって騎士甲冑を炸裂させ、その拍子に触手から抜け出したのだ。
グラーフアイゼン・ラケーテンフォルムの魔力噴射が、彼女に更なる加速を与える。自身を軸として回転しつつ迫る姿は、さながら人型、人間サイズのねずみ花火。
怪物もヴィータの接近に気付いている。だが逃げられない。ディバインバスターを捌くだけで精一杯、そして彼が遂に桜色の魔力光を弾き飛ばした瞬間には、最早回避や防御を行う余裕など――時間的にも体勢的にも――どこにも残っていなかった。
鉄槌が叩き込まれる。怪物のどてっ腹、強固な外殻で身を鎧う昆虫の絶対急所。ラケーテンフォルムのスパイクが、コックローチオルフェノクの腹を容赦無く抉っていく。
<ぐ、ふ、ううううう――>
手応えがあった。怪物はその身をくの字に折り、顎を突き出す様にして、内臓から空気を絞り出される。
確実なタイミングで、ヴィータの出来る最高を叩き込んだのだ。これで決着と彼女が確信したところで、誰に責められる事も無く。
だから次の瞬間、
<ううううう――
ふンはぁっ!!>
まるでゴム塊を殴ったかの様にグラーフアイゼンが弾き出され、その勢いにヴィータが身体ごと弾き飛ばされたところで、そこにヴィータの非を認める事は出来ないだろう。
「がっ!?」
ごぎん、と嫌な音が身体の中に響き――次いでヴィータの右肩を強烈な痛みが襲う。それが右肩関節の脱臼によるものと気付いた時には、彼女の身体は床にしたたか叩き付けられていた。
どれだけ埒外か。恐るべき事に、コックローチオルフェノクはその腹筋だけでヴィータのラケーテンハンマーを撥ね返したのだ。術も何もあったものでは無い、問答無用の力技。結果、攻撃の威力は大半がヴィータに逆流、デバイスを握る右腕、その基点である右肩に衝撃が集中したのである。
脱臼だけで済んだのは、寧ろ幸運と言うべきか。右腕が肩口からもぎ取れていてもおかしくは無かったのだから。
<げーほげほげほ! ぐぇっほ! おぇっぷ。うげー>
尤も、その威力の何割かはやはり通っている様で、怪物もまた腹を押さえて咳き込んでいたのだが。……それでも声音からはまだ充分に余裕がある事が窺える、ダメージを与えたとはとても言えそうに無い。
「ヴィータちゃん!」
今の自分達に出来る最高の奇襲。それが失敗に終わった事を察するよりも、親友への心配が先に立つ。
それは高町なのはの甘さが故で、人間としては美徳であっても、今この場においてはただの失策。
「っ……!」
ヴィータへと意識を向けたその瞬間、がつん、と強烈な衝撃が、なのはの額を打ち据えた。
脳髄が頭蓋の内側に衝突し、機能を一時的に、しかし致命的に低下させる。バリアジャケットの防御など有って無きに等しい、回転し輪郭を失う視界の中でなのはが見たのは、中空から突き出した灰色の前腕。ぴんと伸ばされた中指と親指、畳まれた残る三本の指。俗に言う“でこぴん”が自身の額を弾いたのだと、身体の制御を失った脳が判断する。
見ればコックローチオルフェノクの左腕が肘の辺りから消失している。その断面に魔法陣が展開されているところを見れば、空間接続型の特殊転移魔法、シャマルの使う『旅の鏡』と同系統の魔法と知れた。
「なのはっ!」
ヴィータの叫びがやけに遠い。
脳震盪は意識を失う程に重篤なものでは無かったが、どうと倒れこんだなのはは起き上がる事が出来ない。
思考のまとまらない意識は酩酊状態のそれに似ていて、それでも何とか眼球を巡らせてみれば、のそりと立ち上がった怪物の巨体が視界に入る。
右肩を押さえて蹲るヴィータと、だらしなく床に仰臥する自分――そして何事も無かったかの様に佇む怪物。どこからどう見てもそれは決着の図であり、なのはとヴィータが敗北した図であった。
<……速度もタイミングも完璧だったわ。けど惜しかったのは、それに威力が乗ってなかった事ね。限定処置のかけられた状態じゃ、これが目一杯なんだろうけど――残念、それじゃアタシは殺せないし、倒せない>
鉄槌の直撃を食らった腹をさも大した事無いと言わんばかりにぽんぽん叩いて、怪物は笑う。
石膏像の如く表情の変わらないその顔で、高町なのはとヴィータを嘲笑う。
<まあ、敢闘賞ってところかしら。アタシもちょい用事が出来ちゃったし、続きは次回って事で>
「……逃げんのかよ」
<見逃してあげるって言ってんのよ、お嬢ちゃん>
外れた肩を無理矢理嵌めて、それでも痛みに顔を引き攣らせつつ敵を睨みつけるヴィータへ、コックローチオルフェノクは事も無げに言い放った。
見逃してやる。明らかに相手を見下したその言葉を、ヴィータは否定する事が出来なかった。今の自分達が出来る最高を真正面から跳ね返された、その事実をヴィータは受け入れている。であるのならば、傲慢とすら言える怪物の言葉も、目を背けられない現実として受け入れるしか他に無かった。
加えて。
<ちょっとぉ。まだやってんのー? アタシそろそろ疲れたんだけど>
<そっち終わったんでしょぉ? 結界当番代わってよぉ>
<暇なんだけどー。ねぇ、アタシまだ待機してなきゃ駄目?>
不意に近くの病室の扉が開き、廊下の窓ががらりと開いて、更には天井の一部が切り取られた様に落下して――戦場になっていた一帯のそこかしこから、怪物が次々と顔を出す。それらは全て、たった今までなのはとヴィータが戦っていたコックローチオルフェノクと同一の姿形で、傍からでも判る程に充溢する魔力を感じ取れば、その実力すらも同一であると知れた。
至るところから這い出てはぞろぞろと集まってくるコックローチオルフェノク達。その数十一。ゴキブリは一匹見たら三十匹居ると思え、などと良く言われるが、まさしく格言通り。
ただ一匹でも手に負えない怪物が、高町なのはとヴィータの二人がかりでも倒しきれない怪物が、十一匹。
それは充分に、絶望と言える数だった。
<それじゃ、お疲れ様でした>
ただ幸いと言うべきか、それらの怪物達はなのはとヴィータなど――既に蹴散らした相手の事など――最早眼中に無いらしく。
涌いて出てきた十一匹と、元よりこの場に居た一匹。計十二匹のコックローチオルフェノク達が、声を揃えてそう言って。
ぞろぞろと出てきた彼等は、ぞろぞろとその場を立ち去っていった。出てきた扉や窓、天井の穴から戻っていく様は拍子抜けする程に呆気なく、それでいてどこか滑稽なもので。
だがその呆気なさ、滑稽さこそが、敗北し、しかも見逃されたという屈辱を、より一層煽り立てるものだった。
「……ヴィータちゃん、大丈夫?」
「……ああ。おめーこそ、頭、大丈夫か?」
聞きようによっては割と失礼な言葉も、自分を心配してくれてるからこそ。
普段ならば胸の奥が暖かくなるその気遣いも、敗北のショックに混沌とする頭では、胸焼けの感触にも似た心地悪さに思えてしまう。
かつてここまで一方的な敗北は経験に無い。いつぞやの六課隊舎壊滅とはまた違う、純粋に戦闘において遅れを取ったという事実。届かなかったというだけならまだしも、いとも簡単にあしらわれ、弄ばれたのだから、慰めになる要素など一つも無い。
勝てない――今のままでは。
でこぴんを喰らった額にじわりと血が滲み、なのはの顔に一筋の赤い線を描いていった。
この数分後、なのはとヴィータはギンガ、スバル、ティアナと合流。
ギンガ達の前にもオルフェノクが現れ、戦闘に這入った事。その中で明らかになった結城衛司の正体。そして乱入してきた謎の生物が、少年を連れ去った顛末を知る事となる。
そして――
※
――そして、現在。
先日の戦闘を語り終え、改めてとんでもない辱めを(主に触手とか触手とか触手とかそれを撮影された事とか)受けたのだと思い返して赤面するなのはに、シグナムは大きくため息をついて応えた。
「良い様にあしらわれたという事か。……済まんな。お前たちともあろう者が不甲斐ないと思っていたが――相手がそこまでの手練れであるのなら、無理も無いか」
「見た目はふざけてたけどよ――いや、中身もふざけてたんだけどよ。……ありゃ、正真正銘のばけもんだ」
そう吐き捨てるヴィータだったが、無論、化物という比喩は『オルフェノクだから』という意味では無い。
『灰色の怪物』はどれも総じて化物、文字通りに怪物の類だ。人間を襲う物の怪である。結城衛司とて例外では無く、人畜無害な顔をして、多くの人間やオルフェノクを殺害している。
だが中でも、あのゴキブリのオルフェノクは間違いなく別格だった。これまでに幾度かオルフェノクと渡り合ってきたなのはやヴィータだからこそその格差が解り、シグナムもまた同じく、話を聞かされただけでその脅威を読み取っていた。
「解除申請……通るかな」
「どうだろうな。既に我々はオルフェノク問題から外された――今後はオルフェノクが現れても、出撃要請が入らん。戦う機会が無いのでは、限定解除も何も無いだろう」
一昨日を以って、ミッドチルダにおけるオルフェノク問題は機動六課から本局の対オルフェノク専任機関――時空管理局未確認生命体専任対策部隊S.A.U.Lに、その権限の全てが移譲された。つまり今の六課は既に部外者。戦闘に参加する事さえ許されず、まして限定解除など許可される訳も無い。
解除申請の回数そのものはまだ残されているものの、それは乱用乱発出来るほどに多いものでは無く、『無関係の戦闘に首を突っ込む為』に限定を解除するなど以ての外だ。
そして、それ以前に。
「限定解除を行って――それで、勝てるのかだ」
そう、問題はそこだ。
もし限定解除を行い、なのはやヴィータ、シグナムといった、魔力に制限のかけられている者達が本来の実力を発揮したとして。
それで果たして、あの怪物を打倒し得るのか。
一度の敗北が過度に彼女達を慎重に、もしくは臆病にさせている面は否めないが――それを差し引いたとしても、あの怪物は圧倒的だったのだ。
「勝たなきゃいけねーんだよ……勝って、あの動画データを取り返すか、消去しねーと……!」
「あうう……」
「……あ、ああ。そうだったな。それもあるか」
それもあると言うか、実際、なのはとヴィータにとってはかなり切実な問題だった。
触手に絡みつかれるスターズ分隊隊長と副隊長の痴態。怪物が撮影していたあの動画が流出などしようものなら(当然ながら、ミッドにもその手のネットワークや動画投稿サイトは存在し、一般人が見る事も出来る)、なのはとヴィータの名誉とか尊厳とかその他諸々の大事なものが根こそぎ吹っ飛ぶ。
最悪、管理局で仕事を続けられなくなるだろう。そう考えると、実は今こそが、管理局に入ってから最大の危機であるのかもしれないが――酷く個人的な問題ではあるけれど――その危機を打開する術が無い、より正確に言えばつい先日奪われてしまったのだから、余計に焦燥が溜まる。
「はやてちゃん――大丈夫かな」
「うーん……」
「どうだろうな……主はやての事だ、ただでは帰ってこんとは思うが」
今、機動六課部隊長八神はやては、S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いている。
本来、機動六課は今年四月――既に年を跨いで、暦は新暦76年となっている――の解散まで、オルフェノク問題に携わる事となっていた。それが先日、唐突にS.A.U.Lへと権限が移譲されてしまったのである。
あまりにも突然で、最早移譲と言うよりは簒奪に近い。加えてその際、彼等は一方的に結城衛司の身柄を拘束し、S.A.U.Lミッド支部へと連れていってしまった。
元々六課がオルフェノク問題に携わるのは、専任機関が発足するまでの場繋ぎであった。発足が前倒しとなれば、権限の移譲が前倒しになるのも当然。
だが六課側の都合も考えない一方的な権限移譲はとても看過出来るものでは無く、故にはやてが直々に抗議に出向いているのだが――その抗議が何らかの成果をもたらすかと言えば、これは悲観的になるしか無い。
「せめて、衛司くんだけでも連れ戻せれば良いんだけど……」
とは言うものの、実際、衛司がそれを望むかどうかは、なのはにもヴィータにも、無論シグナムにも判らない事。
オルフェノクの正体を暴かれた少年が、平気な顔をして六課に戻ってくるかどうか。彼はそこまで厚顔か。
無論、なのは達六課の面々に、彼を人外と蔑む者など居ないのだが――
「ま、そりゃやっぱり衛司次第だろ。ギンガが何か言ったみてーだし――結局、はやてが連中から衛司取り返せるかどうかだろ」
ギンガと衛司が盛大な喧嘩をやらかしたらしいとは、ヴィータも伝え聞いている。それが一体どんな結果を彼等にもたらしたのかは知る由も無いが、ギンガをはじめとする六課の面々が彼の“秘密”をどう思うかは、確かに伝わっている筈だ。
これからどうするのかは、衛司自身が決める事。しかし彼がどういう選択をするにしても、それが実現出来るかどうかはまた、別の問題で。
もし彼が、六課に戻る事を望むと言うのなら。それはもう、結城衛司個人に出来る事の範疇を超えている。……だからこそ、八神はやてが動くしか無いのだ。
「待つしかないのは歯痒いものだが――今は、信じて待つしかないか」
ため息混じりにシグナムが呟いた言葉はどうしようもなく正論で、否定しようが無かった。
◆ ◆
「はい、それでは承りました。ご注文の品は明後日にでも納入させて頂きますわ」
『感謝する。貴殿の協力無くば、こうも早期に部隊を立ち上げられなかった』
スマートブレイン本社、社長室――社屋の豪壮さとは裏腹に、必要最低限の装飾しか施されていないその簡素な執務室で、結城真樹菜が何者かと通信を行っている。
ウィンドウに映し出されているのは本局の制服を纏った禿頭の男。視線を隠すティアドロップのサングラスが嫌な方向に似合っていて、“その筋”の人と評したところで違和感を覚える者は居ないだろう。
尤も、『外見に気圧される』などと言うメンタリティ、生憎真樹菜はこれっぽっちも持ち合わせていない。付言するならば男は真樹菜の、スマートブレインの顧客であり、例え気圧されていたとしても、内心を態度に反映させる事は慎まなければならなかった。
「そういえば、面白い噂を耳にしたのですけれど。何でもそちらで、オルフェノクを二匹ほど捕まえたとか――」
『……耳が早いな。どこから聞きつけたのか詮索はしないが……ああ、事実だ。雀蜂のオルフェノクと鰻のオルフェノクを確保した。一両日中にも本局に移送して、徹底的に調べ上げる予定だ。技術部の連中が早く持って来いと煩くて堪らん』
「そうですか。これでオルフェノク対策が一層進みますわね――ふふ、まあ、あれが本格的に配備されれば、オルフェノクも敵じゃないのでしょうけれど」
『楽観は出来ん。何が起こるか判らんからな。……失礼、客を待たせている。例の件、宜しく頼む』
「はい、かしこまりました。またご連絡させて頂きますわ、高村さん」
そうして通信は切られ、机上に展開されていたウィンドウも閉じられる。ふうと真樹菜は一つため息をついて、視線を横方向へと移動させた。
部屋の片隅、ソファーやテーブルが置かれた簡易な応接スペース。そこに一人の男が、それはもう遠慮の無い態度でふんぞり返っている。
いや、それを果たして“男”と言って良いものか。座っている状態でも圧倒的な威圧感を放つ巨躯を水商売よろしくのドレスで飾り、べたべたと塗りたくられた化粧品の匂いをぷんぷんと放散しているその姿は、“オカマ”という言葉から連想されるイメージをそのまま形にしたかの様だ。
臥駿河伽爛――コックローチオルフェノク。結城真樹菜の親友は相変わらずの傍若無人さで、仕事をしている真樹菜の横でくつろぎまくっていた。具体的に言えばポテトチップス齧りつつ漫画読んで笑い転げていた。
「あ、オハナシ終わった?」
「ええ、お待たせしました」
「今のなに? S.A.U.Lって確か、管理局のオルフェノク問題専任部隊よね?」
「はい。まあざっくり説明しちゃうと、スマートブレインはその部隊にちょっと援助させて頂いてるんです。武器や装備の調達で、ね。先日注文を頂いた品が手に入ったので、いつ頃届くかという連絡ですわ」
「援助……ああ、成程ね。前にそんな話したっけ。……してなかったっけ?」
結城真樹菜がオルフェノクであり、スマートブレインがオルフェノクの集団である以上、S.A.U.Lへの援助は利敵行為でしか無い。或いは自殺行為と言うべきか。真樹菜からの援助はそのまま、オルフェノクに対する迫害の刃として振るわれるのだから。
だが真樹菜には真樹菜の目的があり、目指すところがあり……その為に、人間勢力にはある程度、オルフェノクと渡り合うだけの力を持って貰わなければならない。ただオルフェノクに蹂躙されるだけの、弱々しい生き物のままでは困るのだ。
ただし、それは本当に、結城真樹菜個人の――強いて言うなら、彼女と志を同じくする若干名の――思惑でしか無く。
事情は知っていても思惑までも知らぬ、また事情すら知らぬ大多数にしてみれば、何を考えているのかと首を傾げる行為でしか無かった。
「けれど、少々予定外でしたわね……まさか彼等が衛司を捕まえてしまうなんて」
「思ったより有能だったのねえ。いや、抜け目無いって言った方が良いのかしら?」
「まあ、仕方ない事です。ある程度はアンコントローラブルにしておかないと、繋がりを勘繰る人も出るでしょうし。そもそもが『人間にオルフェノクと対抗出来る手段を持たせる』って狙いで作らせた部隊ですからね。余計な事をしてくれるのは、まあ見方を変えれば、想定通りのお仕事をしてくれてるって事で」
「アルノちゃんが余計な事をしなければ、連中が出張ってくる事も無かったんだけどねえ……ごめんね、真樹菜ちゃん。アタシのツレが迷惑かけたわ」
「いえいえ。アルノルトさんにはきつーい“お仕置き”をさせて頂いてますから。伽爛さんが気に病む事ではありませんわ」
おっかないわねえ、と伽爛は肩を竦め、ふと思い出した様に懐から携帯電話を取り出した。それを真樹菜へと放り投げる。
「? なんですの、これ?」
「んー? いやねぇ、この前の戦闘で撮ってみたんだけど。面白動画。Youtubeにでも流してみよっかなーって思って。先に真樹菜ちゃんにも見せてあげる」
明らかに何か企んでいると知れる邪悪な笑み。伽爛とはそれなりに長い付き合いだ、碌でもない事を考えていればすぐに判る。
どうせスナッフ・ビデオか黒魔術の儀式とか、その類だろう。伽爛はその類の、常人ならば直視に堪えない映像を好んで集めている。それを不意打ち気味に見せられる事も何度かあったから、こうして再生開始のタイミングを預けられた今は、何が映し出されても驚く事は無い。
……と、そう思っていたのだが。
『ひゃっ!? や、にゃぁあああああっ!?』
『わ、わぁあっ!? き、き、気持ち悪ぃい!』
社長室に響く悲鳴と嬌声。
予想を斜め上にぶち抜く卑猥な叫びに、思わず真樹菜が噴き出した。
「な、伽爛さん、これ何ですの!?」
「面白動画。『エース・オブ・エース触手緊縛陵辱』なんつって」
機動六課の辣腕魔導師がぬるぬるうねうねと触手に絡まれて喘いでいる(?)様に、真樹菜は呆れた様な顔をしつつもそれに見入っていたが――やがて、何か思いついたかの様な顔で、どこか邪悪に微笑んだ。
「伽爛さん。この動画、私に下さいませんか?」
「うん? 欲しいの?」
「ええ。使い方次第では面白い事になりそうですし――正直、ネットに流してしまうのは、少し勿体無いです」
何に使うのか、さすがにそこまで具体的なプランが出来ている訳では無かったが。
ともあれ伽爛はあっさりと真樹菜の頼みを聞き入れ、「別にいいわよ」と頷いた。
「さて、っと。じゃあそろそろ行こうかしら。白華とラズロちゃんも連れてくけど、良いわよね?」
「ええ。くれぐれもお気をつけて――ああ、そうだ。伽爛さん」
「ん?」
部屋を出て行こうとした伽爛を呼び止め、真樹菜は机の中から一枚のカードを取り出して、伽爛目掛けて投げつけた。
手裏剣の如く回転して迫るカードを、伽爛は事も無げに人差し指と中指で挟みとってみせる。見ればカードはただの紙切れでは無く、電子ロックの類を解除する為のカードキーだった。
「何コレ?」
「レールウェイ・クラナガン駅のロッカーの鍵です――ほら、伽爛さん、面が割れちゃいましたから。ロッカーの中にちょっとした変装用の小道具が入ってます、使って下さいな。私物で申し訳無いのですけれど」
「ふうん……ま、いいわ。借りとくわね」
やろうと思えば伽爛は変身魔法の類で姿を変える事も出来るのだが、折角の厚意を無碍にするのもまた彼の趣味では無いのだろう、礼を言って社長室を出て行った。
圧倒的な威圧感を誇る巨体はただ居るだけで圧迫感を伴っていて、彼の居なくなった部屋は酷く広く、寂しく思える。
とは言え、それも直に埋められる空虚であって。いずれ戻ってくるであろう彼が携えている筈の“成果”を思えば、我慢出来ない寂しさでは無かった。
◆ ◆
『ちゅーか、衛司よ。お前、結構諦めがいいよな』
そう言えば――いつだったか、そんな事を言われたのだったか。
父を、母を、姉を殺され、自身も人外へと堕ちたあの惨劇から数日。住人の大半を失い、酷く寒々しい空間に成り果てた結城家のリビングに我が物顔で乗り込んできた“蛇”が、朝食のトーストをこれまた遠慮なく齧りながら、少年に向けてそう問い質したのである。
一応注釈を入れておけば、一人生き残った結城家本来の住人、結城衛司に“蛇”を厭う気持ちは皆無であった。突如として失った家族。崩壊した環境。そのストレスはたかが十二の子供が背負うにはあまりに過酷で、それを分かち合うかの様に傍に居てくれる相手を蔑ろに出来るほど、少年は強くなかったのだ。
実際、“蛇”が齧っているトーストをはじめとして、彼の朝食は全て衛司が作ったものだ。衛司自身は食欲も無ければ空腹も感じない、そういう体質である。自分が口にする訳でも無い食事にこれほど手をかける理由は、主従関係によるものか、そうでなければ家族愛や友愛からくるものであろう。
この場合は、後者であった。
『諦め……ですか?』
『いや、なんちゅーの? 俺様もそうだったんだけどよ……オルフェノクになったばっかってよ、やっぱ解んなくなるもんだろ。自分がどう生きてきゃいいかって。ばけもんになっちまったんだぜ? ほいほい受け入れられるかっつーの』
そう考えりゃ、“あいつ”は凄かったよなぁ――と、“蛇”は懐かしそうに、それでいてどこか誇らしげに、そう呟いた。
道を違えたとは言え、その凄い男と友であった事を今も誇りに思っている。“蛇”の表情は彼の内心を明確に伝えていて、自然、向かい合う衛司も釣られる様に口の端を緩めた。
それが自嘲の表情に見えてしまうと、少年は気付いていなかった。
『“あいつ”はよ。最初っから……ま、俺様と会った時からっちゅー意味だけどよ、まあ最初っからぶれてなかったよ。オルフェノクだけど、人間の味方として人間を守るってな』
『人間を、守る……“衛る”、ですか』
朧な記憶の中で、いつか言われた事を思い出す。誰かを衛れる男になってほしい。少年の名にはそんな願いが込められているのだと。
それは無理だ、と衛司は笑った。今の衛司には、人間というものが解らない。衛るに値する存在なのかどうかが酷く疑わしい。己の父を、母を、姉を奪った連中が、その同族が、衛られるだけの価値ある上等な存在なのか……是とも否とも、確信が持てない。
衛司の内心を察する事も無く、“蛇”は続けた。
『けどよ、そりゃやっぱり迷ってたっちゅーか、諦めがつかなかったからだと思うワケよ、俺様としては。人間を諦めきれねえから、人間の味方になろうってな。……お前、そーゆーのねえだろ?』
『………………』
衛司は、黙った。
“蛇”の言葉が、妙に断言的だったからというのもあるだろう。加えてその時の衛司は、彼の言葉に反駁するだけの何かを持ち合わせていなかったのだ。
自分が人間である証。“蛇”の言う“あいつ”は、人間を守る、人間の味方である事で、その証を立てようと考えたのだろう。
対して衛司は、怪物には出来ない殺し方を。怪物としての殺戮では無く、人間としての殺人を行う事で証にしようとした。それが人道を外れた鬼畜の所業であると気付いたのは、全てが終わった後。血と肉片に塗れた己の手を直視した瞬間だった。
結城衛司は致命的に間違えた。最初の最初に、取り返しのつかない間違いを犯した。最早自分が人間であると、人間で在り続けたいと望むのはおこがましいと、そういう思考に至ってしまった。そもそも彼が人間の価値に疑念を抱いているのだから、人外に堕ちる事を厭う気持ちが湧いてこよう筈も無い。
それを諦めていると言われれば――成程、頷く以外に無い。
『な、衛司。もうちょい見苦しくてもいいんじゃね? ちゅーか諦め早すぎだっつーの。もうちょいこう、なんだ、足掻け。他の奴から見りゃみっともねえ事でも、簡単に諦めるお利口さんよりゃましだと思うぜ?』
回想から現実へと、衛司は意識を浮上させる。
「『諦めがいい』……か。直也さんも気軽に言ってくれたよ、本当」
本当は未練たらたらで、誰よりも執着していて。
そうでなければ、『人間に戻りたい』などと言うものか。
今なら解る。ギンガ=ナカジマの前で吐露したものこそが、結城衛司の本音なのだと。
それを理解するまでに、随分と無駄な時間を費やしてしまった。そこだけは、悔いるべきなのかもしれない。
「まあ、時間を無駄にしたのは僕だけじゃない――はは。慰めにもならないな、こんなの」
口枷の内側で紡がれた呟言は当然の様に言語の態を為しておらず、もしそれを耳にする者が居たとしても、単なる呻き声としか聞こえない。
二日間――四十八時間。
拘束衣を着せられ、部屋の中央に置かれた椅子に座らされ、身動き一つ取れないままに、地下十三階の独房に四十八時間。
無論その間、幾度と無くS.A.U.Lの人間が訪れては、衛司を尋問していった。人権を保障されぬオルフェノク、どう扱おうと文句も出ないのだろう、尋問はまるで拷問染みて高圧的だった。八神はやてが推察した通り、殴られ、蹴倒され、理不尽な暴力を振るわれた事も、一度や二度では無い。
しかしどれだけ殴られようとも、衛司が口を開く事は無かった――いや、そもそも彼は他のオルフェノクに関して、何も知らないのだ。何を訊かれても答えられる筈が無い。
衛司の言葉では無いが、それこそ時間の無駄だった。
「…………」
不意に聞こえた音に、衛司は顔を上げた。重たい音を立てて、鉄製のシャッターが開いていく。つい先程はやてが面会を終えて立ち去った事を考えれば、彼女が戻ってきた可能性はまず無いだろう。
ならば尋問の時間か。今日はいったいどんな目に遭わされるのかと、衛司は身を強張らせるが、しかしシャッターの向こうから現れた慮外の人影に、少年の警戒はすぐに解かれた。
そこに居たのは一人の男。上半身を剥き出しに、上着と思しき布切れは腰に巻きつけている。下半身の服も歩ける程度に引き裂かれ、ほぼ半裸の姿ではあるが、彼の纏うそれが衛司と同様の拘束衣であるのは一目で判った。
男の顔には見覚えがある。いつぞやの探偵姿では無い為か、思い出すのに少し時間がかかったが。誰かが来るとは思っていたし、それが彼である可能性は高いと踏んでいたが、男の格好ばかりはさすがに衛司の慮外であった。
「お待たせしました、結城衛司君。お迎えに上がりました」
そう言って、男は――イールオルフェノクの人間態、エルロック=シャルムは扉を開錠。独房の中へと這入ってくる。
口枷を外され、けほ、と一つ咳き込んで、衛司はエルロックの顔を見上げた。
「貴方も、捕まっていたんですか」
「ええ。機動六課の魔導師に負けてしまいまして――気付けばここに。拘束衣の解除に手間取ってしまって、お迎えに上がるのが遅れてしまいました。申し訳ございません」
「……いえ。助けに来てくれただけで有難いですよ」
言葉を交わしながらも、エルロックは衛司の拘束衣や革のベルトを引き千切っていく。さすがオルフェノク、人間のままでも力持ち――と思ったのを見透かしたのか、エルロックは苦笑してかぶりを振った。
種はこれです、と彼は左手の親指と人差し指を衛司に示してみせる。瞬間、二本の指の間に火花が走り、ばちばちばち、と連続してスパーク音が鳴った。
スタンガンの先端部分で起こる現象に類似したそれに、衛司が納得した顔で頷く。引き千切ったと言うよりは、その火花で焼き切ったと言う感じだろうか。
「そうか……貴方は、電気鰻だから」
「はい。一部のオルフェノクは、人間の姿でもある程度の特殊能力が使えます。まあ才能や訓練次第なのですが……君もオリジナルのオルフェノクですから、訓練さえすれば、何かしら出来る様になると思いますよ」
「は――そっか。そういう事もあるんだ……本当、僕は何も知らないなあ……」
衛司は笑った。どこか疲れた様な、呆れた様な、自嘲的な笑み。齢十四の少年にはまったく似つかわしくない、そんな笑みだった。
「さて、結城衛司くん」
やがて少年の拘束を解き終えて――首に嵌められた鉄輪だけは、未だ残されていたけれど――エルロックは衛司に呼びかける。
「知っておられるかと思いますが、此処は地下十三階です。私一人ではさすがに脱出も心許ない。君とて、ここで人間どものモルモットにされるつもりは無いでしょう? せめて此処を脱出するまでは一時休戦という事にして、互いに協力し合うというのはいかがですか?」
エルロックの提案はごく自然なもので、この場を逃れる事を考えるならば、現状取り得る最善と思える。
だが男の提案に、衛司はゆるりと首を横に振って――「必要ないです」と呟いた。
「必要ない……? それはつまり、君は一人でもここを脱出する算段があると?」
「あ、いえ、そうじゃなくて。一時休戦、ってとこです」
ますます怪訝な顔を見せるエルロックに、衛司は割合平然とした口調で、ただしその眼差しに決然とした色を滲ませて、言い放った。
「連れて行ってください。僕を、貴方達オルフェノクのところへ」
「…………!?」
エルロックが瞠目する。
無理も無い。二日前はあれほど明確に、敵意を以って拒絶していたというのに。心変わりにしてもあまりに真逆の転換だ、不可解と思わない方が寧ろおかしい。
確かにエルロックは結城衛司を“連れ帰る”事を任務としていた。衛司が自分から付いて来るというのなら、“一時”休戦と期間を区切る必要も無い。エルロックの言葉を了解し、同行するという意味であるからだ。
ただ、その真意が不明のままでは、好都合と言う事も出来ない。まさか衛司が言葉巧みに信を得て、脱出した直後に裏切るとも思えない――そういった駆け引きから、この少年は縁遠いところに居る。けれどもそれを警戒せざるを得ない程に、衛司の変心は唐突で、信憑性に乏しいものだった。
「是非もありませんが――しかし一体、どういう風の吹き回しでしょう? 今までの君を見る限り、私としては、その言葉を素直に受け取るのは難しい」
「ですよね。そりゃそうです……逆の立場なら、僕だってそう思う」
エルロックの顔には、怪訝と不審が入り混じった微妙な表情が浮かんでいる。無理も無い。衛司の言葉に信を置けない事に加え、二日前の衛司と今の衛司とでは、発する空気、纏う雰囲気がまるで別人なのだ。
二日前の衛司なら、エルロックの顔を見ただけで襲い掛かっていただろう。拘束衣を着せられていた状態だからそれは叶わずとも、殺意を込めて睨み付けるくらいはしていた筈だ。
だが今の衛司には敵意も殺意も、何も無い。エルロックが性懲りも無く衛司を連れ去ろうとこの場に現れた事を、さも当然の様な顔をして受け入れている。
怪訝を通り過ぎ、疑念に近い色を帯び始めるエルロックの表情を一瞥して、衛司はさもどうでもよさげに、ぽつりと呟いた。
「喧嘩――しちゃったんですよ」
「…………は?」
「知らなくてもいいと思ってたんですけど。どうせ理解出来ないんだし、理解して貰えないんだし、知る事も伝える事も必要無いって思ってたんですけどね――それ、やっぱり良くなかったんです」
そうして結城衛司は、“彼女”を傷つけた。
無知と不理解、そしてそれを肯定する怠惰が、少年に図々しい被害者意識を生んで――それが、ギンガ=ナカジマを傷つけたのだ。
二日前のあの時、衛司はギンガにしこたまぶん殴られ、どつき倒された。今なら判る、あれは当然の応報だった。ギンガを傷つけた衛司へ、下るべくして下った天罰だ。
「『人間には解らない』なんてさ。勝手に決め付けて、壁作って……その壁に隠れて、他人の事なんて見ようともしてなかった」
戦闘機人。人の身体に機械を埋め込んで“造られた”、人に似て否なる生命体。それこそが、ギンガ=ナカジマの正体。
衛司は知らなかった。知ろうともしなかった。そして知りもしない癖に、彼女を“自分とは違う”と決め付けて、目を背けた。
「その癖、僕は自分の事も知らなくて……あの人に教えられた事だけで充分みたいに思って。本当は、もっと色んな事を知らなくちゃいけなかったのに。そりゃ殴られますよ、ぼこられて当然ですよ。そんな傲慢、ぶん殴って直すしか、他に無い」
「…………」
「本当、嫌になる」
ぎり、と奥歯を噛み締めて、衛司は吐き捨てる。
「無知なのは、もう嫌だ――無知なままでいたら、駄目なんだ」
友達になれないかと、ギンガは訊いた。友達に、仲間に、家族になれないのかと。答えはまだ出ていない。自分が何者であるのかすら、本当の意味で解っていない結城衛司には、ギンガの問いに対する答えが出せないのだ。
知らなければいけない。識らなければいけない。自分の事。自分以外の事。知り得る限りの全てを知ってこそ、彼は何かを決められる。自分が何者であるのか、何者でありたいのかを選択出来る。
機動六課の――ギンガ=ナカジマの友達で、仲間で、家族である事が出来るのか。その問いに、答えを出す事が出来る。
「だから、連れて行ってください。僕はオルフェノクを学びたい。オルフェノクとしての僕がどう在るべきか、それを知りたい」
衛司は解っている。それは矛盾であると。
彼女達の友達で、仲間で、家族である自分となる為に、彼女達と敵対する側に走る矛盾。
裏切りであって、背信であって、今まで受けた幾多の善意と数多の厚意を踏み躙る真似で……それでも。
「無知な僕を、終わらせたい」
それでも。利口ぶった諦観より、見苦しくても間違えても、足掻く方がましだと気付いたのだから。
理解するまでに二年もの月日を擁したものの、少年は今ようやく、“蛇”の言葉の意味を理解出来たのだから。
「是非もありません――あのお方もお喜びになられるでしょう。さて、少し動かないでください」
エルロックの口にした『あのお方』という言葉にふと疑問を抱きつつも、衛司は彼の言う通り、その場に静止する。
男は衛司の首筋に手を伸ばしたかと思うと、彼の首に嵌められた首輪を慎重に撫でていく。電流を流す事で対象の動きを束縛する鋼鉄の首輪。この二日というもの、何かにつけて電撃を浴びせられたものだから、首輪の圧迫感も二の次になってしまっている。
「首輪――外せるんですか?」
「ええ。少しばかりこつが要りますが。失敗すると爆発します、動かないでください」
肝の冷える様な事をさらりと口にするエルロックの首は綺麗なもので、無骨な首輪は既に取り外されている。
ばちりと火花が散る音を響かせたところから察するに、回路をスパークさせる事で首輪の機能を停止させ、解除するのだろう。
こつが要る、という言葉の通り、作業は遅々として進まない。エルロックが必死にやっているのは解るのだが、一つ間違えれば首輪が爆発し、死を免れない状況に置かれた衛司としては、どうにも落ち着かない。
「ふむ。さすが我が社の製品、一筋縄ではいきませんな」
「? 『我が社』……?」
エルロックの呟いた独り言を耳聡く拾った衛司だったが、しかしそれを問い質すよりも先に、彼の耳は更なる奇妙な音を捉えていた。
――がちゃり。
――がちゃり。がちゃり。がちゃり。
金属が硬質な床に押し当てられる事で生じるそれは、確認するまでも無く何者かの足音。この地下階層を闊歩する者となれば、それはS.A.U.Lの手の者以外には有り得ない。
エルロックが手を止めて、警戒に張り詰めた顔で独房の外へ出る。その面貌には戦闘態へ変化する前兆、奇怪な紋様が浮かんでいた。
ただ。独房から外に出た時点では、彼はまだ人間態のままであり――すぐさま戦闘態へと変化するつもりであったとしても、やはりそれは相手を人間と侮った、迂闊な行動と言う他に無い。
「ぐぁっ……!?」
轟音が響く。
瞬間、エルロックが何かに突き飛ばされたかの様に後方へと弾かれた。
びちゃん、と生々しい水音。音の正体はすぐに知れた。エルロックの右腿におぞましい程の大穴が穿たれ、そこから噴出した血が床と壁に飛散したのだ。
「シャルムさん!?」
思わず衛司はエルロックの名を呼び、彼へと駆け寄る。
人間態のまま独房の外に出たエルロックを迂闊と言うのなら、衛司は輪をかけて迂闊であっただろう。エルロックの異変は明らかに何者かの攻撃によるもので、独房を出れば自身もまた攻撃に晒されると、彼は理解していなかった。
だが幸いと言うべきか、独房を出た衛司を襲う者は居なかった。エルロックに駆け寄った少年が、凶手の姿を捉えようと射線を辿り視線を向けても、その隙を衝かれる事は無かった。
「なん……だ、……!?」
倒れ伏すエルロックの更に向こう。地下十三階フロアの通路、その突き当たりから、こちらへと向けて歩いてくる人影が在る。
人影。そう表現したものの、果たしてそれは正確であったか。
総身を鎧う鋼鉄の甲冑。不要な装飾が極限まで削ぎ落とされ、鈍い銀の光沢を放つ無骨な装甲は、ただ実用性のみを追求して作られたと知れる。
人の形をした何か、という意味でなら、『人影』という言葉は確かに間違っていないのだが――今、目の前に居る何かがただの人間で無い事は、瞭然だった。
「『V-1』……もう……実用段階に……!?」
「ぶ、V-1……!?」
苦痛に顔を歪めながら、エルロックがその名を口にして……事態が飲み込めない衛司が、阿呆の様に繰り返す。
V-1と呼ばれた甲冑は――それを装着している何者かは――衛司達へと向けて銃を構えている。冗談の様に巨大な拳銃の銃口からは薄っすらと立ち昇る白煙。それは硝煙か、はたまた圧搾魔力の残滓であるのか。
この甲冑の正体は判らない。衛司の知識の中には無い。今の衛司に判るのは、この甲冑が脱走者である衛司とエルロックを捕らえるべくこの場に現れたという事。
そして、もう一つ判るのは――少なくともこの甲冑を差し向けた何者かは、衛司とエルロックを決して過小評価していないという事だ。
「……くそ。だからって、それは過大評価だろうよ……!」
そう、V-1を纏っているのは一人では無かった。エルロックを撃った一人の後ろにもう二人、同様にV-1を纏った何者かが続いている。
後方二人のV-1もまた、大型拳銃の銃口を衛司、そしてエルロックへと向ける。
真正面から照準を据えられた少年が、張り詰める緊張に、知らず冷たい汗を滴らせた。
◆ ◆
エレベーターで地上一階へと戻る間、はやての脳内では延々と先の会話が繰り返されていた。
伝言を頼む。結城衛司は八神はやてへとそう依頼し、はやてはそれを請け負った。それは良い、そこまでなら良い――ただし問題は、衛司が頼む言伝の、その内容だった。
『「ありがとう」と「ごめんなさい」――って、そう伝えてもらえますか』
それではまるで、遺言ではないか。
当然、はやてはすぐさま衛司にそう問い質した。死ぬつもりがある様には見えなかったが、この状況下で聞くにはどうしても裏を疑う言葉であったのだ。
はやての言葉に、衛司はゆっくりとかぶりを振った。乾いた諦観の微笑は寧ろ逆に肯定とすら見えたのだが、それでも、彼は行動として否定を行ったのだ。
『死ぬつもりは無いです――死ぬのは、やっぱり怖いから。一回死ぬだけで充分だし、何回死んでも、たぶん慣れる事は無いです。……慣れたく、ないです』
オルフェノクの生態、怪物が如何にして誕生するのかを知らぬはやてにしてみれば、衛司の言葉は全く理解の及ばないものであったのだが。
ともあれ、衛司に死ぬつもりが無い事は確かだった。やりたい事があると彼は言い、それが何であるのかは不明だが、どうあれそれは命あっての事だ。死者には何も出来ない――衛司は十全に理解している。
そこで面会は終わった。予定の五分が終わり、シャッターが下ろされて衛司は再び隔絶され、はやてとグリフィスは地下十三階フロアからも追い出された。
そうして地上へと戻った二人は、案内役の男に先導されて、S.A.U.Lミッドチルダ支部の隊舎内に在る支部長執務室へと通された。
「失礼します。古代遺物管理部、機動六課部隊長の八神はやてです」
「同じく、同部隊長補佐、グリフィス=ロウランです」
支部長執務室は酷く殺風景な部屋だった。どこぞの商社のオフィスの方がまだ飾り立てられていると思えるほど、何も無い。
室内にある家具調度は執務机が一つきり。戸棚や本棚の類は何も無い。その癖やたらと面積ばかり広い部屋で、余計に殺風景な感じが際立っている。
そんな室内には男が一人。つるりと剃り上げた禿頭にティアドロップのサングラス。威圧と言うよりはいっそ恫喝、そんな雰囲気を漂わせた男――S.A.U.Lミッドチルダ支部長、高村勢十郎。
「ああ。俺がS.A.U.L支部長、高村勢十郎だ。わざわざご足労頂き、感謝している」
声には皮肉も嫌味も無く、ただ原稿を読み上げているかの様な無機質さと、ぞんざいさが同居していた。
声音だけで解る、この男ははやてとグリフィスに何の興味も抱いていない。疎んでもいなければ邪魔だとすら思っていないのだ。居ても居なくても同じ事と言わんばかりの淡白な反応である。
「……S.A.U.Lの発足は、もう少し先の話と思うてましたけど」
「お偉方にも都合があるという事だ。いつミッド以外にオルフェノクが発生するか判らん、なるべく早い時期に対オルフェノク戦術を構築しておく必要がある――その方向で意見が一致したと聞いている」
高村の言葉と対称的に、はやての言葉は刺々しさに満ちていたが、それを受けて尚、高村の声音には何ら変化が無かった。
「六課に無用の負担を強いている状況も好ましくない。『奇跡の部隊』を下らない雑用に使い潰す気は無いという事だ」
「下らない、やて……?」
「どうした。何か言いたい事があるか」
「……いえ。何でもありません」
言いたい事は山の様にあるが、それを感情のままに口にする事は出来ない。少なくともはやてが機動六課の部隊長である以上、彼女は言動を慎まなければならない立場にあった。
「有害鳥獣の駆除など他所に任せて、貴様等は精々管理局のイメージアップに貢献するがいい。『JS事件』で貴様等は充分に働いた。もう楽をしても良い頃だ」
「……生憎、損な性分なもんで。面倒事を背負い込む性質なんです」
「そうか。だが俺達も上から命じられてこの仕事をしている。面倒事とは言え、おいそれと貴様等に譲ってやる訳にもいかんな」
しかし――と、そこで高村は間を置いた。
「貴様等が来てくれたのは僥倖だった。近々そちらに問い合わせるつもりだったのだがな、手間が省ける。幾つか訊きたい事があるが、答えて貰えるか。八神二佐、ロウラン准尉」
「……何でしょうか、高村一佐」
「知っての通り、初めて“生きたまま”捕獲したサンプルだ。何せオルフェノクは死亡すると同時に灰化するものだからな、迂闊に解剖も出来ん。故にこいつらを殺さないよう調べるしか無いのだが、どうにも反応が悪い。後々の事を考えれば自白剤も使えん、壊れられると困る……そこで質問だ、八神二佐。貴様等はどうやってあの生物を
手懐けたのだ?」
「な……! “手懐けた”やて!?」
「蜂の方のオルフェノクが六課に潜伏していた際、六課隊員とある程度のコミュニケーションを取っていた事は知っている。餌の与え方に秘密があるのか? 飼育場の広さが関係あるのか? それとも雌のオルフェノクをあてがっていたのか?」
「あ、あんた――」
「なにぶん、我々にはオルフェノクを
飼育するノウハウが無いものでな。苦労している。一つコツの様なものを教えてくれると助かるのだが――どうだ、八神二佐」
高村からの質問にどう答えたものか。はやては数秒、脳髄をフル回転にして思考し――やがて、ふふんと意味ありげに笑んで、顎を上げ胸を張り、いかにも尊大な態度を取ってみせる。
上官に対して明らかに礼を失した態度であるのだが、それを一々指摘したり、不快と思うメンタリティ、目の前のハゲは持っていないだろう。そう踏んだ。
「ほな、教えたります――オルフェノクと馴染みになるのに大事なもん。……“愛”です」
「愛?」
「そーです。愛情たっぷりに接したれば、どんなイキモノでも心開いてくれます―― 一佐、S.A.U.Lにはちょう、愛が足りんのとちゃいますか? そんなんやったらだーれも、何も言うてくれません」
「ふむ。愛か。それは盲点だったな――参考になった」
空々しく高村が頷いたその時、不意に机上の端末が電子音を響かせた。誰かからの通信が入った事を示す音。高村はすぐさま端末を操作して、眼前にウィンドウを表示させる。
「何だ」
『失礼致します。想定状況27、ケースDです』
「そうか。V-1の投入を許可する。殺傷設定で良い、腕の一本ももいでやれ。変に反抗的なままでは今後に差し支える――きっちりと調教しろ」
『了解』
ぶつりとウィンドウが閉じられ、だがそれと入れ替わる様に新たなウィンドウが表示される。高村の眼前だけではなく、はやてとグリフィスの前にも。
映し出されたのは、つい先程はやて達が訪れていた地下十三階の独房。だがそこには驚くべき変化があった。独房の中には衛司のみならずもう一人の男が存在し、拘束衣に締め上げられていた筈の衛司は自身の足で立ち上がっていたのだ。
ずたずたに引き裂かれた拘束衣を見れば、それが正規の手段で解かれたもので無いと判る。同様にぼろきれとなった拘束衣を腰蓑よろしく巻きつけているもう一人が、手段は不明だが、衛司の拘束を解いたのだろう。恐らくは衛司と同時に捕まった、電気鰻のオルフェノクか。
衛司とは別の牢獄に隔離されている筈の彼が、どうして衛司と共に居るのか。何故衛司は、その男と言葉を交わしているのか。幾つもの疑問が一瞬ではやての脳内を駆け巡り、それらが化学反応を起こして融合すれば、彼女の思考は更にその先に行き着いた。
「……まさか」
結城衛司は機動六課を、人間を見限って、オルフェノクの側に走ったという事なのか?
否定する材料は無い。彼が地下の牢獄でどんな扱いを受けていたか考えれば、寧ろそれが正当だ。
はやての救出を拒み、しかしオルフェノクの救けを受け入れた事実。
『やりたい事がある』という、あの言葉。
『ありがとう』と『ごめんなさい』……あの言伝は、裏切りに対する謝罪でしか無かったと、そういう事なのだろうか。
「いや――それでも」
それでも、衛司にしてみればこれが最善なのではという思いが、はやてには拭いきれない。
例えここで衛司を六課に連れ戻す事が出来たとしても、オルフェノク問題の全権がS.A.U.Lに移譲された今、六課がどこまで衛司を庇えるかは不透明。ならばいっそと考えるのは、決して間違いでは無いだろう。
「! ――高村一佐、あれは……!?」
はやてが逡巡に思考を費やしていたせいか、“それ”に――画面が切り替わり、独房前面の通路を映し出した瞬間、そこに映り込んだ見慣れない何かに気付いたのは、グリフィスが最も早かった。
言うなればそれは、最先端技術が造り上げた鋼鉄の芸術だった。人型を形作る鋼の装甲。不気味なまでの光沢を放つ甲冑が、合わせて三体。
その内の一体がゆっくりと腕を掲げ、手にした大型拳銃の銃口を前方へと向ける。独房から無防備に飛び出してきた男を見るや否や、彼は引鉄を引いた。轟音と共に撃ち出された弾丸が男の右腿を貫通し、衝撃だけで男の身体を紙屑の様に背後へと吹き飛ばす。
「なっ……!? なんて事を……!」
見ての通りの対物設定、殺傷設定。時空管理局における原則、非殺傷設定の徹底を根底から覆す暴挙。
はやてが絶句し、グリフィスは食ってかからんばかりに高村を睨み付け、声を荒げる。
「あれは――あれは何ですか、高村一佐! S.A.U.Lは一体、何を作って――!」
「『V-1システム』」
常に平坦を維持してきた高村の声に、この時、初めて感情らしきものが宿った。高揚、興奮、その類の感情。それは或いは、買ったばかりの玩具を自慢する子供と同種のものであったのかもしれない。
「八神二佐。貴様は確か、第97管理外世界『地球』、それも日本地区の出身だったな。ならば十五年ほど前の、『未確認生命体事件』は知っているだろう」
「未確認――生命体」
さすがに当時のはやては四つか五つ、記憶や経験として憶えてはいないが、基本的な知識は持っている。
地球の暦で西暦2000年。突如として現れた謎の生命体が、関東地区を中心として次々と人間を殺害していくという事件が起こった。
既存の犯罪行為とは全く異質なこの事件に警察は翻弄され、未確認生命体が集団である事、彼等が“ゲーム”として殺戮を繰り返している事を突き止めるものの、対処は遅れに遅れた。
最終的に警察は民間協力者の助力と、未確認生命体の体組織を解析する事で開発した特殊拳銃弾を切り札に、未確認生命体を根絶する事に成功するものの――しかし。
「当然、警察上層部はこう考えた。『また何時、同様の事件が起きるとも限らない』とな。そうして日本警察は秘密裏に警視庁未確認生命体対策班――通称『S.A.U.L』を設立。同種の脅威に対抗し得る兵器の開発に着手した」
「S.A.U.L……それって」
「ああ。“時空管理局未確認生命体専任対策部隊”S.A.U.Lの略称はそこから拝借している。無論、無断でだがな――向こうが著作権を主張してくるなら、話は別だが」
高村の声からは再び感情が抜け落ちて、そのせいか、冗談めかした物言いは酷く嫌味な色を帯びていた。
「『V-1システム』。『未確認生命体事件』より二年後に起こった、とある事件において開発された代物だ。俺の叔父が機械工学の権威で、これの開発を主導していた。……結局、理由は知らんが、開発は途中で中断。計画も破棄された。叔父はそれから五年ほどして死に、遺品の中に残されていた設計図と基礎理論を俺が本局に持ち込んで、技術部に開発させた。それがあれだ」
「……あれ、質量兵器と違うんですか。管理局法に違反して――」
「法には触れていない。書類上、あれは救助隊の着用する耐火服と同じ扱いだ。また携行兵装はデバイスとして登録してある――少し前の法改正で、拳銃程度の火器ならデバイスとして登録出来る様になったのは、貴様も知っているだろう」
時空管理局は建前上、魔導師偏重主義を否定してはいるものの、実際の武装隊や捜査官の大半が魔導師で占められているのもまた事実。質量兵器を禁じている以上必然的な流れと言えるのだが、しかしそこに非魔導師の自衛を蔑ろにする意図は無く、拳銃などの個人携行が可能な火器を“非魔導師のデバイス”として持たせる程度の配慮は行っている。
また、防災担当の部署においては、火災などの現場に赴く際、局員に専用の耐火服を着用させている。バリアジャケットの耐熱機能も万能では無い、また耐熱機能を強化すればバリアジャケットを構成・維持する為の魔力もかさんでいく。耐火服の着用は至極当然。
高村はそこに目を付けた。V-1システムは試作の新型耐火服、携行兵装は非魔導師用デバイスとして、それぞれ登録されている。実際はどうあれ、組織において書類に不備が無いのなら、それは紛う事無く正当な“装備”なのだ。
「せやかて、あんなん――」
画面内では衛司もまた独房から飛び出して、脚を撃たれた男へ駆け寄った。出血と激痛に顔を歪める男へ呼びかけて、反応が無いと見て取るや、少年は彼を庇うかの様に前へ出る。
迫る鋼鉄の甲冑を睨み付けた瞬間、少年の面貌に奇怪な紋様が浮かび上がり、瞳が本来の色彩を失って、人骨の如く灰色に染まる。オルフェノクが人間への擬態を止め、戦闘形態へと変化する兆候。
だが。
『ぐぁぎっ!?』
ばちっ、と耳を劈くスパーク音が響いたかと思うと、少年は身を仰け反らせて床へ倒れこんだ。更に二度、三度とスパークは続いて、その度に少年は短い悲鳴を上げつつ床を転がった。
衛司の首に嵌められた、電気ショックを与える首輪。それが本来の機能を存分に発揮し、少年を蹂躙しているのである。
「オルフェノクについて、この二日で判った事はごく僅かだ。雀蜂も電気鰻も口が堅いものでな、大した情報も得られないし、ここでは満足な実験も出来ん」
床に突っ伏す少年を、路傍の石を見下ろすが如くに一瞥して――高村は、淡々と語り始めた。
「だが、幾つか面白い事も判った。知っての通りオルフェノクは人間に擬態しているのだが、そこから怪物に戻る際には顔面に特有の紋様が浮かび上がる。この時に強烈な衝撃を与えてやれば、オルフェノクは怪物に戻れなくなる。人間に擬態している時は人間並みの能力しか持っていないからな。制圧はそう難しくない」
三機のV-1は腿部分に収納されていた棒状のパーツを手にしたかと思うと、それをひゅんと振り薙いだ。瞬間、軽い金属音と共に棒状部品は伸長。どうやら警棒の類だったらしい。
高村の言葉を実証するかの様に、V-1の一体が衛司の髪を掴んで引きずり起こす。何をするのかと思いきや、彼は躊躇無く、手にした警棒で少年の顔面を殴打した。
画面の中から、衛司の悲鳴が聞こえてくる。
どうと倒れ込んだ衛司の背に、もう一体のV-1が更に警棒を振り下ろした。一度だけでは無い。繰り返し繰り返し彼等は鉄棒を少年に打ち付けて、のみならず拳や足で殴る蹴る。四肢も鋼鉄の甲冑に鎧われているのだから、それは警棒での殴打と何ら変わり無い。
悪辣なのは、殴りつける箇所が全て急所を外れている事だ――頭部は元より、背骨や心臓、肺といった、“後遺症の残る部分”を意図的に避けている。それは衛司の身を慮っての事では無く、より苦痛を長引かせる為であると、はやては瞬時に理解した。
「何を――何してんねん! 止めさせえや! こんなん許される訳ないやろが!」
「捕獲したオルフェノクの処遇は全て我々S.A.U.Lに一任されている。止めさせたいのなら、然るべき手順を踏んで、文書で要請しろ」
「な……!」
「高村一佐。しかしこれは到底容認出来ません。この虐待に、一体どういう意味があると言うのですか!」
あまりの激昂に言葉を失ったはやてに代わり、グリフィスが割って入る。
「意味はある。二度と逃亡など考えん様に調教している、それだけの事だ。抵抗の意思を挫くには行動の失敗と肉体的苦痛を組み合わせるのが最適だからな。効率の良い方法を取っているだけだが、何か問題があるか?」
無論、高村の言葉は問いという体裁を取っていても、問いなどである筈が無く――またグリフィスがどう答えようと、それを聞き入れるつもりが無いのは明白だった。
グリフィスも口を噤んだのを見て、高村は通信用ウィンドウを展開。中継映像内のV-1へと呼びかける。
「また逃げられると面倒だ、脚の腱を切っておけ。喋る口だけ残れば良い」
『了解』
少し離れたところで暴行を観戦していた――脚を撃ち抜いた男への警戒として待機していた――残る一機のV-1が、高村の指示に従い歩き出す。
「あかん……逃げ、逃げるんや、はよ逃げえ! ――衛司くん!」
「高村一佐! 止めさせてください、これは幾らなんでもやり過ぎだ!」
「断る。これ以上の干渉は妨害行為として本部に伝える事になるが、構わんのか」
「…………っ!」
「衛司くんっ!」
数秒後の未来を想像し顔色を失ったはやてが必死に呼びかけるが、無論、その言葉が少年へと届く事は無く。
既に衛司は意識があるのかどうかすら判然としない。散々殴りつけられたせいか顔は無惨に腫れ上がって、ぐったりと力無く項垂れている。
V-1の手には鉈を思わせる大振りなナイフ。一機が衛司の身体を押さえつけ、もう一機が用心の為に銃口を突きつけ、そして残る一機が衛司の足首、アキレス腱を狙って、ナイフを振り下ろし――
「!?」
――瞬間、画面が不意にぐにゃりと歪んだかと思うと、一瞬で砂嵐の如きノイズ画面へと変化した。
「何だ……? 何が起こった?」
眉を顰める高村だったが、驚きは寧ろはやてとグリフィスよりも大きかっただろう。部下へと呼びかける声こそ冷静であったものの、それが取り繕った平静であるのは明白だった。
数分ほどで画面は復調し、先と同様、一階の廊下を映し出す。
――だが。
「なっ……!?」
今度こそ。正真正銘の驚愕が、彼等を襲った。
そこに映し出されていたのは、三機のV-1だけ――結城衛司も、鰻のオルフェノクである男も、どこにも居ない。
そしてV-1の方はと言えば、三機が三機とも、およそ尋常な有様では無かった。
一機はハンマーでも叩きつけられたかの様に、胸部装甲を粉砕され。
一機は両肘両膝の関節がおよそ有り得ない方向にねじれ。
一機は外傷こそ無いものの、床に仰臥し、びくんびくんと奇怪に痙攣している。
何か、想像を絶する恐るべき何かが起こったのだと――はやてが、グリフィスが、高村が瞬時に悟った。
「……面倒な」
相変わらず平坦に、しかし隠し切れない怒りと苛立ちを含ませて、高村はそう呟き……通信用ウィンドウを展開、矢継ぎ早に部下へと指示を下す。
V-1の回収。装着者の救護。また逃亡したオルフェノクの追跡と、映像が途切れた数分間に何が起こったのかの調査。それらの指示をBGMの如くに聞き流しながら、はやては一人、安堵の意味も込めて大きく息を吐き出した。
何が起こったのかは判らない。だが推測は出来るし、状況を見ればほぼ間違いない。衛司や電気鰻とはまた別のオルフェノク、或いはそれに組する何者かが、ぎりぎりのところで衛司を救出し、連れて行ったのだ。
機動六課部隊長として、時空管理局の一員としては無論、憂慮すべき事態である。けれど八神はやて個人の本音を言うのなら、歓迎は出来ないまでも、これで良かったのだという気持ちが大半を占めていた。
「ま、無事や言うんなら、それでええんやけどな――早う戻ってこんと、皆に愛想尽かされるで?」
やりたい事が出来た。地下の牢獄で聞いた少年の言葉を脳裏に再生させながら、はやては一人、誰にも聞こえない様に呟いた。
かくて新暦76年のこの日。結城衛司と機動六課との関わりは一つの終わりを迎え、少年は自らの足で暗闇へと踏み入る事となる。
少年が暗闇の底で何を見るのか。誰と出会うのか。それは最早、八神はやてには知る由の無い事であり――彼女に限らず、機動六課に属する者のほぼ全てに、最早関わりの無い事であった。
◆ ◆
第十六話/了◆ ◆
……。
…………。
………………。
実際のところ今回の話に関してはここで終わらせるのが最も美しく切りの良い形であり、故にここから先は単なる余談に過ぎない。
先述した様に、結城衛司とエルロック=シャルムがS.A.U.Lの開発した対オルフェノク用装備『V-1システム』に追い詰められる様は、S.A.U.L支部長室において八神はやてやグリフィス=ロウラン、高村勢十郎に中継されていた。
ただし彼等はその全てを見届けた訳では無い。数分間に渡って中継映像は途絶し、そして映像が復旧した時には、状況は既に終わっていた。三機のV-1は全機が無力化され、結城衛司とエルロック=シャルムはその場から姿を消していた。
つまり、はやて達は結果を目にしてはいるものの、結末を目にした訳では無い――結末を目にしたのは、現場に居合わせた結城衛司とエルロック=シャルムの二人だけ。より正確に言うのなら、出血多量で意識を失っていたエルロックを除き、衛司一人だけが、それを目の当たりにしていたのである。
足の腱を切り付けるべく振り下ろされるナイフを、衛司は視界の端で捉えていた。
直前に散々殴打されたせいか意識は朦朧とし、痛みはどこかむず痒い様な感覚に変質して、少年の総身を這い回っている。
頭の中で誰かが逃げろと叫んでいるが、それに応えるだけの思考も挙動も、今の衛司からは失われていた。尤も彼が万全であったところで、身体を押さえつけるV-1を振り解くのは容易では無かっただろうが。
「
全員、動くな」
底冷えのする様な声が一帯に響いたのは、その時だった。
ぎしり、とV-1の腕が止まる。衛司を押さえつける一機も、やや離れたところで警戒の為に銃口を向けていた一機も、揃って文字通りに“停止”した。
無論それは、衛司も例外では無い。首から下が失くなってしまったかの様だ。明らかに常識外の事象、茫洋としていた意識が、露骨なまでの異変によって急激に鮮明さを取り戻していく。
そして――それすら、これから起こる事の発端に過ぎず。
周囲の光景が急激に色を失っていく。世界そのものが塗り替えられていくこれは、『結界魔法』なる技法が行使された事の証。
やがて静かに、しかし確実に、硬質な音が響き始める。少しずつ音量を増していくそれが足音、しかも複数――恐らくは三人程度――であると、誰もが説明の要無く理解していた。
幸運だったのは、挙動を封じられた衛司の視線が向く方向から、その足音が聞こえてくるという事。衛司に集中していた三機のV-1は振り向く事すら出来ぬまま、何が起こっているのかを把握する事すら出来ぬまま、最後を迎える事になる。
「……あれ、は」
現れたのは三人の男女。男が二人に、女が一人。
一人は身の丈二メートルを超える巨漢だった。ボディビルダーも顔負けの筋肉で固められた体躯と、化粧品をべたべたと塗りたくった顔面が、思わず目を背けたくなる程のおぞましさを生み出している。
一人は金髪碧眼の女性。年の頃は二十代半ばから後半というところだろうか、シグナムやフェイトにすら匹敵する(或いは凌駕する)グラビアアイドル顔負けのスタイルが着衣の上からでも見て取れる。
一人は先の巨漢ほどでは無いものの、これも長身の男。ただしそのシルエットは酷く細長く、ひょろりと長い手足は一見しただけでバランスの悪さが判る。青白い顔色と相俟って、幽鬼の様な印象を与える男だった。
不可解なのは三人が三人ともに、奇妙奇天烈な格好をしている事だ。フリルやリボンでごてごてと飾られ、その癖ゴスロリの類と違って活動的なデザイン。まるで女児向けアニメ――『魔女っ娘』や『魔法少女』と言われる類の――に出てくるヒロインの様な服装なのだが、それを纏っているのが巨漢と妙齢の女と痩躯の男性であるのだから、もう何かの悪ふざけとしか思えない。
と言うか、悪ふざけ以外の選択肢があってほしくない。
「そぉ――れ♪」
巨漢がくねっと腰を蠢かせて言い放つと、彼の掌から音を立てて光の紐が伸び、身動きの取れないV-1達の首へと絡みつく。そして次瞬、一気に光紐が引っ張られた事で、彼等は宙を舞いながら三人の闖入者へと引き寄せられた。
一機は巨漢のところへ。落下してくるV-1の胸板へ裏拳を叩き込み、弾き飛ばす。胸部装甲を粉砕され、恐らくは胸骨、肺臓、背骨までも諸共に粉砕されて、彼は直線上の壁へと叩きつけられた。
一機は金髪の女のところへ。落下してくるV-1へ向けて彼女はぼそりと「
ねじれろ」と言い放った。瞬間、彼は中空で突如として身体を捻り始め、両肘両膝の関節を砕いて、全身で『卍』を描く様にして落着した。
そして一機は痩身長躯の男のところへ。他の二人と違い、彼は落下してくるV-1へさしたるアクションを起こさなかった。強いて言うなら、すれ違い様に軽く装甲の表面を撫でただけ。ただそれだけなのに、床に落着したV-1はびくんびくんと激しく痙攣、声にならない悲鳴を上げて悶絶する。
どれもこれも、およそまともな事象では無い――条理常識の範疇では起こり得ない現象だ。
「あ――あんた達、は――!」
挙動を封じられていても、喋る事までは封じられてはいなかったらしい。
思わず漏れた衛司の言葉を、彼等は耳聡く聞きつけて。「ふふん」と不敵な笑みを向けて、衛司へと向き直る。
「筋肉に咲く一輪の花! キュアマッスル!」
「中華風に揺れる一輪の花! キュアチャイナ!」
「お、お、おクスリ浴びる一輪の花なななな、キュアジャンキー……!」「我等! ハートクラッシュ・プリキュアっ!!」
「…………………………………………………………………………………………」
誰だよ。
◆ ◆
後書き:
次回から異形の花々は仮面ライダークロスからプリキュアクロスになります。ご了承ください。
まあ冗談はさておき、第十六話でした。お付き合いありがとうございました。
ちょっと切りが悪い感もあるんですが、今回のエピソードはここでお終いです。主人公が六課を離反するまで、という事で。
原作キャラに失望して(または裏切られて)敵に回る、って方が盛り上がるかなとは思ったんですけど、自分がそれやっても単なるアンチかヘイトにしかならないので、自分から外に出て行く感じで。
まあ作中でも言っている通り矛盾というか、恩義に後ろ足で砂かけるような真似って気もするんですけど。
やっとなのは&ヴィータVS伽爛が書けました。書きたい事を後回しにするとストレスが溜まるというか、早く書きたくていらいらするんですよね。けど先書いちゃうとそこで満足して続き書く気が無くなっちゃって。
内容的には悪ノリ以外の何物でも無いんですが。なのはやヴィータが好きな人に喧嘩売ってる感じだし。触手とかなるべくえろい感じがしないようにしてみたんですけど、これ大丈夫なんだろうか。
ライダーもろくすっぽ出てないのにV-1登場。最初はG3MILDにしよーかなとか考えてたんですが、G3も出てないのにMILDだけぽんと出すのも違和感あるし、何より小沢さんとの関連が全然思いつかなかったので却下。
あとV-1ならちょい可哀想な扱いでも良心が痛まないかなと。ライダーの登場を溜めてる分、少ない見せ場でも格好良くというのが基本方針なので。
レッツゴー仮面ライダー見てきました。公開初日に。
一号と二号が格好良くて嬉しかったです。加えてこう、全体的に重めな雰囲気なのも好み。
久しぶりに翔太郎とフィリップが見れたのも良かった。ファンサービスって面じゃかなり高得点。
けどキカイダーとかズバットとかは正直要らなかったような。せめてV3とズバットの絡みとかやってほしかった。
……しかしディケイド映画の時にも思ったんですけど、仮面ライダーってやっぱり、十人も二十人も徒党を組んでぞろぞろ戦うもんじゃないですね。どうにも違和感が拭えません。
といったところで、今回はこの辺で。よろしければ、またお付き合いください。