Tetsunari Iida
飯田 哲也
1959年、山口県生まれ。京都大学原子核工学専攻修了。東京大学先端科学技術研究センター博士課程単位取得満期退学。大手鉄鋼メーカ、電力関連研究機関で原子力R&Dに従事した後に退職。現在、環境エネルギー政策研究所所長。複数の環境NGOも主宰する。
飯田 哲也さん(環境エネルギー政策研究所所長)
3月11日に発生した東日本大震災を機に、福島第一原子力発電所の破壊と放射性物質の大量放出が発生した。
当初、東京電力は「事故原因は未曽有の大津波だ」と想定外であることを強調していたが、津波の危険性は国会でも過去議論された想定内の事態であった。また炉心溶融を起こす原因となった電源喪失は、津波の及ばない地域に立てられた受電鉄塔の倒壊にあることを原子力安全・保安院が認めた。
環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は、これまで政府にエネルギー政策について提言してきた。こうした経緯から福島第一原発の引き起こした事態を「人災」と指摘し、厳しく批判している。
飯田さんにこれまでの原子力産業のあり方の問題と世界のエネルギー事業、今後の日本の行く末について尋ねた。
今回の問題を見るにつけ、恐らく太平洋戦争時の軍部の振る舞い、また社会の雰囲気とはこういうものだったろうなと思わされました。
つまり「この戦略は国策だ」と決まったらそれを疑わないし、疑うことは非国民である。したがって安全性を疑ってはならない。この構図はそのまま東電ならびに原子力行政にあてはまると思います。
だから、ガバナンスの合理性や技術的な妥当性といった、きめ細かいレベルの議論ですら封じ込めてきました。
電力会社は電気を専有しているため、お金はたくさん入ってきます。その資金を使って、「原子力は安全だ」という既定の秩序を乱す意見が高まらないよう、教育やメディアを通じて抑えてきました。
しかしながら安全性を謳ってはいましたが、実はそこに根拠はなく空洞だったといえます。その上でこれまでにも深刻な事故がいくつかありましたが、破滅的な事態にはならなかったので、さらにある種の慢心が原子力行政に携わる人のあいだに蔓延していたと思います。
恐らくその通りだと思います。先ほど太平洋戦争時の日本の軍部について触れましたが、戦後になって個別の戦略において「なぜあれほどの失策を繰り返したか」についていろいろ研究されました。そのひとつの結論は、日本型の組織の特徴が如実に現れた結果の失敗だったということです。
偉い人のメンツを潰さないように配慮、忖度することで組織が運営されているのです。企業もそうかもしれませんが、特徴的なのは日本の政治です。政治家や官僚はおおむね論理や合理、哲学に基づいた判断を行わず、まずは偉い人のメンツを潰さないことを優先した上で、合意を形成しようとします。
だから歴史的な経緯によって培われた知見を踏まえた上での政治判断がかえりみられない。
たしかに政治には、割り切れないものを割り切らないといけない局面が出てくるでしょう。しかし、日本の政治では、割り切りが非論理的に行われ、規範を貫くための決断にはなっていません。だから絶えず誤った判断をし続け、失策から転換することできない。そういうことが東京電力や原子力産業に携わる人たちで形成する「原子力ムラ」に極端な形で現れたのです。
日本型の組織の特徴をさらに言えば、見かけ上のリーダーと中身を伴った本物のリーダーとが乖離しているところです。
見かけ上のリーダーには、組織全体の秩序を保つこと、つまり空気を読むことに長けた人が就きます。下から上がってきた意見や組織内の利害をうまく調整することが得意です。
しかも表立っての調整ではなく、裏で別の人が調整したものをあたかも自ら決定したように演じる。演じることが上手な人が上に立つわけです。
いわば歌舞伎のようなセレモニーの中で、リーダーとしての実力のない人がリーダーになる。これは東京電力の社長や原子力安全・保安院の責任者の会見によって明らかになりました。
典型的なのは3月14日に行われた原子力安全委員会です。その日、水素爆発が2回も起きたにもかかわらず、何の議論も行われず、会議はたった5分で終わりました。
緊急事態になれば、リーダーは自分のもつ権限を発揮しないといけませんが、ルーティンワークにしか対応できず、本当の実力がないから、地位と権限に大きなズレができてしまうのです。
文部科学省の管轄するSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)というものがあります。これは緊急事態にあたって、気象観測情報や放射性物質の放出量等の情報を加味することで、6時間先までの外部被曝線量や甲状腺等価線量などをシミュレーションすることができるシステムです。原発の事故後、この情報が全く開示されていませんでした。
3月23日になって、海外メディアがSPEEDIによる情報を入手したことで、自民党の河野太郎議員が官邸に公表を迫ったものの、首相補佐官は「原子力安全委員会が公表するとまずいと言っている」と述べ、安全委員会は「官邸から発表するなと言われている」と互いにいう始末でした。
ペーパー一枚公表するのに、その責任が原子力安全委員会にあるのか首相にあるのか曖昧なままだったのです。
結局のところ「このあたりで出すしかないのではないか」という判断のもとに公表された印象があります。つまり阿吽の呼吸です。
ルーティンワークしか演じられないことによる、知と責任の空洞が権力の内側にあるのだと思います。
おそらく権力の内側にいる人は、自分たちが「権力を握っている」という自覚がないのです。当事者意識がないから責任感もない。
かつての日本の軍隊がそうでしたが、権力の中枢にいる上層部は責任感の欠落したゆるい意識をもっていました。上官が曖昧なことしか言わないので、部下は上官の意を忖度して、曖昧な言質のうちのいちばん厳しい基準に従って独自の判断を行います。
すると、さらにその下への指示は曖昧な幅の厳しいところに従っていくことを繰り返し、最後の兵卒の段階では、さらにきつい指示となって現れ、リンチが横行するまでにエスカレートする。
こういった権力構造が政治家や官僚、原子力ムラの関係者に存在し、中心が曖昧空洞なまま当事者が責任をもってきちんと組織をコントロールしない。それが文化となっています。
まず高校生のみなさんに言いたいのは、「事実をきちんと知る」ことの重要さです。肩書きや権威といった見せかけで判断せず、自分が疑問だと思えばとことん追求する姿勢をもって欲しい。できることなら英語の情報にあたってみてください。すると明らかに国内での報道とのズレが認識できます。
情報とは、常に「誰かが何かの意図」で発信しています。「政策に反対するのは国民としておかしい」という考えは、「国家は絶えず国民のことを考え、責任をもって情報を流している」というフィクションに基づいていますが、そういう幻想を抱いても仕方ないので、事実を追求することが重要です。
事実をよく見た上でエネルギー問題を考えてみます。現在は電力の30%が原子力に依存していると言われていますが、日本の原子力発電所は相当老朽化しています。
したがって段階的に縮小していかざるを得ず、10年後には10%くらいの割合に落ちます。これは避けようのない事実で、もはや「原子力は是か非か」の二択ではなく、減って行く未来しか残されていません。その事実を前提に考えていかざるを得ないのです。
とんでもない認識の誤りです。たしかに途上国においてはエネルギーと豊かさは比例しますが、日本のような先進国になるとエネルギーを減らしていったほうが豊かになります。
たとえばLED照明です。裸電球は石油を100つかって電気になる割合は4しかない。LED照明であれば石油を10つかって4が電気になるので、石油を90%近く節約できます。
あるいは北欧では暖房をまったく使わない断熱性に優れた住宅の建設が盛んになっています。外気温がマイナス40度でも家の中は20度に保たれ、快適に過ごすことができます。
日本の住居構造では、灯油ストーブをがんがん焚いてもうまく断熱できていないからさらに室内で着込むような状態ですが、これはエネルギーを使っても貧しいといえる状態です。
エネルギーを使えなくなったら貧しくなるかというとそうではありません。使わないことでより質の高い暮らしに転換できる可能性が充分にあります。
エネルギーに関しての原理原則は、「いちばん大切な問題」から考えていくことです。したがって施策の基準は、「いますぐ実行できるか・できない」とか「原発を止めても問題の解決にならない」などにはありません。
原理原則に従えば、地球は有限であることからまず発想しなくてはいけません。70億人近くに膨れあがった人類がこれからも暮らしていける社会を構想する。つまり持続可能な社会を築くためのエネルギーと環境を考えれば、どういう視点に立たねばならないかが問われます。これがセオリーです。
持続可能な社会は、再生可能なエネルギー資源を再生可能な範囲で使うことで形成されますから、いちばん良いのは太陽エネルギーを利用することでしょう。
太陽エネルギーに依存するには、エネルギー源として乏しいと思うかもしれませんが、いま私たちが使っている石油や石炭、天然ガス、原子力などの涸渇性エネルギーの総量の1万倍が地上にさんさんと降り注いでいるのです。単純計算では、日本の土地面積の5%を太陽光に利用すれば日本全国のエネルギーをまかなえます。
ヨーロッパでの過去10年間の電力の移行を見ると、天然ガス、風力、太陽光の順にシフトが進み、原子力や石炭、石油は減少しています。
現実の世界を見れば明らかですが、海外では「第4の革命」と呼ばれるほど、太陽光をはじめ自然エネルギー市場が爆発的に広がっています。
実際、昨年の実績を見ると太陽光発電は4300万キロワット、風力発電は去年2億キロワット、バイオマスが1億4000万と合計で3億8300万キロワットを計上し、世界全体の原子力発電の3億8000万を超えました。
自然エネルギー事業は、クリーンで安全だけでなく、経済成長の要として注目されており、10年前は1兆円にも満たなかった市場規模がいまや24兆円。10年後には200兆円。20年後には500兆円から1000兆円と見込まれています。世界のGDPの1/5から1/10を占める巨大産業が出現しようとしています。
日本は国策として原子力エネルギーを追求していたので、自然エネルギーの産業化についてあえて考えず、海外の状況を正確に見てこなかったので、日本だけが取り残されている状況です。
自然エネルギー事業は、地域の特性を活かしたビジネスとなるので、いまのエネルギー産業構造のもつ一極集中型から小規模分散型に変わります。そして、コンピュータや携帯、液晶テレビが普及するほどコストの低下が起きたように、同様の事態が自然エネルギー事業でも起きます。
コストも安くなって性能もあがると、地域あるいは個人が自立的、自発的にエネルギーを生み出して行く分散型になるので、必然的に地域における雇用を創出します。現にヨーロッパではそうなっています。
現在、秋田県では風車を1000本つくる構想があります。秋田県40万世帯で見ると、1世帯あたり年間25万円の光熱費を払っています。合計1000億円の支出になりますが、このお金は秋田県外に流れ、さらには日本から外へ流れています。なぜかというと日本はGDPの5%にあたる23兆円分の化石燃料を海外から毎年買っているからです。
ちなみに秋田県はあきたこまちの売上が1000億円程度です。あきたこまちで稼いだお金は灯油ストーブなどの代金として外へ流れています。ところが風車1000本つくると、売上が1000億円になる見込みです。あきたこまちの売上を倍にするのは難しいですが、風車を倍にするのはそう難しくない。そうなれば過疎地であっても事業と雇用を生むことができます。
地域エネルギーから生まれた利益が地域に循環する。豊かさも地域に分散していく。鳴門の渦で潮力発電するとか、地域の特色を考えれば、事業化は日本中で考えられます。
新しいビジネスを起こす人は、常にマイノリティです。比べて従来のビジネスはその築いた力で政治や経済、メディアに力を及ぼしているので、新しいセクターはなかなかメジャーになりにくい。
しかしながら自然エネルギー事業は、たんにベンチャーが成功するかどうかの問題ではありません。
まさに「日本はどの方向に進むべきか」が問われる国策の問題です。政府もビジネス界隈の人も、「世界はどうなっているか」について、もっと敏感に感じないといけないところだと思います。
[文責・尹雄大 撮影・渡邉孝徳]
Tetsunari Iida
飯田 哲也
環境エネルギー政策研究所所長。1959年、山口県生まれ。京都大学原子核工学専攻修了。東京大学先端科学技術研究センター博士課程単位取得満期退学。大手鉄鋼メーカ、電力関連研究機関で原子力R&Dに従事した後に退職。現在、非営利の研究機関の代表を務めつつ、複数の環境NGOを主宰し、科学者でもあるというトリプルコースを歩んでいる。著書に『北欧のエネルギーデモクラシー』や『グリーン・ニューディールー環境投資は世界経済を救えるか』『日本版グリーン革命で経済・雇用を立て直す』など多数。
<環境エネルギー政策研究所>
http://www.isep.or.jp/
【飯田 哲也さんの本】
『北欧のエネルギーデモクラシー』
(新評論社)
『グリーン・ニューディールー環境投資は世界経済を救えるか』
(日本放送出版協会)
『日本版グリーン革命で経済・雇用を立て直す』
(洋泉社)