2011年08月23日

日本人と「責任」

先日、日本人観光客がナイアガラの滝に転落してしまうといういたましい事故がありました。犠牲となった女性は、いい写真を撮ろうと手すりをまたいで川に落ちてしまったのですが、こういう事故があると、必ず出てくるお決まりの反応があります。

「自己責任だ。警告があるのにそれを無視して危険なことをするようなバカには同情の余地はない」というやつです。

一方で、やはり先日おきた天竜川の川下り船転覆事故のようなことがあると、今度はこんな主張が声高に叫ばれます。「安全に対する意識が低すぎる。ライフジャケットの着用を義務づけるべきだ」

こういう傾向は、とくに日本において強いと感じます。ぼくは日本人論は嫌いですが、こうした反応は決してユニバーサルなものではありません。たとえばナイアガラの滝の一件においては、彼の地で自己責任論を唱えて犠牲者を批判する声はほとんどありませんし、また事件を伝えたカナダのテレビニュースには、2分程度の短いリポートの中に、日本では考えにくい描写が2ヶ所もでてきます。Teen Girl Falls Over Niagara Falls

事故の取材途中に、たまたま手すりに登っていた若い女性がインタビューされるのですが、彼女はちょっときまり悪そうに、しかし結構あっけらかんとこう答えるのです。「危険だとは思うけど、ちょっと写真撮るだけだし、そんなシリアスなことじゃない」

これは日本ではまずありえません。そもそもこういう状況でインタビューしようとしても逃げられてしまいますし、もしこんな風に答えようものなら、VTRを受けたニュースキャスターは「安全意識が低くなっているのかなと思いますね」などと揶揄す定番コメントをするに違いありませんし、そしてそれを受けたウェブでは「なんというバカ女!」と非難轟々になることは目に見えています。しかしあちらではそういうことはありません。普通にスルーです。

また管轄の警察署長がインタビューに答えて「年間1100万人ほど訪れますが、事故はほとんどなく(安全対策に)問題はありません。危険区域に出ればこうなるのも仕方ありません」と述べるのも日本ではありえません。もし日本で管理者側がこんな風に答えようものなら、「なんという責任逃れ!」と全方位からバッシングを受けかねないからです。

こうしたことからわかるのは、日本は「責任」ということをきわめて重視する社会だということです。自己責任なら同情に値しないと考え、管理者が責任を引き受けないような態度をとれば叩くのは、そういうことです。日本は責任至上主義社会なのです。

しかし一方で日本社会は、あらゆる組織において責任の所在がはっきりしないという特質を持ちます。上司は責任を負おうとせず、部下は部下でお互いの責任範囲を越境してケロリとしています。

そう思ってウェブで調べたら、原発事故絡みで中国人の大学教授がこんなコメントをしていました。

記者:原発事故の責任を負っている産学官はいずれも有名校出身のエリートたちで、本来なら迅速かつ正確な対応を行い、損失を最低限に抑えなければならないところですが、現実にはそうではありませんでした。こうした現象はどのように説明できますか?

劉江永教授:「日本人は責任を取るのを最も恐れる民族だ」といわれています。その中には最も責任感があるという意味と最も責任感がないという2つの意味があります。前者は、規定や制度に従い、自らに課せられた事は何が何でもやり遂げる点です。その例として、危険を顧みずに「最後まで責任を持って」作業を続けている福島の英雄50人があげられます。

後者は「責任恐怖症」とも言えます。突然襲いかかった地震・津波・原発事故に対応する制度がなく、責任を恐れて誰も政策の制定者になろうとはしませんでした。

日本人は「責任恐怖症」-中国網

中国人がどの口でというのはおいておいて、劉教授の説はある面正鵠を得ています。しかし、組織の中で責任の所在があやふやにされたり、政治家に決断力がないのは、責任を取るのを恐れているからではありません。責任の何たるかを理解していないからです。

少し考えればわかりますが、日本の組織や政治家は「責任フェチ」と言えるほどに責任という言葉を好んで多用します。「責任ある行動」「社会人としての責任」「仕事に責任を持て」等々。その使用頻度は欧米のどの国のレベルも凌駕するはずです。それほどまでに始終責任を連呼しながら、自分で責任を果たせないというのは欺瞞のレベルを超えています。彼らの連呼する責任と、組織や政治の世界に欠けている責任はぜんぜん違うと考えるべきなのです。

では彼らの唱える責任とは何を意味するのか?劉教授のあげた、日本人が決然として守る責任の例で考えるとわかりやすいのですが、それは責任というよりも義務と呼ぶべきものです。責任と義務は混同されやすい概念で、実際のところ責任という言葉は義務の意を含んでもいます。これは日本だけでなく欧米でもそうで、responsibility と duty の違いを即座に明確に説明できる人はあまりいません。しかしながら日本人は、この義務としての責任に、病的に神経質なのです。

責任における義務の側面をあまりに意識しすぎると、ウェブで見つけた次のような言葉を口にするようになります。

義務と責任は違います。本人は「自分は責任感を持って仕事をしている」と言っていても、よく聞いてみると、与えられた仕事の「義務」をきちんと果たしているだけという場合がよくあります。それが「責任」だと思っているようです。「義務」はやらなければいけないことです。それは「責任」とは言いません。「責任」とはもっと広く深く、「義務」とはそのある一部分にしかすぎません。企業で考えるなら、責任を持って仕事をするということは、部門の壁を越えるのが当然のことです。義務を外れた範囲は自分には関係ない、そんなところで責任を問われても困る、というのでは責任のない単なる義務遂行者、単なる作業者にしかすぎません。義務の範囲で終わる人は、本人がどう自らを正当化しようとも、責任を持ちたくない人です。これでは指令をされたことだけをやるロボットのようなものだと思います。

平均的な日本人は、こういう教えを一度や二度ならず両手で数えきれないほど聞かされていると思います。しかしこの論を理解する欧米人はほとんどいないはずです。このような説は、世界的に見てきわめて特異なものだからです。簡単に言えばこの考えは、本来なら権利とギブ&テイクの関係にある義務をその制約から解き放ち、義務のみをどこまでも拡大したスーパーロボット育成のための方便にすぎないからです。

そしてこのような姿勢が、責任という概念の持つもうひとつの大きな側面の邪魔をし、日本的組織における無責任状態をはびこらせる要因となっているのです。

責任という概念の持つもうひとつの意味とは、言うまでもなく「自由」です。

自由を尊ぶアメリカの保守派は、規制をかけようとする政府に対してよくこんな主張をします。「personal responsibility を尊重しろ!」。日本で自己責任というと、英語における「at your own risk」に「掟破り」のニュアンスを加えたような、何やら重い荷物を背負わされたあげく、躓くと非難されて当然というような響きがありますが、アメリカ人はあくまでポジティブに、個人の自由という意味合いで口にするわけです。よく「自由には責任が伴う」と言われたりしますが、日本以外における責任というのは、第一義として自由な立場において決断、行動することを指し、自由のないところに責任は生まれないのです。

企業で考えるなら、最も大きな自由=責任を有するのはCEOで、位が下に行くほどに自由は縮小され、同時に責任も小さくなります。欧米の組織はたいていこのモデルに従っているので、責任の所在は明確であり、また自由を有する立場の人間は、その責任範囲において決断することを要求されます。

しかし、自由の付随物としての責任を理解せず、一方で義務としての責任をやたらと誇大視する日本的組織では、自分のコントロール下にない、自分に決定権のない部門にまで責任を持つことが奨励され、実際にそうしたことが得々として日常的に行われています。これでは責任の所在があやふやになるのは当然ですし、本来なら自分の責任において決断すべき立場の人間も、部外者にあれこれ口を出されて責任を剥奪されてしまいます。

義務としての責任を重視して、与えられた使命を全うしようとするのは立派なことだと思います。しかし、日本的組織における責任者の不在や、自己責任で躓いた人を何かの義務違反を犯した人であるかのように白眼視する態度も、同じコインの裏側なのです。日本人は、大好きな責任という言葉を口にする前に少し立ち止まり、自由のないところに責任もないということを考えてみるべきではないかと思う次第です。

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この記事へのコメント
メディアはその国の社会を設計し、運用し、利益を得ている側の啓蒙ツールです。

日本人に個人の自由を抑制する「自己責任」という概念で洗脳したいのは日本社会主義の欲していることです。組織の管理をしている人を「管理責任」で責めるのも日本の上位支配層が中間層を戒めるために浸透させている概念なのではないでしょうか。

戦後80年代後半のバブルまで日本のTVは日本人を地方から都市に集め利権者の利益を稼ぎ出す労働力として機能させるために内容は品がいいものや海外旅行をテーマにしたり内容が面白いものでした。

しかし近年TVは人々の行動の自由や自組織運営の自由を「責任」で抑制するよう啓蒙するのも一つですが、芸人ばかり出演させたりレベルの低い番組を流し、都市に集約した大衆を愚民かさせるように機能しているように思えます。

大衆の愚民化の先進国のイギリスは中身がスカスカになってきた層がギャングの扇動で暴動に便乗する程に荒みました。社会の在り方を支配者層はこれを契機に議論し自由無き社会を進めるでしょう。中世のような大衆と雲の上の貴族の世界が形を変えて再現されつつあります。
日本も意図的に日本人を怒らせようとする仕掛けがどんどん増えています。

大衆の愚民化の背景には支配する側が経済の成長という名の搾取メカニズムを加速して運用している時期に約束していた老後の社会保障の履行が少子高齢化と国際競争のハイレベル化で困難になっているのが原因として大きなものの一つと思っています。利用価値の無い存在は切り捨てたいのは支配する側なら抱えやすい心理では無いでしょうか。放射能も拡散する訳です。米ではもっと色々ありますが例としてチョークのようなトウモロコシが主食牛肉の飼料となり人体に蓄積されたりしています。ニンゲンのライフサイクルも設計されコントロールされるようになりました。

インターネットから得られる知識や見識からもやもやしてものがすっきりする事もあるのですが、変えがたい流れ(支配する側からすればそうするしかないかな、と思う事もあり)を目の当たりにしているとやはり思ったことをとりあえず書き留めたり共有するのが我々にできることなのかもしれませんね。
Posted by 風 at 2011年08月23日 12:25
その結果、欧米の営利組織においてはCEOは日本では考えられないほどの高額給与をもらい(日本のCEOの給与は驚くほど低いです)、義務しか持っていない単純労働者はかなりの低賃金で働く。という格差が大きく生まれています。おっしゃるとおり個人の負う責任の範囲が大きいからですね。
どちらも一長一短かと思います、双方の良し悪しを理解するのは大切ですね。
Posted by last400 at 2011年08月24日 10:45
初めてコメントします。

以前より貴ブログ読ませてもらっていましたが、ふと思い立ち2週間ほど掛けて過去ログを読み返して見ました。
PC版より携帯版の方がより古い日付にさかのぼれるようです。

時事問題を扱うサイトの過去ログは、当時の雰囲気を知るよいツールになります。
特に2005年郵政選挙前後の空気は自由主義の盛り上がりを感じさせるものがありましたが、6年後の今はすっかりその空気も薄れ、官僚主義規制社会の再興を感じます。政治の力はやはり大きいのですね。

今は揺り戻しの時期なのでしょうか?現状に嫌気を差し、再び自由主義への流れに向かうのでしょうか?それとも人々は自由/責任よりも隷属/無責任を求めるのでしょうか?

我々の未来はどちらにあるのでしょう。
Posted by code at 2011年08月24日 14:06
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