2011年6月26日 21時42分 更新:6月26日 23時50分
東日本大震災による夏の電力不足への懸念が、先端研究に影を落としている。臓器や組織の作成を目指す再生医学や、大型加速器で宇宙誕生の謎に迫る素粒子物理学など、ノーベル賞級の成果が期待される分野の研究には電力が不可欠だ。7月1日には使用制限や節電要請が始まる。関係者には「先端研究への投資が無駄になる恐れがある」との不安が広がる。【永山悦子、安味伸一、野田武】
茨城県内の農場の一角にある、実験動物専用の豚舎。約50頭の豚が飼育され、大人の豚の多くは妊娠中だ。生まれた豚には遺伝子組み換えなどが施され、難病治療や再生医療の実験に使われる。
「この豚が産む子は膵臓(すいぞう)を持っていません。ヒトのiPS細胞(人工多能性幹細胞)を使って将来、豚の体内でヒトの膵臓を作り出す研究に欠かせない」。長嶋比呂志・明治大教授(発生工学)が約3年半の研究の末、妊娠に成功した豚の出産は9月の予定だ。
これらの豚は、厳重に管理された環境で飼育される。窓を閉めて室温を20度前後に保ち、飲み水も機械で自動的に補給する。東日本大震災で停電・断水に見舞われた際には、飼育室をガスヒーターで暖め、水は井戸からくみ上げて運んだ。
豚は暑さに弱い。気温が30度を超えるとエサを食べなくなり、出産しにくくなったり授乳をやめる。飼育環境の変化は実験データの信頼性にもかかわる。
長嶋教授は「生き物相手だけに節電は難しい。猛暑の日中に突然停電すれば、死ぬ恐れもある。この分野の研究には、国から多くの資金が投入されており、電力不足で実験が止まることは避けたい」と話す。電力不足に備えて発注した自家発電機が届くのは10月以降という。
東京電力管内では、政府が7月1日~9月22日の平日、大口需要者に最大消費電力を昨夏のピーク比で一律15%削減するよう求め、上限を超えた場合は罰金を科す。一般事業者や家庭にも節電を要請する。人命や流通に直結する事業者には制限緩和などの措置があるが、一般の研究機関は原則対象外。経済産業省関東経済産業局によると、個別の事情による制限緩和も「ハードルはかなり高い」という。
茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構(KEK)は、素粒子を光速近くまで加速して衝突させる加速器実験の世界的な拠点だ。ノーベル物理学賞受賞(08年)に貢献した円形加速器「Bファクトリー」(昨年夏から大規模改修中)や、探査機「はやぶさ」が持ち帰った小惑星イトカワの微粒子分析に使われた「フォトンファクトリー」などがあり、膨大な電力を使う。昨年度の使用電力は一般家庭約9万戸分、電気代は31億円に上った。
震災後、東電と交わした11年度の契約電力は、前年度比約10%減の2万4360キロワット。さらに「15%削減」を受け、昨夏のピークより15%少ない「2万キロワット」を上限と定めた。
節電には加速器実験を縮小するしかないが、KEKで働く国内外の研究者約3000人の業績に響く。このため、同様の加速器を持つ米国、フランス、中国などの17研究機関で実験が続けられるようにした。「大電力を使ってきた研究機関として、被災地を含めた全国的な抑制に協力しなければ」と神谷幸秀理事。電力使用が1・8万キロワットを超えそうになると「警報」を全館放送で流す。自身は夜も研究室の照明を消し、パソコン画面の明かりだけで作業している。
加速器同様、大量の電気を使うスーパーコンピューターも、東日本の研究者が西日本にあるスパコンの利用権を取得する動きが出始めている。
物理学者の有馬朗人・元文相は「研究はエネルギーを浪費しているように見えるが、何年か後に出てくる成果がある。それに投資しておかないと将来に響く。節電を求められることはやむを得ないが加速器研究など電気がなければ一歩も前に進まない分野には電力を融通する判断も必要では」という。
先端研究に必要な電力に関するデータがないことから、東京財団の※島(ぬでしま、※は木へんに勝)次郎研究員(科学政策論)は、医学分野の研究機関がどれほどの電力を使っているか調査を始めた。「社会的な営みと比べ、先端研究にどれだけの電力が必要かデータで示し、どの程度の節電努力を研究者に求めるべきかを議論すべきだ。客観的な根拠なしに、一律に研究にも節電目標を課すのは不当。逆に『研究は大事』というだけで反対するのも説得力がない」と話す。