リビングの片隅に、細い注射器と透明な液体が入った小瓶がある。傍らのポリ袋には使用済みの注射器が詰め込まれ、パンパンに膨らんでいる。
東京都港区のフリーライターの女性(36)は1日2回、自分でおなかに注射を打つ。注射痕のしこりが増え、針を刺す場所を探すのが難しくなってきた。痛みも引かないが、「妊娠が維持できているのはこの薬のおかげ」と信じる。
注射薬は血栓を防ぐ「へパリン」。子宮や胎盤の血流が悪いと、胎児への栄養が滞って流産のリスクが高まるとされ、女性は朝晩の注射を欠かさない。
30歳から不妊治療を受け、08年と昨夏に妊娠したが、いずれも8週で流産した。担当医には「2回の流産は珍しくない」と言われたが、不育症専門クリニックを受診すると、血液が固まりやすいことが分かった。3度目の妊娠が分かった直後で、すぐに、へパリンを処方された。
重いつわりで食事がとれず、起き上がれない日でも、注射は続けた。血栓予防に効果があるアスピリンも併用し、現在は妊娠6カ月。出産予定の病院と不育症クリニックに交互に通う。
診察台に上がる時は、今もドキドキする。「順調です」と言われると、妊婦の仲間入りができたことに、不思議な気持ちになる。
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不育症の一因として、血液が固まりやすい血栓症が注目され始めたのは約10年前。血液中の「抗リン脂質抗体」が代表的な原因で、心筋梗塞(こうそく)や脳梗塞のリスクを高めるだけでなく、流産を招きやすいことが分かってきた。
不育症専門の杉ウイメンズクリニック(横浜市)の杉俊隆院長は「胎児に栄養素や酸素を与える胎盤は、血流が遅いため血栓ができやすい。注射を怖がる人もいるが、薬の治療成績は良い」と語る。
血液を固まりにくくする「へパリン」だが、軽い肝機能異常や骨がもろくなるなどの副作用の可能性もあり、定期的に医師の診察を受けながら注射する。
神奈川県伊勢原市の女性(37)も「注射痕であざだらけ」という。長女(4)を出産した後、09年から4回流産を繰り返した。2人目をなかなか授からない「続発性不育症」だった。
専門医の検査で、血液凝固に関わるたんぱく質「第12因子」の欠乏など3項目で正常値を外れていた。長女が出生時に体重2500グラム弱と小さめだったのも、「血流が悪かったためだろう」と医師に言われた。
「流産で亡くなった子たちと一緒に逝きたいと何度も泣いたが、娘の存在が私を助けてくれた」。今年5月に妊娠が分かり、朝晩のへパリン注射を始めた。妊娠5カ月に入り、医師から「もう打たなくても大丈夫」と告げられたが、「またうまくいかなかったら」と不安で注射をやめられない。
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「医師によって考えは違う。結局、治療方法を選ぶのは患者自身だった」と、宇都宮市の派遣社員(34)は振り返る。
不育症の検査で、血液を固める血小板が多めと分かり、へパリンとアスピリンによる治療を決めた。だが薬は分娩(ぶんべん)時などに出血量が増える恐れがあるとして、これまで通っていた不妊治療クリニックでは、ヘパリンなどを使う患者を受け入れない方針だった。派遣社員は別の病院の処方で薬を使いながら、クリニックには黙っていた。
26歳で結婚後、5回流産を繰り返し、6回目の妊娠もトラブル続き。子宮口が開いてしまい、24週から出産まで入院を余儀なくされた。「ヘパリン、アスピリンに続いて早産予防の点滴も受け、薬ばかりで子どもに影響はないのか」。不安を抱えながらも今年3月、男児を出産した。子どもの笑顔を見るたび、「苦労が報われた」と感じるという。
ただ、血栓を防ぐ治療で必ず出産できるわけではない。2回流産した東京都江東区の女性(38)は大学病院の検査で、抗リン脂質抗体などが原因と説明され、アスピリンの服用を始めた。09年に3回目の妊娠が判明し、へパリンの注射も始めたが、まもなく流産した。
胎児には染色体異常が見つかり、投薬では流産を防げなかったとみられる。女性の夫(38)は「流産にはいろいろな要因があるのだと思うけれど、現状では血栓予防の治療に頼らざるを得ない」と複雑な思いを口にする。
あきらめかけていた今年、4回目の妊娠をし、朝晩のへパリン注射を再び続けている。「だいぶ慣れたが、注射は怖い」と女性。夫は毎回の注射後に「ありがとう」と言葉をかけ、妻をいたわっている。=次回は26日
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■ことば
流産と関連がある「抗リン脂質抗体」は、血液を凝固させて血栓をつくる作用がある。血流を悪くする他の要因として「第12因子」や「プロテインS」の欠乏なども指摘され、日本人に多いことが分かってきた。厚生労働省研究班のまとめでは、不育症を起こすリスク要因のうち血流に関わるものが少なくとも4分の1を占める。同研究班は「原因は人それぞれだが、検査や治療で85%の不育症患者が出産にたどりつける」としている。
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■不育症の検査(厚生労働省研究班が3月にまとめた治療指針による)
1次検査(不育症と十分な関連性がある項目)
▽子宮卵管造影検査や超音波検査(子宮の形を調べる)
▽内分泌検査(甲状腺機能、糖尿病の血糖値)
▽夫婦の染色体検査
▽抗リン脂質抗体の一部
選択的検査(不育症との関連性が示唆された項目)
▽抗リン脂質抗体の一部
▽血栓性素因(第12因子、プロテインS、プロテインCなど)
研究段階の検査
▽免疫学的検査
▽ストレス評価など
毎日新聞 2011年8月24日 東京朝刊