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心理セラピストに教わった「心の急所」を減らす技術 ― 心のシャドウとは何か?
どうして他人の言動に、心はかき乱されるのか?
「クヨクヨしてないで、頭を切り替えろ」
「個人的に受け止めるな。」
「スルーしろ、何をそんなにムキになっているんだ」
このブログをはじめて数ヶ月たったとき、ネガティブなコメントが増えはじめた。
しばらくは歯をギリギリくいしばって耐えていたが、それも次第にキツくなって、僕の心はボロボロになっていった(^^;) まわりの人に相談しても、冒頭のようなアドバイスをされるばかり。
「それができないから、困っているのに...」
心のなかでそう叫んだのを、今でも鮮明に覚えています。
本当に心をこめてやっていることなのに、ズダズダに心がやられてしまう。
仕事や恋愛、家族関係、あなたもそんな経験があるかもしれません。
セラピスト 兼 心理学者の師匠に相談
「川田くん、君が人の言動にそんなに傷つく理由はなんだと思う?」
セラピストをしていて僕の心理学の先生でもある師匠に相談すると、反対に質問を返された。早く答えを教えて欲しいと思ったが、傷ついていた僕は、一気に話した。
「インターネットは、みんながウップンを晴らすためのクソ溜りみたいな場所で、僕のブログが格好の標的だったんじゃないでしょうか?」僕はちょっとヤサぐれ気味に吐き捨てた。
「ハッハッハ」師匠は笑った。
「それが、傷つく原因だ。君は自分の"シャドウ"を通して、世界をみている。だから、心はいつまでも休まることを知らない」
...ってか、シャドウって何だ?
シャドウとは何か?
「シャドウとは、君が知らず知らずのうちに抑圧している"後ろめたい罪悪感"だ。
かの有名なスイスの心理学者ユングが発見したものだ。」
師匠は確信に満ちた表情でそういった。しかし、僕は意味がわからなくて「はい?」と聞きかえした。
「他人の言動に傷つくのは、君自身がそれについて罪悪感を持っているからなんだ。
では聞こう。たとえば、君はどんなことを言われると、ムカッときたり落ち込んだりする?」
僕は今までに言われたセリフを口に出していった。
「こいつのブログは間違っている、ペテン師、ウソ付き野郎、だれだお前は知らん、厨二病、何様のつもりで説教垂れてるんだ、そうじゃないだろ、宗教カブレ、矛盾だらけ、これはヒドイ、ネクラのネガティブ野郎、文章がヘタクソ、話がつまらない、素人臭い...。」
そういった後、僕の心は曇った。
裁判所で追い詰められているような気分になって、涙がこみ上げてきそうになった。やっぱりもう、ブログなんてやめようと思った。
師匠はこの言葉を静かにメモしていた。
メモが終わって顔をあげると、狼狽している僕を察してか、師匠は肩に優しく手をのせた。温かく大きい手だった。
「君は、自分がどうなりたいか理想をかかげてがんばっている。それはいいことだ。
しかし、シャドウと上手に付きあえていないから、苦しむんだ」
僕はゴクリを息をのんだ。
どうして、シャドウが出来てしまうのか?
師匠は僕に優しく、語りかけた。
「私たちは毎日、理想と現実のハザマを生きている。
"こんな風に見られたい!"と願う一方で、不完全でどうしようもない自分もいることだろう」
僕はコクリとうなずいた。
「たとえば、もっと成功して自信を持ちたい自分と、全然そうじゃない自分。
とっくに結婚して幸せな家庭を築いているべき私と、それには程遠いミジメな私。
仕事がデキて頼りにされている私と、ずさんでグータラで信頼されてない私。
思いやりと感謝で生きたいのに、すごくワガママで自分のことばっかりな私。
善人でありたいのに、心のなかで人のケチばかりつけている自分。」
自分のことを振りかえってみた。
白であることを目指して、自分の後ろめたい黒い部分を「見られたらヤバイ!」隠していた。本当の僕は、パンダみたいな白黒マーブル男で、さらに部分的にはグレーで薄汚れている所だってある。
「目標や、あこがれの姿があるというのは、良いことだ。
だけど、だんだんと"理想的じゃないダメな部分"を、自分の奥底にねじ込んでフタをして抑圧し、私は"完全に理想的な自分"であると正当化して生きてしまうと、シャドウが形成されてくる。」
ギクリときた。
僕はブログを書くときボロがでないように、完璧な男を演じようとしていた。セルフイメージを高めようとして、ダメな自分を力づくで押さえ込んだ。そうして書けば書くほど、自分じゃない気がしてきて、ここのところは、書くのがダルくなっていた。
シャドウは、「心の急所」
「シャドウは"心の急所"となる」
師匠はドキリとすることをいった。
「無意識に罪悪感を感じている部分を突かれると、人は理性を失って、キレる。ショックを受ける。そして人を憎んだり、自分を責めつづけたりする。」
まさに"図星"だった。僕がファビョった数々の事件をふりかえると、そこはすべて「痛いトコ」=シャドウだったと今、気がついた。
そういえば昔、悪気のない発言で人を怒らせてしまったこともあった。きっとその人の「地雷」=シャドウを踏んでしまったのだろう。
「もっと症状が進むと、自分自身で自分を処罰するようになるだろう。なんて自分はダメなんだ、生きてる価値がない、疲れたもうイヤだ、と。ウツになる人もいるかもしれない」
...うう、こんな状態からは早く抜け出したい。
「痛いぐらいによくわかります。どうやって"心の急所"は消せるんですか?」
師匠は違うんだ、というふうに首を左右に降った。
しかし、シャドウは「敵」ではない。
「"一病息災"という言葉を知っているだろうか?」
恥ずかしながら僕は知らなかった。
「持病がひとつくらいある方が、無病の人よりも健康に注意し、かえって長生きするという意味の言葉だ。シャドウにも、これが当てはまる」
「どういうことですか?」僕は首をかしげた。
「まずはシャドウは敵ではないと知るんだ。不完全な部分がない人間はいない。だれもが大なり小なりシャドウを持っている。ポイントは、それを受け入れているか、だ。
シャドウを受け入れられてない人は、人生を次の2つのモードで生きるだろう。すなわち、いつも激しく自己防衛でムキになる"闘争モード"、もしくは、いつも傷ついて引きこもっている"逃走モード"だ。残念ながらこういう人には、幸せが訪れることがない」
ゲゲ...、まさに自分だ。幸せは遠そう...。
「反対にシャドウを受け入れて、"私にはそういうダメな部分があります。それを認めます。事実です。目を背けずに受け入れます。神様、ごめんなさい。許してください。未熟である自分を大目にみてください。光をください。そうした上で、前向きに謙虚にがんばります"と、いい意味で開き直っている人は、もう傷つかない。そして、世界や人を疑心暗鬼でみなくなる」
僕は、昔ニュージーランドにホームステイをしていたときのことを思い出した。
お世話になった家族はキリスト教徒で、日曜日になると教会にいって、自分の罪を告白し懺悔(ざんげ)をした。僕もついていって形だけを真似して、懺悔・反省した。
懺悔をすると、罰が与えられるどころか、ウジウジと悩んでいた気持ちが、水に流されてスッキリした。日本人は自殺者が多いというが、神に懺悔をする習慣があれば、もっと罪悪感フリーな清々しい生活ができ、自殺者も減るだろう、と当時感じたのを思い出した。
シャドウを癒す2ステップ
「それではシャドウを癒そう。第一に、さっきいっていた"自分の傷ついたセリフ"をもう一度、自分にいってみなさい。私がメモしておいた」
そこには最悪な悪魔のセリフが書かれていた。
「こいつのブログは間違っている、ペテン師、ウソ付き野郎、だれだお前は知らん、厨二病、何様のつもりで説教垂れてるんだ、そうじゃないだろ、宗教カブレ、矛盾だらけ、これはヒドイ、ネクラのネガティブ野郎、文章がヘタクソ、話がつまらない、素人臭い...。」
読み上げるたびに、胃液がギューンと上がってきた。
...心が折れそうだ。もう家にかえりたい。
「そして第二に、開き直れるまで、次のようにいいなさい。"私にはそういうダメな部分があります。それを認めます。事実です。目を背けずに受け入れます。神様、ごめんなさい。許してください。未熟である自分を大目にみてください。光をください。そうした上で、前向きに謙虚にがんばります"」
こりゃあ教会みたいだ...と思いつつ、わらにもすがる思いで「神様...」と、私は祈りを続けた。
次第に心は、軽やかになっていった。
影に光をあてると、そこはもう影ではなくなる。
そうした部分を「許可」できるようになり、直視できるようになる。
他人のそういう部分も水に流せるようになる。
それから、ブログにネガティブなコメントが来ても、
「そうやねん、知ってんねん、ごめんな。次がんばるね」と思うようになれた。
ブログがもっと楽につづけられるようになった。
影が光をもたらしてくれた。
シャドウを、日常生活でカンタンに発見する方法
僕は、胸のつかえが取れたようにスッキリした。
「師匠、だいぶ楽になりました。ありがとうございます!」
荷物を取って立ち上がると、師匠が引き止めた。
「これで終わりではない。しばらくは安心だが、シャドウは日々、形成されていくものなのだ。」師匠はいった。
「マジですか?じゃあ定期的にシャドウを癒すことが必要ということですね?」
僕は荷物を降ろして、また席に座った。
「いいや。これからもっとカンタンになる。
実は"鏡"となって、君のシャドウをあらわに映しだしてくれるものがある。
それも日常生活のなかにね。」
「それって、何ですか?」
「鏡となるのは、君の"大キライ"な人物だ。
ユングは、シャドウが他人に投影される事象を発見した。
かんたんにいうと、キライな人のキライな部分は、実は自分のキライ部分であるということだ。」
認めたくないけど、シャドウは大キライなヤツに投影されている
「ええ!?」僕は半信半疑で、キライな人を一人、思い浮かべた。
昔、一緒に仕事をしていたワガママで自分勝手なTの野郎だ!
...するとたちまち、ムカムカ怒りが湧いてきた。
「いや!そんなことは絶対に、ありえません!」
俺があのクソヤロウと同じだって?ふざけるのもいいかげんにせい!
僕は食い下がったが、師匠はニコニコしているだけだった。
「本当にです。認めたくない、とかじゃなくて、本当にピンとこないんです」
まだ師匠は黙っている。
「アイツのようにだけでは、なりたくない。絶対に許せないヤツなんです!」
僕はそう、悲しみと怒りにまかせて話してハッ!とした。
「君が、許せない罪と感じ"そうじゃない"とムキになって闘争する部分、それがシャドウだ」師匠はしたり顔でいった。
「目を背けているものほど、目につきやすい。
実は、君の頭のなかはそれ一色で、心もそちらに向いている。
だって、本当に見なくてもいいものなら、気にすることもないはずだろう?」
師匠は一息ついた。
「キライな人がいたら、シャドウを俯瞰するんだ。まるで鳥のようにね。
同じレベルに立つと闘争(逃走)が起きるから、気をつけるんだ。
そうして静かに感じてみる。
自分の"いたいけな"シャドウを受け入れて許したとき、キライな人も許せるようになる。
世界を好きな人だらけにしたいのなら、まずは自分自身を知り許可するんだ」
ダークサイドに堕ちるな。光の射すほうへ
家にかえる電車のなかで、iPhoneでニュースをみた。
シャドウにまみれたニュースばかりが目についた。
「どうして優等生のあの子が犯罪を?」
「真面目な政治家が、セクハラで逮捕」
「あの誠実そうな旦那さんが、奥さんが妊娠中に浮気!?」
そういえばよく、こんな話を聞いたりする。
きっとそれぞれの人は、真面目に生きているのだろう。しかし、完璧な善人であろうとするがあまり自己分裂して、ダークサイドに堕ちてしまったのだろう。
ユングはいった。
「善であるよりも、欠けることない自分でいなさい」と。
不完全で未熟な部分もふくめて、かけがえのない「自分らしさ」だ。
シャドウは戦う相手ではない。勝てる相手ではない。
ねじ伏せても、ねじ伏せても、浮かび上がってくる。
シャドウを認め、あがない、手をつないで、オープンにしよう。
そうすれば、やがて影に光が指すだろう。
幸せとは、自分自身を知ることだ。
自分自身を光のなかにオープンにすることなんだ。
This artcle is INSPIRED by
「シャドウ・エフェクト」 by ディーパック・チョプラ、デビー・フォード、マリアン・ウィリアムソン