前に北京がらみで少し書いた自分にとっての
オリンピックについて、
いい機会なので、自分自身を整理する意味でも、
リライトしてみた。ちょっぴり長文。


自分は、フィギュアスケートの選手として
通算10回の全日本選手権への出場。
うち3位が4回、2位が1回、引退のシーズンに1回優勝。
大学時代にユニバーシアード大会の代表には3回選ばれた。
優勝した全日本のシーズンに世界選手権の代表にはなったものの、
結局オリンピックとは縁がなく選手生活を終えた。

自分の最初で最後のオリンピックへの挑戦は、
88年のカルガリー大会。
その最終選考会となった全日本選手権。
ライバルだった相手とのほぼ一騎打ち状態だったが、結果は2位。
当時の日本男子フィギュアの枠は、「1」だったため、
代表にはなれなかった。

いわゆる最終予選で敗れ去った選手。
1位の選手はカルガリーへ、自分は残念組として
1月末の国体の東京代表に。
全日本選手権優勝と2位、日本代表と東京都代表。
ある意味、雲泥の差。
順位ひとつの差で全く人生が変わってしまったようだった。
その国体では、地力では他の選手を圧倒して一応優勝はしたが、
それで気分が晴れるわけもなく、それから1ヵ月後、
自宅でカルガリー大会開会式のテレビ中継を見ながら、
毎日のように一緒に練習していた
アメリカ代表の仲良しの選手を見つけた時、
締め付けられるような思い、心底悔しいと思った。
その時の悔しい気持ちは今でも鮮明に覚えてる。
それから10年後、TVのスポーツ記者として、
長野オリンピックの代表選手結団式を取材した時、
白い上下のスーツに身を包んだ選手たちを見て、
言いようのない、悲しさとも寂しさとも少し違う、何か羨望、
やるせなさ、悔しさそんな思いが沸々と湧き出してきた。

“自分もあのブレザーを着たかった。。。”

長野五輪本番では、スピードスケート清水宏保選手の
500M金メダルの瞬間を会場で目の当たりにした。

脳みそがどこかに持ってかれるほど鳥肌が立った。

そして長野から更に10年後の今でも、
悔しかった当時の気持ちは、変わらない。
そしてこれからも絶対に忘れることはないと思う。
むしろ、なぜだか忘れたくはないんだな。。。
なぜなんだろう?
悲しい思い出なら、
一刻も早く記憶から消し去りたいと思わないんだろうか?
たぶん、悔しかった記憶を消し去ることがイコール、
自分がその当時抱いたオリンピックへ出たい!
という夢、強烈な闘志、
憧れという、真っ直ぐな、
無垢な気持ちまでも消えてまうような気がしてしまう。
同時に、当時の自分の練習方法はあれでよかったのだろうか?
あの時、オリンピックに出たい一心で練習に打ちこんだ自分が、
あの時まぎれもなく存在したこと、
その記憶を、自分の中から消し去ることだけはしたくない。

行けなかったカルガリー、
眩しく感じた長野代表選手たちのブレザー姿、
長野で目の当たりにした金メダル誕生の瞬間の光景。
それらが脳裏に強烈に焼きついてる。
でも、だからこそわかることがある。

”やっぱりオリンピック代表は素晴らしい”。

夏冬問わず、あの場所で、あの空間で、
4年に一度の限られたチャンスを物にし、
パフォーマンスを披露する場を掴み取った
トップアスリートたちなんだから。
自分はオリンピックで戦う機会は掴み取れなかった。
何度思い返しても、消えることのない無念な記憶。
でも、それがあるからこそ、
むしろ素直にオリンピック代表たちを応援したくなる。
何とか、最高のパフォーマンスで、
最高の笑顔を見せる選手たちを1人でも多く見たい。
無事に、北京での戦いに挑む場が奪われることなく、
怪我なく北京で彼らが戦い抜く姿が観られることを願ってる。

今は、そんな気持ちになることができる自分を、
嬉しく思う。

さあ、まだまだオリンピックは前半戦、
JAPANのユニフォームに身を包んだ
頼もしい選手たちの更なる活躍に期待しよう。