| 角栄を取り巻いた人士たち |
(最新見直し2010.11.10日)
| (れんだいこのショートメッセージ) | |||
| 角栄は、実業界から政治家へと転身し、いつの間にか類稀なるリーダーとして孵化した。これを史上の人物に当てはめて見れば、戦国武将の豊臣秀吉像的成り上がりとアイディア、織田信長的果断と構想力、徳川家康的信義と組織力を兼ね備えた特筆級の大人物だったと思われる。その欠点を敢えて言えば、突出しすぎていたが故に角栄と伍して肩を組む戦友が少なすぎたことかと思われる。 こうした特質をもつ角栄は、「情と利」、「抗して和す」の政治を貴重としつつ、持ち前の人間透視術と人心収攬(しゅうらん)能力で、有能の士をひたすら寄せていった。以下がその人士達である。 太田龍・氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
2006.3.13日再書き込み れんだいこ拝 |
| 【1、刎頚の友】 |
| 入内島金一。群馬県の出身で、角栄が上京し勤め始めた時の会社の先輩。終生の刎頚の友となった。 |
| 【2ー1、初期の秘書】 | |||
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| 【2ー2、後の秘書】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
角栄の秘書は「秘書軍団」といわれた。他の代議士事務所の秘書が比較的よく替わるのに対して、田中の秘書で途中で止めた人はあまりいない。
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| 【3、官庁派遣秘書官、官僚引き抜き秘書】 | |||
当時、首相になると、大蔵省、外務省、警察庁から一人ずつ秘書官が派遣された。角栄は、加えて新たに通産省から小長氏を抜擢し首相秘書官にした。大蔵省は吉本宏、外務省は木内信胤、警察庁は杉原正が派遣された。
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| 【4、書生】 | ||||||||||||||||||
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| 【5、官僚】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「角栄は、システムとしても思考形態としても日本人の骨がらみになっている官僚主義と官僚制度を相手に、あるときは彼らを敵に回し、あるときは逆手にとり、またあるときには彼らを丸ごと味方につけ、驚くべき多くの政治的業績をあげた」(新野哲也「だれが角栄を殺したのか」83P)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 【6、弁護士】 | ||||
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| 【7―1、政治家その1】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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殆ど党人派。元帥−木村武雄。仲介役−西村英一、橋本登美三郎。腹心組−二階堂進、小沢辰男、久野忠治。政策面−愛知揆一、木村俊夫。花形スカウト組−江崎真澄、小坂徳三郎。官僚抜擢組−後藤田正晴。後継プリンス−山下元利。将来の後継者−小沢一郎。
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| 【7―2、政治家その2、44年当選組の角栄チルドレン】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
| 1969.12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙、佐藤首相、田中角栄幹事長)。沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は44議席失い90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。田中角栄は10期目当選、13万3042票。 この時、羽田孜・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らが初当選している。渡部恒三は追加公認。これらの新人組が当然の如く田中入りして「44年組」と云われる軍団になった。浜田幸一もこの時の当選組み。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが、福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると、史上空前の105名となった。 「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた(社労党「日本社会主義運動史」)。 |
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| 【7―3、政治家その3、】 |
| 【8、財界・政商】 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 【藤井丙午と田中角栄先生の思い出】 | |||
仮題「藤井孝男の国を動かした人々、一期一会、藤井丙午と田中角栄先生の思い出」を転載しておく。
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| 【田中シンパ財界人】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新総合政策研究会会員
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| 【9、マスコミ】 |
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戸川猪佐武 長年読売新聞政治部記者。「小説吉田学校」で、政界万華鏡の史的世界を描いた。 |
| 【10、芸能人】 |
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美空ひばりと誼を得て、昭和43年12.11−12日、新潟県長岡市の厚生会館で「美空ひばりショー」を開催している。「ひばりさんなら、当然ここは数百万円は覚悟のところ、ところが、当時まだお元気だったひばりさんのお母さんがキッパリとおっしやられたんですね。『一銭もいりません。但し、弟に30万か50万もやってください。おカネを使う子ですから』と。結局、ひばりさん自身はノーギャラで出てくださった」(本間幸一秘書)。 |
(私論.私見)
明治34年(1901年)3月5日、茨城県行方郡潮来町の回送問屋の家に生まれる。最初、父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学から、早稲田大学政経学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、闘将と称された。昭和2年(1927年)大学卒業後、朝日新聞社に入社する。満州に特派員として派遣されたのを皮切りに中国で活躍する。南京に日本軍が入場した際、記者15人ほどを引き連れて、一番乗りしたことで有名である(南京事件については、疑問視している証言をしている)。外信部長、東亜部長を歴任し、終戦の昭和20年(1945年)に退社した。
昭和21年(1946年)、衆議院議員総選挙に出馬するが落選。地元潮来町の町長に選ばれる。昭和22年の総選挙に再度出馬するが落選。昭和24年(1949年)に茨城1区(当時)から総選挙に立候補し、三度目の正直で最高点を得票し、当選する。当選後、主に郵政関係、特に電気通信関係の族議員となる。昭和35年(1960年)第一次池田勇人内閣の建設大臣兼首都圏整備委員会委員長として初入閣。佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。昭和39年(1964年)佐藤内閣が発足し、内閣官房長官、建設大臣、運輸大臣、自民党総務会長を歴任する。佐藤退陣を受けての角福戦争では田中陣営の大幹部として、総裁選挙で田中角栄を擁立する。田中内閣成立をうけて、自民党幹事長に就任。政権の大番頭として田中を支える。二階堂進と交代する。
昭和51年(1976年)8月21日
ロッキード事件丸紅ルートで、運輸大臣在任中に500万円を受け取ったとされ、東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕される。
判決を受けて控訴。
平成元年(1989年)1月19日死去。88歳。