ご無沙汰
2011-01-05 23:51:07 テーマ:ブログ
最近、生放送をするにしてもツイッターを書くにしても
こうしてBlogに触れる事ですら
私生活に何かしらの大きな変化がないと
実行に移さない傾向にある事に今、気づいた。
というのは恐らく、プライベートで
インターネットに触れるという行動の優先レベルが
知らずのうちに低下している事になるのかな。
爆音でマトリョシカ聴きながら書いてるので
文章がややおかしいかもしれません、すいません。
ところで人間って、
大体どれくらい我侭が許されるものなのかな。
いやそんなものに一概な定義なんてものは
存在しないだろうし
それこそ人間性とか立ち回りとか環境とか
とんでもない量の外的要因が関わってくるだろうから
愚問以外の何物でもないのは分かってるんだけどね。
私が昨今、ぶち当たって切り崩せない障壁は
我侭と我慢がテーマなわけで。
「精神病」というキーワードを後ろ盾に
弱者が優遇される世の中ができてしまってからなのか、
そもそも社会というのは昔からそういうものだったのか、
私はまだ22歳だから過去を遡ることはできないけど
強さを求める事が弱きを甘えさせる事になるとは思ってもなかった。
不躾だけど、私が一番嫌いなのはね。
「弱い人間」とはまた別に、
「弱さを開き直る人間」なんだよね。
強い人間になれ!!って言ってるんじゃないよ。
弱いっていう言葉に甘えないでほしい。
弱さを開き直る人間は、決まって自分より強い人間という対象を作って
憧れたフリをする。
ここでまず、いやらしいのは
自分より強いと判断する対象の人間性とか、精神状態とかを
全く考慮しないという事。
でも冷静に考えてほしい。
誰しもストレスを感じるだけの本能があって
それを溜め込む許容量にも限界があるという事をね。
つまりは人間に、強い・弱いの資質的な差別化なんて
本来行ってはいけない事なんだと思うんだよ。
だけど世の中は、「弱い」という言葉にひどく敏感で
そこに基準を設けて医学会が事あるごとに病名つけて普及していってるもんだから
説得力が増してもう歯止めがきかない。
弱い人間がいれば、相対して強い人間はイヤでも作られる。
中途半端に強い人間としてカテゴライズされ、
弱い人間と自己判断した人間に甘えられて負担を感じる人間は少なくない。
「○○さんって強いよね、憧れるなあ。」
って一言発すれば
おおよそ、○○さんは発信者より強い立場にカテゴライズされ
発信者は自動的に弱者の座を獲得する。
そしてもし○○さんが発信者を無碍に扱おうものなら
発信者は○○さんに被害妄想を抱く。
「私はあんなに○○さんを信頼していたのに、
○○さんも結局、私を理解してくれなかったのね」
そして世の中は、その理不尽な関係に疑問を抱く前に
ただ一傍観者として○○さんを責めるんだろう。
強者の座に立つ事(面倒事)を恐れ、
弱者にカテゴライズされた人間に救いの手を差し伸べる事もなく。
社会は疲れるなあ。
そういった不本意極まりない、およそ計算して作られた荒波にも
耐え忍んで生きていかなければならないんだから。
そして、こういった思考が
「性悪」だと思わせられるシステムにも疲れた。
私が今抱いているのは、正しい罪悪感なのか
或いは抱く必要性のない罪悪感なのか。
判断するのも十人十色、
つまり同調してもらえる割合は100%じゃないってわけですね。
私にしてみれば100%に見える持論も、
実際100%になりえない以上、ただの我侭に過ぎない。
我侭って何なのかなー、我慢ってどこまで正当なのかなー。
久々に出口のない思考回路へ迷い込んでます。
こうしてBlogに触れる事ですら
私生活に何かしらの大きな変化がないと
実行に移さない傾向にある事に今、気づいた。
というのは恐らく、プライベートで
インターネットに触れるという行動の優先レベルが
知らずのうちに低下している事になるのかな。
爆音でマトリョシカ聴きながら書いてるので
文章がややおかしいかもしれません、すいません。
ところで人間って、
大体どれくらい我侭が許されるものなのかな。
いやそんなものに一概な定義なんてものは
存在しないだろうし
それこそ人間性とか立ち回りとか環境とか
とんでもない量の外的要因が関わってくるだろうから
愚問以外の何物でもないのは分かってるんだけどね。
私が昨今、ぶち当たって切り崩せない障壁は
我侭と我慢がテーマなわけで。
「精神病」というキーワードを後ろ盾に
弱者が優遇される世の中ができてしまってからなのか、
そもそも社会というのは昔からそういうものだったのか、
私はまだ22歳だから過去を遡ることはできないけど
強さを求める事が弱きを甘えさせる事になるとは思ってもなかった。
不躾だけど、私が一番嫌いなのはね。
「弱い人間」とはまた別に、
「弱さを開き直る人間」なんだよね。
強い人間になれ!!って言ってるんじゃないよ。
弱いっていう言葉に甘えないでほしい。
弱さを開き直る人間は、決まって自分より強い人間という対象を作って
憧れたフリをする。
ここでまず、いやらしいのは
自分より強いと判断する対象の人間性とか、精神状態とかを
全く考慮しないという事。
でも冷静に考えてほしい。
誰しもストレスを感じるだけの本能があって
それを溜め込む許容量にも限界があるという事をね。
つまりは人間に、強い・弱いの資質的な差別化なんて
本来行ってはいけない事なんだと思うんだよ。
だけど世の中は、「弱い」という言葉にひどく敏感で
そこに基準を設けて医学会が事あるごとに病名つけて普及していってるもんだから
説得力が増してもう歯止めがきかない。
弱い人間がいれば、相対して強い人間はイヤでも作られる。
中途半端に強い人間としてカテゴライズされ、
弱い人間と自己判断した人間に甘えられて負担を感じる人間は少なくない。
「○○さんって強いよね、憧れるなあ。」
って一言発すれば
おおよそ、○○さんは発信者より強い立場にカテゴライズされ
発信者は自動的に弱者の座を獲得する。
そしてもし○○さんが発信者を無碍に扱おうものなら
発信者は○○さんに被害妄想を抱く。
「私はあんなに○○さんを信頼していたのに、
○○さんも結局、私を理解してくれなかったのね」
そして世の中は、その理不尽な関係に疑問を抱く前に
ただ一傍観者として○○さんを責めるんだろう。
強者の座に立つ事(面倒事)を恐れ、
弱者にカテゴライズされた人間に救いの手を差し伸べる事もなく。
社会は疲れるなあ。
そういった不本意極まりない、およそ計算して作られた荒波にも
耐え忍んで生きていかなければならないんだから。
そして、こういった思考が
「性悪」だと思わせられるシステムにも疲れた。
私が今抱いているのは、正しい罪悪感なのか
或いは抱く必要性のない罪悪感なのか。
判断するのも十人十色、
つまり同調してもらえる割合は100%じゃないってわけですね。
私にしてみれば100%に見える持論も、
実際100%になりえない以上、ただの我侭に過ぎない。
我侭って何なのかなー、我慢ってどこまで正当なのかなー。
久々に出口のない思考回路へ迷い込んでます。