民衆のソフト・パワーを最大限に発揮するためには、組織に懇談・対話という”温かな赤い血”を存分に注ぎ込んでいく必要がある

創価学会にとって生命線ともいえる会合の在り方について考えてみたい。

創価学会の会合で最も多い形態は伝達を目的とするものであろう。

話し手から聞き手への一方的な情報の伝達。

本来、懇談の場であるべき座談会にあっても、双方向で対話が交わされることはほとんどない。

伝達は組織にとって、欠かせないものであることは言うまでもない。

組織の打ち出しを第一線まで隅々に浸透させるためには、この伝達という会合の方式を取らざるをえないのは無理もない。

ただ、伝達はあくまで上からの下への一方通行の通達であって、本来あるべき、下から上へと意見を上げていく機能は持ち合わせていない。

この伝達を主とした会合ばかりが続けばどうか。

懇談、対話の機会が失われるにしたがって、常に瑞々しくあるべき人間関係にも亀裂が生じやすくなり、結果的に組織の力が弱まっていく。

「協議をきちんとしているではないか」との反論は予想されるが、協議は方針というものが前提となるやりとりであり、自由闊達な懇談、対話とは性質が違う。

小人数による忌憚のない、本音の対話。

これほど、組織に”人間味”を自然ともたらすものはない。

小人数の対話には、形式もいらない、自分をよく見せようと飾る必要もない、役職の上下もない(そうあるべきという意味において)、あるのは、十分語り尽くした後に残るさわやかな充実感のみ。

この充実感こそが、一人ひとりの内的(ソフト)パワーを掘り起こし、次なる宗教的エネルギーの基となっていくことは言うまでもない。

しかしながら、宗教団体の活力源とも言うべき、懇談・対話(本音の)は絶対的に少ないのが実情だ。

民衆のソフト・パワー(内発の力)を最大限に発揮するためには、情報の伝達以上に、懇談・対話という”温かな赤い血”を存分に注ぎ込んでいく必要がある。

そうしなければ、創価学会という一枚岩の組織も、いつしかもろくも崩れ去る時が来る。

創価学会を恒久化していくために、衰退させないために、今、私たち自身が気がつき、意識改革をしていかなければならないことの一つがここにあるのではないか。

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制約が課された対話は本来、対話が持つみずみずしい発想の醸成を妨げ、広がりと深まりを閉ざす

対話の深き意義を学ぶ方途を、池田SGI会長とハーバード大学のドゥ・ウェイミン教授との対談「対話の文明」に求めたい。

この対談では、「対話の文明」の構築を目指した二人の真摯かつ経験に基づく見解が自在に交わされている。

対談の冒頭で、一貫したテーマとも言うべき、対話の理念について、語られている。

池田 博士は中山大学での講演で、「対話こそ、文明間の矛盾や衝突をなくす重要なメカニズムである」と、対話の意義を強調されました。

そして、「相手の存在を認め、その存在の価値や条件を尊重し、互いに参照し学び合い、恩恵を与え合うという、対話のメカニズムが、異なる文明間には必要である」と鋭く論じられた。

まったく賛成です。

世界が混迷の度を増す今こそ、”共に認め合い、共に学び合い、共に敬い合う”真の対話の懸け橋を、あらゆる文明間に築いていくべきです。

ドゥ おっしゃる通りです。

対話の基本となるものは、他者や他文明を認める寛容の精神です。

それがなければ、対話は始まりません。

しかし、それだけでは不十分です。

“認める”だけでは、「否定はしないが、無視もする」という心根を脱却できないからです。

ゆえに、真の対話には、”相互”の尊敬という要素が不可欠となってきます。さらに、これは難しい挑戦になりますが、”差異を讃える”という大いなる心根をもつことが大切となってくるのです。

このやりとりから、私たちが対話に臨んで常に確認すべきポイントを挙げてみよう。

(1)相手の存在を認めようと努力できているか?

(2)相手とともに学び合おうという姿勢があるか?

(3)相手を心の底から尊敬できているか?

(4)相手の差異を讃えるだけの大きな心根をもてているか?

対話に臨んでの心がけとして最小限の要件であろう。

私たちは果たして、これら対話に臨んでの最低要件を果たして満たすことができているだろうか。

このことについて、深く見つめることは極めて重要だ。

逆に組織的に対話を求められたから、折伏の成果を挙げなければならないから、などという理由で友人に対話をしようなどという動機が微塵もあるならば、決して対話などすべきではない。

対話とは、組織に促されてするものではない。

対話とは、折伏の成果のためにするものではない。

対話とは、義務でもノルマでもない。

対話とは、人間同士の魂の打ち合いと発露にほかならない。

この究極の人間交流の形にあって、一切の制約も目標も定めるべきではないのだ。

制約が課された対話は本来、対話が持つみずみずしい発想の醸成を妨げ、広がりと深まりを閉ざす結果招く。

私たちは、そうした制約のかせにとらわれ、対話の本来の目的を見失うに至っていないかを厳しく見つめ直す必要があろう。

どうすればいいのか。

繰り返そう。

(1)相手の存在を認めようと努力できているか?

(2)相手とともに学び合おうという姿勢があるか?

(3)相手を心の底から尊敬できているか?

(4)相手の差異を讃えるだけの大きな心根をもてているか?

この四つのポイントについて、同志の間で、徹底的に対話してみることである。

対話が大事なのである。

対話についての課題は対話をもってしか解決できないからだ。

じっくりと話し合ってみることだ。

時間を惜しむことなく。

友人と話す時間がなくなるではないか?

大丈夫だ、友人はいなくなることはない。

友人はむしろ高度で洗練された対話の技量の持ち主と話すことを望んでいるのだ。

あからさまな折伏のターゲットとされる対話をだれも望むはずもなかろう。

真の対話とは何か? 

真の弘教とは何か? 

真の宗教とは何か? 

真の組織とは何か? 

私たちが一生をかけて追求していかなければならないことはあまりにも多い。

追求し続けていくことができる喜びを感じていくことが重要だろう。

自らのソフト・パワーをフルに開発しながら。

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創価学会を永久たらしめるものは、有能なリーダーの存在にかかっているのではなく、一人ひとりの名もなき庶民の信頼に満ちた絆にこそある

人権の意義について考えてみたい。

人権というものは年に1度、人権デーで確認すればそれでよいというものではない。

私たちの日々の生活の中で人権について常に真剣に考えていくことはもちろん、人権を守るという人間としての普遍の理念をどう後世に伝え、さらにその考え方を充実させたものへと導いていくかが、重要だ。

とはいえ、人権を守ることは、言うはやすく、行うことは実は極めて難しい。

なぜなら、「世界人権宣言」で示されるように、難解な言葉による定義を必要とし、この練りに練られた文言をもってしても、人権というもののすべてを言い尽くしているとはいえないのだから。

この複雑にしてとらえどころがないが、何よりも優先して守るべきが、人権なのである。

戸田第2代会長が叫んだ「世の中から悲惨の二字をなくしたい」との言葉は、創価学会が最も人権を尊重する団体であるとの宣言にほかならない。

しかしながら、創価学会においても、いつかそう遠くはない将来、権力を悪用し、庶民を見下し支配するような勢力が巧妙にのし上がり、学会を牛耳る事態を迎える恐れを決して否定することはできない。

なぜなら、歴史上の宗教組織はことごとく、一度はその陥穽に転がり落ちた経験があることを踏まえるならば、創価学会といえど人が運営していく組織である以上、その”法則”を逃れられるという保証は一つとしてないのだ。

それが杞憂で終わったならば、それはそれでよしとすべきであろう。

しかし、その事態への備えが甘かったり、油断があったならば、悪の跳梁を簡単に許してしまうということをだれも否定できない。

そうした状況を招いてだれが一番苦しむのか。

言うまでもなく、まじめに第一線で頑張ってきた創価学会員だ。

池田SGI会長が命をかけて守ってきたまじめな信仰者である学会員に悲惨な思いをさせること、無慈悲な権力者による人権の蹂躙を招くことを、私たち後を継ぐ者は、命をかけて阻止していく責務がある。

どうして守っていくべきなのか。

「小さな集い」には人の心を変える力がある。

以前お会いしたアメリカの女性木版画家・スモックさんが、人権の闘志・キング博士の思い出を語ってくださった。

「キング氏とは、氏の亡くなる数週間前に、少人数のミーティングに参加したことがあります」

それは、極めて啓発的な場となったという。

「彼との対話によって、私の考えは発展し、脱国家、多文化といった、新たな文化のパラダイム(基調の考え)が必要であると考えるようになったのです」(2009年12月11日付聖教新聞)

そして、もう一つ。

第2次世界大戦下、ナチスの侵略を跳ね返したフランスのレジスタンス(抵抗)運動もまた、”小さな強気集団”による戦いであった。

血の通った小さな集まりが冷酷な独裁組織に打ち勝った、重大なる歴史である。(同)

重要な指摘だ。

一見、極めて無力に見える、小単位による忌憚のない会話、対話が巨大な権力に対抗しうる有効な方法であるという事実。

創価学会という団体の本質はそこにある。

つまり、創価学会と広宣流布の運動を永久たらしめるものは、有能なリーダーの存在にかかっているのではなく、一人ひとりの名もなき庶民の信頼に満ちた絆にこそある、ということを。

創価学会の生命線ともいうべき本音の対話、座談が繰り広げられている以上は、悪の勢力が付け入る隙を与えることはない。

それがひいては一人ひとりの人権を守ることにつながるのだ。

人権を守るべき創価学会が、人権を蹂躙する団体へと転落してはならない。

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