<中島多鶴さん(86)=泰阜村在住=は敗戦翌年の1946年8月、村が旧満州(現中国東北部)に送り出した開拓民約1000人の中で最も早く、ただ1人で帰国した。直後に村内の報告会に臨むと、村民から未帰国者の安否など尋ねる声が次々と上がった>
会場の体育館には開拓民を出した家族や、たくさんの人たちが話を聞きに来ましたよ。大八浪(ターバラン)の開拓地を出てから帰国までの出来事を話したに。すると、村民から次々に聞かれたんだに。
「村から1000人が満州に向かったが、その人たちはどうなったんだ」「どうして1人で帰ってきたのか」
返答に困りました。特に何人もの親が子供を川を流したり、置き去りにしたこと……。生きるために、たくさんの女性が中国人の妻になったことは言えなかったですに。
<その後、看護師の仕事のため、岐阜県や東京都で働いたが、53年に母や妹が中国から帰国し、自分も帰郷して村の保健婦になった。中国に残された残留婦人捜しの運動も始めた。81年に松下利雄村長(当時)の意向で中国へ生存者の調査に向かう。その結果、32人の生存が判明した>
ハルビンで20人ほどの人と会ったのですが、ぼろぼろの着物を着て、生活の大変さが一目で分かったの。そこで私たちは自分の着るものまであげてきました。みんな、口々に「日本に帰りたい」と泣いて訴えてきたんな。
家族のため、自分も生きるために中国人の家庭に入っていったの。中には、夫婦であることを隠し、妻は中国人の妻になり、夫はその家庭の使用人になって生き延びた人もいたの。残留婦人たちは本当に大変な目に遭ってきたんだに。
<89年、残留婦人を調べる中島さんの旅を追ったNHKのドキュメンタリー番組は大きな反響を呼んだ>
放映された9月3日の翌朝から村役場は問い合わせの対応で、てんてこ舞いだったよう。「こんな気の毒な人がいるのか」と世の中に知ってもらうことができたに。それが帰国運動の大きな弾みになったの。
<中島さんは9家族38人の身元引受人になり、自宅の一部を開放して引き揚げ者に提供するなど、帰国者の支援に力を尽くした。27回にわたる訪中で昨年、最後の1人が69年ぶりに帰国し、泰阜村の残留婦人の32人全員が帰国した>
私も残留婦人になって今も中国にいたかもしれないに。私は自分のできることをしただけ。私たちは満蒙(まんもう)開拓に行き、大変な目に遭ったけれど、中国の人たちも日本人の入植で土地を追われたに……。どちらも日本の国の方針で行われたこと。私たちはそのことをきちんと考えて、次の世代にきちんと伝えんといかんのだに。
生きて帰ってきた者の務めと思って毎月1回ぐらい、体験したことをあちこちでお話ししているんな。戦争を二度としてはいけない。私の生きているうちに、しっかりとその思いを伝えなきゃいかんのな。【満蒙開拓団企画取材班】=つづく
毎日新聞 2011年8月19日 地方版