こんばんは。
本日も日本各所は「酷暑」な一日でした。
自宅もエアコンを切る事もできないほど、暑くて仕方が無い感じでした。
家族全員、茶の間に集まりエアコンをかけながらひたすら暑さをしのぐ、、、そんな状況。
そこでTVをボーっと見ていたら、何やら民主党が次ぎの代表選へ向けて動き出しているというニュースを見ました。
菅総理がダメなんで、今度は次ぎの代表を選んで総理交代なんですか??
鳩山の次ぎに菅ときて、次は誰にするんでしょうね。
この時期、誰が総理大臣になったところでかわりゃせんでしょう。国民の誰もが政治家には失望しきりで、何も期待なんてしていません。
政治家になると、そういう感覚も失せるのでしょうか?
民主党もそうですが、自民党にしても同じ事。
「大連立」なんて言葉も出ていますが、結果、どんな政治家が出たとしても日本の国家運営なんてまともにできないのではないか・・・・そう思います。
政治ネタはさておき、今回は創価学会の師弟観について少し書いてみます。
8月17日(水)の聖教新聞の一面の内容を以下に紹介してみます。
「御書とともに-名誉会長が指針を贈る」50
<本文>
日蓮が法華経の行者なるが故に三種の強敵あって種種の大難に
あえり然るにかかる者の弟子檀那とならせ給う事不思議なり
定めて子細候らん相構えて能能御信心候て霊山浄土へまいり給え
(弥源太殿御返事 1226ページ)
<通解>
日蓮は法華経の行者であるがゆえに。三類の強敵があって、種々の大難に
あったのである。しかるに、このような者(法華経の行者である日蓮大聖人)
の弟子檀那となられたことは不思議である。きっと子細(深い意味)がある
のであろう。よくよく信心を強盛にして霊山浄土(仏国土)にまいって下さい。
<同志への指針>
仏法の師弟の絆が、どれほど峻厳であり、深遠であるか。師と共に難に遭い、
師と共に勝ち超える。師弟不二に徹したゆえに、学会は大発展したのである。
「誇り高く師弟に生き抜く」-この学会魂を、新時代の主役である青年部・
未来部に託したい。ここに広宣流布の永遠の勝利の道があるからだ。
ここでは日蓮大聖人の御書を通して「かかる者の弟子檀那とならせ給う事不思議なり定めて子細候らん」という部分を通して「師弟不二」を訴えたいのだと思います。
1)日蓮大聖人は弥源太殿との師弟の縁を子細があると言われている
2)創価学会の師弟も子細があるのだ
3)だから創価学会の師弟に徹する事が学会魂で、青年部・未来部はその
事を忘れるな!!
まあ、この様に言いたいのでしょう。
こういった御書の引用は、最近の創価学会では特に多いですね。まあ活動家もこの聖教新聞の御書講義を深く詠みもせずに「ああ。。。そういうものだな」と思い込んであるていど読み飛ばしている程度かと思います。
しかしここに大きなマジックがあると僕は考えています。
http://sougakusalon.blog.shinobi.jp/Entry/71/
(創価学会への提言(1)・・・まずは師弟不二をやめるべき)
二年以上前の記事にも書きましたが、創価学会の教学的な変遷の根底にあるのは「煮られるカエル」の考え方だと思うんですね。
要は大きな路線転換を行わず、少しづつ、少しづつ意味合いをずらして行く。
実はこの「ずらして行く手法」として、上記にあるような「ヘンテコ御書講義」を利用している節があります。
その点について、ここでは少し突っ込んでみようと思います。
◆弥源太殿御返事について
この御書は日蓮大聖人の弟子である(北条)弥源太に対して与えられた御書です。
ここで大聖人は在家信徒の一人であった北条弥源太が大聖人に太刀を御供養したのに対し、返礼のためにしたためられたもので、内容は、災難の根源である邪義を責めているために難にあっている御自身を、一往は日本第一の僻人と呼ばれながら、しかし再往は法華経の行者であるがゆえに大難にあうのであると明かされ、その弟子となり、太刀まで供養した弥源太に対しては、必ずや成仏という妙法の大功徳があることを教え信心を励まされている内容となっています。
つまり聖教の講義で述べている「師弟の子細」については、日蓮大聖人が弟子を励まされる際に触れられている一部の箇所でしかありません。
◆師弟という事について
仏法に限らず、物事を習うという事について「師弟関係」というものは常にあります。そういう観点では「師弟関係」というのは仏法、なかんづく創価学会の専売特許ではありません。
また「師弟関係」とは「師匠が弟子を決める」という事ではなく「弟子が師匠を決める」という事も共通なものと思います。
この御書の根底にあるのも、ここでは紹介されていない本文の中で「抑日蓮は日本第一の僻人なり」と言われ、その人物に対して「るにかかる者の弟子檀那とならせ給う事 不思議なり定めて子細候らん」と言われているのです。
そこにあるのは「師匠」から「弟子」への賞賛というものかと思います。けして創価学会の言う「師と共に難に遭い、師と共に勝ち超える」などというものではありません。
◆論理のすり替え
ここで言われているのは日蓮大聖人から弟子となった「弥源太殿」に対しての、「師匠(日蓮大聖人)」と「弟子(弥源太)」の関係です。そしてここで言われているのは「弟子への賞賛・ねぎらい」であり、けして「どれほど峻厳であり、深遠であるか」という普遍的なものなんて一言も言われていません。
しかしこの御書を講義するにあたり、まずそういった「(創価学会の言う)普遍的な師弟関係」を述べていると言い、しかも「師匠(日蓮)-弟子(弥源太)」という関係から、「師匠(池田名誉会長)-弟子(多数の青年部・未来部)」へ展開しようとしています。
まず日蓮大聖人と弥源太は、お互いに「一対一」の関係性であり、その深き人間関係の絆の上にある師弟関係がある訳です。この関係性を「池田名と会長」と「多数の青年部・未来部」に当てはめようという事自体に無理があります。
青年部の中で池田名誉会長の実態を知る人はどれだけいるんでしょうか?
池田名誉会長と一対一で面前で対話をし、人間性を肌で感じている人はいますか?
恐らく多くの青年部や未来部、また壮年婦人部もそうですが、池田名誉会長と「作り上げられた偶像-山本伸一」を混同しているんではないでしょうか?
師匠と弟子の関係の基本、そこにはまず「肌温を感じる人間関係」が大事だと思うのですが、創価学会では「師弟不二」を言う割りに、師匠の人間性を知っている人はいやしません。
だって、昨年から表舞台に出てこない理由を、学会員のどれだけの人が本当の理由を知っているんでしょうか?
そんなあいまいな関係にあるにも関わらず、その上に日蓮大聖人と、その弟子達の関係を殊更とりあげて、しかもそれを「どれほど峻厳であり、深遠であるか」などと言わせている。
こんなバカな話はないでしょう。
まあまあ、100歩譲って「創価学会の師弟不二」は、永遠の指導者の指導通り「仏法の究極」と信じている人がいるとしましょう。
そういう人に聞きたいです。
その「師匠」は今現在、どういう状況に居るんですか?
それを明確に語れないで、あなたは「弟子」と言えるのですか?
もし「俺は本当の池田門下だ!」と断言するならば、まずはその一点から関係性を掘り下げて、必要な行動を組織に取られたらいかがでしょうか?
「池田先生の実情を知りたい!教えろ!おれは池田門下の弟子なんだ!」
そういう風に創価学会の信濃町本部に押しかけてみるべきではないですかね??
でもまあ、そんな事をしても信濃町官僚から適当にあしらわれるのがオチでしょうけど。。。
結局のところ、創価学会がいくら「師弟関係」を強調し、「師弟不二」を実行しようとしても、所詮は口先だけである事は明白です。
だって、、師匠の実態を知る事が出来ない「弟子」に、意味がありますか?
僕ですか?
僕は「池田名誉会長」を「師匠」とは思っていませんから、そんな事なんかしませんよ。当たり前の事ですけどね。
「山本伸一として作り上げられた偶像-池田大作」には興味もありません。
所詮は作り上げられたものにすぎないんですからねー。
それよりも、世間の中でより立派に苦闘している人達が沢山います。
そしてそういう人物と交流を持つ事が、実はより自分自身を成長させてもらえると感じています。
まあ理想論の一つとして、「池田大作著」でかかれた物語を語る事はあるかもしれませんが、それはそれで「仏法上の人師・論師の一人の言葉」という位置づけでしかありません。
さあさあ活動家の皆様。
「師弟不二」が大事であれば、まずは信濃町の学会本部の連絡を入れてみましょう。
そうすれば自分たちが信じて疑わない「創価学会」の実情を、肌身に感じていくことができると思いますよー。
Let's Try!!
創価学会代表番号:03-3353-7111
メール問い合わせフォーム:
https://secure.sokanet.jp/goiken/soka_opinion/
本日はここまでとします。

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COMMENT
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何故明らかにしないのか。。きっと、それだけ会員を信頼していないのだと思います。。
また、騙しとおせると思っているということは、会員を馬鹿にもしているということですよね!
それなのに健気な会員は、後継のわたしたちの出番なんだ。。
弟子が強くならねば。。と思っているのですね。。
池田氏は、いまどのような心境でいられるのでしょうか。。
それとも人としての意志はもうすでにないのでしょうか。。
何故そこまでシークレットにしなければならないのでしょう。。
池田氏が重病ならば、それこそ会員が必死になってお題目を送ると思うのですが、そういう機会も与えられていないということですよね。。