<1945年8月の敗戦直後の旧満州(現中国東北部)で、匪賊(ひぞく)(中国人反乱軍)の襲撃におびえ、食料も休息も取れない逃避行。中島多鶴さん(86)=泰阜村在住=ら開拓民は日ごとに体力を失い、精神的に追い詰められていった。自らの命をつなぐことに精いっぱいとなり、我が子を置き去りにしたり、手にかける母親が出てきた>
避難を始めてから12日。牡丹江(ぼたんこう)という幅500メートルぐらいの大きな川に出たんな。合流した関東軍の兵隊さんたちが川を渡る筏(いかだ)を作ってくれてなあ、2000人近くが3日かけて川を渡ったの。
筏に乗る順番を待っていると、草むらから子供の叫び声が聞こえてきたんだに。小さい女の子を背負った母親が、別の5歳ぐらいの子供を川に突き落としているのが目に入ったの。私には止められんかったな。その代わり、背中におぶった2歳の妹静香(しずか)をしっかりと抱え直したの。
他にも川上から服が流れてくるんだ。よく見ると子供で、赤ん坊や国民学校(小学校)に上がったくらいの年ごろもいたんな。川を渡り終えて、戦闘を避けて老爺嶺(ろうやれい)山に入ったら、山中で出産する女性、座り込んで手を合わせるおばあさん……。みんな脱落していったんだに。
<9月3日、目的地の方正(ほうまさ)に着くと、ソ連軍将校から日本の敗戦を聞かされた。武装解除された日本兵は集められ、次々とシベリアに送られた。中島さんはその後、8カ月を方正の収容所で過ごすことになるが、冬は氷点下30度になる極寒の地。十分な食料も衣類もなく、開拓民はここでも命を落とした>
収容所といっても草を敷いた地面の穴蔵。10月に入ると冬のように冷え込むから、毎日6、7人の遺体が畑に埋められていった。栄養失調の末の衰弱死だに。私の背中で「ぽんぽ(おなか)減った」と叫んで困らせていた静香も亡くなった。最期はもう泣く力もなく、私にしがみついたまま。栄養失調から肺炎をこじらせたんな。
<収容所には毎日のように中国人が米や金を持ってきて、女性や子供を連れていった。妻を金品で買う「売買婚」の風習が残っていた当時の満州では、開拓民は嫁や子供探しの格好の的になった>
中国人が「助けてやるから一緒にこい」と女性や子供目当てに誘いにきていた。家族が餓死するか、嫁に行って生き延びるか、みんな迷ったんだに。知り合いや友達は、家族を救うために中国人に付いていったの。生きていれば、いつか日本に帰ることができる--。みんなそう思った。私も残留婦人になっていておかしくなかった。運が良かっただけ。
収容所に入る直前、倉沢大発智・開拓団長さんがソ連兵に連れて行かれたの。倉沢団長さんは後で殺されちゃったけど、その時に「一刻も早く日本へ帰って、この惨状を報告してくれ」と言われたの。この言葉がいつも耳に残っていて。「生きて日本に帰らねば」と私を導いてくれたんだに。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく
毎日新聞 2011年8月17日 地方版