「昭和の十五年戦争」の発端となった満州事変から今年で80年。日本が泥沼の戦争に突き進む中、国策で旧満州(現中国東北部)に移り住んだ約30万人の満蒙(まんもう)開拓団は戦後、国に見捨てられた。長野県からは全国最多の約3万3000人が渡り、飢餓や病死などで約1万5000人が異国の土となった。帰国者も「国家の侵略行為」に加担させられた負い目や、多くの残留婦人・孤児を生んだ帰還時の記憶に苦しんだ。体験者の証言を記録し、ふつうの人々を巻き込んだ戦争の悲劇をシリーズ企画で考える。【満蒙開拓団企画取材班】
<1940年3月、7人兄弟の長女、中島多鶴(たづる)さん(86)=泰阜(やすおか)村在住=は泰阜村から一家で満州・三江(さんこう)省樺川(かせん)県に入植した。14歳だった。元軍人の父親は村の開拓民募集委員。開拓移民計画の推進役として村民を説得して回った。「王道楽土」「五族共和」。中島さん一家も明るい将来を夢見て海を渡った>
生まれ故郷は人口わずか約5000人。養蚕が盛んな山村だったんだに。5分の1を超す1200人が、満州に作った泰阜村分村の大八浪(ターバラン)開拓団として入植したんだ。夕日が真っ赤に空を染める風景のきれいな場所でなあ。肥料もいらない土が肥えたところで、大豆や米、トウモロコシが見事に実ったに。夢だった(ハルビンの)看護学校にも通わせてもらって、そのあと開拓団の診療所で働いたんだに。
<しかし、夢のような日々は約5年半で終わった。45年8月9日、北方のソ連が日ソ中立条約を破棄し参戦。関東軍の拠点へ避難命令が出た。敗戦した15日、周辺の開拓団から集まった3000人ほどが列をつくり、西に300キロの方正(ほうまさ)に向けて歩き始めた。中島さんも出征中の父と兄を除く女ばかりの家族5人で列に加わった>
何日か雨が降り続いてたんだに。湿地も多くって、たくさんの人が歩いたもんで、道はぬかるんで歩くのが大変になっていったに。気が付くと靴がなくなって、ほとんどの人が裸足で歩いたもんで、血だらけになってしまった。足が膿(う)んで、ウジがわいたりしたんな。
<逃避行中、日本と満州政府に反抗する「匪賊(ひぞく)」(反乱軍)の攻撃にも絶えず脅かされた>
出発して1週間ほどたったころ、太平鎮(たいへいちん)という集落に着いたんだに。ここは開拓団用の土地を用意する時に反乱が起きた場所。食べ物を分けてもらっていたら匪賊の襲撃を受けたんな。馬に乗って先頭に立っていた校長先生が撃たれ、亡くなっちゃったの。
それを合図に集落の外れのコウリャン畑から鉄砲の筒が向いて、弾がビュンビュン飛んできた。開拓団の人たちが次々と倒れていったんな。今思うと、食べ物を分けてくれたのはわなだったかもしれん。私たち一家は道の脇にあった側溝を伝って逃げたんだに。振り返ると、逃げてきた道に沿って、子供や大人が血だらけになって倒れてた。800人ぐらいの開拓民が亡くなった。みんな逃げるのに必死で、誰も埋めようとする人もなく、朽ち果てるままになっていたんな。=つづく
旧満州は現在の中国東北部3省(黒竜江省、吉林省、遼寧省)に加え、内モンゴル自治区や河北省の一部を含む範囲を指す。1932年、旧日本軍は清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を立てて中華民国から満州国の独立を宣言。国土は前年の満州事変で日本が占領した地域と重なる。日本が中国東北部の実効支配を強める中で生まれた「実質的な植民地」だった。
日本政府は32年、世界恐慌による農村の疲弊、日露戦争以来の覇権争いを続けてきた旧ソ連(ロシア)に対抗するための権益強化などを背景に「満蒙開拓民」の募集を始めた。36年には20年間で「100万戸計500万人」を送る計画を立て、自治体に多額の補助金を出した。泰阜村では「満州に行けば20町歩(20ヘクタール)の土地がもらえる」と宣伝されるなど、困窮した農村を中心に満州移民が奨励された。
県内では、教育界も積極的に移民策を推し進めたため、南信を中心に全国最多の約3万2992人が入植。2位・山形県(約1万3000人)の倍以上に上った。
入植地は地元農民の土地や家を低価格で買い上げ、強制的に移住させたケースが大半といわれる。「土地や家屋の買収は決して中国人農民が喜んで応じたものではない。生活権を脅かされたことが、日本敗戦とともに現地住民の報復行為として噴出した」(県満州開拓史)など、政府の強権的な移民策への反発は、敗戦直後に各地で起こった暴動となって開拓民らに向けられた。
一方、戦局悪化に伴う兵力の動員増で、42年以降は成人男性の入植が困難となり、15~18歳の少年による武装組織「満蒙開拓青少年義勇軍」が入植した。入植した成年男子の多くも徴用され、開拓地には女性と子供だけが取り残されていった。
45年、日本の降伏により満州国は崩壊。進軍してきたソ連兵による殺害や暴行、略奪。中国人にも襲われる中を、開拓民は国の“盾”を持たずに逃走した。集団自決した例もあり、たどり着いた収容所でも病死や餓死、凍死が相次いだ。敗戦の大混乱の中、中国人に託された子供や残った女性たちは後の残留孤児・残留婦人となる。
翌46年から在留日本人の帰国は本格化したが、58年の日中貿易の中断で途絶える。72年の国交正常化に伴い、81年に残留婦人・孤児の訪日肉親調査がようやく始まった。県内には2011年3月末現在、1350世帯4231人の元残留婦人や孤児、家族らがいる。
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■満蒙開拓史の主な出来事■
1931年 満州事変
32年 満州国建国。県内から入植始まる
36年 2・26事件。満蒙開拓を国策に決定
37年 盧溝橋事件。日中戦争始まる
38年 国家総動員法を公布。満蒙開拓青少年義勇軍の募集を始める
41年 日ソ中立条約調印(4月)。太平洋戦争始まる(12月)
44年 県内の年間移民数が3893人で過去最多
45年 ソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州に侵攻(8月9日)。日本が降伏(同15日)。石碑嶺(せきひれい)の河野村開拓団が集団自決(同16日)
46年 旧満州在留邦人の引き揚げ本格化。長野県開拓自興会が設立
49年 中華人民共和国成立
53年 日赤など3団体が中国紅十字会と北京協定結ぶ。日本人の引き揚げ再開
72年 日中国交正常化
81年 残留孤児の訪日肉親調査始まる
94年 肉親以外の身元引受人を認める「中国在留邦人等の帰国の促進、自立支援法」公布
毎日新聞 2011年8月16日 地方版