ここから本文エリア 【戦争と詩人】3 南京2011年08月17日
◆残虐行為 見聞をつづる◆ 2冊の従軍手帳がある。 手のひら大の黒革の表紙。錦米次郎が、癖のある豆粒のような字をびっしりと書き込んでいる。1939年分は合計98ページ、約6千行に及ぶ。 南京事件後の39年の元日、「南京で思い出し難いのは難民共のことだ」と記している。その後の4行は黒塗りされ、三重大教授の尾西康充(44)は「帰国の際、憲兵の検閲を受けて削除された」とみる。 黒塗りの後はこう続く。「世界大戦の時、巴里(ぱり)には処女は一人もいないと本で読んだことがあるが、自分らのいた南京もそういえないことはない」「自分は正月を迎えるごとに南京を思い出すだろう。それほど南京の街町は自分の脳裏に焼き付けている」 南京攻略戦は、錦が所属した陸軍16師団などが中心となった。16師団長は南京警備司令官として「峻烈(しゅんれつ)な残敵掃討」を命じた。 錦の軍隊手帳では「37年12月2日から12日まで南京攻略戦、13日入城、14日城内掃討戦、16、17日城外掃討戦。18日から翌年1月22日まで南京付近の警備」となっている。 ■ 尾西によると、南京事件を詩に読んだのは、日本人では錦1人しかいない。 例えば、副題を「わが軍隊手帳」とした「南京戦記」「南京港・下関にて」(85年2月)。捕虜の扱いなどを定めたジュネーブ条約に明らかに違反する行為を、南京で見聞きしたことを元に描いた。 「彼ら(中国の敗残兵)は、みな目かくしをされて壕(ほり)の前に坐(すわ)らされた。管理軽重の下士官が内地から腰に吊(つ)り下げてきた、日本刀をひきぬいてふりかぶった。捕虜の中国兵の首めがけて彼の日本刀がふり下ろされた」 また、「風琴奏鳴曲」(56年2月)では「略奪が終わった。出発だ、火をつけよう」「物陰に女と子供がいた。(中略)仲間はどやどやと踏み込み、次ぎつぎにおかした。最後の奴(やつ)が終わった。さッとのびた銃剣が子供と女を突き刺した」「おれたちは死体に火をかけた」などと、南京事件を連想させる場面を描いた。 ■ 当時、石川達三や大宅壮一らが16師団歩兵33連隊(津市久居)の従軍作家・記者として南京事件を見聞きできる立場にあった。だが、いずれも何も書き残さなかった、という。33連隊を描いて発禁処分となる「生きている兵隊」を書いた石川も、事件は知らなかった、と口をつぐんだ。 長男の聖紀(71)が「父は、中国では可哀想なことをした、と話すぐらいでした」と思い起こすように、錦が忌まわしい記憶を家族や詩人仲間に具体的に話すことは少なかった。それでも、居合わせた者の責任として、文学者の使命として「南京」を題材にした。 尾西は錦研究にあたり、南京攻略戦に参加した33連隊の元兵士らの聞き取り調査をしたことがある。 「経験した人は語らないし、周りも気持ちを察して聞こうとしない。記録がみんな消されていけば、結局、何もなかったということになり、南京事件を考える機会はなくなる」 それだけに、錦が書き残した作品に大きな意義を見いだしている。(敬称略) ◎南京事件 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で始まった日中戦争は華中に拡大。旧日本軍は一気に戦局を決着させようと同12月、首都南京に侵攻した。陥落後は子供や女性を含む大勢の一般市民を虐殺し、放火や略奪、強姦(ごうかん)にも及んだとされる。事件は当時、大虐殺として国際的な非難を浴びたが、国民には知らされなかった。犠牲者の数は見解が分かれ、今なお論争が続く。
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