24年前、大韓航空機はどのように爆破されたのか(3/5)
「爆弾を持って飛行機に乗ったら“ようこそ”とあいさつされた…そのとき初めて南の人を見た」
2人がバグダッド空港の保安検査台を通過する際、検査要員が「バッテリーを持って飛行機に乗ることはできない」と言い、ラジオからバッテリー4個を外してゴミ箱に投げ入れてしまった。大韓航空機の爆破が失敗したと思わせる瞬間だった。
「全く予想できなかったことだった。それまでも海外に出入りしていたが、こんなことはなかった。所持品を全部取り出すなど、検査は厳しかった。アラブ諸国に関する情報がなかったせいだ。どうすればいいか分からず、おじいさんの方を仰ぎ見た。おじいさんは悠然とバッテリーを拾ってはめ込んだ後、ラジオを手に取った。『ただのラジオなのに、乗客にこんなことをしてもいいのか』と抗議した。それで検査を通過した」
-もしそこで失敗していたら?
「計画担当者は問責され…。発覚したわけではないから、私はまた工作活動を続けていたかもしれない」
2人は座席の上の棚にトランジスターラジオと液体爆薬を詰めた買い物袋を置いたまま、経由地のアブダビ(アラブ首長国連邦)で飛行機を降りた。
大韓航空機が爆発した場合、アブダビで降りた乗客15人が追跡対象になる。2人は「痕跡」を消さなければならなかった。ローマ行きの飛行機に乗り換える「逃走用」のチケットを準備していたが、そのチケットは、通過ビザの問題に引っ掛かった。どうすることもできず、乗ってきた航空券に記された通り、バーレーン行きの便に乗らなければならなかった。
翌朝バーレーン行きの飛行機に乗るまで、通過旅客向けの待合室でじっと待機していた。その間に、ミャンマー近海の上空で大韓航空機は爆破された。
-大韓航空機がいつ爆発するか、待合室で時間を計算していたのか。
「正確に爆発したかどうか分からない状況だった。当時は私たちの脱出ルートがふさがれ、ひどく焦っていた。私たちに捜査の手が迫っているはずだったが、待合室から抜け出すこともできず…」
-あなたは、115人が犠牲となった爆破の場面を見ていない。そのせいで、自分の犯罪に対する罪悪感が弱かったのではないか。
「当時、罪悪感というものはなかった。そんなことを考えていたら、革命家でも、北朝鮮の工作員でもない。後に遺族と対面するまでは分からなかった。法廷で“あなたがやったはずがない。どうしてやっていないと言わないのか”という遺族の絶叫を聞いて、本当に気の毒に思い、申し訳ない気持ちになった。早く殺してほしいと思うばかりだった。死ぬのは簡単だが、生きているのはつらかった。自分が生き残るとは思わなかった」
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