24年前、大韓航空機はどのように爆破されたのか(2/5)

「爆弾を持って飛行機に乗ったら“ようこそ”とあいさつされた…そのとき初めて南の人を見た」

-当時、あなたが知っていた外の世界の情報は?

 「世の中を知るというより、北朝鮮で教えられた通りに動くロボットだった。もちろん、海外実習も行った。外の世界は北朝鮮よりも自由で豊かだった。しかし、韓国がいつも攻撃しようとしているから、自分たちはこうするしかないと教わった。北朝鮮が大変で食べていけなくても、二心を抱くことができなかった。受け入れられなかったのだ」

-大韓航空機爆破の指令を受け、金正日(キム・ジョンイル)総書記と会ったことはあるか。

 「ない。任務を命じられた後、労働党対外情報調査部(拉致・テロ・海外情報活動を担当)のイ・ヨンヒョク部長と招待所で会ったことはある」

-なぜ金総書記の直接の指示によるものだと主張するのか。

 「北朝鮮は、金総書記の指示なしには銃1発さえも撃てない国だ。1カ月かけて工作コースを計画する際、おじいさん(金勝一)が“バグダッド路線はよくない”と言った。“戦時中の国を通過するため荷物の検査がうるさいだろう”という意見を出した。そのとき、対外情報調査部の課長が“既に批准(裁可)が下りているため、今回はそのままやるように”と言った。北では、故・金日成(キム・イルソン)主席、金正日総書記以外に、批准できる人間はない。対南工作部署は金総書記が指揮していた」

 1987年11月12日午前8時30分、金元死刑囚は、金勝一と共に平壌の順安飛行場を出発した。出発直前「私たちは敵後で生活する間、3大革命規律を厳粛に守り…命尽きるまで、親愛なる指導者同志の高い権威と威信をあらゆる手だてを尽くして守り、戦う」と宣誓した。

 金元死刑囚一行は、同日夜にモスクワに到着した後、すぐさまハンガリーの首都ブダペストに飛んだ。そこから陸路でオーストリアの首都ウィーンに入った。このときから日本人親子を装い、日本のパスポートを使った。金元死刑囚はコート、セーター、靴、腕時計、ハンドバッグなど主に日本製品を買い込んだ。2人の工作員に与えられた工作費は1万ドル(現在のレートで約76万円)だった。2人はオーストリアから再び航空便を使い、ユーゴスラビア(当時)の首都ベオグラードへと向かった。ここで、同行した工作指導員から、爆薬が仕込まれた日本製(パナソニック)のトランジスターラジオと液体爆薬を渡された。イラク行きの航空便でバグダッドに入ったのは、11月28日だった。

-なぜこのような長い道のりを?

 「身元を偽装するためだった。大韓航空の858便に乗るため、おじいさんが随分研究した」

-パナソニックのトランジスターラジオは、片手で持ち運びできる程度の大きさだったと思うが。

 「そうだ。スイッチを入れて9時間後に爆発する。電池薬(バッテリー)は特殊に製造されたものだった。半分は爆薬、半分はラジオを組み込める仕組みになっており、ほかのもので代替できないバッテリーだった」

金元死刑囚は「空港の検査員に時限爆弾のバッテリーを抜き取られたとき、任務遂行に失敗したと思った」と証言した。/写真=李明元(イ・ミョンウォン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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