夢を見ていた。
自分が今見ているものが、夢の中のモノなのだという認識を、夢独自の非論理的な法則によって理解していた。
「アタシ」という認識が、二つに分裂しているのがわかる。
夢の中の登場人物として存在している「アタシ」と、その「アタシ」の行動をやや後方の位置から……俯瞰するような視点で客観的に観察している、もう一人の『アタシ』の二つだ。
夢の中の「アタシ」は、両脇を鬱蒼とした木々に囲まれた、細い小道を歩いている。
風にゆさぶられ、ざわざわとさんざめく黒い木々の姿はまるで厚みのない影絵のようで、遠近法を無視しているとしか思えないぐらい、パースペクティブに欠けている。
空は一面に真っ赤に染まっていた。
朝焼けや夕焼けによってもたらされる濃淡入り混じったような赤ではなく、まるで一面にペンキを塗りたくったような、気味が悪くなるような原色の赤だ。
そして、今にも沈みゆこうとする太陽は、まるで腐った果実のようにぶよぶよとした印象で、鈍くマゼンタに染まっている。
カサカサと、これも影絵のような枯葉が散らばる小道は、大小不揃いの石が隙間なく敷き詰められたものだった。
それらの石は、なぜか様々な色で塗りつぶされているせいで、まるでステンド・グラスの上を歩いているような気になってくる。
現実的にはあり得ない光景。
さながら、やば気なクスリが完璧にキマりました的な重度の精神疾患者が見る幻覚を彷彿とさせる、サイケデリックな景色。
しかし、夢の中の登場人物として、この夢の世界に同化している「アタシ」にとっては、それらの光景も当たり前のモノとしてしか認識できないのか、まるで気にしている様子はない。
この景色を異常なモノとして感じているのは……そして、夢の中の「アタシ」が歩を進める先に何が待ち受けているかを知っているのは、あくまでも「アタシ」ではなく『アタシ』のほう。
客観的な視点から、全てを理解している―――言わば、神の視点を持って全てを観察している、もう一人の『アタシ』のほうなのだ。
全く異なる視点。
全く異なる情報量。
そうであるにもかかわらず、それら矛盾する認識を、『アタシ』も「アタシ」も不思議と思うことなく平然と受け入れていた。
これもまた、夢独自の不思議な法則なんだろうと思う。
どれぐらい歩いただろうか。
やがて前方に、終着点(ゴール)となるべき、大きな影が姿を現した。
書き割りのように薄っぺらい、教会のシルエットを持った終着点。
佐倉杏子にとって全ての始まりであり、終わりを意味する希望と絶望の交錯点だ。
ふと見ると、まるで何かの肋骨のような赤錆びの浮いた門扉の鉄柵に、表面が煤けた金属板が掲げられ、数行からなる碑文が刻まれている。
そこに書かれた文字を読み取って、あまりにも出来過ぎたその内容に、アタシは思わず苦笑を洩らさずにはいられなかった。
えらい皮肉とも思えるが、よくよく考えると、今のアタシが置かれてる状況に、これほど似つかわしい言葉もないとも思える。
実にエスプリのきいた、きっついブラック・ジョークだよ、ホント。
笑ってなんてやらないけどね。
Per me si va ne la città dolente, (我を過ぐれば憂ひの都あり、)
per me si va ne l'etterno dolore, (我を過ぐれば永遠の苦患あり、)
per me si va tra la perduta gente. (我を過ぐれば滅亡の民あり)
Giustizia mosse il mio alto fattore;(義は尊きわが造り主を動かし、)
fecemi la divina podestate, (聖なる威力、比類なき智慧、)
la somma sapïenza e 'l primo amore. (第一の愛我を造れり)
Dinanzi a me non fuor cose create (永遠の物のほか物として我よりさきに)
se non etterne, e io etterno duro. (造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、)
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' (汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ)
そうして。
夢の中の「アタシ」は、その建物の中に足を踏み入れたのだった……。
★
朝が来た。
少なくとも朝と言っても間違いはない時間だ。
午前五時。
どうやら、いつの間にかウトウトしていたらしいということに気づいて、軽く舌打ちする。
いつ戦いが始まってもおかしくないような場所で―――しかも、得体の知れない同年代の男がすぐ近くにいるってのに、呑気に寝ちまってた自分のおめでたさが忌々しい。
―――知らないうちに、なまっちまってるのかな、アタシ……。
あまり考えたくはないが、この体たらくではそう思うしかない。
両手で軽く頬をパンパンと叩き、改めて気を引き締めるよう自分に言い聞かせた。
何かの夢を見ていたような気がするんだが、その内容はよく思い出せない。
ま、いいけどね。
夢の内容にいちいち一喜一憂する時期なんて、とっくに通り過ぎた。
外に目を向けると、いつの間にかブリザードは収まって、暗い空には無数の星々がまたたいている。
とりあえずアタシは、熱いコーヒーを入れることで、新しい一日の始まりを納得させることにした。
昨日はとんでもなくひどい一日だったが、何にしてもそれは過去のモノ。
今日もきっと、昨日に更に輪をかけてひどい一日になるんだろうけど、少なくとも今この瞬間だけは、静かで平和な空気が漂ってるんだ。
アタシがこの静寂に身をゆだねながら、一杯のコーヒーを楽しんだって、文句を言われる筋合いはないだろう。
ふと目を運転席の方に向けると、鹿目タツヤが即席のテーブルの上で、何かやっているのが見えた。
車内灯の灯りでできた影のせいで手元が暗くなっているせいで、何をやっているかは見えなかったが、サラサラという軽い音と、カサカサという微かな音で、紙に何かを書いているらしいことだけはわかった。
「……何やってんだ?」
「手紙をね、書いてるんです」
気まぐれで投げかけた質問に、鹿目タツヤは顔も上げずにそう応えた。
いつものような、妙に明るく朗らかで、その癖どこかとぼけたものを感じさせる口調じゃないのが、ちょっと意外だった。
真面目というか落ち着いているというか……何か、どこか遠い何かに思いをはせているような、しんみりとしたものを含んだ、そんな声音。
だから……だろうか。
つい興味をひかれて、聞き流しにできなかったのは。
「ふうん……いまどき古風っていうかアナクロっていうか……電話かメールでいいだろうに」
「まあ、相手が普通の人なら、それでも構わないんでしょうけどね……」
「ほほお、普通じゃない? するってーと、異常な人間なわけだ?」
「…………そうですね。相手は僕の姉さんなんですけど……今はもうどこにもいませんし、いろんな意味で確かに普通じゃないかもしれませんね」
からかい半分の言葉に返って来たのが、思いもよらないヘビーな言葉だったので、アタシは思わず言葉を失っちまった。
次いで、どエラい後悔と自己嫌悪に苛まれる。
そっか……そりゃ、そうだよな。
今の時代、親兄弟が揃って何の危険にめぐり合うこともなく、平凡で幸せな生活を満喫できるような恵まれた人間が、いったいどれだけいるものか……。
そもそも魔法少女でもないコイツが、魔獣関連の問題に自分から首を突っ込んでる時点で、それなりの理由があるはずなのは、明白じゃないか。
そう考えると、コイツの普段のとぼけた言動も、自分を鼓舞し、奮い立たせるためのもので……表にこそ出さないものの、コイツはコイツなりに必死なのかもしれないって、そう思った。
「えっと、その……悪ぃ。なんか、無神経なこと言っちまったみたいだな……」
「気にしないでください。そもそも、杏子さんが謝るようなことじゃありませんよ」
「けどさ……」
「僕は気にしてません。だから、杏子さんが気にする必要もない。…………何か間違ってますか?」
「いや、まあ……アンタがそれでいいなら、いいけどさ……」
なんっつーか。
頭では納得できても、感情の部分で納得できないんだよな。こーゆうことって。
それで、なんとなくお互いに黙っちまって、しばらくは向こうもアタシも無言のまま、ただ紙の上をペンが流れていくサラサラという音だけが、続いていた。
う~~む。
気にするなとは言われても、辺りに立ち込めるこの重い空気は……きっ、気まずいっ……!
アタシ苦手なんだよな、こういう雰囲気って。
それで、悪いと思いつつも性懲りもなく、また声をかけちまった。
「アンタがこの件に絡んでるのは……それが原因なのか?」
「そんなところですかね……。何しろ文字通り、他人事じゃないですし……。もっとも、一番大事な部分では結局ほとんど手出しできず、魔法少女頼りってのが、我ながら実になさけないですけどね……」
ようやく書き終えた手紙を丁寧に折り畳みながら、鹿目タツヤは小さく肩をすくめて見せた。
まるで茶化しているような軽い口調だが、その口元は自嘲に歪み、表情にも遣る瀬無いものが漂っている。
なんか、こう……ますますばつが悪くなったというか、針のむしろというか……さっきから、やたらと地雷を踏みまくってるような気がするのはアタシだけか?
今まで知らなかったけど、もしかしてアタシって、自爆体質だったりしたのだろうか。
うわあ。できりゃ一生気付きたく無かったよ。自分で言うのもなんだが、ヤな体質だな、おい。
そんな、軽い自己嫌悪に落ち込んでるアタシの内心を知ってか知らずか、いつものような不思議な笑みを浮かべたニコちゃん顔が、アタシに向けられる。
「なんだったら、杏子さんも書いてみたらどうです?」
「はあ? どうですって……手紙をか? わざわざンなもんを書いて送るようなヤツはいねぇよ」
「家族に、なんてどうです?」
……この野郎。
知ってて言ってんのか?
「家族なんざ、とっくにいねぇよ」
「いなくとも手紙は書けますよ」
なんか……わけのわからないことを言い始めましたよ、このヒトは。
「確かに……今はもう、この世にいない人に、生きている人間の言葉は届きません。でも……手紙は、そうじゃないんじゃないかって……なんとなくですけど、そう思えるんですよ」
「…………」
「こうやって手紙を書いて……それを燃やすんです。そうすると、その煙が空高くまで上っていって……それがなんだか、手紙に書いた文字が、今はもうここにはいない、どこか別の世界に行ってしまった人のところに届いてるような……そんな気がするんです」
「そういうもんかね」
「まあ、あくまでも僕の個人的な感傷ではあるんですけどね」
照れくさそうに笑いながら頭をかくその姿を見て、アタシもなんとなくさっきまでのバツの悪さが、ほんの少しだけ晴れるような気がした。
「それに……言葉では言いにくいことも、こうやって文字にする分には、それほど精神的にも負担にはなりませんからね。どうせ燃やすものだしってことで、結構恥ずかしいことも書けたりするし、それはそれで、ストレス解消にもなるんですよ」
「ふうん……?」
まあ、確かにそういう面はあるかもしれないね。
人前ではろくすっぽ自分の意見を言えないヤツだって、インターネットなんかの掲示板じゃ、結構好き勝手に毒舌を吐けるのと似たようなもんだろう。
「ですから杏子さん。ぜひとも嬉し恥ずかしい黒歴史的な中二病患者語録のごとき、リリカルでポエミィなイタイ文章を書いてくれませんか? っていうか、杏子さんみたいな人のそういう文章、ものすごく読んでみたいです」
「…………おい」
ふざけてんのかコイツは?
思わず脱力して、その場に膝をつきそうになるのを何とかこらえ、真顔でボケたことをのたまうすっとこどっこいの顔を睨みつけた。
ちょっとでもコイツのことを感心しそうになった自分に、腹が立つ。
一発ぶん殴るか、そうでなくとも張り倒してやろうかと半ば本気で考え―――ふと何かが聞こえたような気がして、アタシは動きを止めた。
風の音のようにも思える。
けれど、今やすっかりアタシの耳に馴染んでいたソレとは、どこか……何かが異なる、異質な響きが、そこには混じっているように感じられた。
アタシたちは申し合わせたように、ほとんど同時に窓の外へと視線を向けていた。
そこで初めて、暗い空一面にオーロラの輝きが広がっていることに気付いた。
オーロラは濃淡入り混じった微妙にして精緻な光の縞模様を描きながら、さながら幾重にも連なるカーテンのように空一面を虹色に彩っている。
その極北の凍える大気が彩なす輝きに、一面の氷雪原は幻想的に淡く染め上げられ、遊園地のスケート・リンクのようにも見えた。
思わず、胸の奥がシンとなるような幻想的な光景。
だから、だろうか。
自分が今いる場所が、現実と幻想の入り混じった境界のように思えたのは……。
そんな景色の中。
オーロラと氷雪原の狭間―――地平線上に、何か揺らめく影がある。
思わず双眼鏡で確認しようとして、そんなことをするまでもなく、あの影の正体が明白であることに気づく。
アタシは無言で雪上車の外に降り立ち、今まで溜めこんでいた魔力を全身に迸らせた。
軽い高揚感とともに、視力や聴力が人間としての領域を遥かに超越していくのが実感として感じられる。
全身を締め付けるような極寒の大気が、全身に魔力を通した肉体の表面に触れただけで胡散霧消して、まるでオーラのように体中から不可視の流れが立ち上る。
準備は万端。
身体のどこにも異常はない。
そう確認したところで、先刻耳にしたあの音が、再び大気を震わせる。
―――OOOOO……ooooo……nnnn……
低い号泣とも形容すべき音だった。
あるいは、陰々滅滅たる鎮魂歌(レクイエム)とでも言うべきか?
それは、どこか胸を掻き毟るような哀切な響きを帯びているのと同時に、どこかしら自嘲めいた慟哭の響きも内包していた。
あるいは、中世ヨーロッパの民話に登場する妖精バンシーが、ちょうどこんな声を上げていたんじゃないかと、そんならちもないことが頭の片隅をよぎる。
なんにせよ、人間の悲しみを象徴する『悲哀(ルゲンシウス)』が歌うには、確かに相応しいと納得できるだけの何かが、そこにはあった。
「……行ってくる」
短くそれだけを言い捨てて、アタシは魔力で編んだ愛用の槍を片手に、凍りついた大地を蹴った。
野生のインパラもかくやと思えるほどの桁外れの跳躍力と、訓練された猟犬に勝るとも劣らないスピードで駆け抜ける。
ゴォゴォと耳元で唸り過ぎる風の音。
その音に掻き消されるような微かな……けれど、不思議とハッキリとした響きが、鼓膜に届く。
「ご武運を……」