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[28893] 魔法少女まどか★マギカ Returns  ~エルド・アナリュシス~ (まどか★マギカ×地球・精神分析記録)
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:0eb1acfe
Date: 2011/07/18 14:49
みなさまこんにちは。
こちらに初めて投稿する、ぱばーぬというものです。
むかーし、しこしこと二次創作小説なんかを書いてたりしてましたが、ちょっとした事情でやめてたんですが、久しぶりに書いてみようと思い立ち、ここにきました。

タイトル通り、アニメ/まどか★マギカと、小説/地球・精神分析記録~エルド・アナリュシス~とのクロス・オーバーものです。
まあ、より正確には、地球・精神分析記録のほうの設定のあれやこれやを、まどマギに落とし込んだ、みたいな感じですが……。

とりあえず、まどかのほうだけ見ていれば、理解できるような作りにしていくつもりです。

基本は、歴史改編後の魔獣のいる世界が舞台。
予定としては、以下のような全部で五章仕立てになります。


Ⅰ 悲哀(ルゲンシウス)―――佐倉 杏子

Ⅱ 憎悪(オディウス)―――巴 マミ

Ⅲ 愛(アモール)―――美樹 さやか

Ⅳ 狂気(インサヌス)―――暁美 ほむら

Ⅴ 激情(エモツィオーン)―――鹿目 まどか


一つの章が、どれだけの長さになるかはわかりませんし、それぞれの章が同じような長さになるかも不明ですが、お付き合いいただければ幸いです。

んでは、とりあえず。
予告です。





静かなる異変……。
それがいつ始まったのか、何が引き金となったかは知らず、
サイコ・エントロピーがもたらす接触性喪失、感情の希薄化、自我空虚性に蝕まれた人類文明。
虚ろなる自我を抱えたゾンビー・ゼネレーションの増大によって、人類は種としての存亡の危機に直面していた。

この滅亡を回避する手段はただひとつ。
ヒトの集合的無意識の闇淵より生まれ出でた、魔獣の範疇から大きく逸脱した超絶なる存在、
現実世界を侵食する英雄神話の化身とも呼ぶべき四体の神獣を打ち倒さねばならない。

『悲哀』
『狂気』
『愛』
『憎悪』

これら、四体の神獣に戦いを挑むべく、四人の魔法少女たちが今、己の全てを賭けて立ちあがる……。




……みたいな?



[28893] Ⅰ 悲哀(ルゲンシウス)―――佐倉 杏子  =01=
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:0eb1acfe
Date: 2011/07/18 14:54
「ある日ぃ~パパとぉ~ふったりでぇ~♪ 語りぃ~あったさぁ~♪ この世に生っきるぅ~喜び~、そしって悲しみのことを~♪ っとくらぁ!」


我ながら音程が外れまくっているとか、妙に声が裏返ってるとか、語尾がやけにおっさん臭いとか……まあ、問題点を数え上げればきりがない歌声だったが、そんなことは気にならなかった。
そんなことよりも、景気づけに歌っているはずなのに、ちぃ~っとも心が弾んでこないことのほうが、よっぽど問題だった。
ぶっちゃけた話、そんな場当たり的な景気づけでどうにかなるほど、周囲の環境が生易しいシロモノではなかったとも言えるんだろうね。

寒い……なんてちんぷな言葉では、現在アタシを取り囲んでる環境を説明するには、お粗末にも程があるってもんだろう。
かと言って、じゃあ今のこの状況を―――氷点下七十度、風速十五ノットなんて馬鹿げた数値で表される万年氷高地を的確に表現する言葉も、無学なアタシにゃ思いつかないんだけどさ……。

今のアタシの姿を知り合いの誰かが見たら、きっと腹を抱えて笑い転げるに違いない。
なにしろ、ありったけの防寒具を厚着に厚着を重ねた着膨れ状態で、坂道で足を滑らそうもんなら、そのままどこまでも転がっていきそうな状態なのだ。

それでもなお、普通の人間にとっては、十分な防寒装備とは言えなかったろう。
何しろ、手でも足でも肌がほんの少しでも露出しようものなら、即座に霜焼けを通り越して凍傷になっちまうってんだから、まったくもってシャレにならない。
不用意に深呼吸でもしようものなら、冗談抜きで肺腑が凍りつきかねないなんて、どこの異世界の常識だっつーの。まったく。

そんな、まさに想像し得る限り最悪の環境に、アタシは身を置いているのだった。

とは言え……まあ、やたらとスパルタンなこの環境も、魔法少女であるアタシにとっちゃ、さほどの重要事ってわけでもない。

魂を肉体から抜き出され、ソウル・ジェムなんつー石ころに変えられちまったおかげで、アタシ達魔法少女にとって元々の身体は、外付けのハードディスクみたいな位置づけになっている。
そのおかげで―――っつーか、そのせいで? まあ、どっちでもいいんだが―――ありとあらゆる肉体的苦痛は、ほぼ自動的に一種のフィルターがかけられたような状態になり、精神の活動に多大な影響が出ない程度に軽減されるようなのだ。
訓練すれば、意識的に痛みを完全に切り離してしまうことさえ可能、とは、こんなろくでもない身体にしてくださりやがった、白い淫獣のありがたいお言葉だ。

そんなわけだから、別に戦闘中ってわけでもない今現在、感覚を完全にシャットダウンしても確かに問題はないし、極端な話、すっぽんぽんで歩き回ったところで生命維持に支障はないのだが……アタシは、あえてそれをしていなかった。

もちろん理由はある。

アタシはトナカイの毛皮でできたコートのポケットに入れていた、これもトナカイ製の手袋をつけた両手を取り出し、目の前でわきわきと動かしてみた。


―――パキッ……ペリッ、ペリリッ……


これだ……。

完璧に防寒していたつもりでも、ほんの少しの隙間からいつの間にか忍び込んでくる冷気と氷片のせいで、薄い氷が手袋の表面をうっすらと覆っている。

そりゃまあ、魔力を回してやりさえすれば、かじかんだ手の感覚や血色は瞬時に取り戻すことも可能なんだけど、こびりついた氷までが無くなってくれるわけじゃない。
もし突発的な戦闘になって、いざ戦おうとしたら氷で滑って武器を取り落としたせいで負けました、なんてことになったら目も当てられない。そんな最悪の終わり方だけは勘弁してほしいと、アタシとしちゃ思うわけなんである。
だからこそ、過剰とも言える防寒具で全身を固めるような真似もしているわけだ。
体温維持に使う魔力の節約にもなるしね。

それにしても……と、両手にこびりついた氷をペリペリと引き剥がしながら、つらつらと考える。
こんな時につくづく思うのは、苦痛を苦痛として認識できないのも良し悪しってことだ。

たいていのヤツは、痛みを感じないってことを『便利だ』と思うらしいが、それは短絡的な考えとしか言いようがない。
そんなお気楽なことを考えるヤツは、痛みってのは自分の肉体が損傷したことを知らせるための大切なシグナルなんだってことを、まるで解っちゃいないのだろう。

そりゃあ、普通の人間と違って魔法少女の場合、肉体が損傷したところで魔力さえあれば修復は可能だ。
だが、魔力だって無尽蔵にあるわけじゃない。そんな無駄遣いをしていたんじゃ、魔力が幾らあったって足りるわけがない。
魔法少女の世界でも、省エネの精神は大切なのである。

実際、なりたての魔法少女の中には、あまり苦痛を感じないって理由で無茶をやり、それが結果として無駄な魔力消費や、肉体の損傷に由来する反応速度の低下や祖語を引き起こし、ここぞって時に思った通りの結果が出せない、なんてことがよくあるのだ。
それが原因でくたばっていった魔法少女達を、アタシはこれまで何人も目の当たりにしてきた。

まあ、他人が死に急ごうと、どんな無茶な生き方しようと、そんなことはアタシの知ったことじゃないし、それこそどうぞお好きなように、てなもんだが、アタシはゴメンだね、そんなの。

何をさておいても、自分が生き残ることに全力を尽くす。
それが、このアタシ―――佐倉 杏子のモットーなのだ。

それにしても……


「グリーン、グリーン♪ 青空にぃ~はぁ~小鳥が歌ぁ~いぃ~♪ グリーン、グリーン♪ 丘の上にぃ~は、ララ、緑がもえ~るぅ~♪」


雪こそ降ってないものの、より質が悪いとも言える尖った氷欠がゴォゴォと吹き荒れるこの陰鬱としか言いようのない天候の下、なんとも場違いな歌だなあと我ながら苦笑せずにはいられない。
ここが北緯七十X度X分……グリーンランドの高地だからって語呂合わせだけで思いついた歌だったんだが、却って寒さが増したような気がする。主に精神的に。

しかし、やけくそだろうが何だろうが、無理にでも精神を鼓舞する何かをやっていないと、どこまでも気分が沈んでいきそうになってしまうんだから仕方がない。
空気さえもが『陰気、陰気』と囁いているような、この暗い情景には、そんな、見る者の心にどこまでも染み込んでいって、灰色に染め上げてしまうような、何か不可思議な力があるような気がしてならなかった。

それとも、これこそが……


―――魔獣を超えた魔獣

―――英雄神話の顕現たる存在

―――『悲哀(ルゲンシウス)』


……と、そう呼ばれる怪物がもたらす力の一端なのだろうか?

大いにありそうだと思う一方でアタシは、いまだにその『悲哀(ルゲンシウス)』とやらの実在そのものを、完全に信じているわけでもない自分を自覚していた。

どだい、話の内容が荒唐無稽に過ぎるのだ。
いや、それを言っちまったら、魔法少女だの魔獣だのって存在自体が、普通の一般人から見ても荒唐無稽なんだろうけど、そんな荒唐無稽が服着て歩いてるようなアタシから見ても、その話は突飛に過ぎた。

実のところアタシは、今も自分が、何やら質の悪い詐欺に引っ掛かってるような気がしてならないのである。
それぐらい、今回の話は胡散臭すぎた。

それなのにどうして、わざわざ遠く日本を離れてまで、こんな人外魔境じみた地の果てにまでのこのこやって来たのかというと……正直、自分でもよくわからない。

確かに、ある種の報酬を約束されたのは事実だが、そんなものに目がくらんだわけではないってことは、胸を張って断言できる。
もちろん、誰かを人質に取られたり、弱みを握られたりして、その交換条件で無理やりに、ってわけでもない。
ましてや、人類存亡の危機だの、宇宙の全知的生命体への破滅の波及だの、そんな御大層な戯言に心動かされたわけでも断じてない。
そんなのは、勤労意欲に満ち満ちた、どこぞの正義の味方面をしたドリル髪の女ゴルゴ13にでも任せておけばいいのであって、アタシが首を突っ込むようなことじゃない。

だからこそ、自分でも不可解なのだ。
なんだってアタシは、こんな場所でこんなことをしているのだろう……。


―――なんとなく、そうしなければいけないような気がした。

―――いずれどこかで、自分と深く関わってくる問題のように思えた。


敢えて回答するなら、こんなところになるだろうか。

もちろんこんなのは、何の理由にもなっていない。
ただの気まぐれ以外の何ものでもない。

そんなことは解っている。
解っているんだが、そうとしか言いようのない衝動が、何故か胸の内に巣食ってモヤモヤしてるんだから仕方ないじゃないか。


ああ、いや。


そう言えば、もう一つだけ。
理由らしい理由があったことを思い出した。

アタシにこの話を持ってきた、そもそもの発端。
まるで女の子のような端正な顔つきと、小柄な体つきをした、不思議な雰囲気をまとったあの男……。
アイツが何をしようとしているのか―――それに興味があるのは、確かに一つの事実だった。

アイツ―――名前は確か……タツヤ。

鹿目 達也(かなめ たつや)とか言ったっけ……。



[28893]    悲哀 =02=
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:0eb1acfe
Date: 2011/07/20 13:59
ユング心理学によると、英雄神話と呼ばれるモノは、個人の自我が無意識や未成熟から自由になるための象徴であり、全ての民族に共通するわけじゃないが、四段階を経て進化すると言われているらしい。
『悪戯者(トリック・スター)』、『うさぎ』、『赤い角』、『双生児』という名称で呼ばれているこれらの周期は、そのまま個人の自我の成長段階にも当てはまるとかどうとか言われているらしいが、そんなことは正直アタシにとってどうでもいい。
アタシだけじゃなく、ごくごく普通の人間にとっても、心理学に興味があるような輩でもない限り、「へー、そーか」の一言で済まして終わりな、トリビアの種でしかないだろう。

そんな呑気な一言で済ませられないのは、この先のこと―――
現在の人類は、かつて経験したことのない新しい英雄神話の領域へ……『死者(ゾンビー)』と呼ばれる、五段階目の周期を迎えつつあるという、そのことだった。

……もっとも、他人から聞いただけの受け売りだから、詳しいことはアタシにもよくわかってるわけじゃないんだけどね。
けどまあ、だからといって勉強不足だ、などとは誰にも言えないはずだ。
だって本当のところは、未だ誰にも、ほとんど何もわかってないってのが正確なところなんだからさ。

実際、それがいつ始まったのか、何故そうなったのかは、現在になっても解明されていないらしい。
ただ、人類の集合的無意識に何かが起こったのは確かだ、とは言われているんだそうな。


ついに『進化の袋小路』に行きついてしまったのだという説―――

地球規模での気象変化が宇宙線のシャワーをもたらしたのだという説―――

人間の精神に干渉・寄生する未知の異生命体に取りつかれてしまったのだという説―――


もっともらしいモノからオカルト的なモノまで、諸説頻々囁かれてはいても、いずれも定説にまでは至ってないってんだから、世間で学者でございとドヤ顔してる連中の面の皮の厚さと神経のズ太さには、ホント感動すら覚えちまうよな。
真面目くさった顔つきで、何の裏付けもない妄想に等しい持論を、それっぽい口調でぺらぺら喋ってるだけで金になるんだから、羨ましい限りだよ、まったく。
きっとアイツらの心臓は剛毛に覆われている上に、ガメラの甲羅でもくっついてるんだろうよ。

まあ、それはともかくとして。

現在、爆発的な勢いで増えつつあるゾンビー・ゼネレーションと呼ばれてる連中の顕著な特徴としては、程度の差こそあれ、等しく接触性喪失、無感動、感情の希薄化、自我空虚性などの症状に苛まれているということが挙げられる。
それらは、連中に『生きる』ということに対する無気力さを生み出し、時間感覚を曖昧模糊としたものに変貌させ、更には記憶力の著しい減衰さえもたらすこととなった。

あらゆる情熱から切り離され、虫食いだらけのスカスカな記憶を抱え、ただ死んでないだけの生を無気力に浪費する、空虚そのものの人間たち……なるほど、ゾンビーとはよく言ったものだ。

結果として、世界規模で自殺者や孤独死が増大し、出生率は年を追うごとに下降線の一途をたどりつつ、もはや留まる気配さえないという有様……。
文明の進歩は停止して久しく、あらゆる文化も緩やかに廃れつつあり、新しいモノが生まれる兆しは欠片も見えない。

社会が……文明が……そして人間という種そのものが、坂道を転げ落ちるように衰退を迎えつつあるのは、今じゃ誰の目にも明らかだった。
かつては無尽蔵に存在すると思われていた、豊穣なる心……感情……情動の揺らぎが、今や人々の内から枯渇しようとしているのだ。
これまで、集合的無意識という暗く広大な大海の奥底でたゆたっていたはずの英雄神話が、ついにはこの現実世界で再構成されてしまうほどに……。


いつしか歌うことを止め、沈思黙考にふけっていたアタシの目の前の光景が、それまでの変り映えしない無味乾燥な氷雪原から、クレバスが亀裂のように広がるモノへと唐突に変貌した。
大地もこれまでのような鉄板に等しい凍りついた一枚板のようなモノではなく、まるで幾何学模様のような亀裂が縦横に走り、そこかしこで無数に生じた水の流れが、はるか遠くクレバスが放射状に広がる中心部の巨大な亀裂へと、ドウドウと音を立てて流れ落ちていた。
時折、地滑りを思わせるような、ズズズっ……という不気味な鳴動が大地を小刻みに震わせ、それと呼応するように、亀裂のはるか奥底から放たれる鈍い赤光が明滅している。
休むことなく吠え、猛り、唸る氷雪まじりの暴風が、複雑怪奇な彫刻を思わせる形に切り裂かれた氷塊のそこかしこにぶち当たっているせいか、凄まじく不気味な音響が、休むことなく奏でられている。
さながら氷の下に閉じ込められた、無数の怨霊が漏らす号泣みたいで、まったくもって精神衛生上よろしくない。

それでもアタシが、深い安堵の吐息を漏らしてしまったのは、この場所が、地熱エネルギーの実験センターであり、とにもかくにも最初の目的地として設定した場所に他ならないからだった。
ただでさえ、標識はもとより目印となるべき特徴的な何ものも存在しないこんな場所で、ご丁寧にも視界の八十パーセント以上を覆い隠してくれるようなブリザードの洗礼を同時に受けるハメになったのだ。
方向感覚なんて、とうの昔にわけワカメになっちまってて、薄汚れた地図と、ちっぽけなコンパスだけを頼りに歩き続けてきたことを考えれば、ほとんど迷うことなくここまでたどり着けたってだけでも上出来ってもんだろう。

「ブラボー!」とばかりに賛辞と絶賛の嵐に見舞われてもおかしくないぐらいの快挙のはずなんだが、あいにくとここにはアタシ以外に誰もいないんだから仕方ない。
自分で自分に『いい子いい子』しながら、近くにある建物の中でも比較的規模の大きそうな建物を適当に見つくろい、足を向ける。
おそらくここのシステムへのエネルギー供給のコントロールか、整備や調整のための施設なんだろうけど、表面がびっしりと白い氷で覆われたソレは、何やら巨大な冷蔵庫のようにも見えた。

まあ、ここの実験センターは基本的に無人のはずだから、居住性とはおよそ無縁なつくりなんだろうけど、あまり贅沢を言ってはいけない。
この吹き付ける氷片まじりの突風さえしのげるなら、それなりに落ち着いて休息することも食事をすることも可能なはずだし、そもそもアタシはピクニックに来たわけじゃないんだから。
人間、死ななけりゃいいってもんじゃないけど、あれもこれもと欲張るのもよくないのよ。
何事も、ほどほどが肝心ってね。


―――まあ、アタシゃもはや人間とは呼べないかもしんないけどさ……。


そんなことを苦笑まじりに考えつつ、人目を気にせずに済むってことと、これまでの行軍で溜まりに溜まった鬱憤を晴らす意味もあって、アタシは魔力で生み出した槍で、凍りついた施設の扉の鍵を無造作に切り飛ばした。
そして、何の警戒も抱くことなく意気揚々と建物の中に足を踏み入れ―――
無人の施設のはずなのに、なぜか人工的な輝きが灯っていることに違和感を覚え―――
そこに見知った人影が存在することにようやく気付いて、アングリと口をあけることになってしまった。


「……ああ。意外と早かったですね、お疲れ様です」

「……………………」


暖房設備なんてしゃれたものがあるわけでもないにも関わらず、施設内は意外と暖かく感じられた。
吹き付ける暴風と肌に噛みつく氷片がないだけで、ここまで体感温度が違って感じられるっていうのは、ある意味でカルチャー・ショックだった。
RCA送信機、サーモグラフ、クロノメーターなどの武骨な機材が所せましと据え付けられているものの、施設内部のスペースは思っていたよりは余裕がある。
これなら休憩するにしても、手足を伸ばして休めそうだな。よしよし。


「……あのぉ。無視しないでもらえます?」


……ちっ。
できることならいないことにしたかったんだが、さすがにそれは無理がありすぎたか。
これみよがしに「はぁ」と大きなため息をひとつついて、アタシは改めてそいつに視線を向けた。

見かけだけで判断するならアタシと同年代か、あるいは少し年下っぽい男の子だ。
天井から吊り下げられた、古ぼけたシェードつきのランプの光のせいか、まるでスポットライトを当てられたように、その小柄な姿が薄暗い闇の中に浮かび上がっている。
淡麗とも言える整った顔つきは、光の角度によってはまるで女の子のようにも見え、そのどこか「のほほん」とした雰囲気とも相まって、ここが極寒の地であるにも関わらず、その背中に長閑な田舎の田園風景でも浮かび上がってきそうな感じだった。
加えて、どこからどうやって持ち込んだのやら、折り畳み式のパイプ椅子にのんびりと背中をあずけながら、片手には読みかけの文庫本。
も一方の手には団扇をもって、足元に置かれた火の入った七輪をパタパタやってる光景なんか見せられたら―――なんかもう、それなりに悲壮な決意と覚悟でここまでやって来たアタシの苦労はなんなんだーって気にもなるじゃないか。
もう何もかもがどーでもよくなって、アホらしいとばかりに回れ右をしたくなったからといって、文句を言われる筋合いはないと思う。割とマジで。

よっぽどそうしてやろうとも思ったが、えっちらおっちらここまで足を運んできたこれまでの苦労を無にするのも癪なので、まあ、とりあえず話ぐらいは聞いてやろう。
……決して、七輪の上でジュウジュウ脂を滴らせている、数本の焼き鳥に誘惑されたわけじゃないぞ?



  ★



「んで? なんでアンタが、ここにいるんだよ。鹿目タツヤ?」


アタシは差し入れだと手渡された焼き鳥をハグハグとぱくつきながら、とりあえず聞いてみた。
理由がなんだろうが、別にどーでもいいってのが本音なんだが、まあ、アレだ……。一応はコイツが今回の件の依頼主なわけだからな。
形の上だけでも、話ぐらいは聞いてやらねばなるまい。

しかし……ムグムグ……このタレ、結構いけるな。ガチうめ~。


「そんなに急いで食べなくても、おかわりは十分に用意してありますよ?」

「うるせ。とっとと質問に答えろ」

「う~ん……。それはまあ、結構危ない仕事を頼んだ自覚ぐらいはありますからね。サポート? っていうかお手伝い? みたいな?」

「……ことごとく疑問系になってる時点で足手まとい臭プンプンな上に、胡散臭さまで感じて仕様が無いのは、アタシの気のせいか?」

「ええと……そこは、ほら。あれですよ」

「どれだよ」

「いわゆる謙遜とでも言いますか……『ああ、この責任感にあふれた少年は、今時珍しいぐらい控えめな性格をしているんだなあ』とでも受け取ってもらえたら嬉しいなって……思ってしまうのでした」

「そんな自己主張の激しい『控えめ』があるか」

「ですよね~」


ああ、もう。あいっかわらずつかみ所のないやつだな。
これでまだ悪意が見え隠れしてるなら、こっちもそれなりに対応できるんだが、こうも邪気がないと、かえって対処に困るんだよな。
それどころか、思わずこっちが辟易しちまいそうなぐらいあからさまな、好意のオーラがぎゅんぎゅん立ち上っているのが、なおさら質が悪い。

ああ、やだやだ。アタシ、苦手。こういうタイプが、一番苦手。超・苦手。
敵意や蔑視、嘲りや恐怖を向けてくる相手ならこれまで幾らでもいたし、そういう視線にも慣れてるからどうってこともないんだけど、こういう無邪気とも言える善意や好意を無条件で向けられると、途端にどう反応していいのか解らなくなってしまう。
背中がムズムズするというか、なんか物凄く居心地が悪いというか……ホント、どう反応すりゃいいのかまるでわかんないのだから勘弁してほしい。
胡散臭さっていう点では、あの白い淫獣こと奇跡の安売りセールスマン―――キュゥべえとどっこいどっこいだが、あちらと違ってストレートに敵意を向けにくい分だけ、こっちの方が質が悪い。


「まあ、僕のことはホントに気にしないでください。足手まといになるつもりはありませんけど、もしなったとしても、遠慮なく見捨ててもらって結構ですから」

「言われなくても、そのつもりだから安心しろ」

「…………えっと。そこで納得しちゃうんですか? そこはもっと、こう……『そんなことできるはずがないだろう』とか、そういう台詞が出てくる場面だと思うんですけど」

「そう思うんなら、そうなんだろうよ。アンタの頭の中ではな」

「…………杏子さんて」

「……んだよ?」

「いわゆる、ツンドラってやつですか?」

「………………………………」


いろんな意味で違うと思うぞ。

もう何度目になるかわからないため息を「はあ~」と漏らす。
ため息つくだけ幸せが逃げるっていうけど……なるほどね。アタシのろくでもない人生の謎の一端が、ほんのちょっぴり解けた気がする。
そして、アタシのため息の回数を加速度的に増大してくれやがるコイツは、やっぱりアタシにとっての疫病神だと改めて認定。


「そもそも手伝いだなんだって、アンタに何ができるっていうのさ。口先だけで『力になりたい』って言うだけなら、幼稚園児にだってできるんだよ?」

「心外だなあ。僕だって、自分にできることをそれなりに考えてるんですよ」

「じゃあ、その『自分にできること』ってのを具体的に聞かせてみな。アタシが採点してやる」

「そうですね……。例えば、僕たちが今いるこの場所から、『悲哀(ルゲンシウス)』が出没するとされる地点までは、更にまだ距離が離れてるわけですけど……」

「……ヤなこと思い出させんなよ」

「現実逃避しても、問題の解決にはなりませんよ? まあ、それはともかく……目的の場所まで杏子さんには、せめて余計な疲労やストレスをこれ以上溜めてもらわないために、雪上車っていう移動手段を用意してきました」

「………………………………はい?」


今コイツ、何を言いやがった?


「雪上車ですよ、雪上車。さすがにホテル並みの快適さとまではいきませんけど、ちゃんと暖房完備だし、ちょっとしたコーヒーメーカーも据え付けてるんで、体力の消耗を抑えつつリラックスしながら、戦意を蓄えてください。あ、もちろん運転は僕が引き受けますんで」

「……つまり、アレか? オマエがアタシより先にここにたどり着いてたのも……ソイツに乗ってぬくぬくと雪上ドライブをエンジョイしてきたから、ってことか?」

「なんか、言い方がちょっとひっかかりますけど……まあ、概ねそんなところです」

「この野郎っっ!!」


やってられっかー! とばかりに、アタシは吠えた。
目の前にちゃぶ台があったら、間違いなくひっくり返してるところだったが、あいにくとそのポジションを務めてるのは、いまだに数本の焼き鳥をジュウジュウ言わせてる七輪だ。
食いモンを粗末にしてはいけないというわずかな理性が働いて、どうにかソイツは自重したが、だからといってこの遣る瀬無い怒りの炎が消えるわけじゃねえ!


「そんな便利なモンがあるなら、どうしてコトの初めからソイツを手配しねぇんだ、テメェはっ! アタシがここまでたどり着くのに、どんっだけ苦労を……うがああぁっ! ムカつくっ! 超ムカつく!!」

「あの……なにも血涙流さなくてもいいんじゃないですか?」

「やかましいっ! やっぱりオマエ、敵っ! アタシの敵に確定っ! 今回の件が終わったら覚悟しろよ。ボコボコにしてやっからな、こんちくしょうっ!!」


檻の中に閉じ込められた猛獣よろしく、アタシはしばらく辺りをウロウロしながら吠え猛りまくった。
ここまで頭にきたことも、久しくなかったと思う。


「そう言わないでくださいよ。これも、『悲哀(ルゲンシウス)』に逢うために必要な手続きの一環だと思ってください」

「はあ? 何だよそれは。意味わかんねぇし」

「神話……中でも英雄神話って呼ばれるモノの中には、あらゆる民族に共通するパターンが明らかに見られるんですよ。その中の一つが、英雄と目される登場人物が目的を達成しようとする場合には、必ず何らかの障害を乗り越えなければならないというものです」

「アタシは英雄なんて、歯の浮くようなシロモノじゃねえよ」

「英雄は必ずしも、正義の味方とイコールってわけじゃありませんよ? 本来ならヒトにはなし得ないことを可能とする者が、英雄って呼ばれるんです」

「むう…………」

「その乗り越えなければならない障害には、いろんなパターンがあります。例を幾つか挙げるなら……半神半獣から謎かけをされたり、汚れに汚れきった牛舎を一晩で掃除しろって言われたり、時としてはドラゴンを退治しなければならない、とかですね」

「……そして中には、ヒトが足を踏み入れたらとうてい無事には済まないような場所を踏破しなければならないパターンもある、とでも言いたいわけか?」

「ご名答です。なんだ、解ってるんじゃないですか。さすがは杏子さんですね」

「そうかいそうかい。褒められてもちっとも嬉しかないのはどうしてだろうね」


キリスト教以前の中世ヨーロッパの人間は、大宇宙と小宇宙という二つの宇宙を生きていたと言われている。
小宇宙は人間の力でコントロールが可能な空間で、家がその中心になる。そして、その外側に広がるのが大宇宙だ。
そこは、神や霊や怪物―――つまり人間の力を超えた存在が住む場所であり、病気や天災なんかの人の手に負えない諸々の災厄は全て、この大宇宙から小宇宙に襲いかかってくるものと信じられ、恐れられていたのだという。

その人外魔境を、昔の連中は『森』を象徴として恐れ、敬っていた。
古い森は太古からの魔力が支配する、自然の王国としてはふさわしく見えたんだろう。

古いドイツ人たちは、森にはヴェアヴォルフと呼ばれる毛むくじゃらの男たちが住んでいると信じていた。いわゆる人狼伝説だ。
バイエルン地方では、道に迷った旅人たちはタッツェルブルムという怪物に出くわし、ソレを目の当たりにした者は、恐怖のあまり心臓マヒで死んだと伝えられる。

だけど、人間は自然を恐れもするけど征服しようとも考える。
特にキリスト教は、この従来の二つの宇宙という考え方を嫌った。
父なる神の下、宇宙は一つだと主張し、その主張が正しいことを証明するために、大宇宙の領域に住まうモノ達を小宇宙に引きずり落とすことに専念した。
世に有名な聖ジョージの竜退治伝説や、異教の神々を悪魔として己の教義に取り込むことなんかも、その象徴の一つだったかもしれない。
他にも例を挙げればきりがないが、とにかく伝説の英雄たちにとって、魔が徘徊する危険な『森』を踏破することは、目的の場所にたどりつくために……また、目的のモノを手に入れるために、必ず潜り抜けねばならない試練だったようだ。

それでも、怪物は人々の中から消え去ることはない。
大宇宙に対する恐れが、完全に消滅することはない。

現在にいたっても……『魔獣』という形をもって、それは世界に蔓延っている……。

ならば、その現代に蘇った怪物の顕現とも言うべき『魔獣』たちの更に上をいくモノ―――魔獣を超えた魔獣とも呼ぶべきモノを、
怪物たちの頂点に立つシンボルとしての『竜』にも等しい、その『神獣』を打ち倒すべく歩を進めるアタシもまた、『竜』たる『神獣』と会い見えるためには試練を受けなければならない。
神話と、英雄神話によって侵食されつつあるこの世界において、それは避けることのできない通過儀礼なのだと、
相変わらずのニコちゃん顔をしながらも、どこか静謐なモノを感じさせる不思議な表情で、鹿目タツヤは諄々と語った。

相変わらず、胡散臭い話だ。
そもそも、その説を確たるモノとするべき論理的根拠がスカスカだ。
ヤバげなクスリが完璧にキまりました的な重度のジャンキーが口にする戯言と大差ない。

それでも、その全てを否定することはアタシにはできなかった。

だってアタシは知っている。
日常の裏に、『魔獣』と呼ばれる非日常が存在していることを……。

だからこそ、鹿目タツヤの言う四体の神獣―――


悲哀(ルゲンシウス)

狂気(インサヌス)

愛(アモール)

憎悪(オディウス)


これらの存在を、頭から否定することができないでいる。

……いや。
正直に言おう。

心のどこか……深い部分でアタシは、それら神獣の存在を半ば確信している。
だからこそ、頭では怪しい話だと思いつつも、この話に乗ったのだ。

この地に出没する神獣

『悲哀(ルゲンシウス)』を倒すという話に……。



[28893]    悲哀 =03=
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:0eb1acfe
Date: 2011/07/23 23:28
心理学者ユングが強く主張した、いわゆる『集合的無意識』ってヤツを明確に定義するのは難しい。
……っつーより、小難しいことを聞かされたら途端に睡魔に襲われる持病を持つアタシの頭じゃ、理解しようと意識すること自体がそもそも困難なのだが……。
それでも一応は理解してみようと努力した結果、どうにか理解できたのは―――時としてソレは、あらゆる生物に備わった原始的な諸衝動と同一視されることもあるが、絶対に意識化されることのない『何か』という説の方が、より一般的であるらしい、ということだった。
ま、そりゃそうだ。
意識できないからこそ、『無』意識なんて呼ばれてるんだろうしな。

イメージとしては、人間一人ひとりの意識―――表層意識と呼ばれる領域は、植物に例えるなら幹や枝葉などの地面から上の部分、
そして、無意識―――深層意識と呼ばれる領域は、地面の下に広がっている、目に見えないけれど幹を支える文字通り根幹となる根っこの部分、
最後に、そのそれぞれの根っこが吸い上げる栄養分となる巨大な地下水源が、集合的無意識と呼ばれるモノなのだと、アタシは理解した。

集合的無意識は、人類の進化がもたらした必然的な精神遺産であり、全ての人間一人ひとりに等しくつながっているが、決して関知することはできない。
そして、この異境からは常に精神エネルギーが噴出していて、心理学者のフロイトが、このエネルギーのことを『リビドー』と呼んでいたのは周知のことである。
ただし、それを主に性的なモノと解釈したフロイトの説は、計量心理学の発達によって現在ではほとんど否定されているらしい。
性的欲求だけでなく、さまざまな心的抑圧、諸コンプレックス、トラウマ、ゼーレ……ありとあらゆる心的ゆらぎが、『リビドー』を形成する材料となり得るのだ。
そうやって生じた、意識と無意識との間のエネルギー格差が諸感情を生み、それはさまざまな衝動やインスピレーション、意欲や欲望へと転じ、これが時として神経症や精神疾患を形成することもあるが、同時に人間のあらゆる創造的活動の源泉ともなっている。
まっこと集合的無意識こそは、人間を人間たらしめる源と言っても過言ではないのではあるまいか。HAHAHA……とは、鹿目タツヤの言である。

ちなみに、物理学におけるエネルギー恒存の法則を、人間の心的状態に当てはめた場合、

―――無意識のエネルギー充填量は、意識が失うエネルギーの量に等しい

という法則が成り立つんだそうだ。

では、もしその集合的無意識が、人類の内から消滅してしまったらどうなるか?

人間の精神構造を植物に例えた先の例で考えてみれば答えは明白だろう。
水源から切り離された植物は、しばらくは細々とやっていけるかもしれないが、いずれは枯れてしまう。
それが、現在の人間の状態であり、ゾンビー・ゼネレーションと呼ばれるモノの正体だ。

精神エネルギーのポテンシャルが極端に平坦となり、均一化してしまったこの状態のことを、精神分析医たちはサイコ・エントロピーの状態と呼んでいるらしい。


「もっとも、本当の意味で集合的無意識が人類から切り離されてしまった、とは、僕は考えていませんけどね」


食事の後片付けをてきぱきとした動きでこなしながら、鹿目タツヤはそう言った。


「だって、もし本当にそんな状態になってるんだとしたら、人類全体がサイコ・エントロピーを発症して、ゾンビー・ゼネレーションになってなきゃおかしいでしょう? けど実際はそうじゃない」

「……ま、確かにな。ゾンビー連中が増えてんのは確かだけど、まだまだ普通の人間のほうが多いわけだし……。けどさ、だったらアンタはどう考えてんだよ?」

「そうですね……。さっき説明した、意識の状態を植物に例えた話に当てはめて言うなら……集合的無意識に相当する地下水源は、普通に植物が根から吸い上げる分には、水源が枯れない程度に水分が補充されていたわけです。しかし、そのバランスを崩すような外因が加わった場合は、どうなるでしょうね?」

「外因……?」

「例えば、どこかのよそ者がやってきて『お。こんなとこに豊かな水源があるじゃないか。ちょうど水不足で困ってたんだよね。ラッキー♪』みたいなノリで、ポンプで一気に地下水を吸い上げたりなんかしたら……どうなると思います?」

「…………近所迷惑な話だな」

「まさに、そういうことです。その水源に頼ってた現地の植物にとっては、たまったもんじゃないでしょう。まあ、水源が完全に枯れ果てるまで吸い出されたわけじゃないなら、長い時間をかければ、また水位は元に戻るかもしれませんが……幸運にも地下の深い部分にまで根が達してた植物はともかく、そうでなく浅い部分にしか根が行き渡ってない植物は、遠からず枯れることになるでしょうね」

「なるほどね……それが、ゾンビーになったヤツとならなかったヤツの違いってわけだ」


と、そのとき―――床がグラグラと揺らぐのを感じた。
身の危険を感じるほどの大層な揺れじゃなかったが、それでも鈍い音を立てて、屋根に降り積もった雪がズズズッと滑り落ちてドサドサと落下する音は、聞いててあまり気持ちのいいもんじゃなかった。


「地震か……?」

「そうじゃありませんよ。ここが地熱エネルギーの実験センターだっていうのは、知ってるでしょう? 局所的に地球内部から熱を汲み上げると、どうしても地殻が収縮してしまうらしいんです。なにぶん、まだ実験段階らしいですからね。要・改良ってとこなんでしょう」

「そんなヤベぇもん、よく使おうって気になれるよな。怖くないのかねぇ」

「怖いからこんな場所に、しかも無人のセンターを作ったんじゃないですか?」

「はっ……違いねぇ」



  ★


数十分後―――
アタシは再び、ブリザード渦巻く氷雪原の中を進んでいた。

ただし今回は一人じゃなかったし、歩いてもいない。
今回の件の立役者とも言える依頼主―――鹿目タツヤと一緒に、雪上車に乗っての氷上ドライブだ。

雪上車はかなり旧式のモノらしく、めったやたらとエンジン音がうるさい上に、スピードもノロノロとしたものだったが、それ以前の徒歩での雪中行軍に比べれば、そんな些細な問題など気にもならないレベルと言えた。

運転はもちろん、鹿目タツヤがしてるんだが……コイツ、どう考えても無免許運転だろ。
まあ、アタシだって他人の行状にケチがつけられるような立派な人間じゃないんだから、そのことをどうこう言うつもりはないけどさ。

風防ガラス越しに外を見てみると、すでに外の世界は夜の帳に包まれ、吹き付ける氷片の白さが無数に走る、古い写真のようなモノトーン色に染められていた。
吹き募る強風の雄叫びも、雪上車の分厚い装甲に阻まれた上にエンジン音にかき消されるため、ほとんど耳に届いてこない。
テレビの画面を通して見る、どこか外国の風景を見ているような……ひどく現実離れした世界に身を置いているような……そんな感覚があった。


「かつて存在したどんな民族にも、英雄神話を持たなかった連中はいません……。いつの時代にも、どの国でも、どんな民族でも……自分達の理想や夢を託すへき投影の対象として、英雄神話は存在してきました」


運転席に腰掛けた鹿目タツヤが前方に視線を向けたまま、まるで独白のような、ともすれば雪上車のエンジン音に紛れてしまいそうな声で話しかけてきた。


「カタチも様々……絵本の中に描かれ、テレビ画面に登場し、コミック誌の超人へと姿を変え……しかし途切れることなく連綿と、英雄の系譜は継承されてきたんです……」

「……今はどうなんだろうね?」

「現代人は、集合的無意識とのリンクが接触不良を起こしたような状態になっています……。ゆえに、今の人間にはその影のような名残だけが残されただけ……必然的に、無意識に端を発する英雄神話をも自らの内から失うことになりました」

「…………」

「より正確には、無意識という水位が極端に下がってしまったせいで、今まで水底に沈んでいた英雄神話と呼ばれるモノが水面下から姿を現し、それが世界の歪みやヒトの悪意、恐怖、怒り、悲しみなどを取り込んで、この現実世界に顕現してしまったわけなんですけどね」

「それが、アンタの言う魔獣を超えた魔獣―――」

「ええ。……悲哀(ルゲンシウス)、狂気(インサヌス)、愛(アモール)、憎悪(オディウス)と呼ばれる、カタチを持った英雄神話……四体の神獣が、それです」


普通の魔獣は、魔法少女以外の人間には関知することができない。
エサとして連中の結界にでも取り込まれたなら話は別だが、それ以外の状況では触ることもできないし、そもそも見ることさえできない。

だが、鹿目タツヤが神獣と呼ぶこれら四体のバケモノどもは、その例外なのだと言う。
例えば強い悲しみにとらわれた人間は『悲哀(ルゲンシウス)』の存在を、身を焦がすほどの憎しみを抱いた人間は『憎悪(オディウス)』の存在を、強烈に感じ取ってしまうらしいのだ。
そしてそれは、悲しむべき悲劇に見舞われても悲しむことのできない人間や、愛情を向けてしかるべき対象に全く何の感情も抱くことのできない人間たち……ゾンビー・ゼネレーションたちにとっては、いつしか一種の福音のように捕えられてしまったらしい。

……そう。
ゾンビー・ゼネレーションと呼ばれる連中にとって、神獣はまさに神のような崇拝対象と化しているのだという。
全ての感情から疎外されてしまったゾンビー・ゼネレーションにとって四体の神獣は、自分たちが失い、そしてついに取り戻せないでいる、何よりも尊いものの具現なのだと鹿目タツヤは語った。

そして今、人知れず静かに進行しているのが、そういった連中主催による『巡礼』なのだそうだ。
例えば、この地に出現するという『悲哀(ルゲンシウス)』を例に挙げると―――
自分が『悲しまなければならない』事態に直面したと認識した連中が、『自分にかわって悲しんでもらうため』に、ここグリーンランドにまで『悲哀(ルゲンシウス)』に逢いにくるのだという。

もちろん、生きて帰って来た者は皆無。
実際に『悲哀(ルゲンシウス)』にたどり着く前に凍死した者もいるだろうし、現実に逢えたとしても、それはそれで自分から猛獣のエサになるようなもんだからな。
ある意味で当然の結末と言える。まるでレミングの行進だ。

しかし皮肉な話だね。
普通の魔獣は、人間の感情を搾取するために出現する。
そして感情ばかりか、全ての精神エネルギーすら根こそぎ吸収され、植物人間じみた廃人にされてしまうわけなんだが……
そういう意味では、ゾンビーどもは魔獣たちにとって獲物の対象となり得ないわけで……普通の人間に比べれば、はるかに安全な立場にいるはずだった。
ところがそんな連中は、逆に自分の方からエサになりに行くってんだから、呆れて物も言えないよ、まったく。

けど―――と、ここで一つの疑問がアタシの脳裏をかすめた。


「けどさ、ゾンビー・ゼネレーションにとっちゃ、その神獣は言ってみれば心の最後のよりどころみたいなもんじゃないのか? 下手すると連中は、今度こそ本当に神話を失うことになるのと違うか?」

「父親殺しのコンプレックスを解消する、もっとも有効的な方法は、父親を殺すことですよ」


何気なく告げられた言葉。
おそらく、深い意味などない単なる比喩の一環として使われた言葉なのだろう。
けれどアタシは、『父親殺し』というその一言に、一瞬、心臓が大きく跳ねたような気がした。

そんなアタシの内心など気付いた様子もなく、鹿目タツヤは話を続ける。


「そういう意味で、ゾンビー・ゼネレーションが悩まされている人格喪失コンプレックスを解消する最適な手段は、連中にとってのそれぞれの感情の具現者たる、四体の神獣を倒すことです」

「ふん……。んで? めでたく神獣を倒すことができたら、本当にゾンビーどもが正気に戻れるって保障はあるのかい?」

「少なくとも僕はそう信じていますし、それ以外の方法は知りませんから……幸か不幸か、ね。いずれにしても、杏子さんはこれからの戦いに集中してください。『地球・精神分析記録(エルド・アナリュシス)』の総合的な判断は、こちらが責任もってやらせてもらいますから」

「へいへい……。ま、確かに、頭を使う仕事はアタシの柄じゃない……。こっちはこっちでやらせてもらうさ」


それから一時間ほども移動しただろうか。
雪上車が徐々にスピードを落とし、やがて停止した。
それまで鼓膜を乱打していたエンジンの唸りが聞こえなくなると、思い出したように氷雪原を吹き荒れる風の音が戻って来た。
生の気配さえ感じない白と黒の世界をどよもす強風は、死者の慟哭じみた暗欝さだった。


「飲みますか?」

「……あぁ」


安物と知れるマグカップに注がれて差し出されたコーヒーを受け取ったアタシは、そいつをズルズルと啜りながら尋ねた。


「ここが『悲哀(ルゲンシウス)』の出現ポイントかい?」

「データ上では、そうなってます。……まあ、出現ポイントが多少ズレてても、そこは誤差の範囲と諦めてください」

「あいよ。……それで、時間は決まってるのかな?」

「統計では、だいたい夜明けの前後ってことですから、あと十時間ってとこだと思います」

「そっか……」


アタシは頷くと、魔法少女としての姿へと転じ、思い切り背伸びをした。

長い十時間になりそうだった。
そして戦いの方も、おそらく魔法少女になってからこれまでを通じて、もっとも長い戦いになるんじゃないかと、そんな予感がしていた。




[28893]    悲哀 =04=
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:6b4b98a0
Date: 2011/08/15 17:05
夢を見ていた。
自分が今見ているものが、夢の中のモノなのだという認識を、夢独自の非論理的な法則によって理解していた。

「アタシ」という認識が、二つに分裂しているのがわかる。
夢の中の登場人物として存在している「アタシ」と、その「アタシ」の行動をやや後方の位置から……俯瞰するような視点で客観的に観察している、もう一人の『アタシ』の二つだ。

夢の中の「アタシ」は、両脇を鬱蒼とした木々に囲まれた、細い小道を歩いている。
風にゆさぶられ、ざわざわとさんざめく黒い木々の姿はまるで厚みのない影絵のようで、遠近法を無視しているとしか思えないぐらい、パースペクティブに欠けている。

空は一面に真っ赤に染まっていた。
朝焼けや夕焼けによってもたらされる濃淡入り混じったような赤ではなく、まるで一面にペンキを塗りたくったような、気味が悪くなるような原色の赤だ。
そして、今にも沈みゆこうとする太陽は、まるで腐った果実のようにぶよぶよとした印象で、鈍くマゼンタに染まっている。

カサカサと、これも影絵のような枯葉が散らばる小道は、大小不揃いの石が隙間なく敷き詰められたものだった。
それらの石は、なぜか様々な色で塗りつぶされているせいで、まるでステンド・グラスの上を歩いているような気になってくる。

現実的にはあり得ない光景。
さながら、やば気なクスリが完璧にキマりました的な重度の精神疾患者が見る幻覚を彷彿とさせる、サイケデリックな景色。

しかし、夢の中の登場人物として、この夢の世界に同化している「アタシ」にとっては、それらの光景も当たり前のモノとしてしか認識できないのか、まるで気にしている様子はない。
この景色を異常なモノとして感じているのは……そして、夢の中の「アタシ」が歩を進める先に何が待ち受けているかを知っているのは、あくまでも「アタシ」ではなく『アタシ』のほう。
客観的な視点から、全てを理解している―――言わば、神の視点を持って全てを観察している、もう一人の『アタシ』のほうなのだ。

全く異なる視点。
全く異なる情報量。

そうであるにもかかわらず、それら矛盾する認識を、『アタシ』も「アタシ」も不思議と思うことなく平然と受け入れていた。
これもまた、夢独自の不思議な法則なんだろうと思う。

どれぐらい歩いただろうか。
やがて前方に、終着点(ゴール)となるべき、大きな影が姿を現した。
書き割りのように薄っぺらい、教会のシルエットを持った終着点。
佐倉杏子にとって全ての始まりであり、終わりを意味する希望と絶望の交錯点だ。

ふと見ると、まるで何かの肋骨のような赤錆びの浮いた門扉の鉄柵に、表面が煤けた金属板が掲げられ、数行からなる碑文が刻まれている。
そこに書かれた文字を読み取って、あまりにも出来過ぎたその内容に、アタシは思わず苦笑を洩らさずにはいられなかった。

えらい皮肉とも思えるが、よくよく考えると、今のアタシが置かれてる状況に、これほど似つかわしい言葉もないとも思える。
実にエスプリのきいた、きっついブラック・ジョークだよ、ホント。
笑ってなんてやらないけどね。


Per me si va ne la città dolente, (我を過ぐれば憂ひの都あり、)

per me si va ne l'etterno dolore, (我を過ぐれば永遠の苦患あり、)

per me si va tra la perduta gente. (我を過ぐれば滅亡の民あり)


Giustizia mosse il mio alto fattore;(義は尊きわが造り主を動かし、)

fecemi la divina podestate, (聖なる威力、比類なき智慧、)

la somma sapïenza e 'l primo amore. (第一の愛我を造れり)


Dinanzi a me non fuor cose create (永遠の物のほか物として我よりさきに)

se non etterne, e io etterno duro. (造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、)

Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' (汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ)


そうして。
夢の中の「アタシ」は、その建物の中に足を踏み入れたのだった……。


  ★


朝が来た。
少なくとも朝と言っても間違いはない時間だ。
午前五時。

どうやら、いつの間にかウトウトしていたらしいということに気づいて、軽く舌打ちする。
いつ戦いが始まってもおかしくないような場所で―――しかも、得体の知れない同年代の男がすぐ近くにいるってのに、呑気に寝ちまってた自分のおめでたさが忌々しい。


―――知らないうちに、なまっちまってるのかな、アタシ……。


あまり考えたくはないが、この体たらくではそう思うしかない。
両手で軽く頬をパンパンと叩き、改めて気を引き締めるよう自分に言い聞かせた。

何かの夢を見ていたような気がするんだが、その内容はよく思い出せない。
ま、いいけどね。
夢の内容にいちいち一喜一憂する時期なんて、とっくに通り過ぎた。

外に目を向けると、いつの間にかブリザードは収まって、暗い空には無数の星々がまたたいている。
とりあえずアタシは、熱いコーヒーを入れることで、新しい一日の始まりを納得させることにした。
昨日はとんでもなくひどい一日だったが、何にしてもそれは過去のモノ。
今日もきっと、昨日に更に輪をかけてひどい一日になるんだろうけど、少なくとも今この瞬間だけは、静かで平和な空気が漂ってるんだ。
アタシがこの静寂に身をゆだねながら、一杯のコーヒーを楽しんだって、文句を言われる筋合いはないだろう。

ふと目を運転席の方に向けると、鹿目タツヤが即席のテーブルの上で、何かやっているのが見えた。
車内灯の灯りでできた影のせいで手元が暗くなっているせいで、何をやっているかは見えなかったが、サラサラという軽い音と、カサカサという微かな音で、紙に何かを書いているらしいことだけはわかった。


「……何やってんだ?」

「手紙をね、書いてるんです」


気まぐれで投げかけた質問に、鹿目タツヤは顔も上げずにそう応えた。
いつものような、妙に明るく朗らかで、その癖どこかとぼけたものを感じさせる口調じゃないのが、ちょっと意外だった。
真面目というか落ち着いているというか……何か、どこか遠い何かに思いをはせているような、しんみりとしたものを含んだ、そんな声音。
だから……だろうか。
つい興味をひかれて、聞き流しにできなかったのは。


「ふうん……いまどき古風っていうかアナクロっていうか……電話かメールでいいだろうに」

「まあ、相手が普通の人なら、それでも構わないんでしょうけどね……」

「ほほお、普通じゃない? するってーと、異常な人間なわけだ?」

「…………そうですね。相手は僕の姉さんなんですけど……今はもうどこにもいませんし、いろんな意味で確かに普通じゃないかもしれませんね」


からかい半分の言葉に返って来たのが、思いもよらないヘビーな言葉だったので、アタシは思わず言葉を失っちまった。
次いで、どエラい後悔と自己嫌悪に苛まれる。

そっか……そりゃ、そうだよな。
今の時代、親兄弟が揃って何の危険にめぐり合うこともなく、平凡で幸せな生活を満喫できるような恵まれた人間が、いったいどれだけいるものか……。
そもそも魔法少女でもないコイツが、魔獣関連の問題に自分から首を突っ込んでる時点で、それなりの理由があるはずなのは、明白じゃないか。
そう考えると、コイツの普段のとぼけた言動も、自分を鼓舞し、奮い立たせるためのもので……表にこそ出さないものの、コイツはコイツなりに必死なのかもしれないって、そう思った。


「えっと、その……悪ぃ。なんか、無神経なこと言っちまったみたいだな……」

「気にしないでください。そもそも、杏子さんが謝るようなことじゃありませんよ」

「けどさ……」

「僕は気にしてません。だから、杏子さんが気にする必要もない。…………何か間違ってますか?」

「いや、まあ……アンタがそれでいいなら、いいけどさ……」


なんっつーか。
頭では納得できても、感情の部分で納得できないんだよな。こーゆうことって。

それで、なんとなくお互いに黙っちまって、しばらくは向こうもアタシも無言のまま、ただ紙の上をペンが流れていくサラサラという音だけが、続いていた。

う~~む。
気にするなとは言われても、辺りに立ち込めるこの重い空気は……きっ、気まずいっ……!
アタシ苦手なんだよな、こういう雰囲気って。

それで、悪いと思いつつも性懲りもなく、また声をかけちまった。


「アンタがこの件に絡んでるのは……それが原因なのか?」

「そんなところですかね……。何しろ文字通り、他人事じゃないですし……。もっとも、一番大事な部分では結局ほとんど手出しできず、魔法少女頼りってのが、我ながら実になさけないですけどね……」


ようやく書き終えた手紙を丁寧に折り畳みながら、鹿目タツヤは小さく肩をすくめて見せた。
まるで茶化しているような軽い口調だが、その口元は自嘲に歪み、表情にも遣る瀬無いものが漂っている。

なんか、こう……ますますばつが悪くなったというか、針のむしろというか……さっきから、やたらと地雷を踏みまくってるような気がするのはアタシだけか?
今まで知らなかったけど、もしかしてアタシって、自爆体質だったりしたのだろうか。
うわあ。できりゃ一生気付きたく無かったよ。自分で言うのもなんだが、ヤな体質だな、おい。

そんな、軽い自己嫌悪に落ち込んでるアタシの内心を知ってか知らずか、いつものような不思議な笑みを浮かべたニコちゃん顔が、アタシに向けられる。


「なんだったら、杏子さんも書いてみたらどうです?」

「はあ? どうですって……手紙をか? わざわざンなもんを書いて送るようなヤツはいねぇよ」

「家族に、なんてどうです?」


……この野郎。
知ってて言ってんのか?


「家族なんざ、とっくにいねぇよ」

「いなくとも手紙は書けますよ」


なんか……わけのわからないことを言い始めましたよ、このヒトは。


「確かに……今はもう、この世にいない人に、生きている人間の言葉は届きません。でも……手紙は、そうじゃないんじゃないかって……なんとなくですけど、そう思えるんですよ」

「…………」

「こうやって手紙を書いて……それを燃やすんです。そうすると、その煙が空高くまで上っていって……それがなんだか、手紙に書いた文字が、今はもうここにはいない、どこか別の世界に行ってしまった人のところに届いてるような……そんな気がするんです」

「そういうもんかね」

「まあ、あくまでも僕の個人的な感傷ではあるんですけどね」


照れくさそうに笑いながら頭をかくその姿を見て、アタシもなんとなくさっきまでのバツの悪さが、ほんの少しだけ晴れるような気がした。


「それに……言葉では言いにくいことも、こうやって文字にする分には、それほど精神的にも負担にはなりませんからね。どうせ燃やすものだしってことで、結構恥ずかしいことも書けたりするし、それはそれで、ストレス解消にもなるんですよ」

「ふうん……?」


まあ、確かにそういう面はあるかもしれないね。
人前ではろくすっぽ自分の意見を言えないヤツだって、インターネットなんかの掲示板じゃ、結構好き勝手に毒舌を吐けるのと似たようなもんだろう。


「ですから杏子さん。ぜひとも嬉し恥ずかしい黒歴史的な中二病患者語録のごとき、リリカルでポエミィなイタイ文章を書いてくれませんか? っていうか、杏子さんみたいな人のそういう文章、ものすごく読んでみたいです」

「…………おい」


ふざけてんのかコイツは?
思わず脱力して、その場に膝をつきそうになるのを何とかこらえ、真顔でボケたことをのたまうすっとこどっこいの顔を睨みつけた。
ちょっとでもコイツのことを感心しそうになった自分に、腹が立つ。

一発ぶん殴るか、そうでなくとも張り倒してやろうかと半ば本気で考え―――ふと何かが聞こえたような気がして、アタシは動きを止めた。

風の音のようにも思える。
けれど、今やすっかりアタシの耳に馴染んでいたソレとは、どこか……何かが異なる、異質な響きが、そこには混じっているように感じられた。

アタシたちは申し合わせたように、ほとんど同時に窓の外へと視線を向けていた。
そこで初めて、暗い空一面にオーロラの輝きが広がっていることに気付いた。
オーロラは濃淡入り混じった微妙にして精緻な光の縞模様を描きながら、さながら幾重にも連なるカーテンのように空一面を虹色に彩っている。
その極北の凍える大気が彩なす輝きに、一面の氷雪原は幻想的に淡く染め上げられ、遊園地のスケート・リンクのようにも見えた。

思わず、胸の奥がシンとなるような幻想的な光景。
だから、だろうか。
自分が今いる場所が、現実と幻想の入り混じった境界のように思えたのは……。

そんな景色の中。
オーロラと氷雪原の狭間―――地平線上に、何か揺らめく影がある。
思わず双眼鏡で確認しようとして、そんなことをするまでもなく、あの影の正体が明白であることに気づく。

アタシは無言で雪上車の外に降り立ち、今まで溜めこんでいた魔力を全身に迸らせた。
軽い高揚感とともに、視力や聴力が人間としての領域を遥かに超越していくのが実感として感じられる。
全身を締め付けるような極寒の大気が、全身に魔力を通した肉体の表面に触れただけで胡散霧消して、まるでオーラのように体中から不可視の流れが立ち上る。

準備は万端。
身体のどこにも異常はない。
そう確認したところで、先刻耳にしたあの音が、再び大気を震わせる。


―――OOOOO……ooooo……nnnn……


低い号泣とも形容すべき音だった。
あるいは、陰々滅滅たる鎮魂歌(レクイエム)とでも言うべきか?

それは、どこか胸を掻き毟るような哀切な響きを帯びているのと同時に、どこかしら自嘲めいた慟哭の響きも内包していた。
あるいは、中世ヨーロッパの民話に登場する妖精バンシーが、ちょうどこんな声を上げていたんじゃないかと、そんならちもないことが頭の片隅をよぎる。
なんにせよ、人間の悲しみを象徴する『悲哀(ルゲンシウス)』が歌うには、確かに相応しいと納得できるだけの何かが、そこにはあった。


「……行ってくる」


短くそれだけを言い捨てて、アタシは魔力で編んだ愛用の槍を片手に、凍りついた大地を蹴った。
野生のインパラもかくやと思えるほどの桁外れの跳躍力と、訓練された猟犬に勝るとも劣らないスピードで駆け抜ける。
ゴォゴォと耳元で唸り過ぎる風の音。
その音に掻き消されるような微かな……けれど、不思議とハッキリとした響きが、鼓膜に届く。


「ご武運を……」



[28893]    悲哀 =05=
Name: ぱばーぬ◆4acec556 ID:6b4b98a0
Date: 2011/08/17 18:02
視界にとらえた敵の姿を―――神獣『悲哀(ルゲンシウス)』の黒い影を目指して、アタシはオーロラに彩られた氷雪の大地を駆け抜けていく。
地に足がつく瞬間だけ、足の裏に小規模の魔力を放出・簡易的な足場にしているため、地面がどんな状態だろうと滑ったり転んだりといった無様は晒さない。
更に、その魔力で編んだ力場に弾性を付加することで、一歩毎に跳躍距離と速度も同時に稼ぐ。

近接武器をメインに使用する割には、さほど防御力が優れているわけでもないアタシにとっては、スピードこそが生命線。
その自己認識がもたらした、まあ……いわゆる『生活の知恵』ってヤツだ。
そのおかげで、自慢して言うが、直線距離での加速度とトップスピードにかけては、全魔法少女中でもトップクラスだと自負している。
アタシは割とめんどくさがりな性格なんだけど、こと生き延びることに関してだけは、わりと勤勉なんだよね。

やがて―――
アタシと『悲哀』との相対距離が縮まるにつれて、周囲に満ちる無色・無形の圧力のようなモノが、ぎしぎしと音を立てるようにして全身を締め上げ始めた。
でたらめに変化する気圧の急変で、キーンという音と痛みが耳の奥で鳴り響く。

それは、いつものこと。
世界の歪みが形を取ったとも言える魔獣の周囲では、取り立てて珍しくもない現象だ。

魔獣を表現するのに最適な言葉は、「堕ちた巨神」だと言われている。

瞑想に耽る老賢者とも言うべき、その見た目。
小さな個体でも三メートル弱、巨大なモノともなれば十メートルを超えるその巨体。
そして、どこか神々しさすら感じられる、その圧倒的な存在感と威圧感。

なるほど。
そこには確かに、人智を超えた存在だけが醸し出す、ある種の荘厳さのようなものが漂っているようにも思えるし、その姿を彫刻で再現でもすれば、どこかの神殿に祭られてたって違和感なんかほとんど感じないだろう。
それを考えれば、魔獣が神の名に値する姿だと認識されることも、神獣を崇める連中が出てくるのも、当然のようにも思える。
人間を襲いさえしなければ、の話だが。

……いや。
あるいは、「だからこそ」魔獣は、神のごとき存在とさえ言えるのかもしれない。
古来より人間を大量虐殺するのも、あるいは人間同士で殺しあうように仕向けるのも、「悪魔」ではなく「神」によって成される所業なのだから。
そんなのは、ちょっとでも聖書に目を通せば、すぐにわかることだ。
ノアの箱舟しかり、ソドムとゴモラの消滅しかり、範例には事欠かない。

けれど幸か不幸かこのアタシは、そんなお偉い神サマの使徒たる神父から直々に、『人の心を惑わし、災いをもたらす魔女』なんつー輝かしいお墨付きをもらった、とびっきりの背信者だ。
魔獣の姿も神々しさも存在感も、アタシには何の感慨も抱かせない。

だからアタシは迷わない。
だからアタシは躊躇わない。

その澄ました面に風穴を空け、神々しい後光を放つ巨体を切り刻むことに、一片の罪悪感も抱かない。
速やかに効率よく、絶対の意思と不退転の決意を持って喜びさえ感じながら、神の似姿とも言えるその姿を、存在の根源から滅殺する。

それが、アタシの存在意義なのだから……。
それしか、アタシにはもう何も残っていないのだから……。


―――OOOOO……ooooo……nnnn……


三度、『悲哀(ルゲンシウス)』が哀歌を奏でる。
途方もない巨体に七色の輝きを彩なすオーロラを従えて、哀切な鎮魂歌(レクイエム)を滔々と歌い続けるその姿は、まさしく「悲哀の神」の名に恥じぬものがあった。

互いの距離は、まだ離れている。
それでも、ともすれば距離感に異常をきたしてしまいそうになってしまう。
それほどまでに―――およそ百メートル以上は離れているはずなのに、思わず見上げてしまうほどに、相手のサイズが桁外れなのだ。
目測でおよそ、七十~八十メートルはあるんじゃないか?
さすがのアタシも、ここまでの大物に出会ったのは初めて……っつーか、こんな文字通りのバケモノサイズな魔獣なんて、前代未聞である。
ほとんど怪獣みたいなものだ。
なるほど、魔獣を越えた魔獣……神獣なんて呼ばれてるのも、あながち間違いじゃないらしい。

『悲哀』の姿は、ある種の馬鹿馬鹿しささえ覚える、その圧倒的な巨大さを覗けば、他は通常の魔獣と見た目はほとんど変らなかった。
どんな色も混じっていない、真正の白一色に染まった、ツルっぱげの爺さんのような身体。
風もないのに左右に揺れている―――あるいは、ブレている?―――古代の賢者か聖職者が身に着けていたような、トーガのようにもマントのようにも見える装飾。
そして、目じりの辺りから上が、まるでエア・レーションされてブクブクと泡立つ水面のように、大小のブロック状にほどけては大気中に消滅していく頭部。
どのパーツも、すでに見慣れたというよりは見あきたというべきモノばかりだ。

唯一異なるのは、通常の魔獣の顔には表情らしい表情は何も浮かんでいないのに対して、この『悲哀』の顔には、その名の通り、何かを悲しむような……あるいは、何かを憐れむような、まさに悲痛としか言いようのない表情が刻まれていることぐらいか。

もう少し距離を縮めてから攻撃に移るべきか―――というこちらの考えを、まるで読み取ったように、『悲哀』の両手がアタシのほうにかざされる。


―――ヤベぇっ!


そう頭で考えるよりも早く、アタシの身体は半ば本能的に回避運動に移っていた。
だから、助かった。

それは、魔法少女や魔獣といった規格外の存在を当たり前のように受け入れているアタシのような存在から見ても、一瞬何が起こったのか理解できなかったほどの超現実の光景だった。

突如として、たった今までアタシが立っていた場所を中心とした半径十メートルほどのエリアが、凄まじい爆音とともに弾け飛び、濃密な水蒸気と熱波が瞬間的に小型のハリケーンを生みだしたのだ。
それが、途方もない熱量によって引き起こされた一種の水蒸気爆発であり、凍りついた大地が液体化をすっ飛ばして一気に気化されたせいだと理解したのは、後になってからのこと。
その時のアタシには、そんな理屈なんて考えてる余裕なんてなかった。

当たり前だ。
そんな非常識極まりない大惨事が一度きりのモノじゃなくて、ドンドンドンッとばかりに立て続けに引き起こされたんだから、そりゃあ必死にならざるを得ないだろう。
魔力で空中に簡易的な足場を作っては、万有引力の法則や慣性の法則に喧嘩を売るような軌道修正と加速行為を惜しみなく連続で使ったおかげでどうにか事なきを得たが、そうでなけりゃ、あっという間にお陀仏になってたとこだ。


「おいおいおいおい、冗談じゃねぇぞ。なんだよ、このデタラメな威力の攻撃は」


それは、『悲哀』の十本の指先から照射される、レーザー光線にも似た光の刃によるものだった。
その攻撃自体は、これまで相手にしてきた魔獣たちも当たり前のように披露してきた、むしろオーソドックスと言ってもいいヤツらに共通する攻撃方法だ。
ただしここで問題なのは、この『悲哀』の場合、図体のほうもそうだが、攻撃力のほうも並みの魔獣とは段違いだった、ってことである。
っつーか、こんなのほとんどチートレベルだろう。
冗談抜きで、こんな攻撃の直撃を浴びた日には、イージス艦すら一発で蒸発しちまうぞ。

鉄板のように硬く凍結した大地に次から次へとポッカリと巨大な穴が穿たれ、その度に局地的な暴風域がのべつまくなし発生してくれるんだから、ホントたまったもんじゃねえ。
しかもその攻撃は、最大で一度に十発。文字通りの光速で襲いかかってくるんだから、洒落にならないにも程がある。
ほとんど悪夢だった。


―――OOOOO……ooooo……nnnn……


慟哭の呻きにも似た『悲哀』の歌声に、そこはかとなくムカつく。
ヒヤ汗ダラダラ状態な心境と、三次元法則を無視するような空中機動でひたすら回避に専念しながらも、毒舌を吐かずにはいられない。


「ええい、泣きたいのはこっちのほうだっての。こんちくしょう」


攻撃の余波で白い大地は縦横無尽に切り裂かれ、マグマのように海水を噴き出しながら軋み、ぎちぎちと悲鳴を上げている。
水蒸気爆発が生みだす大気の乱流はゴオゴオと唸り声を上げながら吹きすさび、それに煽られた巨大な氷塊が地響きを立てて次々と崩れ落ちていく。
いまや『悲哀』の周囲、百メートル四方の領域は、暴虐な破壊の嵐が荒れ狂う、悪夢の空間と化していた。

数条の光芒が無造作に奔るたびに、行く手に存在するありとあらゆるモノが、サイズも種類も数も硬度もまったく意に解することなくひとしなみにカタチを崩されていく。
それはあまりにも不条理な破壊であり、非情緒的な暴力でもあり、一種の馬鹿馬鹿しささえ漂っていた。
異様に虚無的であり、途方もなく奇怪な破滅の光景に、いいかげん頭がおかしくなりそうだ。

もちろんこっちだって、やられっ放しってわけじゃない。
右の頬を打たれたら、往復ビンタで倍返しってのがアタシの流儀なのである。
攻撃回避に重点を置きながらも、こちらの攻撃が通りそうな隙は見逃すことなく、愛用の槍を幾度となく突き立ててやった。

けど悲しいかな、互いのサイズが違いすぎる。
相手にとっちゃアタシの攻撃なんて、それこそツマヨウジで突かれてるほどのダメージにも感じてないようだった。

……いや。ホントにダメージが通ってないのかとか、それ以前に魔獣に痛覚なんてモノがあるのかどうかなんて解らないけどさ。
どんな攻撃も無表情で受け止めてくれやがる上に、傷が目に見えるカタチで残るわけでもなし。ついでに攻撃力も全く衰えないときては、ついついそう考えちまっても無理はないと思わないか?

まあ、大物を仕留めるための大技がないってわけじゃないんだけど、ソイツを使うには若干だけど魔力を溜めるだけの時間が必要になる。
今の状態で悠長にそんなことをしていれば、あっという間にこっちが終わりだ。
性に合わねぇけど、今はじっと我慢の子だね。
そして以前にも言ったけど、アタシは生き延びることに関してだけは、わりと勤勉なんである。

そうやって、どのぐらいの時間が経過したのかは解らない。
戦闘開始から一時間以上は優に経過しているような気もしたし、まだ五分と経っていないような気もした。
戦闘に全神経を集中していたせいで、時間感覚が半ば以上狂っているのだ。

いつしか辺りには静寂が戻っていた。
聞こえるのは、風が通り過ぎる微かな囁きと、アタシ自身の口から洩れるゼェゼェという荒い息だけ。
ついさっきまで執拗なぐらいに空間を支配していた死の光条も、何かの冗談のように消えている。


(威力が威力なだけに、全力攻撃できる時間に、それなりのリミットでもあるのか……?)


そう思いながらも、油断なく身構えながら『悲哀』の巨体を睨みつける。
まさかこれで相手が諦めてくれたと考えるほど、アタシはおめでたい性格をしていない。

アタシが命を落とさずに済んだのは、半分は単なる幸運だった。
後の半分は、しのぎを削って身に付けた魔力による高機動力と、魔法少女ならではの常識はずれな反応速度、それに加えてこれまでの戦闘経験からくる勘とセンスによるものだろう。
正直、ヒヤリとしたのは一度や二度ではない。
今こうして手傷らしい手傷も負わず、息をしているのが自分でも信じられないぐらいだった。

次はどんなタイミングで、どういう攻撃を仕掛けてきやがる?

そう思った瞬間。


「…………え?」


ふいに、『悲哀』の全身がざわりと揺らいだ―――ような気がした。
まるで水面に無数の細かなさざ波が生じるように、ざわざわと草原を風が吹きすぎていく光景にも似て、『悲哀』の色とカタチが、ノイズのようなモノを交えて変貌していく。

色は、白から黒へ。
姿は老賢者のごとき容貌から、壮年の男の姿へと……。

僅かな時間で変容を終えた『悲哀』の新しい姿を網膜に捕え、その姿が何を意味するかを頭が理解した瞬間。


「――――――ッッ!?」


アタシは喉の奥で声にならない小さな悲鳴を漏らしながら、思わず後ずさっていた。
しゅっと音がするような勢いで口の中がカラカラに干上がり、無意識の内に全身がガクガクと震え始める。
気味の悪い脂汗がとめどもなく噴き出し、こめかみを伝う。
後先の考えもなく発作的に、何でもいいから絶叫しながら走りだしてしまいたかった。

今の自分の姿を省みて、無様だと自嘲するだけの余裕もない。
目の前の相手に戦いを挑もうなどという気は、すでに跡形もなく蒸発していた。
それでいて、その場を後にして逃げ出そうと考えることもできない。

なぜなら、今アタシの目の前にいる『悲哀』の姿は、攻撃することも、逃げることも、どちらも決して許さないモノに他ならなかったから……。

それは、アタシ―――佐倉杏子にとっての罪そのもののカタチ。
絶望と悲しみと慟哭を象徴する、生涯を通じて心と魂を責め苛む断罪の化身。


「…………お父さん」


かつて「父」と呼んだヒトの姿に他ならなかった。


  ★


その時。
唐突に、今までどうしても思い出すことのできなかった、今朝がたに見た夢の内容を思い出した。

そうだ。
あの夢の中で、古ぼけた教会の中に足を踏み入れたアタシは、かつて見た悪夢のような光景を、もう一度目の当たりにしたのだった。

それは、三つの死体がある光景。
かつて家族と呼んだモノ。
母と妹の、刃物で切り裂かれたような傷跡の残る血まみれの遺体。
そして父の、天井からロープでぶら下がった首吊りの遺体。

あの当時のアタシが、どんな気持ちでその光景を見ていたのか、今となっては思い出せない。
ただ一つ言えることは、肉親の死体なんて好んで見るようなもんじゃないってことだ。

特に首を吊った死体はいただけない。
顔色は紫色に膨れ上がり、目玉と舌が飛び出してものすごい形相になっていたのを覚えている。
力なくだらんとした身体の下には、糞尿が小山になって凄まじい汚臭を放っていた。

昏い世界の中で、なお暗いシルエットとなってゆらゆらと揺れていた、かつて父さんだったモノ。
その姿が、眼前の変貌した『悲哀(ルゲンシウス)』の姿と二重写しのように重なって見えた。

何か、黒く大きな異物のようなモノが、胸の奥に生じたような違和感がある。
それが胸の内でぐるぐると回転しながら暴れまわっているようで胸が痛い。今にも張り裂けそうだ。
地面が足元からなし崩しに崩落していくような感覚に包まれ、両膝もさっきからだらしなく笑っている。いっそへたり込んでしまわないのが、不思議なほどだった。

ゆっくりと。
目の前のソレが、アタシに向けて手を伸ばしてくる。
人間なんてスッポリと包み隠してしまい、そのまま雑作もなく握りつぶせてしまいそうな巨大な手だ。

アタシはそれを、ただぼんやりと眺めていることしかできなかった。
頭の片隅で、もう一人のアタシが「何してんだ、逃げろ馬鹿野郎!」と金切り声で叫んでいるような気もしたが、とてもその声に従う気にはなれなかった。

だって。
これは父さんだ。
父さんなんだ……。

進んで死にたいとは思わないけれど、この手から逃げようという気にはどうしてもなれない。
ならばどうする?
戦うのか?
攻撃するのか?

それこそ冗談じゃない。
そんなこと、できるはずもない。


―――ああ、そうか。


唐突に理解した。
今までアタシが生きてきたのは、『生きる理由』があったからじゃない。
生きる理由なんてモノは、あの時にとっくになくしてたんだと、今更のように気が付いた。
父の……母の……妹の死体を目の当たりにした、あの時から……。

そう。
アタシが生きてきたのは、もっと単純で―――救いようがないぐらいに馬鹿馬鹿しい理由。
ただ、『積極的に死ぬだけの理由』がなかっただけなんだ、と……ようやく気が付いた。

記憶がどっと流れ出た。
頭から水をかぶったように全身に汗が流れ落ちる。
懐かしさと愛おしさと羞恥と自己嫌悪が、不可視の刃のように全身に突き立ち、頭の中が真っ白になるような痛みに魂が悲鳴を上げる。


大好きだった父さん。
心から尊敬していた父さん。

この人の娘であることが誇らしかった。
この人が父であることが嬉しかった。

父さんの役に立ちたかった。
父さんのために何かしたかった。

よくやったと、褒めてほしかった。
さすが私の娘だと、頭を撫でてほしかった。

父さん……。

お父さん……。


胸が痛い。
心が痛い。
痛くて痛くてたまらない。


―――ごめんなさい。

―――ごめんなさい、お父さん。

―――ごめんなさい……ごめんなさい……。


獣の唸り声にも似た呻きが、喉から洩れる。
脳裏にガンガンと木霊する謝罪の言葉は、アタシの口から声として出ることは絶対にない。
なぜなら、そんなことに何の意味もないことを知っているから。
アタシのしでかしたことが、決して許されることのない過ちなのだと理解しているから。

だから、言わない。
だから、言えない。

そんな言葉を口にして、許してもらおうなどと虫がよすぎる。
そんな言葉を口にして、謝罪した気になって、罪の意識が軽くなっていいはずがない。

ああ、そうだ。
許されるはずがない。
許されていいはずがない。
他の誰が許しても、このアタシが許さない。
他ならぬこのアタシが、そんなの絶対に許さない。

ぎしり、と凄まじい圧力が全身にかかる。
いつの間にかアタシは、父の姿をした『悲哀(ルゲンシウス)』の手に掴まれていた。

容赦ない握力が、ぎしぎしと体中を締め付けてくる。
同時に、何かの力が自分の身体の中に潜り込んできて、じくじくと侵食していくのが感じられた。

視界が霞んでいく。
力が抜けていく。
魔力がごっそりと吸い上げられ、それにつれて急激に体温が下がっていくのが理解できる。


―――ああ、こりゃ本格的にヤバいな。


まるで他人事のように、そんなことを考えていた。
逃げようという気には、相変わらずなれない。
もちろん、抗おうという気にもなれなければ、反撃しようという気にもなれなかった。

なんだかもう、何もかもがどうでもよかった。
もともと惰性で生きてたようなものだったんだ。
だったら、今ここで殺されたところで、特にどうってこともない。
今まで魔獣との戦いで死んでった魔法少女なんて、星の数ほどもいる。
今回たまたまそれが、自分だっただけのこと。
むしろ、アタシのせいでぶっ壊れちまった父親の姿をしたヤツに殺されるなんて、アタシにしちゃ出来過ぎな死に方じゃないか。

もういい……。
これで終わりだ。
辛いのも……
苦しいのも……
何もかも、これで……

意識が薄れていくのが解った。

何も見えず、何も聞こえず、何も臭わない。
五感の全てが『悲哀』との接触部から確実に簒奪されていき、何も感じなくなっていく。
感情すらも、そのポテンシャルが着実に減じていき、今まで感じていた胸を掻き毟るような懊悩と情動の全てが、平坦に均されていくのが実感として感じられた。


―――これが、魔獣に食われるってことなのか……。


無感情になりつつある意識の片隅で、そんなことをボンヤリと考える。

行きつく先は、精神的な死。
即ち、植物人間状態の廃人だ。

これまではおぞましいものとしか感じられなかったその終わり方が、今はなぜか慈悲に満ちた祝福すべき最後であるように思えた。
だって、それをするのは父さんなんだ。
父さんにはアタシを罰する権利があるし、アタシにはそれを受け入れる義務がある。
だったら、この終わりを否定しなければならない理由なんてどこにもない。


―――いいよ、父さん。終わらせてよ……。

―――あの時は、アタシを置いてったけど……

―――今度は……連れてってくれるんだね……。


もう、置いていかれるのはイヤだ。
もう、独りなのはイヤだ。
もう、寂しいのはイヤだ。

だから……。

だから…………。




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