明転する舞台。

うなだれる二人の姿がいやでも目に飛び込んでくる。

胸の中を満たしていた温かい空気が一瞬にして硬い石の塊に変わる。

会場の空気が5度ほど下がったような気がする。

二人の部屋の照明は先ほどとほぼ同じ明るさを保っている。
けれど、何故かずっと暗く感じる。

明るい場所から、急に暗いトンネルに入ったときに、目が慣れずに一瞬真っ暗に見えるときがある。
そういうことだろうか、と「知っている」私でさえも、その落差はあまりに大きく感じられる。

空気の中に、今までと違った何かが含まれている。
そしてそれは、決してイエローハーツにとって喜ばしいものではないだろうと分かる。

冷え冷えとした空気の中、のろのろと立ち上がった甲本が口を開く。

「ごめん」

その一言で、世界がモノクロに変わる。
いや、戻る、と言ったほうが正確なのだろうか。

謝らないでくれ、という田中の言葉を制してなおも言い募る甲本。

「ごめん。俺の所為だ」
「俺が2回も噛んだからだ」

体が震えている。
あと少し、あと少しで手が届いたんだと、後悔と自責が甲本を苛んでいる。

「噛んだ瞬間、空気が止まったのが分かった」
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」

床に拳を叩きつける気力もない。
うずくまってやっとのことでかすれた声を絞り出す。

「本当にごめん」
「すいませんでした」
「俺が噛まなきゃ、絶対勝ってた」

『噛む』

単純に言えば、台詞の言い間違い。
それよりはもっとわずかな1秒にも満たない出来事だ。

けれど、たった2分で全ての世界観を説明し、ボケとツッコミを戦わせ、観客に爆発的な笑いを起こさせる時に、その僅かなズレは命取りになる。

2分で漫才を終わらせようと思えば、自己紹介15秒、マクラ15秒。そしてツカミとボケとツッコミの流れを簡略化し、オチまで持っていかないと間に合わない。
噛めば、そこで流れが止まり、観客が集中力を失う。

笑い、というのは緊張と緩和から生まれるという。

観客から緊張感がなくなってしまえば、そこから笑いを生み出すことは非常に困難だ。

舞台は魔物だ。誰にだって失敗はある。

けれど、今、ここでなくても良いだろう、と見ながら苦しくなる。

「バカだな、俺」
ひたすら自分を責め続ける甲本。
自分が決勝に進出したら、やりたかった沢山のこと。
電化製品を買い換えて、恋人と結婚式をあげて、家も引っ越して。

「俺と組まなきゃ、お前はもっと早く売れてたんだよ、きっと」
「俺はバカだ、クズだ。誰も幸せに出来ない」

田中圭の静かな声が、彼の絶望の深さをより際立たせる。

魂が抜けた、心が折れた、気持ちが萎えた。
姿かたちは同じでも、目の前にいるこの人は、3日前まであれだけ輝いていた人と同じには見えない。

絶望と落胆に満ちた3日間。

「とにかく、また頑張ろう!!」

日記から必死に訴えかける田中の声も届かない。

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日々は過ぎていく。

1回戦突破から準決勝までの10日間が夢のような日々だとすれば、準決勝から決勝までの10日間、現実が彼らに容赦なく襲い掛かる。

誰も聞いてくれない営業。
誰も褒めてくれないネタ。
誰にも伝わらない漫才。

そして、笑軍天下一決定戦の決勝の日。
イエローハーツを破ったB.Bもまた、ボケの橋本のミスで破れる。
全国放送のTVで涙を流す福田の姿を見る。

どれだけ悔しかっただろうか、どれだけ無念だったろうか。
自分も同じ思いを田中にさせていたんじゃないか。

そしてB.Bは「芸人に向いていないです」という手紙を残して橋本が失踪。福田だけが残されたあとは解散を余儀なくされる。

芸人に向いていないのは自分のほうではなかったかとさらに落ち込む甲本。

田中は断言する。
大丈夫だ、まだやれる。
僕たちは光の方向が見えた、出口が見えた、と。

そして、笑顔で甲本の背中に語りかける。

「甲本ほど、芸人に向いている人、いないと思います!」
「臆病で、凹み易くて、繊細で…面白いから!!」

若林の声はどこまでも優しく暖かい。
心の中の言葉がこぼれ、あふれて形になっている。

少しでも届くように、少しでも伝わるように。
一語一語丁寧に語られる言葉が霧雨のように会場に降り積もる。

芸人交換日記を始めたばかりの頃。
「嫌です」
の一言で付き返していた田中。

驚くほど多弁になった田中が今の言葉にならない想いをどうにか言葉にしようと必死で日記を綴る。

すべては甲本のためだ。
世界にたった一人しかいない、イエローハーツのツッコミ担当。

暗闇でうずくまる甲本に差し伸べられるロープ。

「負けの中にもいろんな色の負けがある」
「イエローハーツの負け方は、なんか黄色っていうか。『先が明るい』っていうかね」
「次勝てば、今の負けが勝つための準備だったっていうか…そんな気がするんだ」

暗闇から甲本が立ち上がる。
放り投げられたロープを掴もうと、わずかに手を伸ばす。

小さなため息をつく。
変わったな、とつぶやいて、自分を励ますように頷く。

「確かにお前の言うとおりなのかもな。ただの負けじゃないな」
「準備なのかもな!準備!」

確かに今、この瞬間、田中の言葉は甲本に届いている。
ロープを、やっと掴んだ。

暗闇から抜け出す方法を教えることは出来る。
けれど、抜け出そうという『意志』が無ければ、どうすることも出来ない。

田中はようやく甲本の心を動かせた。

若林の言葉、田中圭の言葉、そしてたたずまい。
全てが説得力をもって会場を支配する。

文面にすれば、どこか理想めいたやりとりも、生身の人間が言葉にし、語りかけることで、ここまで意味と価値のあるものになるかと思う。

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しかし、その1週間後。

田中が必死で引っ張りあげたロープの先には誰もいない。

交換日記に甲本が記した言葉は、

『解散』

の2文字だった。