2010年06月26日

「医師失格」の小さな反響(28)       ジャーナリスト・本澤二郎

<岡山からFAXと電話>
 岡山の佐藤さんがFAXと電話をくれた。久しぶりのことである。岡山・倉敷病院脳外科で手術大失敗、その後6年間、夫は病院で寝たきりの不運な人生を送っていた。彼女はその間、バスで片道2時間ほどかけて毎日病院にかけつけて、病院の足らざる看護を支援してきた。その苦悩は計り知れない。誰でも何となくそのことを理解できるだろうが、当人の心情たるや本人以外わかるはずもない。その必死の努力も甲斐なく夫は無念の生涯を閉じた。半年前、本人からではなく、娘さんがメールで知らせてくれた。6年の努力が報われることは無かったわけだから、彼女の衝撃度の大きさを物語っている。


<6年間の倉敷病院通い>
 医療ミスで半身不随にさせられた夫の介護と看護に6年間、病院に通い続けてきたという佐藤さんである。本人も哀れだが、家族もまた悲劇に叩き込まれてしまったものだ。息子の正文のことと重なるものだから、考えなくても心が痛む。我が家も6年間、病院通いに専念させられてきた。後半は不十分な看護をカバーするため、正文の入浴を両親で、散髪を妻が引き受けた。病院にいる間、オムツの交換や痰の吸引までもした。やれることは何でもした。完全看護の偽りを学ばされる日々だった。その無念は当事者になってみないと、とても説明も理解もできない。第三者には理解不能だろう。たとえ説明しても、第三者には全てをわかるまい。医療過誤は、家族の精神と肉体を痛みつけるきつい厳しい日常が襲いかかるものなのだ。
<被害者家族の無念>
 佐藤さんの場合も、6年間も入院させてきたという倉敷病院は、事実上医療ミスを認めていたことになる。通常は入院患者を3カ月で放り出してしまう。金もうけ中心の病院制度が、そうさせるのである。このことだけでも病院失格ではないだろうか。
 この間、佐藤さんの依頼を受けた弁護士は、何度も家族にたいして「裁判に持ち込もう」と働きかけていたらしい。しかし、被害者家族はそうはいかない。生死をさまよっている夫の治療に、悪影響が出ることを恐れるからである。病院によって看護の手を少し緩められるだけで、患者の人生は終わってしまうからなのだ。人の命を救済する病院という前提は、とうに崩壊しているのが実情である。金もうけの弁護士は裁判をせき立てるが、善良な弁護士は退院まで待つものだ。佐藤家は歯を食いしばって提訴を抑えてきた。そして車に乗れない佐藤さんは、6年間ひたすらバスで病院に通い続けた。

 我が家もそうだったが、佐藤さんも精神と肉体の双方からいたぶられてしまった。生死をさ迷う夫と、夫を介護する妻も体調を崩してゆく。適齢期の一人娘の将来も心配でならない佐藤さんだった。
 正文の場合でも入院中、弁護士は法的な対応をしないように釘を刺してきた。被害者は動けない。従って医療過誤の主治医に対しても、被害者家族は心にもない言葉を愛想よく振りまくのである、そして感謝の言葉さえも口にする、それしか許されなかった。これが現実である。実際は、いつも病院の玄関に入る時、心の底で怒りがこみ上げてきたというのに、である。それでも、じっと耐えるしかなかった。「よくなる」という偽りの診断を聞かされ、それに藁にもすがる思いの哀れな子羊を演じなければならなかった。それが被害者家族の偽りのない心情なのである。ほとんどの家族は、そうして泣き寝入りしてゆく。過失をした医師と病院は、謝罪の一言も発しない。裁判になれば、嘘と隠ぺいの医療文化を押し付けてくる。無数の被害者家族は救われない。
<医療ミス患者を引き受ける病院のない日本>
友人や弁護士に勧められて、謝罪をしようとしない病院から正文を転院させようと何度も試みた。ところが、引き受けようという心優しい病院は、ついぞ現れなかった。医療ミスの患者を快く引き受けてくれる病院は、この日本には存在しないのだ。厚生大臣経験者の紹介でも、正文の事情を知ると、途端に「うちでは無理だ」と断られたものである。人間の命を救済しようという熱血病院は、この日本になかったのである。改めて病院崩壊の現実を悟らされてしまった。こうしたことなど患者家族の苦悩は、病院も弁護士も親しい友人もなかなかわかってはくれない。わかりようがないのだ。本人が同じような体験をしない限り、この深刻な不幸な心の痛みを理解などできないのだから。
<当事者以外理解されない苦悩>
生死をさ迷う患者と、必死で支えようとする家族双方の、正に悲劇の連鎖を、この世の誰ひとりとして理解できない。わからないのだ。最近もふと考えてしまうのだが、夫や妻を亡くした場合と息子や娘を亡くした場合を比較すると、どちらが悲劇なのであろうかと。身勝手な結論を出してしまうのだが、息子のことが気になり出すと、俄然睡眠を妨げられてしまう。昨夜もそうだった。
果たせるかな、岡山の佐藤さんのこと、仙台の伊藤さんのことも頭をよぎったりする。後者は、最後の力を振り絞って最高裁での決着を選択した。最高裁に正義が存在するのか、いわば掛けなのである。伊藤裁判は、宮城県の不可解な免責証言とイカサマ鑑定を、医学に無知な素人裁判官が採用した。其の結果、地裁・高裁とも伊藤さんの訴えを認めようとしなかった。これはまた彼女にとって、新たな言い知れぬ悲劇をもたらしているのである。
高裁段階から伊藤弁護をした名古屋の北口弁護士が怒りの告発文を送ってきた。それを活字にしようと、ここ数カ月奔走してきた筆者である。嘘と隠ぺいの病院・医師と無能・無責任裁判官に対抗する、弁護士と伊藤さんの勇気に奮い立たせられる昨今である。

 いったん、医療過誤の不運に泣く被害者とその家族は、いくら時間が経過してもそこから一歩も抜け出ることが出来ない。たとえ何らかの癒しがあるとしても、それは一過性でしかない。伸ばしたゴムのように必ず元に戻る。実に恐ろしい悲しいことである。それゆえに、被害者という運命から逃れて生きられる人間・家族は、もっとも幸せかもしれない。他方、被害者の悩みを心底理解できないため、被害者の信頼を手にすることはできない。
 司法に携わるエリートらが何かのことで、被害者という立場を一度でも経験していると、好ましい判断が間違いなく出る。これは不可能な期待ではあるのだが。
<日本人医師の倫理観>
 余談だが、先日自宅に「続・老兵の告白」(黒竜江人民出版社)という日本語版の本を、広島市西区の中野勝さんという方が送ってきてくれた。例のハルビンでの731部隊に所属した元日本兵が、謝罪をこめて告白した過去の歴史を証明するすばらしい本である。そこに一人の「天皇の軍医」が登場していた。生体実験という世にも恐ろしい人体実験をした日本軍医師である。彼は捕虜となっても心からの謝罪ができない。正直に「出来なかった」と告白している。生体実験で虐殺された青年の、老いた母親の1通の悲痛な手紙を読んで、彼は初めて人間になれた、とも告白していた。(この本は中野さんに電話すると、手に入る。082−271−6423、1冊2000円)

 日本の「医の倫理」がどういうものであるかを物語るエピソードである。しかし、ほとんどの軍医は日本に逃げ帰り、病院の院長や大学医学部のリーダーになっている。これでは、殺された側の悲劇はいかばかりであろうか。家族・親族から末代へとその怒りと憎しみは継承されていく。そこから日本と日本人が逃れる術はないだろう。よく右翼の日本人の中には「何度謝罪させれば済むのか」と軽率にも開き直る輩がいる。とんでもない間違いである。自分を逆の立場、すなわち被害者の側に置けば自然とわかることなのだが。恥ずかしい日本人は、ますます増えている。50年、100年で忘却されることは断じて無い。当たり前だろう。
<司法界への叫び>
 被害者の無念とはそういうものなのだ。格好よく「もう過去のこと」とあっさりと忘れられることなどない。正文の主治医はその後病院長、医学部の部長に昇格しているようである。ということは第2、第3の正文が被害者になっているのかもしれない。被害者の心の傷は深くて、決して埋め合わせることなど出来ない。佐藤さんと伊藤さんの心情とは、そういうものなのだ。他人が「そこまでやらなくても」などと良識めいた発言をする資格はない。断じてそうなのだ。嘘と隠ぺいで責任を回避する病院と医師が存在する限り、被害者の苦痛が和らぐことは無い。裁判官・弁護士は、このことをしかと理解すべきであろう。そうでなければ裁判をする、弁護をする資格などない。官尊民卑の裁判官はいらない。

 周辺に妻が幼子を残して自殺した例があった。父親を早くに亡くした友人も。近所には息子が妻に殺害された家庭も。しかし、そうした悲劇を少しでも共有して上げることができたであろうか。胸に手を当ててみると、どうも全くそうではない。人間の愚かさなのだが、自ら想定外の体験を否応なしに受けさせられてみて、初めてその不幸の絶望的大きさに気付かされる自分なのである。恥ずかしいが、これが真実である。
 思いだすと佐藤さんは、正文の悲運を伝えた「医師失格」(長崎出版)を手にとって泣き崩れた。夫とそっくりな事例に涙を流した。そして出版社を通じて連絡を取ってきた。悲しみを共有できる、いわば同士なのだから。
<委縮する医療被害者>
 佐藤さんは、夫を奪われて半年、ようやく病院と対峙し始めている。それまでは取材記者にも「待って」と押さえてきた。だが、今はどうであろうか。マスコミも医師会・病院・医師の側に回っている。
 医師不足報道がマスコミの主流になっている。裁判逃れの医師は、小児科や産婦人科医になろうとしない。偏差値の高い学生が医学部を占拠している。医の倫理をますます低下させている。
それをよいことに、医療過誤という「重罪」にもかかわらず開き直る医師・病院が増えてきているらしい。佐藤さんは、今そのことで苛立ちを強めている。嘘と隠ぺいの文化を改善する気配が全くなくなっているというのである。
これを裁判官が後押ししている。病院の顧問弁護士がそれに悪のりしているというのである。夫を亡くして悲嘆にくれる佐藤さんは、被害者としての当然過ぎる権利さえ認められようとしていない。
正義が消えてしまったかに見える司法界なのである。
<医師不足?>
 医師不足だという。ならば弁護士のように医師を増やせばいい。だが、医師会はこれまで反対してきた。パイが少なくなるからである。彼らは医師である前に守銭奴なのであろう。全てとは言わない。必ず赤ひげのような医師もいる。正文の医療過誤も同じ病院内の赤ひげが真実を伝えてくれた、そのことで事態を家族は理解した。「医師失格」はそうして誕生した。
 今後、偏差値医師が多く誕生する。倫理観の薄い医師の誕生である。同じく看護師にもいえる。最近、筆者が関係している社会福祉法人の評議員会で出会ったベテランの看護師が断言していたことである。
 病院は医師と看護師で成り立っている組織、人間の命を救済する崇高な場所である。そこが崩壊している、あるいは悪化している。とすると、これはどうみてもおかしなことである。どんな有能な政治家・官僚・言論人・学者でも健康を害したら、なんら社会に貢献することはできないだろう。
 その点で、病院の置かれている役割は絶大である。そこが狂い始めているとしたら?
2010年6月26日20時50分記


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