パク・ヨンヒさん=14日、九里(聯合ニュース)
【九里聯合ニュース】1953年から1956年まで、日本から独島を守ったホン・スンチル独島義勇守備隊長の未亡人、パク・ヨンヒさんは日本が独島の領有権を主張し、海外地図に東海が「日本海」と表記されている一連の事態に興奮を隠せなかった。
パクさんは20歳にホン隊長と結婚し、独島に近い鬱陵島で生活した。パクさんも独島義勇守備隊の隊員として活躍し、武器と食糧の供給を担当していた。
守備隊は朝鮮戦争後に地元の鬱陵島に戻った軍人21人と住民12人により、1953年に結成された。当時は武装艦艇の護衛を受けた100トン級の日本漁船が独島や鬱陵島付近に頻繁に出没し、韓国の漁師を追い払った時期だった。
日本は朝鮮戦争直後、韓国内の状況が混乱していた隙を突き、実効的支配を通じ独島を所有しようとした。だが、韓国は力がなかった。守備隊の武器は朝鮮戦争で使っていた小銃と迫撃砲だけで、政府の支援はなかったという。守備隊は劣悪な環境でも約50回にわたり日本の武装艦艇と戦った。
日本の艦艇3隻が出動し、空では戦闘機が守備隊を脅した1954年11月の戦闘では「全員が命を落とすと思った」という。だが、日本側は砲弾を撃たなかった。武力を誇示することで、独島をあきらめさせようとする意図だった。
パクさんは「日本は砲を撃てば、国際問題に飛び火することを懸念した」と話す。「これは独島を韓国領土と認めていることを裏付ける。自分の領土なら守備隊は(独島を)侵略しているはず」と声を上げた。
33人が命がけで対抗したため、日本艦艇は徐々に減った。この頃、守備隊の資金も底を打ち、余力はなかったという。1956年、守備隊の隊員10人が警察に任官され、警察が独島の警備を担当することになり、守備隊は解散した。
ホン隊長はその後、独島に住民が暮らせる住宅を建てるため、奔走した。1969年と1972年、開発計画書を独島が属する慶尚南道に提出したが無視された。1976年に提出した時は予算がないとの返信が来た。情報機関に3日間拘留され、「これからは独島に触れるな」と強要されたこともあった。
パクさんは「政権が日本の顔色をうかがった。弱小国の悲哀だった」と涙を流した。
守備隊の33人のうち、23人がなくなった。パクさんは「今からでも遅くない。日本よりも独島を勉強し、研究する人材を育てなければならない」と話す。「韓国も大国の仲間入りを果たそうとしているだけに、日本の無理な行為を座視してはならない」と語気を強めた。
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