終戦から約2週間後に侵攻してきたソ連軍に故郷を追われた北方領土の元島民たちは、15日の終戦記念日を複雑な思いで迎えた。終戦から66年たつが、故郷はロシアに実効支配されたままで、年に一度の墓参さえままならない。20年目を迎えた「ビザなし交流」で訪れた墓地は荒れ果てていた。
「やっぱりあった……」。元島民の石井アキヱさん(85)=新潟県湯沢町=は、ビザなし交流で生まれ故郷の択捉島にある紗那(しゃな)墓地を訪れた7月、背丈ほどもある雑草をかき分けて、斜面に刺さるように倒れた墓石を見つけた。地面から出ている部分は畳半分ほど。「明治三十年一月 柏谷」と刻まれていた。
戦前、墓石を持つ家はわずかだった。石井さんの兄の眠る場所にはロシア人が埋葬されていた。今回見つけたのは石井家の墓ではなかったが、「島の人はみんな兄弟親戚のようでしたから、自分のお墓のように思っている」と話す。
引き揚げ後、石井さんが故郷の島を訪れたのはわずか7回。一度も再訪できずに亡くなった元島民も多い。
「弾に当たった人、空襲を受けた人、片道の燃料しか持たない飛行機で飛び立った兵隊さん、みな戦争の受け止め方が違う」と石井さんはそれぞれの戦争を思う。19歳のときにソ連軍が攻めてきた。「私たちの島は弾の下をくぐっていない。でも古里を追われた。何かの歯車が狂ってこうなってしまった」
見つけた墓石の隣に、ほんの数日前に事故で亡くなったロシア人の若者の墓があった。その墓にも石井さんは線香を手向け、若くして失われた命を悔やんだ。「人間に変わりはないのだから」と。人を助ければ自分が死ぬかもしれない修羅場を経験してきたからこそ、そう思える。
紗那墓地のように、北方四島では両国民が同じ場所に葬られているケースが多い。だが、ロシア人の墓の多くも、草にまみれ、誰も手を合わせる人はいない。高い賃金や、年金を早く受給できるなどの特典に誘われて島に来たものの、多くは島を離れてしまい、墓を守る人はいないのだという。【本間浩昭】
旧ソ連のゴルバチョフ大統領が91年、北方領土の主権に対する日ソ双方の立場を害さないよう、パスポートと査証(ビザ)を使わずに四島在住のソ連人と日本人が相互訪問する枠組みとして提案。ソ連崩壊直後の92年度から日露間で開始され、10年度までに延べ1万7298人(うち日本側9962人)が訪問した。日本からの参加者は元島民や専門家、返還運動関係者に限定され、団体行動が原則。
毎日新聞 2011年8月15日 21時17分(最終更新 8月16日 1時36分)