アスカとシンジが離れ離れになってから既に4年がたっていた。
ドイツのヴィルヘルムスハーフェンにある大衆食堂『海猫亭』。
その店は最近若くてかわいい看板娘がいると評判になっていた。
北条アスカ、18歳。
彼女はすでに大学を卒業していたし、日本に居た時のように学校に通おうとはしなかった。
アスカは店主であるマリアに料理や掃除、接客の仕方などを教え込まれていた。
アスカは将来この店を継ごうと考えていたからだ。
アタシが食堂の看板娘として忙しく働いていたとある日の事。
この店にネルフのドイツ支部に出入りしている業者の社員が客としてやって来た。
最近ネルフで大きな歓迎式典があるらしくて、歓迎会に使われるような品物の注文が多いとか話していた。
「なんでも、ドイツ支部を視察に来るのが日本のネルフ本部の司令の息子らしい」
「ドイツの支部長はゴマをする気でいるのか」
日本から来る司令の息子ってもしかして……シンジ?
アタシは久しぶりにシンジの笑顔を思い浮かべて胸が高鳴った。
ネルフを出ていく時、シンジの写真は持って来なかった。
シンジの温もりを感じされるのは頭に付けたこのリボンだけ。
シンジの笑顔はアタシの思い出の中にしか存在しない。
ああ……もう一度でいいからシンジに会いたいよ。
ううん、直接会えなくても遠くから見るだけでもいい。
しかし、シンジはネルフのVIPだ。たくさんのガードがついているに違いない。
ネルフを脱走したアタシが近づけるはずもない。
「アスカ、明日コロンビアホテルに出前に行ってくれないかい?」
アタシは閉店後の夕食時にウィンナーソーセージをかじりながらママの話を聞いていた。
アタシは日本で運転免許証を持って居なかったから、ドイツの学校に通って運転免許証を取った。
ドイツの運転免許証は生涯更新しないで有効でEU各国で使えるみたい。
日本に比べて大違いよね。
ちょっと話がずれてしまったけど、アタシは出前とかをママの代わりにするために運転免許を取ったの。
今年で55歳になるママに配達とかさせたくないしね。
「何でもね、ホテルで行われるパーティに出席する人がドイツの料理に飽きたらしくてね、和風の料理を希望しているみたいなのさ」
「それってもしかして、ネルフの?」
「そうみたいだね」
アタシはネルフのドイツ支部の人間と顔を合わせるのが嫌だった。
さすがに今は無関係だけど、アタシを苛めたやつらの顔なんか見たくない。
でも、もし会ってシンジと一言でも話せたら何を言えばいいんだろう……。
シンジはきっとファーストのやつと幸せになっているはずよね。
アタシはもうネルフとは縁を切るって決めたんだ。
シンジを忘れるって決めたんだ。
でも、もう一度だけシンジの笑顔を見たい。
シンジにアスカって呼んでもらいたい。
アタシって諦めの悪い女なのね……。
次の日、アタシは料理を持ってネルフのパーティが催されるコロンビアホテルまで来ていた。
このホテルのどこかにシンジがいる……そう考えただけでアタシはシンジと同じ空気を吸っているのかと胸が高鳴った。
ホテルは司令の息子が来ていると言うことで警備は厳しかった。
アタシは料理をホテルの厨房に届けた後も、未練がましくホテルに残っていた。
従業員によれば先ほどシンジたちがこの廊下を通ったと言う。
アタシは胸いっぱいにシンジの残り香を吸い込んだ。
シンジ……シンジはどのくらい男の人らしく成長しているんだろうか。
やっぱり4年間のうちに背も伸びて、髭も生やすようになって、男の匂いも漂わせるようになったのかな。
……ってアタシ何を考えてるのっ!
シンジ宛てにこっそりと届けたプレゼント、シンジはあの時計着けてくれているのかな……。
ファーストと付き合っているなら捨てられてしまっているかも……。
アタシって人の恋に水を差すようなことをして、嫌な女ね。
アタシはシンジと同じ建物と言う近くの場所に居る……。
でもシンジの心はもうファーストの下にあるんだよね……。
やっぱり会わない方がいいか。
アタシは警備員に不審者と怪しまれないうちにホテルを出た。
配達からの帰り道、アタシはほおをなでる潮風を感じていた。
今夜の海は荒れそうね。
そういえばママも旦那さんと娘さんを海難事故で失ったって言っていたっけ。
アタシとママが出会ったのも潮の香りがする港だったっけ。
この4年間アタシはとっても心安らぐ場所に居る事が出来た。
早起きすることは苦手だったけど、ママに教えてもらった事。
人の心の温かさ。
お客さんと交わす笑顔。
お互いに信頼すると言う事。
ネルフに居た時は他人を出し抜こうとして、周りもそのような競争社会に生きる人が多かったけど、ここでは競争など存在しない。
アタシはこの食堂を離れたくない。
ネルフに戻れる可能性を捨ててでもこの街に居たい。
暖かい人たちがいるこの街で暮らしたいの。
シンジ……。
アタシはシンジの事を忘れるって決めたのに何でシンジの事ばかり考えてしまうんだろう。
シンジに手紙を出すこともできる。
シンジは優しいからファーストと付き合っていても返事をくれるだろう。
でも、それはシンジにとって迷惑でしかない。
アタシは部屋にあるシンジ宛ての出せない何通ものエアメールを思い出してため息をついた。
アタシが食堂の見える場所まで戻ると、営業時間のはずなのに食堂にお客さんの姿が無かった。
「ただいまー。一体どうしたの?」
アタシが店の中に入ると、常連さんの一人のサブさんが血相を変えていた。
「北条さんが突然倒れてしまったんだよ!」
「ママが?」
アタシはサブさんと一緒にママが運び込まれた病院へと向かった。
ママは現在手術中だと言う。手術室の赤いランプが点灯している。
アタシは手術が終わるのを部屋の前の長い椅子に腰かけてじっと待っていた。
アタシは赤い色が好きだけど、この赤いランプは好きじゃない。
シンジに会いたいと思ったアタシに対する罰なの?
シンジがくれたお気に入りの赤いリボンをさすりながらアタシは手術の成功を祈っていた。
サブさんが帰った後もアタシは待ち続けた。
手術中の赤いランプが消えて、中から医者の先生が出て来た。
先生はアタシを見つけると近づいてきた。
「北条マリアさんの家族はあなたですか?」
「はい、アタシです」
「では、病状について説明するのでこちらへどうぞ」
アタシは先生の後に続いて部屋に入った。
「今回の手術は成功に終わりました。胃の一部分を切除することになりましたが、病巣は全て摘出されたでしょう」
先生の後ろでは看護婦さんがレントゲン写真のようなものを並べている。
説明の内容から察しがついた。
「もしかして、病気の原因はガンだったのですか?」
「ええ、胃ガンでした。なので……他の場所に転移していた場合は」
「転移した場合は?」
アタシはその先の言葉を聞きたくなかった。
「もって数年の命となるでしょう」
そんな……やっとアタシにも本当の家族が出来たと思ったのに……。
このままママと一緒に小さな幸せを感じられる毎日が送れると思ったのに……。
アタシはまた一人ぼっちになってしまうの?
アタシは頭の中が真っ白になって、気がつくと病室で寝ているママの横に座っていた。
ママは麻酔が効いているのか穏やかに胸を上下させている。
アタシはもしかして幸せになれない運命なのかもしれない。
アタシの目からは涙があふれ出していた。
「アスカ……」
その言葉がアタシを現実へと引き戻してくれた。
「ママ!」
ママはゆっくりと目を開けて微笑みかけてくれた。
「そんな顔をしてたら、せっかくの美人が台無しじゃない」
「ママと一緒に居られなくなるかもしれないから……」
「そうかい、やっぱりあたしゃ重い病気にかかっていたんだね」
アタシはしゃっくりあげながら頷いた。
「そんな悲しい顔をしているアスカを見ているとあの日を思い出すね」
「あの日って?」
「あたしとアスカが出会った日だよ」
ママはアタシに向かって手を差し伸べようとした。アタシの方からママの手を握った。
「あの時のアスカは全てに絶望して海に身を投げようとしてたね。あたしゃ自分の娘と同じように海で若い子が命を散らすのを見たくなかったんだよ」
「……ごめんなさい」
「あたしはアスカに自分の娘を重ねて夢まで押しつけてしまったみたいで悪かったね」
「ううん、アタシは自分であの食堂を手伝おうと思ったの」
「そう言ってくれると嬉しいよ。あの食堂はアスカに任せる、もし他の仕事がしたいのなら畳んでしまってもいい」
「ママ……」
アタシはママの顔を見て、揺らいでいた決心を固めることにした。
「アタシ、あの食堂を続けるよ。ママみたいにまだ上手くできないけど、ママが元気になって戻ってくるのを待っている」
「アスカにはあたしの味のほとんどを伝えたつもりさね……ありがとう」
ママはそう言って安心した顔で眠りについた。
アタシはママと約束をした以上、強く生きなくちゃならない。
次の日の早朝、アタシは食堂を開ける準備のために、仕入れた商品の点検をしていた。
料理の他にこの食堂では新聞や日用品と言った雑貨も取り扱っている。
アタシは新聞を運んでいるときに、信じられない記事を見てしまった。
『ネルフ次期司令、交通事故死』
日本語新聞には一面でセンセーショナルな記事として書きたてられていた。
死亡者の顔写真は……18歳に成長したシンジの凛々しい顔写真だった。
アタシは待ち焦がれていたシンジとこんな形で再会を果たすことになるなんて思ってもみなかった。
何で? シンジはファーストと幸せな人生をこれから歩むはずじゃなかったの?
アタシはシンジの事を想って思いっきり泣き叫びたかった。
でも、アタシはママと食堂を一生懸命やっていくと約束した。
泣いてばかりはいられないんだ……。
でも、今日一日だけは泣いていいよね?
アタシは臨時休業の札をかけて、一日中泣き続けた。
一生分の涙を流すんじゃないかと思うぐらい流し続けた。
次の日から、アタシは一生懸命仕事に集中した。
仕事に集中しないとシンジの事を考えて泣いてしまうから。
営業時間中はお客さん相手に笑顔を振りまく。
でも、閉店時間になってお客さんが居なくなると一人残ったアタシは寂しくて泣きそうになってしまう。
そんな仕事に打ち込む日々が続く中、アタシは最近お客さんの中に不思議な男性客がいる事に気がついた。
見た目はドイツ人の学生に見えるんだけど、料理を注文するとき以外はジッとアタシの方を見ている気がする。
アタシに下心丸出しで近づいて来る男共も居るんだけど、その学生からはいやらしさを感じない。
学生なのに一人で来るのも変だし、だいたいこの近くには学校が無い。
良心的な価格でやっているから安さに釣られてきているのかもしれないけどね。
でも、やっぱり変だ。
注文を待っている時も本を読んだり窓の外を眺めるでもない。
アタシと目が合うとわざとらしくそらしたりするし。
その変な学生は、閉店時間が過ぎて一人になったアタシにおずおずと話しかけて来た。
「あの……悲しいのに笑顔をしているなんて辛くないですか?」
「余計なお世話よ!」
アタシが思いっきり怒鳴るとその学生は驚いて逃げて行った。
図星を突かれて心臓をわしづかみにされた気分だった……突然何て事を言い出すのよ、もう!
その学生は性懲りも無く次の日も店にやって来た。
アタシは愛想笑いもそこそこに軽くあしらってやった。
それなのにまた、その学生は店が終わった後に話しかけて来た。
「あの、僕をこの店で働かせてくれませんか?」
「はあっ!?いきなり何言ってんのよ!」
「……ごめんなさい」
「何で働きたいの?大した給料も出せないわよ」
「……ごめんなさい」
「だ・か・ら、理由を聞いているの!」
「あなたを側で支えたいからです」
こいつ、謝ってばかりだと思ったらいきなり何を言い出すのよ。
「やっぱり、アンタを雇う事はできないわ」
「……どうしてですか?」
「アンタを見てるとね、イライラするのよ!」
アタシはその日もその学生を追い散らした。
でも、次の日もその学生は店にやってきた。
アタシは周りの客が驚くほど乱暴に料理を運ぶ。
いっそ下剤でも盛ってやろうか。
そうすれば二度と来なくなるに違いない。
でも、アタシにはそれとは正反対の気持ちも芽生えて帰ろうとするその学生を自分から呼び止めてしまった。
「アンタ、閉店後に話があるから残ってなさい!」
そう言われたそいつは借りて来た猫のように大人しく店の中で待って居たわ。
閉店後、二人っきりになったそいつとアタシは厨房の中で向かいあった。
「アンタ、料理はできるの?」
「あまり上手くないですけど、自炊をしていましたから……」
「じゃあ、ここにある材料を使っていいから何か料理を作って」
そいつは食材を選ぶと、ハンバーグを作り出した。
自炊しているのにハンバーグを作るなんて、普通一人暮らしの学生ならもっと簡単な料理で済ますだろうに、変わったやつね。
アタシの頭の片隅にアタシのわがままに付き合ってハンバーグをよく作ってくれたシンジの姿が思い浮かんだ。
「できました」
そいつの作ったハンバーグを一口食べると、懐かしいあの味を感じた気がした。
……まさか、こいつはシンジ? いや瞳の色は青いし、髪の色は茶色いし、身長もアタシより大きくてドイツ人に見える。
でも、アタシはこのおいしいハンバーグを作ったこいつの『腕』を見ると、笑いがこみ上げて来て止まらなくなった。
アタシは出来るだけ穏やかな笑顔になるように作り笑いをしながら話しかける。
「合格よ。アンタ、明日からこの店で働きなさい。出前が出来なくて困っていたのよ」
「ありがとうございます」
オドオドしていたそいつはやっと安心したような笑顔になった。
「アンタ……名前は?」
「ハンス・シュトイベン……です」
「じゃあこれからアタシはアンタをシュトイベンって呼ぶわ。アンタはアタシをアスカさんって呼んでいいから。雇い主なんだからね、ちゃんと敬称をつけるのよ」
「よろしくお願いします、アスカ……さん」
こいつは一瞬アタシの名前を呼び捨てにしようとしたけど、アタシは広い心で許してあげる事にした。
だってこの時は嬉しくて仕方なかったんですもの。
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