私は、インターネット以前にパソコン通信をやっていたので、本名の公開にはなんの抵抗もありません。住所電話経歴など、全部公開しています。なぜかというと、無限の信用を得られるからです。
昔は私もハンドルネームを使っていました。しばらくして、実名公開制の ASAHI-NET という大手パソコン通信ホストを見つけました。
さぞや住み心地がよろしかろうと思って入会したら、本名でもやる人はやるのね~と言いたくなるほど荒れていました。むしろハンドル制のホストの方が穏当な気がするくらいだったので深入りする前に退会しましたが、そのときの経験から、実名が必ずしもプラスにはならないことを学びました。
実名である、すなわち責任が伴う…何を見てきたのですか?
自分が重みを持たせたい発言をする時にだけ便利に実名を使い分けているだけではありませんか?笑い話にこのようなものがあります。
主は言われた、罪を犯したことのないものだけがつぶてを投げよ。しかして最後につぶてを投げているのは主だけであった。
実名が責任を伴うと実名で書いても、つぶては投げられないのです。実名派は「夢見すぎ」、匿名派は「妄想しすぎ」、それに尽きます。
私は使い分け派です。実名が主ですが、ハンドルネームも使いますし、空白にもなります。しかし、人としての最低線を捨てるようなことは書きません。
形がどうあれ、発言に気を使うのは人としてあたりまえのことで、それを放棄したいから匿名を選択するというのは、人間の尊厳の問題になりはしないかと思うのです。自分の人生それでいいのか、と自分自身を振り返ってみるのもいいかもしれません。
匿名でしか書けないことは、そもそも書くべきではないのです。実名でしか書けないことも、まったく書くべきではないのです。
自分にとって特別なもの、それが名前です。どんどん使うか一生隠し通すか、人それぞれでしょうけれど、私は使います。
たとえば現状を変えたいとき、別の手を打たなければならないのに、手元に何もない場合などは、本名を出して様子を見ます。すると、たいてい何かが変わります。日本は、まだそれが通用する社会です。外国では、実名が浸透しているのでこの手は使えません。名前を出すだけで状況を変えることができる、それが通用するうちに手を打ってみるのもまた一興です。
基本的に、みんな警察が怖いのです。怖いと感じること自体、自分が何かいたずらをしたらバレて捕まるという心理の裏返しであり、 つまりいたずらをしたいのです。からかって遊びたいのです。それが人間だといわれればそれまでですが、もっと目指すものがあってもいいかと思います。
今できることは今やらないと人間いつ死ぬかわからないので、それこそ今キュッと逝ってしまわないとも限らないですからね、そんな心持ちで生活しています。今日が最後の一日だと思えば「明日やる」という発想は出てきません。それがなんであれ、今すべきなのです。
「明日」を今現在から連続した24時間が経過した時点のこととおくと、現在と24時間後は時間的に連続しているわけですから、なんらかの「今現在できない原因」が24時間以内に取りのぞかれなければ「明日やる」ことは不可能です。
なぜ今できないのかを考え、できない原因を追求し、その結論が正しいことがはっきりしたら、今すぐに原因を取りのぞくべきです。気が進まないとか乗り気になれないなどのような自分の感情にもとづく原因は、取りのぞかず逆に利用しましょう。
気分の問題は、つきつめれば失敗体験をくり返したくない心の問題でもあります。必ず気持ちよく成功する体験ならば、それに対して気が進まないなどとは思わないからです。
前回の体験を失敗と思ったのなら、その原因はおのずとわかっているのですし、別の言い方をすれば、わかっているからこそ失敗と認識できているわけです。その状態でことを進めれば、同じあやまちはくり返さないはずです。むしろ失敗していたことがらが解決できたという成功体験につながっていくでしょう。
別の失敗をするかもしれません。その可能性はおおいにあります。しかし、それを解決して成功体験にすれば、なにごともさらに楽しくなるでしょう。ひとつの失敗をすると、その先にはひとつの成功が待っているのです。成功体験を得たいのなら、失敗をするために「明日やる」ことを「今やる」べきなのです。
「明日」とは24時間後の「今」です。それぞれその瞬間を切り取ったとき、それらにどんな差があるというのでしょう。差がないのなら、今やってしまいましょう。そうすれば、24時間後の「明日」には、進歩した自分がいて、しかも別のことができます。これだけ得なのですから、今やらない手はありません。さあ。