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特集:原子力政策 対ソ戦略、米「平和利用」 正力・中曽根氏、旗振り

正力松太郎氏
正力松太郎氏
中曽根康弘氏
中曽根康弘氏

 原発依存度を高め続けてきた日本。その歴史は、政治の動きを抜きにしては語れない。 

 「原子力はかつては猛獣だったが、今日は家畜になっている。原子力で日本の水準を上げて、国際的にも正当なる地位を得るように努力する」

 1955年12月の衆院科学技術振興対策特別委員会で、原子力基本法案の提案理由説明に立った若き日の中曽根康弘元首相は、原発の安全性と必要性を強調した。

 日本が原発導入に踏み切る契機となったのはその2年前、53年12月の国連総会でアイゼンハワー米大統領が行った「原子力の平和利用」演説だった。旧ソ連が水爆実験に成功した直後、米国は原子力技術の他国への供与で西側陣営の強化、拡大を模索。敗戦後、原子力開発を禁じられていた日本も、供与対象になった。

 被爆国・日本で、原発への国民の理解を得ようと、「原子力の平和利用」の旗振り役を担ったのが読売新聞社主から政界に転身し、原子力委員会初代委員長をつとめた正力松太郎氏と中曽根氏だった。米中央情報局(CIA)の当時の機密文書には「ポダムとの関係は成熟したものになったので、具体的な協力申し出ができるのではないかと思う」と記されていた。日本に原子力事業が導入される過程を詳細に描いたこの文書に登場する「ポダム」とは、正力氏に付けられた暗号名。米国の世界戦略と強いつながりを持ちながら、日本の原発開発が進んだことをうかがわせる。

 中曽根氏らは54年3月、原発関連経費を日本で初めて盛り込んだ予算修正案を提出、翌月成立した。56年には原子力基本法などの原子力3法が施行され、政府が原発の計画を立て電力会社が運営する「国策民営」体制が固まった。

 ◇「カネの力」で急拡大

 原発建設の動きは、73年の第1次石油危機で加速する。田中角栄首相(当時)は74年、原発立地・周辺自治体に多額の交付金を落とす電源3法を成立させた。過疎地域にとって原発誘致が財源確保の即効薬となった。

 79年のスリーマイル島事故、86年のチェルノブイリ原発事故で安全神話が崩れ、欧米で脱原発の機運が高まっても、政府は推進の姿勢を変えなかった。発電電力量に占める割合は着実に増え、74年度の5・4%から、98年度のピーク時には36・8%に達した。

 だが、今回の事故が、原発と政治との関係を大きく揺るがした。菅直人首相は7月13日の会見で「将来は原発のない社会を」と表明。29日には、政府のエネルギー・環境会議が原子力の発電割合を30年までに53%にする「エネルギー基本計画」を白紙撤回、「減原発」に踏み出すことを決めた。

 自民党も原発増設を軸とする与党時代からのエネルギー政策の転換に着手している。一方、原発マネーに依存してきた自治体や電気料金上昇を警戒する経済界からは、原発維持の声も根強い。事故収束のめどが立った段階で、「やはり原発は推進すべきだ」との声が政治の場で再び高まる可能性もある。【笈田直樹】

毎日新聞 2011年8月2日 東京朝刊

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