被爆地長崎の放送局記者として長年、原爆・核問題に取り組んできた記者が退職を前に制作した約40分の特集が、13日午後5時半のTBS「報道特集」内で放送される。沖縄のみならず日本各地の米軍基地が戦後、米軍の核攻撃の前線であり続けたことを、元米軍兵らの証言や資料を基に浮き彫りにした。ベテラン記者が執念で紡ぎ上げた調査報道だ。【高橋咲子】
かつて日本には米陸軍の「核・生物・化学学校」があったという。朝鮮戦争が始まった翌年、キャンプ岐阜に設立され、核兵器の基礎知識や対処法を指導していた。1958年に日本に返還され、航空自衛隊岐阜基地となったため、存在すら知られていなかった。この学校の実態が、長崎大の研究者が発見した資料と実際に訓練を受けた元兵士の証言で浮かび上がる。
ベトナム戦争時には、沖縄の基地で秘密の核兵器訓練を受けて被ばくしたという元兵士の証言も得た。その男性が浴びたのは79ミリシーベルト。呼吸器や心臓、肺などを患い、酸素ボンベが手放せないという。
核爆弾の投下訓練、兵器の整備、装填(そうてん)訓練……。米軍は世界情勢に合わせて日本で核攻撃の準備を入念に行っており、それは90年代に入って以降も続いたと、番組は指摘する。それは、沖縄、青森・三沢、福岡・板付、東京・横田、山口・岩国などで行われていたという。
取材したのは長崎放送を3月に退職した関口達夫記者(61)。74年に入社後、報道カメラマンを経て記者に。うち23年は原爆・平和関連を担当。扱うテーマを尋ねれば、被害者の実態、被ばく者援護、海外の核の被ばく者、核兵器廃絶……と即座にいくつもが挙がる。「23年間とはいえ、とてもやり尽くせないテーマだ」と振り返る。
今回の取材は、約10年前に長崎大の研究者が、朝鮮戦争当時の米軍佐世保基地で核兵器を扱う訓練を行っていたという資料を発見したことが発端だった。しかも訓練を行う兵士を養成するために、岐阜の基地内に学校があったという。だが、どんな学校かは皆目分からない。「証言や文書がないとストレートニュースで終わってしまう」。この「ネタ」を在職中に形にしようと決意した。取材は難航を極め、なかでも、被ばくを証言した元兵士は、存在を知っていても名前のスペルさえ分からず、たどり着くまでに2年を要したという。
60年の日米安全保障条約改定で、核持ち込みには事前協議が必要になった。だが、核兵器搭載艦船の寄港を日本はひそかに認め、89年の海部俊樹内閣まで首相や外相への説明が引き継がれてきた。
特集には、沖縄タイムスや東奥日報(青森市)の記者、東京や長崎の研究者ら各地で核問題を追い続ける人たちも登場する。関口記者は「記者はややもすれば、自分だけのスクープに陥りがちだが、アメリカの軍事戦略のように機密性の高いテーマを扱うには、横の連携がないと太刀打ちできない」と話す。
特集は最後に問いかける。「冷戦終結から20年がたち、核使用の可能性は低下している。しかし有事の際に日本が再び核の盾の役割を担うことはないのか」
毎日新聞 2011年8月12日 東京夕刊