第1話
「ねえ、お昼ご飯、まだかな?」
謹慎六日目、ジョジョ・ダックスフンドはゴロゴロしていた。
「さっき食べたばかりじゃない」
ナオミといえば、引継日記をすみからすみまで熟読していた。
もうすでに二回もこの日記を読み返していた。だから今は三回目というわけだ。謹慎といっても、トイレに行きたくなれば自由にいけるし、噂を聞きつけたテルやロロ、ココとも自由に会話はできる。それほど厳しいものではない。ただ自由が制限されているだけなのだ。
「…ふん。このままだと僕、暇すぎて死んじゃうと思うよ」
ジョジョはめんどくさそうに寝返りをうった。
「暇で死んだ人なんて、これまで聞いたことないわ」
「だったら僕が一番最初になるんだ、きっと…」
あとちょっとの辛抱よ、とナオミはうーんと伸びをする。
「でも保護観察から解放されても、牢獄からでられる保証はないじゃんか。相手はあの守銭奴だよ」
確かにジョジョの言うとおりだ。
そう夜の十二時をまわれば、晴れて謹慎処分から解放されるものの、パパティーノは牢獄にぶちこめとはいっていない。牢獄にぶちこんだのはアニタ・ジブリだ。ナオミはこの日記にちょっぴりひっかかるところがあったので、様子を見にきてくれたアリサ夫人に思いきって訊いてみた。
「あのね、この日記のまえの持ち主って十五年もまえの――――」
「ああ、そうなのよね。あなたが握手した子はピーターのお兄さん、ペーター・ティソのお花屋の騎士候補生だったの。お兄さんのペーターのお店には、何たってナオミのような騎士候補生が五人もいるんですもの」
ピーター・ティソ親方はティソ家の次男坊。
兄さんとの共同経営を嫌い、この古き洋館大通りのアニタ・ジブリ・パリにお店をだしたのが二十三年前だ。そのとき初めて騎士候補生を受け入れたとか、それからその子が卒団式を迎えて、かれこれ十五年ほどの月日がたったそうだ。
「みてのとおり小さなお花屋だけど、昔はもっと小さかったのよ。でも商売ってね、小さいうちが楽しいものよ。だって大きくする楽しみがあるんですものね」
この大きな場所に引っ越してきたのは五年前、それまではもっと太陽の西日があたらない、じみじみしていたところに店をかまえていたとか。湿気の多いところだったから、三日に一回は店のなかにキノコが生えてきて、とても困ったとか。
「ほらっ、あのときはライアンがジャンみたいに小さくて大変だったからね。今はジャンが小さくて大変だから、ペーターにいって、一人だけこっちで面倒みさせてってわがままいったの」
「ねえ、まえの子ってどんな感じの子だったの?」
「日記に名前は書いていないかしら?」
「消えちゃっているの」残念そうなナオミ。
「うーん、もう十五年も昔のことだから……でもあだ名なら覚えているわよ。ええっとたしか、うーん」
アリサ夫人はスヤスヤと気持ちよさそうに眠っているジャンを胸に抱いて、昔を思いだしていた。
「あっ、そうそうトニー、トニー。昔はポニーといってよくいじめたものよ。あーあ、あの頃の私はピチピチの二十五歳、できれば昔に帰りたいものよね? なんたって昔の私は本当に男の子にモテモテだったんだから」
ピチピチって、魚みたいだ。
アリサ夫人の言葉にナオミは両手を口にもってきてクスクス。
ところで何のようかと聞けば、ティソ親方と一緒に花を届けにいかないかという、誘いの言葉だった。もちろんナオミはあと少しで謹慎処分が終わるからと断わるものの、アリサ夫人は人さし指をたてて「あと少しってあんた、暇すぎて死んじゃうわよ」とジョジョと同じことをいう。ジョジョは「僕のいったとおりじゃん」と得意げに鼻を鳴らす。
アリサ夫人が静かに錠をカチャッと鳴らした。
「こんなところにじっとしてたら、それこそキノコが生えちゃうわ」
階段をのぼればハナコが相変わらず、モップを片手に見張り番をしていた。
二人と一匹の姿をみかければ、ケラケラと笑いながら「みーちゃった、みーちゃった」とふざけていた。それからすぐに「アニタ・ジブリにいわなくちゃね、脱獄はお尻たたき五百回だもん」と意地悪そうに呟く。
「ねえ、お願いだから見逃してくれないかしら?」
「うーん、どうしようかな。その犬、くれたら考えてもいいわ」
ハナコは人さし指を唇につけて、無気味に笑ったのでジョジョ・ダックスフンドは思わず毛が逆立ち、失神しそうだった。ナオミはジョジョを思いっきり抱きしめると顔をそむけた。そしてハナコを無視した――――それがいけなかった。
「アニタ婆! ティソ親方の見習いが逃げだしたわ。手引きはアリサよ、あの女も一緒に閉じこめなくちゃ。二人そろって拷問鞭打ちの刑よ!」
ハナコ・ゴーストはこんな悲鳴をあげたので、アリサは大声で怒鳴り返した。
「コラッ! 静かにおし!」
「ふーんだ、誰がするもんか! へんへんへん!」
「この家から追い出してもいいのよ!」というとハナコは「おお、こわ。ぶるぶる」と顔を引きつった。少女はすれ違いにジョジョのしっぽを握ったのだが、少女の手はものすごく冷たいらしく、ジョジョはブルッと震えてしまった。
アリサ夫人はやれやれという顔をするばかり。
「ねえ、ナオミ。あなたがここに戻ってくるまでジョジョをハナコに預けたら、どうかしら?」この言葉にジョジョはビクッと顔をあげて、じりじりと後ずさりした。そのことにちょっとためらいながら、ナオミは何とか納得したようだ。
「ジョジョ、お願い、ね?」
「なにが『ね?』だよ、僕は人質ってことじゃないか」
ジョジョは恨めしそうにナオミとアリサ夫人を見つめた。
「僕、あの子のペットになるってことでしょ?」
「そうねえ、でも仕事をしている時間だけよ」
「ジャンの子守りより、ましかなあ?」
「たぶん」
「でも相手はゴーストだぞ。あの子にちょっとでもさわってごらんよ。ものすごくヒヤッてするんだよ」
「もう大げさげなんだから。すぐに戻ってくるわよ」
ジョジョは顔をしかめてあきらめたようだ、しっぽはぱたんとしなびれていた。そしてしょんぼりとうずくまると「フン!」と鼻を鳴らした。ナオミが「ごめんね」といっても知らんぷりだ。
台所のすぐ奥部屋にはアニタ・ジブリがパチコチッと算盤をはじいて、今月の家賃及びテナント料、食事代をせかせかと計算していた。ナオミは彼女にばれないように忍び足で台所をよこぎろうとすれば、ハナコが口をパクパクあけて、アニタ・ジブリに知らせようとしていた。人の気配を感じたらしく、アニタ・ジブリが顔をあげれば、いやはやナオミたちと目があってしまった。
思わずナオミは肩をすくませた。
「さっさとお行き! 仲間に感謝するんだね!」と唸るアニタ・ジブリ。
仲間に感謝するんだね――――どういう意味だろう?
ぽかーんと口をあけている、そんなナオミの脇腹をつついたのはアリサ夫人だ。
「あなたをここから出すように命じたのはアニタ・ジブリよ」
アリサ夫人の言葉にナオミは凛として悟った。パパティーノが自分を襲った、暗殺者を始末したということに。何だかいい気分ではない。
「…あの、その…」
「なんだい。まだいたのかい?」
「その、アニタ・ジブリさんは犯人をご存知ですか?」
老婆はパチコチッと算盤をはじくのをやめ、「ドラゴンチップスにつられたお前の仲間が、あの男が殺し屋だって吐いたそうだ。お前も警戒心が足りない。殺し屋があんなすぐ近くにいたっていうんだからね。まあ、死んじゃいないけどね。それから保護観察はまだ終わっちゃいないからね!」と唸った。
その言葉を聞いたナオミはペコリッと頭をさげ、アニタ婆さんが老眼鏡を拭いているときに早々と立ちさった。ハナコ・ゴーストはちえっと舌打ちし、「ワンちゃんと遊んでこよっと」と不気味な笑みをうかべて、ジョジョがいる地下牢へと姿を消した。
数分後、キャン――――というジョジョの悲鳴が聞こえたのはいうまでもない。
第2話
店の表には荷馬車につながれた、青毛のクライスディールのメス一頭が大人しく待っていた。
ティソ親方の馬らしい。荷馬車には藁葺きかごがぎっしり、植木鉢には色鮮やかな花がぎっしり、ひしめきあっていた。荷馬車の影からのっそりとでてきたのは、親方の馬の半分ぐらいの大きさ、シェトランド・ポニーのマレンゴだ。
相変わらずブルルッと鼻息が荒い。
「親方、ヨセフ爺さんのところまで取りにいってくれたの?」
「なあに、おやすい御用だ」
マレンゴはナオミに近づいてきて「今日はジョジョがいないんだね」といったような感じで、自分の頬をこすりつけてくる。ジョジョには悪いが、慣れてくると馬もけっこう可愛いもんだ。
「六日分の仕事をしてもらうからな?」とナオミがマレンゴに跨るのを確かめると、ティソ親方はクライスディールの手綱をひっぱりながら歩く。
ナオミも親方の横に並んで、のんびりと歩いていく。
「注文、誰かからもらったの?」
「誰からももらってないよ。今からするのは移動販売、移動花屋だ」
でこぼこの石畳の横丁に馬の蹄鉄の音がガタゴトッ、ガタゴトッと気持ちよさそうに鳴り響く。どこか忘れていた大切な音のような気がする。
ナオミたちは鳥の鳴き声がやかましい横丁を通った。
そこは小鳥たちのかん高い声が鳴り響いていて、人の声などとても聞こえない。ティソ親方は「鳥市場さ」と少女にそっと耳打ちする。せまい通路に七十軒もの小鳥店がひしめている鳥市場、大人ひとりがやっと歩けるといったぐらいだった。
どこをみても鳥、鳥、鳥。竹かごには九官鳥や雀、ナイチンゲールなど約百種類もの鳥がいた。だけどあの青い鳥がナオミをじっとみていることは、さすがの彼女も気づいてはいないようだ。天井からぶらさがっている球状の竹の鳥かご、杯のような形をした彫刻をほどこした陶製の餌入れ―――この抜け道は活気に満ちた裏通り、いたるところに青空市場が広がっていた。
生花市場や生肉市場、時計市場や雑貨市場などは歩くのもままならない人ごみだ。やっとナオミたちはあのブルトンホテル大通りにでることができた。ナオミが親方に連れられて歩いた、あのにぎやかな大通りだ。
ナオミは先ほどのアニタ・ジブリの言葉の意味を考えていた。
アニタ・ジブリは確かに男といった。それならあの男しかいないじゃないか。自分を命がけで守ってくれたサンチョ・ボブスリーしか。無実の男の罪がさらに増えるのは、いい気分ではない。それにドラゴンチップスにつられたお前の仲間――――お菓子につられる子なんて一体どこの誰だろう? テルでないことを信じたい。
「さあ、仕事をはじめるぞ」
親方の声を聞いて、ナオミは現実に呼び戻された。
親方は「移動販売は声が大事なんだ」と馬にかけていたラジオのスイッチを入れた。
するとラジオからは「移動花屋、移動花屋。誰にもいえないあなたの声を花言葉にどうぞ。新鮮でピチピチ、できたてホヤホヤをお届けしますよ」とアリサ夫人の録音された、元気な声が聞こえてきた。
「ねえ。ティソ親方。フローリスタって?」
「花屋って意味だ。さあ、誰か手をあげている人はいないか、しっかりみるんだ」
すれ違う人々でがやがやとにぎわうブルトンホテル大通りに、アリサ夫人の明るくて素敵な声が響いた。最初は素通りしていた人々もその声に声につられてか、何人かは立ち止まって、「お嬢ちゃん、一本くれないか?」と荷馬車のなかの花を買ってくれた。香りに魅せられる人もいた。
ともあれナオミはたくさんの人々の視線に顔を赤らめ、思わず地面に目をやった。しょんぼりとだんまりを決めこんでいる、少女に親方はあきれ顔だ。
「こうやって花を売り歩くのも俺たちの仕事の一つだ。町の連中は俺たちを花屋だと知っている。昔から花屋は『フローリスタ』と叫んでお客を呼びこんでいたんだ。シャキッと胸を張ってりゃ、それでいいのさ」
親方の言葉はもっともだ。
すると一人の若い女の人が「あらっ、ティソ親方。可愛いお手伝いさんですね」とナオミのことを気にかけてくれる。ナオミはもうすぐでおつりを多く渡すところだった。
大通りではそんなナオミの様子を町の子どもたちがニヤニヤッと窺っていた。彼らは時間が過ぎていくにつれて、一人二人とふえていく感じがした。
「アイツだろう?」
「ライアンのお父さんの隣にいる女の子よ」
「よくみろよ! チェス紋章を胸元につけているぞ!」
「きっとライアンから引き継いだんだ!」
少年たちの言葉を聞いて、ティソ親方はナオミの胸元をみた。
そのうち数人の男の子が「おい、そこの家なき子」とナオミを侮辱したので、ティソ親方が「コラッ!」と一喝。すると町の子どもたちは大笑いしながら、さっと路地裏へ逃げてはまたひょっこり姿をみせた。ナオミは数人か子どもたちには見覚えがあった、彼らはモードレッド地区の騎士候補生たちだ。
(そういえば今さっき、あそこにリサ・パパティーノもいたわ)
「おい、家なき子!」ハレルヤの声だ。
ナオミは瞳をつりあげて、今度こそ何かいい返してやろうと怒りをこめてふり返った。
それを待っていたかのようにハレルヤは「アホがみる、豚のケツ」と大きなお尻をぷりぷりとふっていた。あばたたちは大笑い、ナオミは胸から噴水のように込みあげてくる、怒りを抑えるので必死だ。
「ほらっ、お客さんだよ」とティソ親方は、彼女の背中を叩いた。
いやはや彼らの視線がどうも気になる、そのたびにナオミはおつりを間違いそうになった。
そんな少女の姿を見て、モードレッド地区の騎士候補生はどっと笑い声をあげ、彼女の悪口をいった。とうとう我慢ができなくなったナオミは、拳をギュッと握りしめた。さりげなくティソ親方はそれを横目でチラッとみていた。
「ナオミ、犬が吠えていると思いな」
その言葉にナオミはジョジョを思った。
「…で、でも親方」
ティソ親方はナオミのチェス紋章をみて、静かに唸った。
「さっきの子供たちのことは本当か? あれほどチェスが大好きだった、小さなライオンがお前にその座を譲り渡すとは」
「……」
「他のアーサー地区の子どもたちがいくら頼んでも、嫌だの一点張りだったのに。だから連中は騒いでいるんだ。チェスゲームは騎馬戦でね、ライアンのポジションは騎士役なんだ。騎士役は馬術がうまくないと務まらない大役だ」
ナオミは自分は馬術なんか知らないと小声でいった。
「一角獣を乗りこなしたんだろ? じゃあ、お前はもう一人前だ。あの聖なる馬はそう誰にも乗りこなせるもんじゃない。過去二十年間で、あの馬を乗りこなした騎士候補生なんてあの人ぐらいなもんさ。お前は自信をもっていいよ」
あの人ぐらいなもんさ――――の、あの人って誰?
「アリス・ニト、お前の母上だ」
その言葉は衝撃的だった。その親ありてこの娘あり、とティソ親方は言いたげだ。
「それにだ、ナオミ。俺、カストロ髭の花屋から三人も、そう三人もチェス選手を輩出したんだ。トニーとライアン、そしてナオミ、お前だ。俺は鼻が高いよ」
そんな親方と裏腹にナオミは戸惑いを隠せない。ただの勘違いかもしれないのに。
「…お、親方。私、辞退します、きっと失敗しちゃうわ…」
皆の期待に応えたいけど、今の自分にはその力がない。
そのことは自分がよくわかっている。実際、チェスゲームを知らないのに競技などできるわけがない。皆に迷惑がかかるぐらいなら、いっそのこと参加しないほうがいい。
「最初はみんな、半人前さ。気にすることはない、要するに自覚の問題だ。それに自分で自分をあきらめてどうする? 失敗とは失敗を恐れて挑戦しないことだ。失敗して誰がお前を責める? 失敗を責める風潮をこしらえるヤツのほうが悪い。いいか、ナオミ。失敗を恐れれば、はなから挑戦なんかできやしないんだ」
ある著名な経済学者はいう。
百発百中は曲芸、失敗をしたことのない者を一切信用してはいけないと。人生の中で失敗を経験したことのない者は、失敗することを恐れるあまり、結果がみえている確かなことしか挑戦したことがない無難な者だ。もしくは挑戦を放棄した要領のよい者だ。しかしそれは挑戦とはいえない。挑戦とは結果が不明瞭な出来事に思慮苦慮して挑み、戦っている者のことをいう。そういう挑戦の中には結果がどうあれ、自身の成長が垣間見える。つまり人間としての差がでてくるということだ。そう多くの成功は、多くの失敗にも負けずにやり通したときに輝くものなのだ。
親方の言葉にどこか納得がいかない。どことなく話をすり替えられている気がする。
「試合の練習はテムズ先生にでも聞けばいい。乗馬教室の場所は知っているだろう?」
「それとこれと話は違うわ」とナオミは唸りに唸る。
「同じだよ、相手はお前のことが怖いんだ。お前のことを何も知らないからな。そういうお前もチェス選手になるのが怖い、チェスのことを何も知らないからな。そして世間には最初から最後まで、それを見つめているヤツが必ずいる」
「それって誰なの?」
ナオミの問いかけにティソ親方は、少女の髪の毛をくしゃくしゃにして「俺とお前さんじゃないか」と笑いながら答えた。さらに親方は「初めてが悪いことなら、この世から初めてがなくなっちまうじゃないか」と大きく笑った。
第3話
ふいにティソ親方は「おやっ、ナオミ。あそこに誰かが手をふっているぞ。どんな用事かを聞いてくるんだ、そら!」とマレンゴのお尻を軽く叩いた。
シェトランド・ポニーは勢いにまかせて走りに走った。
手をふっていたのは若い男の人だ、その人は二週間前ぐらいにアッパータウン証券からでてきた、サラリーマンの一人だ。とても難しい話をしていたから、何となくだけど記憶に残っている。
「ちょ、ちょっと待っててください!」
サラリーマンは(何だろう?)と顔をかたむけた。
ナオミはちょっとまわり道をして、モードレッド地区の騎士候補生が集まっている、ケーキ屋へとむかって走っていった。文句をいってやるつもりだったが、彼らは思ったよりも素早くて、逆に一番とろそうに見えた、あのハレルヤ・ヤドリギにあっかんべえをされてしまった。
ナオミは悔しさのあまり顔を真っ赤にして、さかんに自分の頭をポカポカッと叩きながら、見覚えがあるサラリーマンのもとへマレンゴを走らせた。
「おーい、通りすぎちゃったよ、君!」
「ご、ごめんなさい」
ナオミはすぐに謝ると若い男の方へ歩み寄った。あとからティソ親方が遅れてやってきた。親方がどんな用事でしょうかと尋ねてみれば、男の人はあたりをキョロキョロとみまわして、恥ずかしそうにボソボソと呟いた。
「ええ、なんだって? ハイ、チーズだって? 写真を撮ってくれるのかい?」
「いやハイ、チーズじゃなくて、そのうだ…」
ティソ親方は男が何をいいたいのか、皆目見当がつかない。
「プロポーズっていいたいのかしら?」
すると若い男は何度もコクッと頷き、少女に「かわりにいってくれてありがとう」の握手を求めてきた。だけどプロポーズ、これは少女がかわりにいってあげるわけにはいかない言葉だ。
「そうなんだよ。僕の恋人は絵描きをやっていてね、女流画家でしてね。『キャサリン・ハイネ』といえば、業界ではちょっぴり名が知れた画家なんだ」との若い男の言葉にティソ親方は「ああ、あの変わった画家さんか」とぼやいた。
その言葉に証券マンは顔を少し赤らめている。
どうして男の人はこういうことを恥ずかしがるのだろう?
「その彼女の絵がちょっとまえに売れまして、今日はそのお祝いのデート。この記念すべき日にこそ、僕は彼女にプロポーズをしようと思うのです」
(うわあー、それってものすごく素敵!)
ナオミはガチッと両腕を胸のまえに組んだ。
ティソ親方は荷馬車のなかをゴソゴソしはじめたと思えば、頭をポリポリかいて「お客さん、ガマグチガエルを積み忘れてしまったようで…」ととても申しわけなさそうだ。男はデートまであと三時間しかないとあって、慌てふためいていた。
ガマグチガエル、護衛魔法によって財布に意志をもたせた護衛小銭入れだ。ティソ親方によればこのガマグチガエル、ただの小銭の番人と思っていたが、あなどってはいけない。金貨を守るように腹袋のなかに声を保存する能力がある。
だから人にはどうしても聞かれたくない、秘密をこのカエルでやりとりしたり、ちょっとしたへそくりを隠しておくには最適なところだったりと、そう何かと用途がある。ティソ親方の場合はお客さんの声をこのカエルにいれて、花の種を作るとか。文字どおり言葉をいれて、花言葉を咲かすための種を作るのだ。
「ああ、どうしよう、僕は口べたなんだ、うーん」
するとナオミは自分の後ろのポケットにくっついている、掌サイズのポシェットのようなガマグチガエルを取りだした。
「おお、もってきていたのか、偉いぞ!」
「ううん、これは友だちのガマグチガエルなの」
エーデル酒場のカウンターで、エンガチョが置き忘れたガマグチガエルだ。
エンガチョのガマグチガエルは炎のようなバラ色のカエルだ。カエルといわれなければ、四角いエナメル財布に見間違えてもおかしくない。くりくりした瑠璃色の目が印象的だ。
ナオミは悪いと思いながら、エンガチョのガマグチガエルを親方に手渡した。
「悪いが、中身を空っぽにさせてもらうぞ」
ナオミはどうやって花言葉を作るのか、大人しく見ていた。
まず親方はガマグチガエルの口をこじあけて、地面にむけてゲロゲロと何かを吐きださせるように、ガマグチガエル財布を逆さまにむけた。
親方はジャラジャラッと音をたてて落ちてきた、金貨や銀貨などのミスリル通貨をナオミに手渡したあと、さらに人差し指で財布のなかを空っぽにした。すると青い透きとおった飴のようなものが落ちてきた。
「声のくず飴だよ」
親方がいう声のくず、何らかの事情でガマグチガエルが聞いた声が、腹袋のなかで消化されずに固まったものが集まってできた飴みたいなものだ。いわゆる消化不良のくずだ。花屋たちはそれを「声のくず飴」と呼び、捨てるわけにもいかず、仕事上の守秘義務とかで自らそれを食べる。だいたいはいろんな声が集まったものなので何がなんだかわからない。
ただ時々、男女のプロポーズや告白の言葉とかの断片が飴になってて、もちろん味はないのだが、何となく甘酸っぱさを感じるときがあるそうだ。
「これは俺は食えないな。お前の友だちのもんだからな。ナオミ、友だちのお前が責任をもって秘密を処理しなくちゃいけねえ。まあ、食ってみろ」
これも経験だ、と親方はいう。ナオミは恐るおそるくず飴を口にいれた。その瞬間、ナオミの心に聞き覚えのある、こんな声が飛びこんできた。
「私の処刑日はいつなんだ?」
「一週間後じゃ。ブルトン公爵陛下の強い要望でな」
声の主はトモロヲ・ブドリ、もう一人はサンチョ・ボブスリーだ。
「お前さんは遺言を残すかね?」
「いやいい」とても静かな声だ。
「宮中伯、まだ懺悔は終わりませんか?」と別の男の声がした。
「ちょうど終わったよ、すまないね。そこの君は確か……」
「わが主からは『黒猫』と呼ばれています――――」
「ふーむ、でも立ち聞き、盗み聞きは泥棒の始まりというがのう?」
「……」
それから声がしばらく途切れていたが、また始まった。
「兄貴は冤罪だ、無実だ」
この声はエンガチョの声だ、間違いない。
「そうかもしれんが、ブルトン公爵陛下の決定に誰も意義を唱えることはできん」
「冗談じゃねえや。なあ、なんか兄貴が助かる方法はないのか、え? 兄貴のためなら俺は何だってするぜ。人殺しと盗み以外だけどな」とエンガチョの嘆きの声。
「ほーう、その言葉に嘘偽りはないな?」
まさにその言葉を待ってましたとばかりの声だ。
「あるミスリル鉱山主だがね、君の力、ドワーフの力を借りたいといってきている。うまくいけばもしかしたら、あー、そのう、なんだ。君の兄貴は助かるかもしれんな」
「あるミスリル鉱山主ってのはパパティーノか?」
「さあね」男は言葉を濁した。
「仕事の内容は?」よほどの秘密事項らしい、男は聞き取れない声で「… … ……」と呟いた。
「じょ、冗談じゃねえ!」エンガチョは顔青ざめた。
「君の兄弟の死と引き換えだ。これ以上にないだ、と私は思うだがね? このままでは君の兄貴は無実のまま、ここ孤島の牢獄モン・サン・ミッシェルで朽ち果てる」
「……」
ゴクッ、とエンガチョの生唾を呑む音が聞こえる。
「…よかろう…」エンガチョはしぶしぶ納得した様子だ。
「これで契約成立というわけだ。ことは重大さを極めるもの、電話石は電波盗聴の恐れがある。これから君と私との会話のやりとりはこのガマグチガエルでやりとりするものとする、いいね?」
「で、あんたの名はなんていうんだ?」
「私は『黒猫』、これ以上のことは明かすことはできん」
ガマグチガエル……おそらくこのガマグチガエルのことだろう。
――――こ、これって、脱獄の計画。
彼らは知らずしらずのうちにガマグチガエルに会話を聞かれ、その会話をどういうわけか自分が聞いている。今、自分は人の秘密を聞いてしまったのだ。
ただわかったことはいくつかある、そのうち一つはサンチョ・ボブスリーの脱獄にはエンガチョが関わっていたこと。魔法トランク脱獄の件も、きっとエンガチョが手助けしたに違いない。
黒猫という名前にも聞き覚えがある。彼は自分たちを誘拐した張本人だ、この黒猫もエンガチョと関係があり、またサンチョとも関係があった。
「おーい、ナオミ。何をぼっーとしているんだ、よく見ておくんだぞ、次はお前にもやってもらうんだから」ティソ親方の言葉にナオミは思わずドキッと飛びあがり、自分がプロポーズの手伝いをしている最中だということを思いだした。
「ガマグチガエルが空っぽになれば――――」
「はい、親方」
ナオミは勢いよくガチガチの返事をした。
「お客さんの声を入れてもらうんだ」
ナオミがコクッと頷くのを見ると、親方は若い男に「さあ、コイツをつかんで、心の中で思いきっりプロポーズの言葉をいってください」とガマグチガエルを手渡した。
若い男は大きく息を吸いこみ、声をだすかのように心をこめて、ガマグチガエルをつかんだ。風船のようにふくらんだガマグチガエルは、モゴモゴッと動き始めたと思えば、数秒後には大きくゲップをした。
ティソ親方はいつもの大きさになった頃合を見計らって、財布のなかに手をつっこみ、紅玉のような赤い宝石を取りだした。ナオミが不思議に見つめるので、ティソ親方は「これはこの人の『心』なんだ」と少女に心の声を手渡した。
じわっとほのかに温かい。温かい言葉は温かく、優しい言葉は優しく、悲しい言葉は悲しく、冷たい言葉は冷たくと親方は声にも感じかたがそれぞれあるという。
ナオミから男の心を受け取ると、親方は赤いリボンがついた空っぽのブーケ入れにその心をいれた。
「花の女神フローラに祝福されし、汝の心は花咲く…」
――――きっと魔法の言葉に違いない。
ティソ親方がそう呟いた瞬間、男の紅玉のような情熱的な心はみるみるうちにポインセチアの、オーバルブーケと姿かたちを変えていく。ちなみに冬の花、ポインセチアの花言葉は永遠なる愛だ。
ナオミの瞳は素敵だとばかりに輝いていた。
「プロポーズはブーケのほうが女の人は喜びますよ」
どうかこの男のプロポーズが成功しますように――――ナオミは花の女神に切に願う。
花の姿かたちは季節と心によって、大きく変わる。これが花言葉である。温かい言葉であれば、それ相応の花となる。花を贈るということは言葉を贈るということ、突き詰めていえばその人の「心」を贈るということである。
若い男は勘定を支払い、ナオミには「じゃあ、騎士候補生の君にはこれをあげよう」と騎士メダル七枚を手渡すとすたすたと立ち去った。
第4話
無事に仕事が終わって一安心、二人はまた歩きはじめた。
「声を花にする場合はガマグチガエルを使って、声を物体にするんだ。物体になったあとは花の女神フローラにお願いすれば、花に変わる」
また最初から物体の場合は、花の女神フローラを呼び出せばいいとのこと。
じゃあ、試しにと親方は地面に転がる石ころを一輪の花に変えた。ナオミも親方の言葉を真似たが、どうもうまくいかない。花屋の仕事をしていれば、自然と花の女神フローラの魔法が使えるようになる、そうティソ親方はいう。
何事も場馴れが大事だということかもしれない。
「花の女神フローラの魔法は覚えていても、損はないよ」
親方はまた呪文を唱え、花を石に戻しながらいった。確かこれは素敵な魔法だ。
しばらくして誰かが誰かを呼んでいるような気がした。その声は若い女の人の声、ナオミがちょっとはなれたところにふと目をやれば、一人の若い女の人が大きく手をふっていた。世話しなく「こっちよ、こっち。小さなフローリスタさん」とどうも少女に手をふっているかのようだ。
(私のことですか?)とナオミはちょこんと指を顔にあてると、女の人はそうだとばかりに頷いてみせた。
曲がり角のあたりで二人は女の人に呼ばれ、画家たちのイーゼルがわんさかと立ち並ぶ、画家大通りを通り抜けた。黙って親方たちは彼女にとことことついていけば、小路の一角にある大きな教会の前に辿り着いた。
ドームのてっぺんには剣がかかげられ、石文字でキング・アーサー地区教会と刻まれていた。
階段にはずらりと大理石できた教会の守護神、聖騎士の装飾彫刻が二人を出迎えた。神聖な場所とあって、二人は申しわけなそうに館のなかへとはいっていった。なかにはいってみれば、ものすごごい大きな天井画がナオミを驚かせた。
オルガンの音が微かに聞こえてくると女の人にいえば、「先生はオルガニストですからね」と微笑む。 どうやら次のお客さんは音楽家のようだ。この人はその助手に違いない。
赤と金を基調とした五層席の祭壇近くには、黒髪を花かんむりみたいにだらんとたらしたいかにも音楽家らしい初老の男が、それは見事なパイプオルガンを弾いていた。
祭壇には百色トマトが供えられている。この百色トマト、色によって味が異なる魔法トマトだ。聖なる食べ物ともいわれ、病気のときにしか食べれない高級品だ。
瞳を瞑り、ダダダ、ダーンッと情熱的なオルガン演奏だ。派手なマント、雄牛の紋章がはいった赤マントが印象的だ。あのマント、いまいち思いだせないが、どこかで見た覚えがある。
「…元師伯エミール・エマニエル…」
通称L卿、小さな声でティソ親方はナオミに呟いた。
「この人は黒伯爵だ、とにかく気をつけるんだ」
とにかく気をつけるんだといわれても、一体何を気をつけたらいいんだろう?
迷いの森の辺境伯派の伯爵を「黒伯爵」と一般的にいう。
辺境伯が死んだとはいえ、彼を支持した一味「迷いの森のの一味」はまだ健在だ――――とエンガチョがいっていたのをナオミはにわかに思い出した。
親方の説明によれば、この人は師伯という身分だった元伯爵。
師伯とは宮廷顧問、公爵の師というべき立場の伯爵のことだ。いうならば宮中伯と同等の地位があるものの十二年前、辺境伯モンテカルロ卿がブルトン公爵の玉座を狙い、謀反を起こしたとき、あろうことかこの男は辺境伯派についたという。
公爵の師という人が謀反に加担したとあって、宮廷内は騒然となった。当然、この男の伯爵の身分と領地は没収となった。九年前に辺境伯が死んだとはいえ、今も要注意人物として宮中伯の保護観察に置かれているとか。現在はこの教会の修道騎士長と教会楽士を兼ねる。いわゆる音楽が弾ける神父という役割だ。そしてこの男にとって、何より救いというべきはトモロヲ・ブドリが心許せる、彼の古い友人だということだ。
親方はそういうけれど、思想信条は個人の自由だ。
演奏の素晴らしさには関係ない。演奏が終わるとナオミはパチパチッと手を叩いた。それに気づいたオルガニストは軽く会釈してみせた。
「ブラボー、いいところにきてくれたね、花の芸術家の諸君」
教会楽士はティソ親方の手を情熱的に両手でギュッと握った。
「じつはもうすぐ町の音楽展――――演奏で忙しくて締めきりが今日だとは気づかなくね、今年は友人の未発表作品を、彼のかわりに発表しようと思う」
去年から審査方法が生演奏から、蓄音式に替わったらしい。
「去年はインパクトを重視してね、チョコレート専門店の親方に頼んだのだが、やはりチョコレートのレコードはだめだったよ」
蓄音機にかけてあるレコードを子どもがかじったり、ペロッと舐めるそうだ。そのおかげで彼が作曲した曲は落選してしまった。ある著名な批評家などは「彼の音楽はまずい、だけどチョコレートは美味しかった」と毎日ブルトン新聞に寄稿したほど。
「オウムに音楽を聞かしたが、アイツらはかってに曲を変えるからだめだった。しかもヤツは音痴でね、ドレミファソラシドの音程がおかしいんだ。さあ、親方さん。音が私の頭から逃げてしまうまえにひとつ、お願いしますぞ」
ティソ親方はナオミと一緒に椅子に座った。
彼女の太股にはガマグチガエルがちょこっと座っている。準備が整ったとみた音楽家は、ダダダ、ダーンッとパイプオルガンを弾きはじめた。その演奏はナオミたちを心地よくさせる。ガマグチガエルも心地よい音色に耳を澄ましている。
演奏が終われば、拍手とともに音楽家はまた会釈した。
ティソ親方は早速ガマグチガエルのなかから、透明色の宝石を女の人に手渡した。
あっ、思い出したぞ。あの赤マントは永久機関式飛行船、ナヴァグリオの船長サラ・レッドブルと同じものじゃないか。老音楽家はナオミからサラの名を聞くと「これは懐かしい友の名だ」と遠い目になった。
「ご回想のところ申し訳ないのですが。大先生、この曲名は?」
ティソ親方もこの老人が奏でる、偉大な調べに心を揺さぶられているようだ。
「ふむ、『ロホルトへのソナタ』。わしの友人ルレスエロ・ジェラールという音楽家が作曲したバラード。残念じゃが彼はつい最近、天寿をまっとうしたと聞く」
――――その名前はどこかで聞いた覚えがある。一体誰だっけ?
「まっすぐな良い目をしておるな、お譲ちゃん」
元師伯エミール・エマニエルはナオミの存在に微笑んだ。
「新入りでして、ほらっ、大先生にご挨拶しないか!」
「…は、初めまして。あの、そのキング・アーサー地区のナオミ・ニトです。以後、お見知りおきを…」
一瞬、音楽家の瞳が険しくなった気がした。気のせいだったらいいんだけど。
ティソ親方が花の女神フローラの魔法を唱えようとした瞬間、教会楽士が「そんな野暮のことはやめたまえ、命の音で咲かせてみせようじゃないか」と軽くオルガンの鍵盤を叩くと、いきなり美しい声で歌いだした。
♪
ドはドラゴンヌのド
レはレッドブルのレ
ミはみてごらんのミ
ファはファイアーのファ
ソはそれごらん!
ラはラストまで読んでね
シは真実はね♪ そこにある
ドレミファソラシド
ドシラソファミレド
ドミミ
ミソソ
レファファ
ラシシ
ソドラファミドレ
ソドラシドレド
♪
歌声にあわせるかのように、音の宝石からパッ、パッと白ユリが咲いた。
女の人は「まあ」と顔がほころび、祭壇ちかくの花瓶にそれをいけた。旋律と歌声にあわせて、つるや小さな花が咲乱れ、いつのまにか花瓶には、大きなユーチャリスと白ユリのオーバルブーケになっていた。
そっと耳を澄ましてみれば、白ユリからはパイプオルガンの音色が聞こえてきた。音楽家の助手は親方にミスリル金貨を数枚、手渡していた。
「おお、花の蓄音機。まさに花と音の融合、これぞブラボーの言葉に尽きる。これで私たちはそれぞれ素晴らしいものを交換したわけだ、私はこのブーケ、親方はお金、そして見習いのお嬢さんは騎士メダルだ。そうじゃのう、何枚がいいかのう」と音楽家はナオミを覗きこむように見つめ、女の人は小さな宝箱を持ってきた。赤と金の二色がまざりあった、円筒の貯金箱にも見える。
「あの…先生、感動を頂きましたから十分です…」
「これはなんとブラボーな答え」
女の人がパカッと蓋を開けてみれば、騎士メダルがぎっしりと詰まっていた。
「よし好きなだけ持っていきなさい。」とナオミはギュッと一掴み。
あとで数えてみれば騎士メダルが十二個もあった。
「遠慮深いのう。が、正義に遠慮はいらんぞ。ついでにこの百色トマトも君に贈呈しよう。君のお父さん、サー・ナオキ・ニトはこれが大好きじゃった」
老人はさりげなく、右手を左胸にやった。
そして別れ際に「ロアゾンとともに」とあの言葉を呟いた。その言葉を聞いて、ナオミは脳震盪が起こりそうになった。老人が父を知っているだけでも驚きなのに、心臓の鼓動が激しく脈打つのがわかる。
「大先生、お気を遣わせてしまいまして、どうもすいません」
ティソ親方はペコリッと頭を下げると、そんなナオミを連れて教会をあとにした。
サンチョ・ボブスリーにサラ・レッドブル、そして元師伯エミール・エマニエル。この三人は自分がナオミ・ニトと知って、わざと「ロアゾンとともに」という言葉を呟いた。
――――ロアゾン、この言葉は一体何を意味するんだろう?
彼らは父と母とどんな関係があったんだろうか。それにあの雄牛紋章のマントも気になる。ただわかることはただ一つ、ロアゾンという言葉が三人と自分を結びつけているということだ。もうひとつ分かることは騎士メダルが五〇枚も貯まった、ということだ。それと老人からもらった、赤い百色トマトが赤トウガラシの味――――通称「火炎味」だったということだ。
第5話
午後のブルトンホテル大通りは人でごったがえしていた。
「ねえ、親方。私、このお仕事ね、なんだか好きになりそうなの」
ナオミの笑顔に親方はとても嬉しくなってしまった。二人はまだ後ろからニヤニヤと笑ってついてくる、あばたたちが気になってしかたがない。そんな少女を気の毒に思ってだろうか、ティソ親方はずっと遠くを指差した。
「今日は大漁だよ。ほらっ、あそこでまた俺たちを呼んでいるじゃないか。ナオミ、悪いがあそこまで一走りしてくれないかな」
「え、どこかしら?」
「ほらっ、領主館の時計塔だ。とにかくどんな用事なのかを聞いてくるんだ」
ティソ親方はナオミの姿が見えなくなると、けわしい顔つきになり、後ろをふり返ってあばたたちを「コラー!」と一喝した。
彼らはティソ親方の怒鳴り声に驚き「逃げろぉー」の掛け声のもと、ナオミが時計塔から用件を聞いて、戻ってくる頃には退散していた。
「ねえ、あの子たちは?」
「さあね、他の誰をからかいにでもいったんじゃないか」
急ぎの用件とあって、少女の後ろからほっそりした男が走ってきた。神経質そう男はナオミが用件を伝えるまえに、領主館の時計塔路地まで引っ張っていく。
「やあ、サンジャック。景気はどうだい?」
「ぼちぼちだよ」と男はこの町の商売挨拶をかわしながら、ピリピリしていた。
「とにかく急いでおくれ、親方。とうとう時計塔の領主館の鐘『カリヨン』が売られちまうことになったんだ。アッパータウン銀行が譲ってくれといいだしてな。ほらっ、あそこは本物と偽物の金貨をすり替えていくって今、世間を騒がしている強盗団に盗みにはいられちまったじゃないか」
アッパータウン銀行は、どうやら黄金が不足しているようだ。
「…だから名物のカリヨンの鐘をとかして金貨を造るってかい?」
アッパータウンは都市国家的なものなので、某銀行は造幣局も兼ねている。町によってブルトン人の統一通貨ミスリルは柄も質も異なる。よって決められた純度ではないミスリル通貨を流通させるものなら、町の信用度にかかわる。
それは町の株価を暴落させる要因ともなる。
「確かにあの領主館の大時計塔は時間を知りたかっても、大抵は霧や雲に隠れて見えないし、カリヨンの鐘があればこその背たかノッポ時計塔、背たかノッポ時計塔あればこそのアッパータウン…」
「町の連中がだまっちゃいないぜ?」
「だ・か・ら、カリヨンの鐘の音をあんたに造ってほしいのさ」
時計塔のなかにはいるのは領主館からじゃない。外側にある風がビュー、ビューと吹き荒れている古びた階段を登っていくのだとか。ナオミたちは雲に隠れた、カリヨンの鐘を仰ぎみた。
「落ちたら、間違いなく死ぬよ」とジョジョならいいそうだ。
ハァ、ハァッと息を切らすナオミ。
もしジョジョが傍にいたら、きっと「僕、山登りは嫌いなんだ」とぼやくだろう。それほど慣れていないと階段の登り下りはきつい。
突然、突風がナオミの身体をブワッともちあげた。ヤ、ヤバイと思ったときにはすでに遅い。ナオミの身体は階段になかった。一瞬、時間が止まったようにも思えた。ティソ親方が手を差し伸べてくれなかったら、自分はおそらく地上へ頭から真っ逆様に落ちていただろう。
「気をつけろ!」と風に煽られ、ナオミの手を握るティソ親方。
三五二六段もの階段をのぼり終えたナオミたちは、素敵な絵が描かれた大きな文字盤のすぐ横にある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉を開けた。古びた扉の軋む音よりも遥かに大きな音が部屋中に響いていた。壮大な歯車の部屋だ。歴史を刻んできた威圧感がある。
「最近じゃあ、幽霊がでるって専らな噂だ」
サンジャックの言葉にナオミはビクッと反応した。
「まあ、うちのハナコよりマシだと思うがな」
ティソ親方の言葉にナオミも頷いた。
部屋のなかは大きな歯車がガタガタッ、ガラガラッ、と規律のよい音をたて、大きいのや小さいのやら、いろんな大小様々な歯車があった。ツゥーンッと鼻にくるのは油のにおいだろうか。
そこには足場をくんで、せっせとこの大時計の世話を代々世話をしている、時計職人の親方と数人の助手がいた。
ちなみにこの時計職人の家は十五代ほど前から、この領主館の大時計の世話をしている家柄。彼らは小さな金槌であっちこっちの歯車を叩いたり、せっせとネジまわしでネジを弛めたり締めたり、油を塗ったりと忙しそうだ。そのとき誰かがナオミの肩をポンッと軽く叩いた。
「やっぱりそうだ、ナオミじゃないか!」真っ黒の顔がいった。
声からして男の子らしい、小さな顔のなかで白いのは歯だけだ。あとはシャツもズボンも、首筋もすべて真っ黒だ。「ほらっ、僕だよ」と少年は雑巾でせっせと顔を拭いた。
「あっ、ロレンツォじゃないの!」
ナオミは思わず喜びの声をあげ、再会を喜びあった。
「何だ、ナオミの知り合いか?」
「うん、ライアンと同じ生徒会にはいってる騎士候補生よ」
赤毛のロレンツォ・テオ・ランゴバルト、金髪の少女コクリコ・サクラダの従姉妹だ。生徒会長が指名した六地区の補佐役の意見を集約し、生徒会長に進言する徒会書記という責任ある立場だ。ときに騎士候補生を監督指導する立場でもある。現在は病気のライアンのかわりに生徒会長代行も兼任している。
そういえば会食のおりに、時計職人の従騎士をしているとかいっていた。でもまさかこんなところで出会うなんて、ナオミは思ってもみなかった。
「ティソ親方。今回のチェス、ライアンの代役は決まったの?」
一瞬、ティソ親方が悲しそうに目を床に落とした、気がしないでもない。
「お前の目の前にいる子だよ」
「……」
ロレンツォはすんなりと聞き流してしまった。ティソ親方に「ごめん、聞き取れなかったよ。もう一度いってよ」といえば、やはり親方はナオミがライアンの代わりに、チェスに出場するというではないか。
「嘘だろ?」
「本当みたいなの、まだ実感ないけど…」
「うっひゃぁ――――すっごい、さすが伝説!」
ロレンツォはとても興奮した口調だ。伝説、これがいつのまにか彼のなかでは「ナオミの名前」になっていた。
「本当みたいなの、まだ実感ないけど…」
「俺も出場するんだぜ! 賢者役で。もうすぐ地区のチェス選抜選手が発表されることになっているんだ。きっとみんな、驚くぜ!」
ロレンツォの肩にもナオミと同じチェス紋章があった。
「おい、ロレンツォ!」
時計職人の親方の怒鳴り声だ。
「油がたらねえと思ってたら、そんなとこで売っていたのか」
ロレンツォとは今月末にキング・アーサー地区教会で開かれる、チェス選手たちの集会で会う約束をして別れを告げ、ナオミと親方は歯車と歯車の間にある螺旋階段を登っていった。
「…こ、これがカリヨンの鐘…」
「いつみても立派なもんだな」と親方はヒューと口笛を吹いた。
そこには見事な巨大な黄金の鐘がどっしりとあった。親方のいうとおり半端ない大きさだ。いや半端ないのは威圧感もだ、と付け加えるべきか。
カリヨンの鐘は二十三個の鐘、二オクターブ以上で鍵盤で演奏する楽器だ。世界最大規模の野外演奏楽器とされる組み鐘。二十三個の鐘は魔法によって、円陣を組むように宙に浮いている。この二十三個の鐘を総して『カリヨンの鐘』と呼ぶ。
ナオミたちはカリヨンの鐘の大きな影のなかで、その宙に浮いている、カリヨンの鐘を太陽を見上げるようにして見つめている。圧倒的な威圧感、恐怖感にも似た鳥肌が立ってくる。今にも落ちてきそうなほどだ。いや落ちてきたら間違いなく死ぬよ、とジョジョならここでも同じことをぼやくかもしれない。
それにしてもそこはものすごい高台だ、風がビュー、ビューと吹き荒れ、ちょっとでも気をぬけば飛ばされそうだ。カリヨンの鐘は風に煽られ、ぐるぐると円を描いてまわっている。
「鐘の音の数はすべて同じ、一時間ごとにカリヨン奏者の演奏によって鳴ります。今は午後三時十五秒前、準備はいいですか?」
ナオミは頷くと、ティソ親方の懐中時計をみた。
「カチカチ、カチ、十、九、八、七、六…」
親方はやや緊張気味で、ガマグチガエルの袋を大きく開けた。
「五、四、三、二、一、カチッ!」
時計台守の懐中時計と時計台の時計、二つの時計の針はそろって午後三時をさした。カチッという音とともに静寂が包みこんだ。カリヨンの鐘の音は町中に鳴り響かない。
「………………」
虚無の音、風の音、何もない音。誰かのため息がもれる音。
時計台守は顔を「何事だ?」と青ざめていた。
本来、聞こえてくるはずのカリヨンの鐘が聞こえてこないのだから、仕方がない。町の人々も「おやっ」というように時計塔を見つめ、多くの人が足を止めていた。
サンジャックは今すぐにでも時計台から飛び降りそうだ。
親方が「音を保存するための筒はあるか」といえば、サンジャックは自分のミスリル銀製の水筒を無愛想に手渡した。親方はガマグチガエルの腹袋から、「うえっ」と気持ち悪そうにもじゃもじゃした何かをとりだして、水筒のなかにいれた。
「音の女神アポロン、汝の大いなる力をもってカリヨンの鐘の音を今ここに封ずる」
親方の囁きにミスリル銀の水筒は鈍く光った。
「まあ、そんな青い顔をするんじゃねえ、サンジャック」
親方はパカッと水筒の蓋を開けた。
瞬間、水筒のなかをぐるぐるまわっていた、カリオンの鐘の音は「カラーンコラン!」と天空に激しく響いた。もうすぐでサンジャックは地上へと落ちそうになった。ナオミが彼の服を握りしめていなかったら、まっすぐ落ちていた――――と彼女は断言できる。
ティソ親方は大笑いしながら、「これはカリヨンの音を封じこめたものだ。蓋を開け閉めすれば何度でも使える。まあ、一種のびっくり箱みたいなもんだ。が、音色は本物とひけをとらんよ」としょぼくれる時計台守の背中をパンパンッと叩いた。
テルなら「こりゃ、面白いや」と手を叩いて喜びそうだ。
カランコラン、カラーンコラン――――とカリヨンの鐘の音色が町中に響く。
この領主館の最上階は領主の間、その下はこの町のラジオ局だ。カリヨンの鐘の音は電波を通じて、町中に広がった。
時計台の広場ではこんな会話が飛びかっていた。
「あらっ、もう三時五分ですよね?」
「忘れちゃっていたのよ。ほらっ、季節ボケってやつ?」
「気のせいかしら? 音色にノイズが混じっていませんか?」
「もーう、あなたこそ季節ボケじゃないの」
時計台守はふっーとため息、胸をホッとなでおろした。
「ありがとう。これでカリヨンの鐘が金貨に生まれかわっても、当分の間は気づかれずにすむよ。偽ミスリル貨幣、ついに被害は一億ミスリル金貨をこえたらしい、迷いの森の特別捜査官たちも動きだしたって話さ」
「ボブスリー追跡やら偽ミスリル強盗団やら、連中も大変だな」
ナオミは親方の世間話に耳を傾けながらも、この時計塔からの眺めに見入っていた。
四方を迷いの森にかこまれ、森のなかに拓かれたエルフ王の土地に築かれた広大なる都アッパータウン。改めて見てみれば、町の一番街たる目抜き通りには、大きな煉瓦造りのビルが立ち並ぶ。今、自分はこの町で一番大きな赤煉瓦のビルにいるのだ、と思うだけで少女は胸がいっぱいになる。
アッパータウンは大きくもなければ小さくもない、ちょうどよい町だ。町の真んなかは赤煉瓦の建物だらけだけど、町のはずれは中世西洋育ちのとてものんびりした村々。
牧草地もあれば小麦畑や風車や水車、木こりの村など草葺屋根の村がいくつか見え、ここで人々は昔ながらの昔の生活をひっそりと営んでいた。
「黒カラスどもめ、いつのまにかこの町に住みつきやがった」
ティソ親方のいうとおりだった。
最近、黒カラスがこの町を頻繁に飛び交い、町の人々はうんざりしていた。カリヨンの鐘の時計台にも数羽、黒カラスがとまっていた。親方はシッシッと黒カラスを追いはらった。
「カァー、カァー」とまったくうるさい。
瞳をこらせば西の方角、迷いの森のなかにひっそりと古びたお城がそびえる。黒い霧に包まれ、そんなに遠くはないが、不気味な感じがする。
「…ねえ、親方。西のほうにお城が見えるんだけど?」
「ああ、あれはカーボネック城っていうんだ。ずっと昔は、どっかの伯爵家の別荘だったらしい。今は誰も住んでいないパパティーノ家所有の幽霊城だ。間違っても肝試しといって一人でいくんじゃないぞ」
そうやって誰かが必ずあの城に冒険をしにいく。
数日後には行方不明と誰かが騒ぎはじめた頃、トモロヲ・ブドリの孫がいつも連れて返ってくるそうだ。だが今やダ・カーポは黒ヤギ、今度こそ行方不明事件になること間違いない。ナオミは嫌な汗が滴れ落ちるのを感じた。
「それにあの城はこの町が出来るまえから、ずっと昔にあった古城だ。うちの死んだ祖父さんがいうには聖杯伝説の城だというが、祖父さんの話はあてにならん」
というのもトリスタン地区子爵にして、豆知識及び雑学のサー・エドモンド=トリスタン卿は彼の弟子だとか。なるほどただの雑学、都市伝説の枠からでない戯言ならぬ豆知識。そんな豆知識にエドモンドは熱弁をふるっていたっけ。
えっと確かこんな内容だった気がする。
聖杯、初代アーサー王の物語『聖杯探求』の物語群の中で、騎士たちが探し求める聖遺物のことだ。神の子が最後の晩餐で用い、神の子の血を受けた銀杯――――それが聖杯だ。
その聖杯に受けた水は聖水となり、あらゆる病を治すとか。
ブルトンの歴史家によれば、紀元六十三年頃、アリマタヤのヨセフは聖杯をブリテン島に運んできた。このアリマタヤのヨセフ、神の子の遺体を埋葬したユダヤ人でもある。
町に光がうっすらと灯りだした夕暮れ、ナオミは古き洋館大通りに帰ってきた。
ナオミがアリサ夫人に小声で「ただいま」といえば、彼女も「おかえりなさい」と小声で、まるで家族のように嬉しい挨拶が返って。くる。そのままハナコがいる台所を、忍び足で通り抜けて地下牢までいくと、ジョジョが機嫌悪そうに少女の帰りを待っていた。
なぜかジョジョはぶるぶると震えていた。
「ねえ、どうだった?」
「…あやうく死にかけたよ。みてよ、ここ」
ジョジョはハナコがさわり、霜ができた場所をナオミにみせた。
彼女がいなくなったあとのことを黒犬はボソボソ、怨めしそうに語りだした。
一時間ちょっとハナコにギュッと抱きしめられ、カチンコチンになったこと。そんな自分をライアンが看病してくれたこと、ジャンが「いい子、いい子」とはぎとった毛をもってきて、自分の毛をなでてくれたこと、それがちょっと恐かったことなど。
「あらっ、ジャンと仲良くなれてよかったじゃないの」
「…そういう問題じゃないよ、アイツのせいで僕、舌を火傷したんだもん」
というのはそれからジャンは、肉団子スープ(しかもとびっきり熱くて、湯気だらけのヤツだった)をもってきて「あい、あい」と容赦なく口に流しこんだそうだ。
ジョジョが一通り話終えると、ナオミは「ごめんね」とジョジョをギュッと抱きしめた。するとダックスフンドは「で、騎士メダルいくらたまったの?」としっぽをふった。
「…五十三枚…」とナオミのぼやきに、ジョジョは人質になったかいがあったよ、と彼の機嫌はこのうえなく上機嫌だった。
第6章に続く。
ドレミのうた
原曲:オスカー・ハマースタイン2世作詞、リチャード・ロジャース作曲
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