意思決定理論の一部には、ヒュームの問題はベイズ理論によって解決され、帰納法のアルゴリズムは存在すると主張する人がいる。ベイズの定理とは、次のようなものだ:事象Aの起こる事前確率をp(A)、事象Aが起こるとき事象Bが起こる事後確率をp(B|A)のように書くと、
p(B|A)=p(B)・p(A|B)/p(A)
ここでAをEメールに"Viagra"という文字列が出てくること、Bをそのメールがスパムであることと考えよう。ある文字列を含むメールをフィルターではじくべきかどうかは、それがスパムである事後確率p(B|A)に依存するが、ベイズ理論はスパムの中に文字列があらわれる尤度p(A|B)がわかっていれば、事後確率が計算できることを示している。
たとえばメールにViagraが出てくる確率p(A)が3%、スパムの確率p(B)が50%だとすると、スパムをチェックしていればViagraの出てくる尤度p(A|B)がわかる。それが6%なら、Viagraが出てくるメールがスパムである事後確率は100%になる。Gmailなどに使われているベイジアン・フィルターは、このようなしくみでスパムの確率を計算してフィルタリングしている。この式は、現象Aから原因Bを機械的に帰納するアルゴリズムを示しているようにみえる。
しかし問題は、どうやって事前確率を知るかである。スパムのように対象が限定されていれば、グーグルのサイトですべてのスパムをチェックするといった方法も可能だが、企業の意思決定ではそもそも母集団がはっきりしない。さらに問題を上の式のように定式化すること自体が一つの抽象化であり、それ以外の不確実な事象を捨象している。つまりベイズ理論は、モデルを選んだあとの意思決定を示しているにすぎない。
したがって著者は、意思決定とは認識論的な問題であり、知識とは特定のモデルへのコミットメントだと結論する。本質的な意思決定はモデルの選択だが、それについてはやはりヒュームの問題が避けられない。ベイズ理論の元祖であるサベッジは、この理論が事前確率を計算できる「小さな世界」の理論であることを断っている。母集団が無限にある「大きな世界」では、そこから何を母集団に選ぶかという段階で主観が入るため、帰納のアルゴリズムはやはり存在しないのである。
p(B|A)=p(B)・p(A|B)/p(A)
ここでAをEメールに"Viagra"という文字列が出てくること、Bをそのメールがスパムであることと考えよう。ある文字列を含むメールをフィルターではじくべきかどうかは、それがスパムである事後確率p(B|A)に依存するが、ベイズ理論はスパムの中に文字列があらわれる尤度p(A|B)がわかっていれば、事後確率が計算できることを示している。
たとえばメールにViagraが出てくる確率p(A)が3%、スパムの確率p(B)が50%だとすると、スパムをチェックしていればViagraの出てくる尤度p(A|B)がわかる。それが6%なら、Viagraが出てくるメールがスパムである事後確率は100%になる。Gmailなどに使われているベイジアン・フィルターは、このようなしくみでスパムの確率を計算してフィルタリングしている。この式は、現象Aから原因Bを機械的に帰納するアルゴリズムを示しているようにみえる。
しかし問題は、どうやって事前確率を知るかである。スパムのように対象が限定されていれば、グーグルのサイトですべてのスパムをチェックするといった方法も可能だが、企業の意思決定ではそもそも母集団がはっきりしない。さらに問題を上の式のように定式化すること自体が一つの抽象化であり、それ以外の不確実な事象を捨象している。つまりベイズ理論は、モデルを選んだあとの意思決定を示しているにすぎない。
したがって著者は、意思決定とは認識論的な問題であり、知識とは特定のモデルへのコミットメントだと結論する。本質的な意思決定はモデルの選択だが、それについてはやはりヒュームの問題が避けられない。ベイズ理論の元祖であるサベッジは、この理論が事前確率を計算できる「小さな世界」の理論であることを断っている。母集団が無限にある「大きな世界」では、そこから何を母集団に選ぶかという段階で主観が入るため、帰納のアルゴリズムはやはり存在しないのである。
コメント一覧
ちょっと考えたのですが、合理的な意志決定とは結局のところ、デロリアンに乗って未来からやってきたマイケル・J・フォックスの言葉を信じるということですね。
この会社が成長するかどうか、この国が成長するかどうかがわかっていれば、正しい投資が出来るというトートロジーですね。
ここで池田先生、こんな状況を考えてください。
デロリアンが本当に来たとします。
自分一人だけしか知らなかったら、確かに株でも競馬でも大もうけできるでしょう。
しかし、その情報がヤフーのトップページに載ったらどうなるでしょうか。
真実だと仮にわかったとすると、儲かるとわかった株は、みんながわかった瞬間には高騰してしまい、いまさら買うことが出来なくなります。逆に倒産の情報だとしても、情報を先に得た人から順に売り抜け(もしくは売り浴びせ)るわけで、僕がヤフーを見たときにはもう儲かる情報ではなくなっているでしょう。
競馬の勝ち馬がわかったとしたらどうなるでしょうか。
競馬の場合はみんなが同じ馬券を買うことが可能です。しかし胴元の利益があるので、「勝ち馬がみんなにわかった競馬」では、馬券の配当は0.9倍から0.8倍程度になってしまうわけですね。
宝くじならどうなるでしょうか。宝くじなら当選番号を先に知っていても得る手段はありません。結局役に立たないわけです。
まとめると、全ての人が、同時に、適切な真実を知ってるとすると、ゲームが成り立たなくなるだけです。
だから全員が正しい選択をする合理的な意志決定などは無いということですね。
このことを「デロリアンのパラドクス」と、ここではいいます。
このデロリアンのパラドクスに対して、僕は、「同時」の点が重要であると考えます。
デロリアンがやってきた瞬間から、ヤフーのトップページに載るまでの間には、情報が不均一であり、この間には情報を得た人が確実に稼ぐことが可能です。
株情報でいえば、株価が統計から外れたこと、AIGのような大企業が倒産するという情報などが「デロリアン」になります。
デロリアンには株の専門家でない人たちは接触するのが遅れます。その間、専門家は確実に稼ぐことが出来ます。つまり経済が動いているとき、株式投資はゼロサムゲームではなく、投資の専門家にはプラスサム、素人投資家にはマイナスサムのゲームになっているのです。
その証拠に、専門家はよく言うではありませんか「乱高下する市場が得意」「波風が立たない市場では稼ぎようがない」。これこそまさに、投資家が素人より先にデロリアンと接触することで金をむしり取っているなによりの証拠なのです。