『明日への選択』平成17年2月号
徹底検証・韓国歴史教科書
これが「正しい歴史認識」の正体だ
歴史的事実には目をつぶり、日本を「劣等」国として描き、日本統治はすべて「悪」という前提で歴史を語る教科書。こういう教科書を国定して恥ない韓国が、日本の教科書に「正しい歴史認識」を要求する資格はない。
『明日への選択』編集長 岡田邦宏
四年前、韓国は中国とともに『新しい歴史教科書』をはじめとする検定に合格したわが国の中学歴史教科書を批判して修正要求を行った。同じ中学歴史教科書の新たな検定結果が発表される今年も、韓国が再び修正要求や批判を展開するだろうことは充分に予想されるところである。
これまで韓国は何度も教科書問題、政治家の発言など歴史認識問題を巡っては「正しい歴史認識」をキーワードに日本批判を展開してきたが、韓国のいう「正しい歴史認識」とは一体どんなものか。周知のように韓国の歴史教科書は国定であり、そこにこそ彼らのいう「正しい歴史認識」が示されているということになる。そこで、韓国歴史教科書を通して韓国のいう「正しい歴史認識」なるものを検証してみた。
なお、ここでは、対外関係とりわけ日本との関わりを中心に、中学校教科書の翻訳である『入門・韓国の歴史』を、さらに必要に応じて高校教科書『新版・韓国の歴史』(ともに明石出版)の記述を検証した(高校と特に注記しない場合はすべて中学歴史教科書からの引用である)。
◆「教えてあげた」「伝えてあげた」
まず、日本との関係が最初に登場するのは、高句麗、新羅、百済のいわゆる三国時代の章においてであるが、そこに記述されているのは、なんとも恩着せがましい記述である。中学教科書はこう記述する。
百済は、「近肖古王のとき、阿直岐と王仁は日本へわたり、漢文・論語・千字文を伝えてあげ、武寧王の時に段陽爾と高安茂などが、漢学と儒教を教えてあげ、日本に政治思想を忠孝思想を普及させてあげた。つづいて、聖王の時には仏教を教えてあげ、そのほか天文・地理・暦法などの科学技術を伝えてあげた。」
高句麗も「たくさんの文化を日本に伝えてあげた」という。例えば「高句麗の僧侶慧慈は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯をつくる技術を教えてあげ、法隆寺の金堂壁画も彼の作品として知られている」。さらに、「新羅は船をつくる技術、ならびに堤防と城郭を築く技術を、伽耶は土器をつくる技術を日本に伝えてあげた」と記述している。
ここでいう「教えてあげた」「伝えてあげた」という韓国語の言い方は決して翻訳のニュアンスではない。これは「親が子供に、先生が生徒にといった目上の人が目下の人に使う表現」であり、実は「文化的優越感を堅持する」ため使われているのだという(小学校教科書の訳者「あとがき」)。同様の記述は高校教科書や小学校教科書にもある。その意味で、韓国では小中高一貫して古代日本文化はみんな朝鮮から伝えられたものだ、と言わんばかりの記述をまず教えられていることになるわけである。
むろん、ここで書かれていることがすべて実証された歴史的事実というわけではなく、例えば曇徴が法隆寺金堂壁画を書いたというのは明らかに事実誤認である。
◆朝鮮は文化的「優越者」
こうした「優越感」の誇示は、単に古代の文物伝搬という話に止まらない。中世・近世でも同様である。十五世紀頃に盛んだった富山浦など三港を通じての対日貿易は「日本の封建領主たちは……交易を懇請してきた。朝鮮は……朝貢貿易を許し……(李朝)朝鮮初期の交易によって、朝鮮の先進的な文物は、日本……に多くの影響を与えた」と書いている。
また、徳川幕府と李朝朝鮮との間で「朝鮮通信使」による交流があったことは知られているが、その通信使についても「……日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、……日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった」(中学)、「徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、……交渉を許可するよう懇請した」(高校)と書かれている。つまり、中世や近世でも、朝鮮は「先進学問と技術」をもつ先進国として描かれ、日本はその先進文物を「懇請」し、朝鮮はそれを「許可」する立場の国だったというわけである。要するに、ここに共通するのは朝鮮を「文化的優越者」と位置づけ、日本は「劣等」であるとの姿勢である。
しかし、ここでいう朝鮮の「先進学問」とは要は漢文・漢詩であり、通信使の書画をもとめた、いわばミーハー的な日本人がいたという話に過ぎない。念のために事実を記せば、中世の交易は朝鮮の綿布と日本の銅(のちには銀)との交易であり、室町前期から朝鮮側は日本の水車や和紙(彼らは倭紙と書く)の製造技術の導入をはかろうとしているが、結局は成功しなかった(下條正男氏)。「先進学問と技術を学ぼうと懸命であった」のは、むしろ朝鮮側だったというのもまた事実なのである。さらに江戸期に入ると、通信使の通訳が、江戸市街をみて「かつて見た北京にも劣らないと驚嘆した」と記していることもあげておきたい。
◆「日本征伐」
こうした優越感の誇示は外交・軍事でも貫かれていて、中世の「元寇」の記述にも表れている。
「元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、すべて失敗した」
ここでは「征伐」という言葉が歴史用語ではなく、教科書の説明記述として使われている。むろん、「征伐」とは悪い者を懲らしめるという意味を含む。しかも、高麗は「日本征伐」に無理矢理加担させられたかのような書き方になっているが、事実はまったく違う。高麗軍は元軍に加わった(とりわけ文永の役では元寇の主体は高麗水軍だった)だけでなく、二度とも元の世祖に日本への遠征を要請したのは高麗自身(忠烈王)であることは明白な事実である。
元への侵略要請は書かず、未だに「征伐」というのは、日本蔑視史観といっても過言ではない。
十五世紀の朝鮮が日本を「島夷(引用者注・日本のこと)は……人類に歯うるに足らず」(成宗実録)と認識し、また江戸期でも通信使は日本を「倭」と呼んでいた。しかし、この教科書では当時の認識がそうであると書いているのではなく、現代の執筆者がそう書いている。だとすれば、これは単に優越感の誇示としてより日本蔑視と言っても過言ではなかろう。
◆隠蔽されるシナへの「服属」
日本に対して自国の「優越」を誇示するこの教科書は、では中国との関係をどう記述しているのだろうか。というのも古代から十九世紀末まで、どの朝鮮王朝もシナの王朝から冊封をうけ(シナの皇帝によって朝鮮王に認知されること)、臣従していた。つまりシナに服属していたことは誰もが知るところだからである。
実際、年号もシナのものを一貫して使っていた。さらには、新たな国王の即位、立后、立太子がある毎にシナの承認をもとめ、外交関係も問題が起こればシナの意見を求めていた。むろん、朝貢は欠かすことなく行われ、シナからの使節を迎える際は、朝鮮王は使節をソウル城外に出て迎えなければならなかった。
ところが、中高の教科書では、驚くべきことにその点はまったく隠されてしまっている。例えば明と李朝との関係について「明との親善関係を維持して王権を固め、国の政治を安定させようとした」と記述されている。他のケースでも「冊封」という歴史用語は見あたらない。
では、明への朝貢はどう書かれているのか。「朝鮮は朝貢を通して明の名分を立ててやり、使臣の往来を通して経済的・文化的実利を得た」と書かれていて、一応「朝貢」という用語は使われているが、明の顔をたてるために貢ぎ物をしただけで、要は朝鮮は実利を得たのだというのである。高校教科書では朝貢という用語自体がなく、「朝鮮からは明に対して一年に数次の定期的な使節を派遣し、その他にも随時、使節を派遣した」と、単なる外交使節のような記述になっている。
では、事実はどうなのか。「朝貢」は決して儀礼にとどまらず、「金百両、銀千両、白米一万包、絹二千匹」をはじめとする大量の貢ぎ物の献納を義務づけられていた。これに対して明からの見返りもあったが、逆に何かと理由を付けて停止されたりもしたという。「朝貢国としての李朝は、毎年、莫大な出費を必要とした」(呉善花『「日帝」だけでは歴史は語れない』)。つまり、朝貢は「明の名分を立てて」やったり、単なる使節を送ったということではないのである。
その意味では、朝貢に関する教科書記述は事実の歪曲と言わざるを得ないが、これに関連して明らかに虚偽だという記述もある。教科書は「朝鮮」という国号についてこう書いている。
「新王朝は、国号を朝鮮と定めた。『朝鮮』は、すなわち古朝鮮の伝統を受けつぐという意味で、檀君に民族の独自性を求めるという意味が含まれている」
確かに「朝鮮」という言葉にそうした民族意識の側面がないわけではないのだが、ここには決定的な嘘がある。
『朝鮮王朝実録』(朴永圭著)によれば、「李成桂は、中枢院使・趙琳を明に派遣して、新政権の樹立をしらせる一方、国号を改定するという意思を伝えた。これに対して、明の太祖・朱元璋は新政権の樹立を承認し、国号改定に対して迅速に報告するように要請した。李成桂は元老たちと百官を集めて、国号を論議するようにし、その結果、『朝鮮』と『和寧』という二つの名称が決まった。(中略)このように『朝鮮』と『和寧』という二つの国号が決まると、李成桂は一三九二年十一月、芸文館学士・韓尚質を再び明に派遣し、朝鮮と和寧の二つのなかから一つを国号として採択することを請うた。(中略)翌九三年二月彼は『朝鮮』という国号を決めてもらい、戻ってきた」
つまり、「朝鮮」という国号を決めたのは宗主国である明なのであって、「新王朝は、国号を朝鮮と定めた」というのは、明らかに嘘ということになる。シナの王朝を宗主国とする体制を「華夷秩序」というが、韓国の教科書は事実をねじ曲げてでもその華夷秩序に組み込まれていたことを隠していると言わざるをえない。
この教科書には「自主」「主体性」という形容詞が登場する。むろん、「自主」も「主体性」も国家民族にとって重要であるが、だからといって歴史的事実を隠蔽して、中国との対等を装ったり、日本をおとしめたりするのは、夜郎自大といわざるを得ないのではあるまいか。
◆記述されない日本の貢献
近代に入ると、文化的「劣等」であるはずの日本が、明治維新を経て朝鮮の近代化に深くかかわるようになる。しかし、日本の貢献を評価する記述は何もない。むろん、近代化を「教えてもらった」とは書かない。
教科書は中高ともに、金玉均など開化党によって起こされた甲申政変(明治十七年)、さらに日清戦争開戦にともなう甲午改革(明治二十七年)などが近代化に向けた重要な改革だったと評価している。とはいえ、甲申政変も甲午改革も、日本の支援なしにはあり得なかったことも事実である。その点は教科書も認めてはいるが、それは「強要」だと言ってのける。「甲午……改革は概して日本帝国主義の勢力によって強要された面もあったが、封建的な伝統秩序を打破する近代的改革だったことは間違いない」(高校)と。
また、これらの改革は、王室経済の問題などの内政改革とともに清からの独立が大きなテーマだった。清からの自立ということは教科書も一応は触れているのだが、最終的に清との服属関係が終わったのは日清戦争によってであるという事実は教科書では触れられない。というのも日清戦争の講和条約である下関条約の記述そのものが教科書にないからである。ちなみに、下関条約第一条は、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。よって右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」と規定している。
日本は善意だけで朝鮮の独立を推進したとは言わないが、千数百年にわたる朝鮮とシナ王朝との服属関係を終わらせたことは、朝鮮の歴史にとって非常に重要な画期だと思うのだが、教科書は中高ともにまったくの無視をきめ込む。
また、近代化の端緒を開いたのも、福沢諭吉など日本人の支援によるものが多いのだが、その点も触れられない。例えば、福沢が支援し日本人が創刊した新聞『漢城旬報』は「わが国最初の新聞」として記述されるが、どういうわけか、日本人の手によることはもちろん、この新聞の最大の功績である漢文ハングル混淆文を最初に使いその普及をめざしたという事実は無視し、その功績は後続の皇城新聞など日本批判の新聞の功績として描かれている。
清からの最終的な独立達成にしても漢文ハングル混淆文を使った最初の新聞発行にしても、それらに教科書が触れないのは、それ以前は文化的「劣等」者として記述し、その後は「日帝」と非難することになる日本によってなされたからだと見るのは穿ちすぎだろうか。
◆まず「日帝支配」ありき
さて、日本との関係の教科書記述は、日露戦争を経て保護条約が結ばれ、一九一〇年(明治四十三年)の韓国併合を経て日本統治の時代になると、これでもかというくらい、日本の統治(教科書では「日帝支配」)に対する徹底した非難の記述で埋め尽くされる。
例えば、教科書では「土地の略奪」「産業の侵奪」「食糧の収奪」などがあげられている。
「日帝の支配で、わが民族はとくに経済的な収奪によってひどい苦痛を受けるようになった。この中でもっとも大きな被害を被ったのが土地の侵奪だった。
日帝は国権を奪った直後から、いわゆる土地調査事業という名をつけて農民の土地を申告させた。これは土地所有関係を近代的に整理するという口実で進められた。しかし、申告の手続きが複雑でややこしく、日帝に協力しないという反日感情があって、多くの農民たちは申告しなかった。
その結果、申告されなかった土地は持ち主のいない土地として見なされ、総督府の所有となった」
ここで批判のやり玉にあげられている土地調査は、近代的な所有関係を決定する上で必須条件であり、それを八年がかりで日本は自らの資金で実施した。李朝末期は、教科書自らが書いているように田制混乱の極にあり、そこに近代的土地所有制度が持ち込まれたのだから、混乱がなかったとは言わない。しかし、この土地調査によって国有地となったのは全農地のわずか四%であり、その大半が以前から問題となっていた公共用地の耕作権を失ったケースだった。
また、「とくに、日帝は彼らの食糧不足を解決するために、韓国から米を略奪することに力を注いだ。このため韓国の農民は彼らが生産した多くの米を日本に奪われ、飢えを免れられなかった」という記述もある。「略奪」というと、日本が米を強盗でもしたかのようである。しかし、これは朝鮮の農家が朝鮮より売り渡し価格の高い日本に米を売って現金収入を得たという経済行為に過ぎない。日本が食糧不足というのも事実は逆で、日本は朝鮮の米を必要としていなかった。むしろ米価の暴落防止のために内地の農家は、朝鮮からの移入制限を要望していたのが事実である。
また、「林業分野でもぼう大な山林が朝鮮総督府と日本人の所有となってしまい、鉱業部門でも韓国人の鉱山経営はきびしくおさえられ、日本人がほとんど独占する状態となった。日帝は金、銀、鉛、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」とも書かれている。
林業について言えば、李朝時代の山林はすべて「無主公山」で、いわば国有だった、という前提となる事実が隠蔽されている。従って、私有されていた山林を朝鮮総督府が奪ったわけではない。むしろ、総督府はそうした山林を「管理」し、「造林事業をする朝鮮人に総督府は資金を貸し付け、造林成功とともにそれを譲与していった。禿山を立派な林にしてから『私有』にしてあげた」(中川八洋氏)のが事実である。
この他、昭和期に入ると、こうした経済的「略奪」に加えて、「人的」「文化的」略奪が加わったと教科書はいう。
「日帝はこうした物的な略奪ばかりか、韓国人を強制徴用によって鉱山や工場で苦痛に満ちた労働を強要したり、強制徴兵制と学徒志願兵制度を実施した。これにより多くの韓国の青壮年が各地の戦線で犠牲となった。このとき、女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした」
「彼らは……韓国人を日本人にして韓民族をなくしてしまおうとした。そこで韓国語の使用を禁じ、日本語を使用するよう強要し、学校で韓国の歴史についての教育を禁止した。日帝は韓国人の姓名を変え、日本式の姓と名を使うように強要した」
逐一事実をあげて詳細に反論をするスペースはないが、まず、いわゆる慰安婦で強制連行されたケースはないし、挺身隊とは戦時の勤労奉仕のことであり、そこに動員された女性が慰安婦にされたなどということは、制度としてもあり得ないし、また証言としても一件もない。
また、朝鮮総督府が朝鮮語の使用を禁じたこともない。終戦まで「韓国語」の新聞が二紙発行されていたし、そもそもわずか人口の三%にすぎない日本人が圧倒的多数の朝鮮人に「韓国語の使用を禁じ」るなど荒唐無稽という他ない。むろん、「韓国人の姓名を変え」たこともない。創姓改名は強制ではないし、朝鮮にはなかった姓(名字)を新たに設けたのが事実である。
こうして見ると、韓国の歴史教科書は何かの根拠をもって日本批判を記述しているのではないことがよくわかる。まず最初に「日帝支配=悪」という大前提となる歴史認識があり、それに基づいてすべてが描かれているとさえいえる。
むろん、鉄道・道路・ダムや田畑の土地改良などのインフラ、さらには学校の設立など、日本が朝鮮に残した事業は数多い。逐一紹介しないが、そうしたものもすべて否定の対象でしかない。教科書はこう述べる。
「日帝の植民地支配は韓国の自主的近代化と発展に莫大な支障をきたした。あらゆる政策が日帝の植民地統治のための手段として計画され執行され、設備の設備投資もやはり同じ目的で行われたために、わが民族には何の役にも立たなかった」
日本では、朝鮮統治には良いところもあったが反省すべき点もあったなどと言う向きもあるが、韓国教科書はそんなことはない。一〇〇%の否定だということを知るべきである。
こうして朝鮮統治を一〇〇%否定する一方で、「独立反日運動」は徹底して紹介される。教科書は、朝鮮民族は「挙族的な抗日民族運動を展開」し、「教育、宗教、文化、産業など各界で日帝と直接、間接に」戦い、上海に大韓民国臨時政府をつくり、「抗日独立運動は本格化」し、満州などの「抗日武装部隊は本格的独立戦争をくり広げた」と書く。
そして、「このような抗日独立運動は一九四五年まで展開され、その結果、日帝から光復を勝ち取ることができた」というのである。
独立抗日運動を韓国の教科書がどう評価しようと勝手ではある。しかし、その結果として「光復」がもたらされたと記述するのは、明らかに歴史的事実に反する。朝鮮統治が終了したのは、日本の対米戦争での敗北によるものであって、決して独立運動によってではない。だからこそ、対日講和に参加することもできなかったというのが歴史の冷厳な事実である。
いずれにしても、事実は横において、まず徹底して、近代までは日本を「劣等」国として描き、近代の日本統治はすべて「悪」という前提で歴史を語るのは到底「正しい歴史認識」とは言えない。ましてや、そういう教科書を国定して恥じない韓国が、日本の教科書に「正しい歴史認識」を要求する資格がないのは明らかであろう。