2011-08-11
菊理事件1.その差別を拡散したのは誰か
渋谷駅ガード下に差別的な張り紙があったらしい。
色々あって、「はてな」のブログ界隈では騒ぎになっている。
視覚的ヘイトスピーチの暴力 | LUNATIC PROPHET
ヘイトスピーチだかウェディングピーチだか知らないが、これは致命的な大失点だ。
敢えて言おう、カスであると。
差別落書きという言葉がある。
これに対し「差別犯罪たるべきものを落書きなどと軽い言葉で呼ぶのはけしからん」という議論もしばしば聞かれる。
が、的外れである。
差別落書きは「落書き」でなければならない。
なぜか。
差別「落書き」を行った犯人は、内容が伝わることを期待しているからだ。
それを「落書き」と扱うことで、取り合うべき内容もないと烙印を押し、メッセージを無効化できる。これが犯人にとってはいちばん嫌なのだ。だから、差別「落書き」はただ何の意味もない「落書き」として管理者の手で撤去・消去されるべきなのだ。
1)JR東日本のしかるべき部署に電話
2)渋谷駅の駅員に直談判
(中略)
「お仕事」であり、なんのメッセージ性も持たない。
http://lunaticprophet.org/archives/5354
――べきである。
ちなみにネット上でもこの考えを採用している場所がある。『2ちゃんねる』運営は、喧伝の意図を持って大量にコピー&ペーストされる投稿を「無意味な文字列」と呼ぶ。一律に「無意味な文字列」と呼ぶことで意味を無効化する手続きだ。
そうせずに「断乎抗議する!」と言って取り上げるとどうなるか。
まず、その内容を意味ある主張と認定して、言論の土俵に引き上げてやることになる。真っ向から取り上げるのは犯人の思う壺である。差別落書きは、取り上げられる*1ことで初めて政治的メッセージになるのだ。
さらにはこのケースのようにインターネットに載せると、行為者の想定を越えてメッセージを広めてやることにまでなってしまう。
この言語を読むことのできるネイティヴのひとが、ふとこの紙を目に留めたときの心中たるや、いかばかりか。これこそ、視覚的ヘイトスピーチの暴力と呼ぶにふさわしい。
http://lunaticprophet.org/archives/5345
この認識がありながらなぜ、ネットに載せて拡散し、見せつけるのか。行為者はメッセージを数日間の通行人に届けようとしたが、「晒す」ことによって数倍数十倍の人間にメッセージが届き、今後も引き続き届くのである。なんという抑圧への加担か。その「ヘイトスピーチ」を拡散したのはあなたであり、はてなブックマークの面々である。
一般論としては、現に行われた差別発言をなかったものとして看過し隠蔽するべきではない。だが、看過せず取り上げることが差別的意図しか乗せられていない文言の拡散に協力してやることになるならば、決然と無視すべきである。
差別落書きが「どこそこは被差別部落である」と名指すケースを考えると分かりやすいだろう。こんな差別落書きがあった、抗議する、と喧伝する行為は一見差別への抵抗でありながら、実のところ差別への加担の役割を果たす。
差別落書きの内容を意味あるものとして伝える行為は、犯人が目論んだ差別に寄与するのである。
件の張り紙を「晒す」ことで得をしたのは誰で、損をしたのは誰か。
得をしたのは、まず、自分(たち?)の目論んだ方法よりはるかに広くメッセージを拡散してもらえた差別セクト。そして、「差別を許さない!」と自らの善性をアピールする機会を得た反差別セクトである。
一方損をしたのは、本来なら読まずに済んだ敵対的なメッセージを、ご丁寧に意訳付きで突き刺された中国・朝鮮(・韓国)人である。
差別撤廃運動は差別される人々を守り救済するためにあるはずである。なのにこれでは、差別セクトと反差別セクトが一緒になって差別される人々を踏みつけにしている。いったい何のための反差別なのか?
近年の差別撤廃運動の理路は、「差別された人が傷つくから」という小学校で習ったナイーブかつプリミティブなものではなく、「抑圧を固定化する社会構造への加担が許せないから」というものであるらしい。だから、差別を撤廃するという大きな目的、「ヘイトスピーチ」を告発するという正義のために、「ヘイトスピーチ」を喧伝してまさにその「ヘイトスピーチ」に傷つく人々を蹂躙しても許されるのかもしれない。が、そうだとしても、ウルトラマンは怪獣との戦いで踏み潰す人々に負い目を感じるべきであり、平気で踏みつけてはならない。
ともかく告発は差別に対する純粋な怒りから出た善意のものではあろう。それは信じられる。しかし、結果的には「ヘイトスピーチ」を自分の手で拡散する極めてまずい行為だったのである。
菊理事件2.事件は「はてサ」の自作自演
視覚的ヘイトスピーチを塗りつぶす突発ひとりオフ会の報告 | LUNATIC PROPHET
断言する。その「ヘイトスピーチ」を広めたのは、あなたや、ブックマークで凱歌を揚げているあなたがたである。
この事件は「はてサ」による自作自演であると言ってもまったく過言ではない。
念のため言っておくが、張り紙の実行者が「はてサ」だとは考えてもいない。
「ヘイトスピーチ」を拡散する人々
有村氏の告発が「ヘイトスピーチ」の拡散の役割を果たすという矛盾を先のエントリで指摘した。とはいえ義憤に発する直情径行を声高に批判することはできない。結果的にまずい、と言うのがせいぜいである。ここまでなら。
が、事態はおかしな展開を見せる。「はてなブックマーク」で散々煽られるなどした有村氏がマジックで張り紙を塗りつぶして凱旋したのである。
こうなると、最初の告発に遡って、いただけなくなる。
有村氏の告発を祭り上げた――つまり「はてなブックマーク」して騒動に仕立てた面々は、正義の告発も行っていない。ということは、差別的メッセージを広く拡散することに加担しただけになる。
「こんな差別は許せない!」と一言コメントするのはタダだ。ほとんど何の労力もなく、差別に怒る正しい自分をアピールしてみせる安い行為である。その行為の結果として差別的メッセージが拡散されていった。自分だけを免罪しながら差別強化に加担しているのだ。とんでもねーやろうどもだぜ。この手合いがはてなサヨク略して「はてサ」である。
祭り上げを経て有村氏はその「ヘイトスピーチ」をマジックで塗りつぶす行為に至る。だが、その「ヘイトスピーチ」をもっとも広めたのは有村氏とはてなブックマークの面々なのだ。自分たちがせっせとインターネットで祭り上げた「ヘイトスピーチ」とたたかって塗りつぶしたって、それは自作自演というのである。自ら差別を強化しておいて、その上で差別とたたかった自分を称揚するという極めて醜怪な手口でしかない。「差別とのたたかい」そのものが目的化して、被差別者を置き去りにした差別セクトと反差別セクトの(あるいは差別セクトすら置き去りにした反差別セクト内の)じゃれあいに堕しているのではないか。
「ヘイトスピーチ」を強化する人々
そも、件の張り紙はただの差別落書きであった。日本語でも中国語でもない謎の漢字の羅列であって、差別的意図だけは強烈に感じられたが、無効化してやるまでもなく文章になっていないものである。
あのような政治行動には、アピールを行ったという内向きの意義と、放言を投げつけるという外向きの意義がある。が、読めないのだから、外向きの意義は最初から失敗していた。差別発言を向けられた対象が読めないことで傷つかずに済むなら、ひとまずほっとするところである。
ところが、祭り上げた面々――差別と「たたかう」ことを使命としているはてなブックマークの面々は、犯人の意に沿った訳を用意した上、差別発言がちゃんと届く方法を教えてやるという愚挙に出た。
数人いるがお返事をいただけたお一人だけ引く。
D_Amon おそらく日本人が書いた似非中国語。「中国人と朝鮮狗は入国禁止」ということなのだろう。つまりこれは中国人と朝鮮人の両方を排除の対象としている文。書いた人間の意図的には簡体字で書くべき。屑な上に阿呆だな。
http://b.hatena.ne.jp/D_Amon/20110808#bookmark-54032966
Thsc 簡体字で書け(id:D_Amon)だのハングルで書け(id:machida77)だの言ってるバカサヨクどもは当該外国人にこれを読ませたかったのか?差別とのたたかいのためにまずわざわざ傷つけに行く自演的手法をいつも使ってるってわけか
http://b.hatena.ne.jp/Thsc/20110810#bookmark-54072762
D_Amon id:Thscさん「旧字とか使っているあたり繁体字を使う台湾向けの文なのかよ」というように手段の間違いとお粗末さを指摘して何の問題が?差別が駄目なのは当然として差別者自身の駄目さもまた否定されるべきと思います
http://b.hatena.ne.jp/D_Amon/20110810#bookmark-54072762
差別者のお粗末さを指摘したのだというお返事だが、それは被差別者にこれを読ませたかったのかという疑問への本質的な答になっていない。何故差別発言を被差別者にちゃんと突き刺す方法をわざわざ教えるのか?犯人が有村氏を特定する懸念や模倣犯の懸念も語られている、つまり差別者がエントリ周辺の議論を利用する可能性も低くないのに。
差別者の「手段の間違いとお粗末さを指摘」することは、彼らの差別行為への批判としては機能しない。彼らの知能が劣っていると指摘して、反差別セクト側が持つある種の差別意識・優越感を満足させるものでしかない。差別者を愚者と見なすあまりに、自分の提供した情報が差別者に利用される危険をまるきり想定しないのか。ならば「手段の間違いとお粗末さを指摘」することは有害でさえある。
差別批判として機能しない指摘など意味がない。意味がなくても行うのは、自由ではある。が、しかし、差別者の駄目さを否定するために、より効率良く差別発言を被差別者に届ける方法を具体的に教えてしまうとなると、これは手段のために目的を忘れた行為と言うしかない。差別者を批判するために差別を促進しているのだ。意識が奈辺にあるか知れる。
「差別主義者を嘲笑ってやりたい」目的のために「差別発言をちゃんと届ける方法を教示する」愚を犯し、次はもっとうまくやれるよう、差別の増強に寄与してしまう。それが不本意だとさえ思わないのか?
そこにあるのは、差別者を排撃することがとにかく最優先であるという理屈である。何が本来の目的か忘れ去っている。
自作自演の人形劇に興ずる人々
差別を批判していたはずなのに、いつの間にか差別者とのプロレスに血道を上げている。しかも差別者は自分(たち)より知的に劣っているという観点から、差別者に対する侮蔑という許された差別を楽しみさえする。いつしか被差別者に対する視点が欠け落ちることになる。ヘイトスピーチを拡散することも効率のいい差別方法を教えることも平気になってしまう。
これが机上・ネット上で「差別とたたかっている」人たちの限界だろう。どうしても差別者という藁人形とのたたかいに興じてしまう。そして仲間内で評価を得るため、差別者に断固たる姿勢で望む正しい自分のプロデュースに邁進するのだ。
この帰結の一形態が、「ヘイトスピーチ」とたたかいそヘぬしたストーリーに祭り上げられてしまった有村氏と、有村氏を唆して自分の手を汚さずに差別者への嫌がらせを達成し快哉を叫んでいるはてなブックマークのおともだちである。アホかお前ら。
どんなに「ヘイトスピーチとたたかい、ぬりつぶした」身勝手なストーリーで盛り上がっても、どんなにかわいそうなありむーを操っても、そんなものはただの人形劇だ。残るのは、何の意味も持たせずに葬り去ることが可能だった差別落書きを「ヘイトスピーチ」に引き上げて拡散に加担し、自作自演で祭り上げたその差別と「たたかった」事実である。差別を告発する正義に酔い、まさにその被差別者を無遠慮に突き刺す行為に及んだ事実である。バカめと言ってやる。バカめ、だ。
菊理事件3.菊理媛は告発する
もしかの差別落書きを差別落書きとして葬らず、意味のあるものとして扱うならば、レイシストの排外主義と糾弾して済むものではない。それでは半分しか受け取れていない。
なぜ菊理なのか?
菊理。彼女は喋ることのできないキャラクターである。そこからまず、自分は言葉を封じられた存在であるという主張が読み取れる。奇妙なことだが、犯人は言葉を封じられていると感じているのだ。
日本は均質な教育の行き届いた国家であり、表向き「差別はいけない」という観念が極めて強く国民に共有されている。これ自体はよいことである。しかしこのために、特定の対象に対しては純粋な批判であっても差別と扱われ封じられる――まさに「ヘイトスピーチ」として抹殺される。
ただ批判や不服やおそれを訴えることがけっして許されない。差別発言と歪曲して聞かれるのであって、絶対にそのままは聞いてもらえないのである。それが言葉を封じられているという叫びに繋がる。
特に差別的でない言葉まで「ヘイトスピーチ」であると排撃し糾弾して追い立てられるので、彼らの受け皿は確信犯の差別主義しか存在しない。何らかの主義ではなかった叫びを差別主義に取り込ませることになってしまうのだ。こうして抗弁者は差別主義に追い込まれていく。けれど差別そのものを意図して吐くようになった悪辣な言葉は決して最初に訴えたかった純粋な言葉ではない。伝えたかったことを聞いてもらえない、言葉を失わされたのだという告発を抗弁者は行っている。
喋れないアニメ・ゲームキャラクターは他にもいる。澪でも静音でもよいはずだ。
だが、菊理でなければならない理由が犯人にはあったのではないか。
菊理媛とは非差別民の神なのである。かつては神に奉仕する聖別された民として崇められつつも、時代が下ると逆転して差別されるようになった民の神である。はっきり書くと身の回りが面倒くさいことになるからシラヤマ信仰でggrks
この菊理媛を担ぐというアピールから読み取れるのは、高かった地位を反転されて差別される地位に叩き落された民の苦境である。端折って結論に飛んでしまえば、そこには日本人男性若者ウィンプの悲鳴が読み取れるのだ。
マジョリティたる日本人や男性であるがゆえに、抑圧者であり簒奪者であるとして常に非難に晒される。むろん当たっている部分もある。だがマジョリティの抑圧に対する糾弾は全てマジョリティの中のマイノリティに襲いかかるのである。なにせ、マッチョは糾弾など聞く耳を持たない。世代間格差で低賃金に苦しんでもそれは若者の自己責任であり、運動部で輪姦・強姦事件が続発すればレイプゲームオタクの認知障害が悪いのである。マジョリティの中のマイノリティは、マジョリティゆえに非難し糾弾し差別してもよいと定められ、いくら苦しんでも誰からも同情されない、弾圧用のサンドバッグなのだ。これが被差別民でなくて何なのか。
サンドバッグを叩いて良しとする態度は、ただそのサンドバッグへの暴力であるのみならず、生贄を蹂躙して気晴らしし、差別から目をそらし、マジョリティ中のマジョリティという巨悪を免罪することでもある。差別の温存への加担そのものである。
被差別部落の神を掲げ、自らを被差別部落民になぞらえて抗弁者が訴えたいものとは、自分を集中的に虐めてなぶり尽くすやり方が不当であるという、血を吐くような抗議。せめて、人間らしく対等に扱ってほしいという要求に他ならない。
さて、ここまで執拗に「ヘイトスピーチ」と鍵カッコに括ってきたのは「ヘイトスピーチ」なる語を認めないからである。
「ヘイトスピーチ」なる語は、相手を絶対悪とする完全な決め付けを行うためだけに用意された語だ。自分の思いのままに相手を一方的に糾弾するやり方を正当化するための術語であり、非常に悪質なレッテルである。
裁けば差別は消えてなくなるのか?なくなるわけがない。第二第三の差別が無限に引きも切らず現れる。差別との戦いは殲滅戦ではない。撃破しても弥縫策でしかない。対立する者の主張をまずもって把握し、しかるのち軋轢を解体し、差別の根源から解消していかねばならない。相手を差別主義者と断ずるにせよ、差別主義者として生まれついたわけではない者の、差別主義以前の心情の表明をも読まねば解決はない。
「ヘイトスピーチ」なる語は、そんな理想を捨てたことを意味する。対立者の訴えの全てを一顧だにする価値無きものと切り捨て、自らの立場を絶対とし、問答無用で圧し潰す横暴極まりない処断主義に堕したことを意味する。極めて浅く一面的だ。正義を掲げて敵を排撃するという心地良い一面に傾倒する者はナチスでありポルポトである。
例えば移民によって底辺仕事が代替される、代替されずとも賃金切り下げが行われることは、極めて現実的な恐怖である。はてなの超エリートたちにとっては実生活と全く切り離された観念的な問題すなわち排外「主義」でしかないのかもしれないが、しかし底辺の大衆にとっては何らかの主義などではない、生活の話である。必要な答は「この排外主義者め、レイシストは日本から出て行け!」ではない。そんな答を寄越されれば、なるほどやるかやられるかなのだと認識して、やる決心を固めざるを得ない。そうではなく、「移民が来てもあなたの感じている恐怖は実現しない」という返答が必要なのである。
こういった訴えさえも排外主義のレイシストの「ヘイトスピーチ」と認定して受け入れないならば、私もいずれ第n+1の敵となり、兇器を持ってあなた方の前に立ちはだかるしかなくなる。そんな対立を望んでいるのか?根源が差別そのものにない問題を切り分けて解決しようとは思わないのか?
まあ、対立を望んでいるのだろう。あなた方は、対立を宥和して平和に至るのはマジョリティの優越を温存する許されざる差別だと思っていて、ヘイトクライム・テロを起こさせ、ダイアリーやブックマークで高らかに非難する自分を演出する方が好きなのだろう。だから何も期待はしていない。
菊理事件4.告発と黙殺の択一ではない
ここまでのエントリに、はてなブックマークで「お前こそ差別を隠蔽せんとする差別者だ」とする反発が数多寄せられている。
何を言っておるのかと思う。
「お前が差別者だ!」という反発の理由は明らかだ。告発と黙殺のどちらか一方が差別を許さない正しい行動で、ゆえにもう一方は差別を促進する謬った行動である、という二元論を前提にしているのだ。
なるほど、ならば「告発すべき」と考えている者にとり「黙殺すべき」は差別の温存であって、差別主義者の隠れ蓑とさえ考えられよう。
しかしそうではないのである。
告発するか黙殺するかの択一ではない。
絶対的に正しい選択など、ない。
告発と黙殺のどちらを選んでも差別に加担するベクトルの副作用は存する。告発すれば拡散にもなり、黙殺すれば隠蔽にもなる。
行動がたとえ最善であっても副作用はある。自分が正しいと信じる道を択べばよいが、それに伴う負の面も無視せずに背負わねばならない。それを認識しなければならない。差別を告発して撃破してやったと無邪気に盛り上がることは、できないはずである。
差別を許さないという大看板は、その大看板を掲げた自らは無謬でなければならないという縛りに発展する。「自分たちは差別とたたかう正しい者であり、無謬であらねばならない」ゆえに「自分たちを批判する者は謬った差別主義者であらねばならず、その言葉はヘイトスピーチであらねばならない」という倒錯した思考が、反差別セクトの人々にはみられる。
自分たちは差別とたたかっているから、批判者は差別を目論み差別とのたたかいを疎ましく思っている差別主義者である。批判を受け止めると自分たちが謬ったことになるから、批判は自分たちを貶めようとする差別主義者の工作である。そういった思考回路が見える。差別が許せないと憤る正義感はほんものであろうに、その原動力が回りくどい自己正当化に割かれることに失望を覚えざるを得ない。
謬ってはならないと自身を律するのはよいが、謬ちを免れようとするあまり他者に罪を負い被せる手口を使うようではいけない。それぐらいなら、謬ってもよいと考えるべきだ。差別と「たたかう」ならば無謬ではいられない。
そしてその謬ちの部分を敵から指摘されるのが業腹だというのなら、集団内部でちゃんと総括し、あるいは自分個人の中でちゃんと自己批判すべきである。
菊理事件5.メディアの違いを理解せよ
差別を抉り出して告発すべきかは決然と黙殺すべきかは、大昔にとっくに「告発すべき」と結論が出ている、ゆえにそれを否定する者は無知無学で発言権のない愚か者か、さもなくば確信犯の差別主義者である――というタイプの批判もいただく。
しかし、メディアの違いを理解せよ。
そもそも、差別を隠蔽して連綿と引き継ぐべきである、お前ら告発して邪魔すんな、などと言った覚えはない。ネトウヨの中・韓・朝差別など暴くまでもなく知られている。その条件下であくまで差別落書き単品を何事もなかったかのように消すべきか、高らかに取り上げて破壊すべきかというもの。だから、差別を隠したままにすべきではなく告発すべきである、という反論の指摘するものは別物と感じるのだが、まあいいやそれは。
昨今は、ソーシャルネットワークを通じて情報が爆発的に伝播するがゆえの問題がさまざま起きている。
そんな中、なぜ差別問題だけは古の議論をそのまま引き継げると考えるのか?
反差別セクトの一派は、「ヘイトスピーチ」それそのものが凶器であって、犯罪扱いして法規制すべきものだと主張している。であれば、ネット上での「ヘイトスピーチ」画像拡散も好ましくないものであるはずだ。差別者が送り出したのであれ告発者が送り出したのであれ「ヘイトスピーチ」画像の持つ暴力性は変わらず同じ被害を与えるのだから。
告発のためなら差別の拡散もやむなしという理屈は、情報の拡散を制御下に置けて辛うじて成立する。ネット上の画像掲載となれば「ヘイトスピーチ」がもはや犯人や告発者の制御を離れて流布する。制御を離れるのだから、悪意を持って行う者の行為は犯罪であるが善意を持って行う者の行為は容認される、式の理屈は成り立たない。「ヘイトスピーチ」犯罪化論者には受け入れられない事態のはずである。
告発者たるありむーはゾーニング撤廃主義者でもあるのだから、全て表沙汰にする行動に辻褄が合っている。が、反差別セクトの「ヘイトスピーチ」犯罪化論者がその「ヘイトスピーチ」のばらまきに歓声を上げたのは矛盾している。彼らは、告発が「ヘイトスピーチ」の流布になるマイナス面の批判を行わねばならない。
「論理矛盾起こしやがったぜばーか」と言いたいわけではなく、技術の急速な普及に思想が十分に追いついていないんじゃないか、と。
「告発と黙殺なら告発が正義、黙殺は差別主義者!」という議論は、仮にかつて正しかったとしても、ソーシャルネット時代に対応できていない。アップデートさるべきである。すなわち、告発に伴う差別の拡散という副作用がむやみやたらに増大している認識は改めて確認し直すべきである。
「SNS時代には黙殺が正義!」という結論を望んでいるのではない。だいいちセクト全体でスタンスを決めたからセクト外の人間も含めてみな従えという主張はカルトである。己の信ずるところに従って批判しあえばよく、結論自体は己の考えで択べばよい。が、そうして択ぶなり持ちあげるなりしたらその負の面も背負えということである。
*1:通行人が意味を読み取ることも含む