戦後60年の歴史、「在日」の問題を語るのに関西という地域は欠かすことは出来ない。
戦前の日本において、航空機工場の建設に多くの労働力を求めていた時代、京都府宇治市の現・陸上自衛隊大久保駐屯地の辺りにも、沢山の労働者が仕事を求め移住してきていた。2000人居た労働者のうちの1300人が朝鮮人労働者であったと言われている。一部団体が主張する「強制徴用」という事はなく、多くの労働者が貧しさから仕事を求めて自主的に移住してきた人々である。
それら家族が生活する飯場(宿泊場)は、終戦後進駐軍により祖国への帰国命令が彼らに下された後も、帰国後の生活を頼る筋もなかった労働者の多くが、そのまま地区に住み続ける事となり、土地は不法占拠状態、それが現在も続いているというのが、ウトロ地区の特徴である。
戦前の日本において、航空機工場の建設に多くの労働力を求めていた時代、京都府宇治市の現・陸上自衛隊大久保駐屯地の辺りにも、沢山の労働者が仕事を求め移住してきていた。2000人居た労働者のうちの1300人が朝鮮人労働者であったと言われている。一部団体が主張する「強制徴用」という事はなく、多くの労働者が貧しさから仕事を求めて自主的に移住してきた人々である。
それら家族が生活する飯場(宿泊場)は、終戦後進駐軍により祖国への帰国命令が彼らに下された後も、帰国後の生活を頼る筋もなかった労働者の多くが、そのまま地区に住み続ける事となり、土地は不法占拠状態、それが現在も続いているというのが、ウトロ地区の特徴である。
他の「在日」集落の問題とは異なり、ウトロ地区の土地は民間会社所有であり、それは何度も所有者の会社が変わったり、または自治会長を名乗る在日韓国人の不動産会社が土地転がし目的で売買したりと、その度に住民の生活は翻弄され、家屋「強制撤去」の可能性に脅かされていたという。
現在、韓国政府と支援団体による経済支援が地区に施され(記事)、ウトロ住民による土地の買収が実現しようとしている。ようやく60年越しの問題にカタがつきそうな形になった地区だが、現在は果たしてどうなっているのか、現場を訪れた。
地区への最寄り駅は近鉄京都線の伊勢田駅というローカルな駅である。京都駅から普通電車で20分少々と言った所だろうか。奈良線経由で大和西大寺からも急行乗り換えで20分程度で着く。
駅を降りて東側の細い道路をおよそ7、8分くらい歩いていくと、段々と寂れた古い住宅群が目に付くようになってくる。民家のポストにも「伊勢田町ウトロ」と書かれているのが確認できるだろう。もとは「宇土口」(うとぐち)だったのだが、カタカナの「ロ」と誤読してしまったために定着した地名なのだ。
初めて目にした時は強烈なインパクトを受ける「主張する看板」の嵐。
廃屋の周囲を取り囲むようびっしり据え付けられた看板には、住民の訴えが書き込まれている。
印象的な「オモニのうた」。60年以上という時間はあまりにも長い。その間にこの集落で二世、三世と世代交代が進んでいるという事でもある。とりわけほったらかし感の強いウトロ地区を少し外れると、何の変哲もない住宅街と、お茶の里として名高い宇治の町だけあって、茶畑があちらこちらにあるという、のどかな風景だ。
「私達は屈しない」「強制退去絶対反対」一見するとこれらの言葉を向ける先が、誰なのか、地上げ屋なのか土地の所有者なのか行政なのかよくわからないのが特徴的だ。
大阪で良く見かける一般的なコリアタウンのように、賑やかな韓国料理店やキムチ屋などの店舗が立ち並んでいる訳でもなく、地区はすっかり寂れ切ってしまい、風前の灯であるかのような印象すら受ける。
全く多くの理不尽が募るウトロ問題なのではあるが、ホントややこしい話なのであとはわかりやすく問題の顛末をまとめた記事を参考にどうぞ。
地区の入口に並べられた看板の中には、多くの韓国人やプロ市民が書いたと思われる寄せ書きが、色褪せた状態で残されている。
看板の色褪せた写真は、ウトロ問題の歴史の長さを物語る。多くの住民は、揉め事に巻き込まれず静かに暮らしたかったはずだ。
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参考記事
朝鮮日報
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(上)
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(中)
京都ウトロ地区問題:住民たちは追い出されてしまうのか(下)
依存症の独り言: 朝鮮日報も認めた「ウトロ」のウソ
参考書籍