第6回 同化と異化の間で九州大学大学院助教授 仲田 清喜1945年4月、米軍は沖縄本島への上陸とともに「米国海軍軍政府布告第1号」(ニミッツ布告)を公布した。これによって米軍は沖縄の占領行政を開始した。その第1号と同時に公布された第2号では、日本帝国国旗(日の丸)を掲揚したり国歌(君が代)を歌ったものは「禁固罰金などの刑に処す」と規定した。その禁止事項に反発する形ではあるが、50年代に始まる日本への復帰運動では日の丸、君が代が日本人であることを示す象徴として使われた。その意味で「アメリカ世」時代はまた、沖縄が日本への同化を自らの意志で完結させた時代であったと言えるかもしれない。<小見出し> 日の丸への憧憬
復帰運動が民族主義的な運動として高揚していくなかで、それを逆なでするような事件も起きた。64年9月7日、東京オリンピックの聖火が那覇に到着した。道々には日の丸が掲げられて歓迎のムードが高まっていた。ところがその旗を米兵が破り捨てたのである。日の丸が掲げられていたのはコザ市(現在の沖縄市)であった。米兵は器物損壊の現行犯で逮捕されたが、翌日にも宜野座村で同じような事件がおきた。事態を重視した復帰協は米軍当局に抗議し、時の高等弁務官ワトソンは日本政府外務省に遺憾の意を表明した。日本政府はこの件に関して特に抗議はしなかった。 60年代後半になると、復帰運動の民族主義的な側面に批判的な学生らによって、逆に星条旗を焼き捨てる事件も頻発した。その頃には復帰運動の目標がすり替わったとして学生の間には復帰そのものに反対する運動も出始めていたのである。 <小見出し> 民衆意識の変化52年4月に発効した日米講和条約で、公の場での日の丸の掲揚は禁じられていたが、61年6月の池田・ケネディ会談により祝祭日に限って掲揚が認められた。ところが、「祖国への復帰」という思慕にも似た運動は、本土の支援団体との情報交換がひんぱんになるにつれて運動の目標がだんだんと変化していった。60年代の復帰運動は、これまでの心情的復帰論から賃金水準、税制、社会保障制度の本土との対比など、経済合理主義的・実利主義的観点から復帰のメリットを強調する傾向が強まってきた。日本は高度経済成長の時代に差し掛かっていたが、その歩みと歩調を合わすことが許されなかった沖縄は次第に不平を募らせ始めていた。それに加え、60年代のベトナム戦争の全面的拡大と沖縄の米軍基地利用の活発化にともなって復帰運動の一部は反戦反基地闘争の色彩をおびるようになった。 60年代後半になると、アメリカのベトナム政策の破綻やそれに伴う日米の相互的力関係の変化などを背景に日米両政府で沖縄の米軍基地の維持・強化を前提とする沖縄返還政策が検討されだした。沖縄の日本復帰運動が「民族的悲願としての祖国復帰運動」「国民的願望としての沖縄返還」から、日米両政府の軍事的、政治的、経済的な役割分担の再整理、いわば、日米同盟の再編強化の協議が開始されたのである。日本本土の60年安保闘争は沖縄の復帰運動とも連動し、65年8月に佐藤総理大臣が沖縄を訪問したころにはすっかり復帰運動の目標が変わっていた。その変化に即して祖国復帰運動のシンボルだった日の丸は、大衆運動の場から姿を消していったのである。 復帰の内実が明らかになるにつれて日の丸に対する民衆の感情も変化していった。つまり、それまで復帰すべき国としてあった日本が、じつはアメリカと結託して新しい安全保障体制の要として沖縄を利用しているという構図が浮かび上がってきたのである。年月の佐藤・ニクソン会談で沖縄の返還が発表され、翌月には日の丸に関する規制は完全に取り払われた。しかし、そのときには、掲揚運動を推進してきた復帰運動の推進母体は完全に逆の立場に立っていた。 <小見出し> 船舶旗の場合は日の丸は当初、日本への復帰運動のシンボルとなったが、それはあくまでも掲揚を禁じたことに対する抵抗の意思表示であった。では、国際的な場で沖縄の帰属を示す旗印は何か、というと明確な規定はなかった。
そういう状況のなかで事件は起きた。 62年4月3日午前11時ごろ、インドネシア近海の公海で国旗を掲げていない沖縄の漁船が不審船とみられて銃撃にあった。当時、インドネシア近海は西イリアン(オランダ領ニューギニア)の領有をめぐって緊張が続いていた。そこへ国旗を掲げていないマグロ漁船・第一球陽丸(143.75トン)が通りかかった。上空から警戒していたインドネシア海軍機は国籍不明船として約2時間にわたって機銃弾や機関砲、ガス弾を撃ち込んだのである。容赦のない攻撃で乗組員のうち1人が死亡、3人が重傷を負った。第一球陽丸は、SOSを発信し続け乗組員のシャツを引き裂いて白旗代わりに掲げたが効果はなかった。この攻撃についてインドネシア側は「船に国籍表示がなかったので銃撃した」と発表した。船尾に、日の丸、あるいは星条旗を掲げていれば避けられた事件だった。しかし、どちらの国旗を掲げることも禁じられていた。 公海を航行する船舶は常時国旗を掲げる規則になっている。アメリカが統治する沖縄はどうすればいいか。日米双方ともこの問題に対して答えを出していなかった。そこで、50年1月、アメリカは国際信号旗であるD旗の端を三角に切り落とした変形D旗を琉球船舶旗とすることを決め、55年9月の布令で国旗に代わるものとして掲げることを義務づけた。国際信号旗はAからZまであって、D旗は「われを避けよ、われ操縦意のごとくならず」との意味だ。しかし、実際はこの琉球船舶旗を掲げても国籍不明船扱いされる事件が多発した。 インドネシア近海で銃撃をされた第一球陽丸は事件当時、琉球船舶旗を掲げてなかった。命からがら帰った船長は「たとえ掲げたにしても、琉球船舶旗はどこの国か分からないだろう。これはなんと言っても国籍を示す旗の問題だ。国際的に認められた船舶旗を掲げられるようにしてほしい」と訴えた。同業者らも「琉球船舶旗は沖縄の中だけでしか通用しない」と断言し、海上では琉球船舶旗が役に立っていないことを明らかにした。 第一球陽丸事件は、日本の国会でも取り上げられた。62年4月12日の参議院外務委員会で小坂外相は船舶旗の問題解決に乗り出す考えを示した。琉球政府立法院も「琉球船舶への日章旗掲揚についての要請決議」を全会一致で可決した。 しかし、問題はなかなか進展せず解決したのは5年後だった。67年3月1日に開かれた日本政府の対沖縄援助に関する日米協議委員会で、白地に赤で「琉球RYUKYUS」と書かれた三角旗を掲げ、その下に日の丸を併掲することで合意し、同年7月1日から実施された。これは、一足早い日の丸掲揚の解禁であった。当日、午前9時20分、那覇市泊の港では大型船の汽笛を合図に、係留中の船に一斉に新しい琉球船舶旗が翻った。 <小見出し> 言葉の矯正戦後の日本人への再教育の中で大きな役割を担ったのは、多分、学校における標準語励行であった。戦前からの言語教育を再開したものである。戦前、皇民化教育の徹底と歩調を合わせた日本への同化策の中で、標準語普及は緊急の課題と認識されていた。県当局は、学校だけでなく、日常生活でも標準語を使うよう政策を強化した。40年、民芸運動の指導者・柳宗悦はその行き過ぎを批判し、県当局との間で論争となった。この論争は、方言を含めた土俗的なものに対する当時の沖縄の知識人たちの拒絶と、古いゆえに意味があるとする民芸運動指導者たちとの目線のずれが最後まで一致することがなく終わった。「他府県では見られない標準語励行運動や方言撲滅運動がどうして沖縄だけにあるのか」と追及する民芸運動の指導者たちに対して「沖縄を他府県と同一に見ては困る」というのが県側の説明だった。当時の沖縄県は知事をはじめ職員のほとんどは他県出身者だった。柳は明治政府の沖縄に対する植民地的同化政策を批判したのである。
敗戦直後、米軍は沖縄の教育を英語で行う方針をたてた。実際に46年から初等学校一年から英語を必修とした教育課程を実行している。そのための教員養成学校である沖縄外語学校も設立して本格的に取り組んだが、教員の絶対数の不足や教育界の反対にあって、2年で廃止となった経緯がある。 沖縄の方言は日本語のなかで本土方言全体に対立する大方言である。江戸時代の慶賀使には通訳がついたほどその違いは大きかった。それが79年、本土より12年遅れて敢行された廃藩置県のあと状況が大きく変わった。新生沖縄県は日本語の標準語を受容し、その習得に努め、敗戦直前の時点で少なくとも学校教育では習得はほぼ完成していた。それでも家では方言、学校では標準語という使い分けがあった。戦後の「アメリカ世」時代は一律に標準語励行が再開された。それは廃藩置県以降から続いた沖縄の日本への同化策の総仕上げという意味をもっていたと言えなくもない。
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