2班に分かれて活動しました。
Aチームは、広域避難所・H小学校を再・再訪しました。ボラセンが受理した依頼内容について、避難所の運営サイドと協議しました。避難所の運営サイドは、応援の鳥取県職員が対応して下さいました。
夕方5時~夜9時まで、避難所には被災者の絶望・ストレスの訴えが蔓延するので、夜に詰めてくれるとありがたい、との依頼でした。
Bチームは、ボラセンのローラー調査チームが気に掛けていた水明地区の子どもや老人を訪問しました。ローラー調査チームからは「呼びかけに応えられない子どもが複数いた」との情報が寄せられていました。
ケア・スタッフらが子どもたちと遊び、ジャンプして両手で「ハイタッチ」をするくらいまで打ち解けました。老人の医療についての悩みを聴取してメディカル・チームに連絡したところ、明日(20日)メディカル・チームが出動する、という約束を頂きました。
最後にAB両チームが合流して、渡波地区のFさんを訪問しました。
ある広域避難所を案内して頂きました。洗濯をしたくてもできない、女性用の下着が圧倒的に足りなどのニーズが、避難所で生活する方々を私たちがローラー調査しますと、無数に出てきます。
ところがその避難所では、避難所の運営サイドの方々を取材しても「間に合っています」で一蹴されてしまいます。それぞれの避難所は、運営サイドの方々の意識の持ち方次第で、雰囲気がまったく違うことが分かりました。
女川のH寺のように、大家族のような雰囲気で運営されているところもある一方で、市街地の避難所のなかには非常に沈鬱な空気が立ち込めている所もあるのです。
Fさんの説明によると、東北の人たちは我慢を美徳とし、質実剛健に生きてきました。外部からボランティアが入っても、よほど親しくならないと本音を打ち明けてはくれません。
渡波地区はとくに被災が激しく、地域の民家で孤立した人たちの数も圧倒的に多かったのですが、自宅で孤立した人たちは、避難所に救援を求めても「避難所の人の分しかない」と断られてしまい、行政に行けば「避難所に行け」と言われてしまって、孤立しました。
メディカル・チームのY医師の説明では、「ボランティアの展開にも難があった」とのことでした。Y医師によれば、渡波地区にはある医療系の団体がボラセンからは入ったが1カ月余りで撤退してしまったそうです。
その団体は「渡波地区はうちらがやります」と宣言したわりには、ボラセンの各団体との情報共有をほとんどしなかったそうです。渡波地区では、そのために炊き出しも遅れ、援助が行き届かず孤立してしまいました。
私たちがローラー調査をしたところでも、石巻市内の他の地域に比べて、圧倒的に住民が殺気立ち、あるいは絶望的になっているのが感じられました。
私たちはこの日、石巻の渡波地区を、長期的な支援対象地域として支援していくことを決定しました。
広大な範囲の被災地で、さまざまな形の避難所があり、被災者の暮らしやニーズにも無数の形があります。震災から1カ月がたった今でも、各避難所、各地域での細かい情報は、行政では把握しきれていません。我々は、様々な形での援助を提供しながら再訪を重ね、被災者たちの真のニーズを探り出していく必要があることを認識しました。
また、現状では民主的な運営がなされていないとは言え、この非常時なのですから、それを批判することが私たちの目的ではなく、避難所の運営サイドの迷惑には決してならない形で、被災した方々に直接に届く形での援助を展開していかねばなりません。
避難所や各地域を一つのコミュニティとしてとらえ、コミュニティ全体をエンパワーしていくような活動こそが我々の活動の目指すところであることを全員で確認しました。