きょうのコラム「時鐘」 2011年8月12日

 日々の紙面に「亡くなった方々」という欄がある。前日に身元が判明した震災犠牲者の名を各県警が発表し続けている

知り合いは一人もいないが毎日、目をやる。5カ月を経て身元が判明した一人一人に、重いドラマがあるはずである。執念の捜索がやっと実を結んだのか。あるいは、遺族の人たちがようやく気持ちに区切りを付けたのか

お盆が近づき、掲載される名前は数を増しているようである。時折、自分と同じ姓や同じ年齢を目にし、胸が騒ぐ。犠牲者1万5690人、不明者4735人(11日現在)。わが身に似た境遇の人がいても不思議ではあるまい

呉羽山・長慶寺の五百羅漢(ごひゃくらかん)のことを思う。呉羽の石仏に限らないが、五百羅漢には同じ顔は一つもない。加えて、自分そっくりの顔があるという。とうに見飽きた自分の顔はともかく、探し出すと肉親や知人に似た羅漢が見つかる。小憎(こにく)らしい悪友も、石仏になるといい表情をして立山連峰を眺めている

一面識もない似た境遇の「亡くなった方々」とも、何かの「えにし」で結ばれているのかもしれない。お盆には深い祈りをささげたいと思う。