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蘇る金狼の日記

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2009年09月11日 XML このブログを購読する

 日本海と名づけたのはロシア海軍提督
[ カテゴリ未分類 ]    

 「日本海呼称問題」というのがある。これは、韓国と北朝鮮が、日本海という呼び名はけしからんと騒いでいる問題だ。誰も相手にしていない実にくだらない問題だ。

 ただ、日本憎しの一字で主張しているに過ぎない。韓国、北朝鮮の前身である李氏朝鮮も、日本海と表記していたことも判明している。

 呼称とは記号なのである。そして、海の呼称は、船乗りのための、安全航海のための記号でしかない。記号だから世界共通でないと困るのである。ただ、それだけのことだ。

 さて、左上の人物だが、この人は、「日本海」の命名者なのである。知らなかった。日本人が付けたものと思い込んでいた。韓国人や北朝鮮人もそう思っていることだろう。ロシア人が名付け親と知ったらどう思うだろうか。笑えるな。

 この人物は、ドイツ系ロシア人のロシア海軍提督クルーゼンシュテルンで、日本には交易確立のために来たという。詳しくは下の分を読んでいただきたい。

 もし、この人が、「日本海」でなく、「北シナ海」とか「南シベリア海」と名付けていたら、どうだったろうか。

 日本人は何のためらいもなく、そのように呼んでいたろう。なぜなら、呼称に過ぎないからだ。

 九州の西側は、東シナ海である。私らはそのことに何の反感も違和感もない。シナの東というのが気に食わないから、「西九州海」に改めろ、なんて誰も言わないし、思ったこともない。

 もし、そういうことになって、「西九州海」に改められたら、漁師や海洋関係者から文句が出るだろう。長年親しんできた呼称が変わるといろいろと面倒なのである。

 外国船にとってはなおさらだ。呼称がころころ変えられたんじゃ、安全航海に触るのである。

 呼称は、標識なのである。安全航海のための標識なのである。だから、世界中の人間が共通の認識を持つものでないと困るのである。

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アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンイヴァン・フェードロヴィチ・クル(ー)ゼンシテルンAdam Johann von Krusenstern, 1770年11月19日-1846年8月24日)はエストニア出身のロシア海軍提督であり探検家。ロシアで最初に世界周航(1803年-1806年)を行った。彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を "MER DU JAPON" と記したとされ、「日本海」を最初に命名した人物として日本の百科事典類には記されている。

クルーゼンシュテルンはエストニアのハグディ(Hagudi、現在のラプラ周辺)で生まれた。彼の家族はバルト・ドイツ人だったが、スウェーデンの貴族でエストニアがロシアに割譲された後も当地に留まった von Krusenstjerna家の子孫でもあった。1787年、彼は海軍士官学校を出てロシア帝国海軍に入り、1793年から1799年までの間はイギリス海軍に派遣され学びながら軍務についた。1803年、彼は皇帝アレクサンドル1世と露米会社支配人ニコライ・レザノフ男爵の支援下でロシア最初の世界一周艦隊の指揮官となった。クルーゼンシュテルンの乗る旗艦ナジェージタ号(Nadezhda)と、ユーリ・フョードロヴィチ・リシアンスキー中尉の乗るネヴァ号(Neva)の二隻からなる艦隊の目的は、清および日本との交易の確立、南米との交易拡大、カリフォルニアをロシアの植民地にするための事前調査であった。

二隻の艦隊は遣日使節ニコライ・レザノフと仙台藩出身の津太夫ら4人の日本人漂流民、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家らを乗せ、ロシア海軍のバルト海の軍港クロンシュタットを出港した。途中デンマーク、イギリス、カナリア諸島、ブラジルに寄港し大西洋を横断しホーン岬を回って北太平洋に向かった。二隻は航海の間、詳細な地図と記録、動植物の標本を作ったが、艦隊の隊長になっていたレザノフと海軍軍人のクルーゼンシュテルンとは事あるごとに対立した。太平洋を横断した艦隊は1804年秋、カムチャツカ半島から日本に向かったが、長崎での幕府との交渉は不調に終わり半年後に長崎を離れカムチャツカに戻った。

1806年に母港に戻ったクルーゼンシュテルンは詳細な航海記 "Reise um die Welt in den Jahren 1803, 1804, 1805 und 1806 auf Befehl Seiner Kaiserliche Majestät Alexanders des Ersten auf den Schiffen Nadeschda und Newa" (『アレクサンドル1世陛下の命令下、1803年、1804年、1805年、1806年にナジェージタ号とネヴァ号により行った世界周航の記録』)を書き、1810年にサンクトペテルブルクで出版した。1811年-1812年にはベルリンで出版し、1813年には英訳版がロンドンで出版された。またフランス語、デンマーク語、オランダ語、スウェーデン語、イタリア語でも出版された。太平洋の地図などを含む図録は1827年にサンクトペテルブルクで出版され、ロシア科学アカデミー会員に迎え入れられる栄誉を得た。彼は1816年にエストニアのキルツィにある荘園を得たが、この荘園で1846年に没した。




最終更新日  2009年09月11日 14時14分11秒
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