バイロスと日本におけるその系譜~蔵書票展~特別トークイベント

  バイロスと日本におけるその系譜~蔵書票展~展覧会の特別イベントとして、日本書票協会会長の内田市五郎さんと出品作家の蒲地清爾さん・多賀新さん・林由紀子さんをお迎えしてのトークイベントが催されました。

蔵書票についてのお話や、作家の皆さんが制作をはじめたきっかけ・また、お客さまからの熱いご質問など、盛りだくさんのトークイベントとなりました。

イベントの中から、各作家さんが語った制作に関するお話をお届けします。 

 

左から蒲池清爾さん・内田市五郎さん・多賀新さん

uchida kamachi taga.jpg(蒲地清爾)

私は美術大学や芸大とは無縁な人間で、絵を描くのが好きだったのです。大好きだったけれども、アウトサイダーな人間で高校を出たのが20歳でした。これからどのようにして生きて行こうかと考えて何とか絵の学校に入りました。しかしその頃ちょうど全共闘の時代で、勉強どころではなく、自分は勉強をするために学校に行ったのに何をしているんだろうと思いました。そして学校をやめて、英語もできないのに、アメリカに渡ってサンフランシスコやNYの道で絵を売っていました。描いたものを直接お客様に売り、中間搾取が無いので結構安い値段をつけていたのですが、これが結構なお金になりまし。しかし色々と問題があって、いつまでもアメリカにいられずに日本に帰って来たのですが会社に勤めたくなかったのです。会社を終えてから絵を描くのは疲れちゃう(笑)。

生きて行くにはどうしたらいいだろうと考えて、銀座の真ん中で絵を売っていました。それがちょっとやそっとじゃなくて1516年やっていました。有楽町の所にまだ日劇もありましたね。私は日劇の前に絵を並べて売っていたんです。当時は「イージーライダー」という映画が流行って、髪の毛がすごく長かったのです。耳が隠れたぐらいの髪の毛で大騒ぎしているようなご時世に、腰まである髪の毛で絵を売っていた訳ですから皆がぶったまげて、警官に殴られた事もありました。「お前は男か女か?」って(笑)

(中略)

その頃はペンで絵を描く事しか知らなかったんですが、昔、美術家連盟のすぐそばに工房がありまして、ある時有名な絵描きの方に、勧められて銅版画をやってみました。どうしてかというとスケベ根性で、一枚一枚描いて売っていたのが、刷って売れたら大儲けじゃないかと。(笑)しかしとんでもない事でした。スタンプを押すようにポンポン刷れるかというとそんなもんじゃなく、一枚刷るのも大変です。それが当時は1枚刷り師に刷ってもらうのに5000円くらいかかりましたが、ただそれがペン画じゃとても出せないような実に細やかな髪の毛のタッチや、盛り上がった線が出せるのが不思議でしょうがなくて、どんどん版画の世界に魅かれお金なんかどうだってよくなってしまいました。それが銅版画を始めたきっかけです。

(後略)

 

 (多賀新)

私も蒲地さんの同世代なので、蒲地さんと似たような生い立ちです。東京に来てから食べていけなくて皆の憧れのストリップ小屋に勤めていました。当時西荻窪に画材屋があり、版画をやる為にはどうしたらいいのですか?と聞いたら、エッチングのプレスを買えと言われました。当時89万で私にとってはものすごく大金でした。なんとか伝手で購入し、ストリップ小屋の楽屋に小さいプレス機を置いたんですが、使い方がわからない(笑)

また画材屋に行ってこれをどうやったら使えるのかと聞きました。この本を読めばわかると言われたのが、深澤幸雄さんの「銅版画のテクニック」でした。ストリップ小屋に勤めた期間はプレス機を回さないで本ばかり読んでいました。今だったら蒲地さんの工房に行けば3日くらいで教えてもらう事を3年かけて覚えました。なぜかというと本にはグランドって書いてあるのですが、私は野球のグランドしか知らない(笑)グランドってどこに売っているんだろう?しかし本には作れと書いてある。蜜蝋ってどこに売っているんだろうとかそういう世界だったんです。それで3年くらいかかりました。utida taga.jpg

(中略)

食べていけるようになって、少しお金が入ったので、ドイツに行きました。ハンブルグにはベルメールがいる!という心境でした。銅版画を始めてから一番の憧れだった作家です。1975324日にドイツに着いたのですが、なんでこの日を覚えているかというとベルメールが死んだ日なのです。その事をドイツの新聞で次の日に知りました。その時にラッキーだったのはハンブルグ美術館でベルメールの特別展示があった事でした。 

蔵書票に関しては、1971年に依頼を受けて初めて作りました。蔵書票は票主の名前を入れるのですが、蔵書票というものを理解していなかったので、自分の作品になんで人の名前を入れなくてはいけないんだ!(笑)と名前を透かし刷りにしたのです。手で触ればわかってしまうのですが、それが蔵書票第1号でした。

そこからは自分の作品を作るのに夢中になってしまって、離れていたのですが、また頼まれて作るうちに蔵書票の世界にのめり込んでいきました。

                                  

 

  

左から林由紀子さん・蒲地清爾さん

左から林由紀子さん・蒲地清爾さん

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  (林由紀子)

私は絵を描く事と、本を読む事が好きだったので、それに関わる仕事がしたくて、最初はイラストレーターになろうとしたのですがなれませんでした。中学生の頃イラストブームだったのですが、私の好きな絵とは違う感じで、私は子供の頃持っていた文学全集の19世紀の銅版画の複製のような挿絵に憧れていました。そのような仕事がしたかったのですが、させてもらえないまま、結局芽が出なくて田舎に引っ込み、それを機にイラストの仕事からは足を洗いました。この先どうしようかなと思っていた所、たまたまその地で知り合ったのが坂東壮一先生でした。その銅版画作品を一目見たときから大好きで、私はこれがやりたかったのだと感じました。こういう絵を描く方が今もいるっていうのをその時まで知らなかったのですね。坂東先生は弟子は取らないので、私も公認の弟子ではないのですが、先生と呼ばせて頂いています。 

坂東先生はちゃんと版画をやってから、蔵書票をやりたければやりなさいとおっしゃいます。しかし私は蔵書票を見た時からうらやましくてたまらなくて、これがやりたい!という気持ちでした。

最初はだれも私の事なんて知らないですから注文してくれる訳ないので、とりあえず名前を入れないで作ってしまったのですが、インターネットが功を奏して、私の絵を見た方から注文がきて、5~6年蔵書票を作り続けています。

坂東先生は蔵書票だけの作家になってはいけませんよとおっしゃるのですが、幸い蔵書票の仕事が忙しくて他の作品を作る暇が無いという事と、元々職人的な仕事がしたかったので、この仕事は私にはかなり向いていると思います。展覧会開催などは性格的に苦手なもので…蔵書票というのはとても個人的な仕事なので、個人的な付き合いを経て成り立っている蔵書票を作っていける事が非常に嬉しいです。

 

   

 

2011129日トークイベントにて