高田松原の松は、がれきの山の向こうにありました。
高田松原の松は、「江戸時代に豪商・菅野杢之助と言う人が、クロマツを植栽し、仙台藩と高田住民の協力を得て6,200本のクロマツを植林したそうです。その後、享保年間(1716-1736年)には松坂新右衛門による増林があって以来、クロマツとアカマツからなる合計70,000本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林であり、景勝の一つであった。」とあります。しかし、その景色を知らない私にとっては、こうした過去の写真からしか名勝「高田松原」を見ることができません。
現在、私たちの前に広がっている松原は、見渡す限りの「がれき」の山が、松林に変わって海をふさいでいます。砂浜もその多くが津波で、すくい取られて沼地のような景色をしていました。
砂浜と言うより、沼地になっていました
これが、砂浜を津波によって打ちあげられたり、沖合に持って行かれた現在の姿です。
と言っても、関係者以外にこの松原まで行く事はできません。したがって、陸前高田の高田松原を見たい人は、対岸の気仙地区まで大回りして、見ることになります。
気仙川の向こうに見える高田松原は、少しだけ残った砂浜と、1本だけ残ったマツが、殺伐とした光景を見せています。
海から6kmの所まで、高田松原の松は打ちあげられていました。
私は、このプロジェクトをするために、市内北西部の矢作町の鈴木旅館に宿泊して、毎朝、原木を積み上げている所まで通っていましたが、鈴木旅館近くの道路脇にも、太さが50cmほどのマツが横たわっていました。この場所がグーグルの地図で見ると、6kmの距離ですから、気仙川の本流だったら相当上まで上がっていったことが予測できます。
また、現地の災害ボランティア事務所(河口より8km)に寄った時にも、その前の川までゴミや遺体が上がってきたと言いますから、海岸より10kmぐらい津波は上がってきていたことになります。