夢や目標といった、人にはそれぞれの大きな山が立ちはだかる。
その山に向かえば失敗や挫折が待っているかもしれない。しかし挫折や失敗があったとしても、挑戦している限り自分に負けることはない。だがこの混沌とした世の中で、夢も希望も持てなくなってしまった人が沢山いる。その人達と共に、見えない大きな山に挑戦し成長していきたい。
それが「冒険の共有」である。

高校卒業後、夢を求めて北海道から東京に上京するが、すぐに挫折。その後何もしないニートの生活を送っていた。若さがあっても、生きる活力がなく暇をもてあますような日々が続いていた。1年後に北海道に戻り、いきなり失恋。その後、自信を失い引きこもりに…。

そんな時、偶然のきっかけで大学の山岳部に入部し、山を登り始める。始めは山が嫌いだったが、厳しい冬山の縦走や登攀での経験を通して、「できる、できないは自分が作っている幻想だ」と気付かされ、試練の先にある美しい世界を見つけた。そこから山の魅力に取り付かれ、2004年の大学3年生の時に海外初遠征で単独で北米最高峰のマッキンリー(6194m)に向かう。ようやく掴んだ夢だった。
しかし、その計画は山の先輩方からの大反対に合う。「経験の少ないお前には、できない」「不可能だ」と厳しい言葉を受けたが、このまま言われた通りに計画を止めたら、また次に夢を持っても人から否定されればすぐにやめてしまう自分になってしまうのではないかと思い、その「できない」の壁を越えたいという思いから山岳部を辞めて日本を飛び出す。

マッキンリーを単独登頂後、地球を感じながら登山をしてみたいと思い、6大陸の最高峰を単独で登り、ヒマラヤへの夢を抱き始める。
しかしどの山も、頂から先の世界が見えなかった。山を登っても、また山があるだけの世界。帰国後、友人に山を通して学んだことを伝えようとするが、その価値感や学びは誰にも理解してもらえなかった。そして、就職もせずに山に向かうだけの日々だった。

転機が訪れたのは、2007年に初めてのヒマラヤ遠征であるチョ・オユー(8201m)の単独・無酸素登山に挑んだ時だった。そこで初めてインターネットでの動画配信に出会う。日々の冒険を伝えるだけではなく、日本から送られてくる沢山のメッセージ。そこには昔の自分と同じように、夢が持てず元気のない人からの沢山の声があった。
彼らからの「ありがとう」という言葉を目にした時、見えないが多くの人々も自分と同じように葛藤したり、挫折したり見えない山を登っている、この人達と一緒に山を登ろうと思い、それが自分の冒険の使命と悟った。そして、初めて頂の先にある世界が見えた。山を通して、自分の使命と出会えた瞬間だった。単独・無酸素での8000m峰への挑戦は、他の登山家もできる。でも、自分にしかできない冒険をしたい。そしてプロ野球選手やサッカー選手が人々に夢や勇気を与えるように、「冒険の共有」からヒマラヤの青い空のような無限の可能性を伝え、どれだけの人に一歩を越える勇気を与えられるか。それが僕の冒険であり、すでに道なき道を行く果てしない冒険は始まっている。
2007年
チョ・オユー(8201m)単独・無酸素登頂。7500m地点からのスキー滑降を行う。
2008年
マナスル(8163m)単独・無酸素登頂と、山頂直下からのスキー滑降に成功。動画配信による「冒険の共有」をスタートさせる。
2009年
ダウラギリ(8163m)単独・無酸素登頂。6500m地点からの生中継を成功させる。6000m地点にてスキー滑降。
2009年秋
エベレスト(8848m)中国側からの単独・無酸素登頂を目指すが、途中で生中継が不可能に。そして、7950m地点で下山。
2010年春
アンナプルナ(8091m)に挑む。新しい中継機材CCR(Cold China Red - 赤い冷やし中華)を開発。しかし機材トラブルで、またも中継に失敗。アタック途中で凍傷になり、頂上まで残り400mの地点で下山。
2010年秋
エベレスト(8848m)ネパール側に向かう途中、飛行機事故で大切な仲間を失う。7000m地点からの中継に成功するが、異常気象のため計画通りに高所順応ができず、厳冬期を前に時間切れとなり7750m地点で下山。
現在、全国で講演活動を行いながら、高所登山とスキー、そしてエベレストのインターネットライブ中継による「冒険の共有」を目指し、突き進んでいる。
2010年12月、サイバード社が主催するファウストAGアワードにて、冒険家大賞に選出される。