家駒の事故について

1993年6月23日
BEYONDのメンバー、フジテレビ入り。
「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」の撮影が始まる。

1993年6月24日
午前1時過ぎ、事故発生。約2.7mの高さから、ウッチャンこと 内村光良と黄家駒が転落。

事故直前
左の写真が事故直前の映像である。右手を挙げているのが家駒。
証言によれば、家駒と内村は意気投合して、家駒も「よいものが作りたい」 と張り切っていたらしい。またBEYONDのメンバーも、他の出演者が タジタジになるくらいにのっていたらしい。

しかしそんな中で事故は発生。一部報道によれば「台の上が濡れていたため 足をすべらせて」とのことだ。

右の図は、舞台セットを横から見た図だ。(1)の台の上に出演者が 立っている。(2)が背景が描いてあるベニヤ板だ。そして上の写真は (3)の方向からみたものである。

ベニヤ板は軽く打ちつけてある程度だったらしい。ところが出演者が 背景に寄りかかるような形になり、その体重をさせきれなくなった ベニヤがはがれ、そこから家駒と内村が転落したようだ。

スタジオの床はカメラがすべりやすいように堅くなっている。 家駒はそこに頭を打ちつけ、意識不明の重体に。東京女子医大病院に 運ばれる。

解説
国外では、東京女子医大病院がフジテレビから近い位置にあり、また「女子医大」 という名前から、「家駒を間に合わせの病院に運んだのではないか?」と思っている人が いるという。が、ご存知のようにそれは間違いである。確かに旧フジテレビからかなり 近かったが、やはりこの年になくなった元アナウンサーの逸見政孝さんも ここを「最新設備がととのった病院」と記している。実際、日本ではまだ数が少ない 「臓器移植指定病院」に指定されているということが、その事実を裏付けている。

この日の日本側の報道は、一部の夕刊紙が「ウッチャン転落」と伝えたのみ だった。


1993年6月25日
香港から家駒の家族来日。また、香港からは商業電台(CR2)のDJ、 郭啓華氏が来日。彼は、日本に友人のいる友達から事故のことを聞いて 来日したとのこと。彼以降の報道陣は、台風やビザの関係で来日が遅れる。 こういった事情や、また日本側が多くを語らなかったため、香港では 「情報閉鎖があった」とみる見方がかなり多かった。

日本ではスポーツ新聞を始め、多くの新聞でこの事故を取り上げる。 しかし普通紙はわずか数行程度の記事、またスポーツ紙も「内村」 メインの記事となり、家駒はおまけ程度にしか扱われなかった。
一方香港では全ての新聞がこの事故を扱い、中にはトップ記事となるものも あった。

また皮肉なことに、この25日にはBEYONDの日本での3rdシングル、 「くちびるを奪いたい/遙かなる夢に」が発売された。特にこの「遙かなる 夢に」は、BEYOND結成10周年を記念して家駒が書き上げた曲で、 BEYONDにとっても記念すべき曲となるはずだった。


1993年6月26日、27日
26日、ウッチャンナンチャンの南原、挙式。「やるならやらねば」放送。
家駒、夜一時危篤状態となり、大阪から気功師が治療に参加。 香港ではCR2の呼びかけでファンが深夜に集会を行う。またこの夜、 香港のロックバンド「太極」のメンバー、ジョーイが「愛的力量(愛の力)」 という曲を作って、香港の歌手が家駒のため皆一緒に歌った。
この日は主にスポーツ紙などが「ナンチャン、つらい挙式」などと報道。 また香港では、「依然重体」といった報道が続く。日本からの報道が少なく、 なかなか記事にならない状態だったという。

27日、日本の新聞はやはり主にスポーツ紙が南原の挙式関連の記事を。 香港では、昨晩の気功治療のこと、ファン集会のこと等を書く。また多くの新聞が、 家駒の日本名 "コマ" が、「昏睡」を意味する "coma" を連想させて不吉だ、とも報道。


1993年6月28日、29日
28日、記者会見が行われる。漢方薬の安宮牛黄丸を広く一般に求める。 (この会見により、香港のファンが決して安くないこの薬を集めて送ってくれた そうだ。しかし日本の薬事法により輸入禁止、日本には届かなかった。ようやく 日本でもこの薬は手に入ったそうだが、『責任が持てない』という理由?で 病院はこの薬の使用を拒否したという)。 また、フジテレビにホットラインが設置される。
この記者会見の席で、家強が「できることなら僕がかわりになればよかった」と 発言、感極まって泣き崩れる。サングラスをかけて会見に望んだ家強だが、 おそらく目は真っ赤だったのではないか。

29日、香港の報道は、相変わらず「小康状態続く」などといった記事であった。 また、日本、香港とも前日の記者会見の模様を伝える。日本の報道も、この会見を 機に家駒の容態に関心がうつる。特にスポニチなどで「兄貴!祈るしかない」と いった記事が出るなど、家強の発言はインパクトが強かったようだ。


1993年6月30日
1993年6月30日、東京の天気予報は曇り時々雨だった。相変わらず報道は 具体的な様子を伝えられずにいる。日本では「あとは祈るだけ」だとか 「番組打ち切りは考えぬ」といった記事が、香港でも「状況は一進一退」 「プロダクションは情報封鎖を否定」などといった記事が出た。

そして午後4時15分、香港出身の、天才ロックシンガー・黄家駒は、 意識を取り戻すこともなく、急性硬膜下血腫、頭蓋骨骨折、脳挫傷、急性 脳血腫により、東京という異郷の地でわずか31年の短い生涯を閉じた。

その晩、フジテレビでフジテレビ編成局長村上光一氏による記者会見が行われた。 以下、その一部を掲載する。

「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」番組収録中に、舞台セットより 不慮にして転落され、東京女子医大病院に緊急入院されていた香港のロックグループ 「BEYOND」の黄家駒さんは、本日6月30日16時15分、急性硬膜下血腫、 頭蓋骨骨折、脳挫傷、急性脳血腫、によりお亡くなりになられました。

黄家駒さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。また、ご家族の皆様に謹んで お悔やみを申し上げると同時に、今まで応援して下さった国内、およびアジア 各国の多くのファンの方々の胸中をお察しいたしますと、まことに残念であり、 心より遺憾の意を表したいと思っております。今後は、二度とこのような事態を 引き起こさぬよう、万全の努力をしていきたいと思っております。

※作者注:「今後は二度とこのような事態を・・・」
しかしまた起こってしまった。1998年秋、生放送の朝の番組で フジテレビアナウンサーがビルより転落、腰の骨を折ってしまった。幸い命に 別状はなかったが、その後の記者会見で「二度と同じ様な事故は起こさない」 という家駒の時と同じ様なセリフを聴いた人は多いだろう。家駒の事故を知って いる人にとっては、全くシチュエーションが違うことは承知しながらも、 「マットがおいてあっただけでも大きな進歩だったな」と皮肉の一つも いいたくなろう。さらに2001年10月23日、新社屋に移ってからも バラエティー番組の収録中にセットが転倒、下敷きになった作業中の美術会社社員が亡くなった。 25歳の方。皮肉なことにというか、この番組も「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」と 同じ時間帯の番組。2003年10月2日には、やはりバラエティー番組の収録中に歌手の葛城ユキ氏が 頸椎の一部を骨折するという事故が起こっている。社長の記者会見(奇しくも社長は村上光一氏!)では 「大変申し訳なく、弁解の余地がないと考えている」「バラエティの企画についてはいくつかの禁止事項を 設け、具体的にカセをはめる形で再発防止につとめる」との発言があった。私がフジテレビの動向に注目している からだろうか、フジテレビでの事故が異様に多いように見える。

ご家族がですね、BEYONDのほかのメンバー含めて、最期を見とられたと、 いう格好でございます。

予測できない、突発的な事故であったと、いう風に思っておりますけれども、 うちの中でやはり起こった事故であることにはもうかわりございませんので、 補償の問題含めてですね、誠心誠意、これから対応して行きたいと、いうふうに 考えております。

以下、記者側からの質問と村上氏の答え。
(質問)今日ウッチャンナンチャンも(病院に)行かれたようですけれど
(回答)はい、二人ともですね、大変大きなショックを受けた感じで入ってきまして、 非常に深く頭をたれて、メンバー、それから家族の方たちに深い弔意のこもった ご挨拶をされてました。BEYONDのメンバーもですね、非常に悲しみに くれられてましたけども、二人が真っ先に駆けつけてくれたということについては、 ありがとうということを、言ってました。

(質問、広東語で。香港への報道が遅れたことについての質問)
(回答)国を越えた形での事件というのが我々にとっても初めての経験でしたし、 それからもう一つは言葉の障害等も確かにありまして、非常に香港の皆さんにですね、 一つは不安と、それから情報不足でご迷惑をおかけしたことは、この席で改めて お詫びをしたいという風に思っております。

(質問)収録のスタジオのセットの脇にマットが用意されていなかったと、 いう風にお伺いしたんですが、この点についてはいかがですか?
(回答)えぇ、敷いてありませんでした。さっきまあ申し上げましたように、 基本的にそういう形になるという、まあ予測をしていなかったものですから 敷いていなかったと、いうことだと思います。

(質問)あとご本人同士のリハーサルというのは無理かもしれないんですが、 ほかの例えば、アシスタントディレクターによるリハーサルみたいなものは このシーンに関しては行われていたんでしょうか?
(回答)はい、カメラリハーサルはアシスタントディレクター達で行われ、 また、イス(?)の指示も出されてました。

(質問)番組はしばらくの間休止する、ということでよろしいんですか?
(回答)当面、放送自体が野球ですとかJリーグですとか、24時間テレビといった ようなことで、たまたま休みが入りましたので、その間にしかるべき結論を出したいと、 いう風に思っています。

そして、ウッチャンナンチャンからは次のようなコメントが寄せられた。
香港の人気ロックグループ「BEYOND」との共演を、私たちも楽しみに していました。不幸にして番組収録中に事故にあい、悲しい結果になりました。 私たちも回復を祈っていましたが、本当に残念でなりません。 黄家駒さんのご冥福を心よりお祈りします。
この日内村は、悲報を聞きショックを隠しきれない様子で病院に駆けつけた。 そして責任を感じ泣き崩れる内村を、BEYONDのメンバーが「事故だったんだ」 と慰める一幕もあったという。

夕方になり、雨が降り始めた。冷たい雨は、家駒の死を悼んでいるようだった。


1993年7月1日
「黄家駒 死去」の文字が、香港の全紙のトップを飾った。 数ページにわたって特集を組んだり、特別版を発行した新聞もあったという。 また、香港芸能界からもお悔やみの報道多数、安全対策に言及しているものも あった。テレビ・ラジオでは特別番組が組まれ、商業二台では追悼番組が 放送された。
そして日本でも、スポーツ紙やワイドショーを中心に家駒の死去が伝えられた。 しかし、みた限りではどれも認識不足であった。例えば、「遙かなる夢に」と 「くちびるを奪いたい」とを取り違えていたり、BEYONDの香港での地位も はっきりと理解していなかった。
また、BEYOND人気の高かった東南アジア各国でも、「黄家駒 死去」 のニュースは大々的に報道された。

香港返還まであと四年となったこの日、家駒の司法解剖が行われた。そして、 家駒の遺体は翌日香港へ移送されることになった。


1993年7月2日、3日
香港では、追悼報道が続き、芸能界からコメントが多数寄せられていた。

2日、18時成田発キャセイパシフィック航空505便にて、メンバー・家族は 家駒の遺体と共に香港へ、空港で多くのファンに迎えられる。また ウッチャンナンチャンも改めて記者会見を開き、弔意を示すと共に番組 (オールナイトニッポン)でも追悼。
そして、5日に葬儀が行われることが決定した。

3日、香港では新聞の全面記事で追悼告知及び葬儀の予定が掲載された。そして、 フジテレビの関係者も香港入りし、メンバーも出席して記者会見が行われた。
夜、遺体は葬儀会場の香港殯儀館に安置された。


1993年7月4日、5日
4日、日本での通夜にあたる「守夜」が行われた。また、高山劇場にて CR2による追悼集会が行われ、2600人のファンが参加した。

5日、本葬が行われた。ファンのために交通は混雑し、警察も交通整理に 乗り出してくるほどの騒ぎだったという。また、熱狂的なファンがトラム (路面電車)を止めてしまう一幕もあったとか。そして、家駒の遺体は 非常に見晴らしのよい将軍澳の墓地に埋葬された。

残念ながら、日本での報道はそれほどでもなかった。わずか数紙があつかった のみだった。しかし、香港での報道はものすごいものだった。香港の有名 英字新聞、South China Mornig Post までもが家駒の記事を載せた。ほか、 家駒のこの扱いは極めて例外的なものであったことからも、家駒の偉大さが うかがえる。


1993年7月6日〜
香港では相変わらず家駒関係の報道が続いていた。が、日本では日に日に 関連記事は少なくなっていった。当然であろう。ウッチャンナンチャンに 比べればBEYONDの、家駒の知名度は無に等しい。日本人の興味は ほとんどないに等しかった。ファンという、一部の例外を除いては。

9日、BEYONDの3人のメンバーは追悼集会出席のために来日した。 そして、11日に東京芝浦増上寺会館にて「黄家駒君を送る会」が 開催された。ファン約700人が参列し、メンバーの会見が行われた。

香港の新聞でも、この追悼集会のことが報じられた。

これ以降、日本でも香港でも関連の記事は減っていく。

オリコンチャートによれば、「遙かなる夢に」は最高で48位の 売り上げを記録している。家駒の事故報道の時に、BGMとして最も多く 使われていた曲だからであろう。また、この曲は「驚きももの木20世紀」 という番組の2代目エンディングテーマとしても使われていた。ちなみに 初代は、広東語版の「海闊天空」であった。つまり、極めて異例の事ながら、 香港の歌謡曲が日本の番組のエンディングテーマとして採用されたのだ。
余談ながら、99年の夏頃から、再び「遙かなる夢に」がこの番組の エンディングテーマとして使われていた。そしてこの番組は同年秋頃に 放送を終了した。そのときのエンディングテーマもこの曲であった。 この番組は、家駒の曲に始まって、家駒の曲で幕を閉じたのだ。

また、自分たちのライブにゲストとしてBEYONDを呼んだり、「リゾラバ〜international〜」 の作詞を行ったりとBEYONDと仲のよかった爆風スランプは、家駒追悼のために 「愛のチャンピオン」というトリビュート・ソングを作った。作詞は、「リゾラバ〜international〜」 の作詞も行ったサンプラザ中野氏である。参考までに歌詞の一部を(無断ながら)掲載する。

生まれる者 生きゆく人
夢を追いかけ ゴールを目指す 悲しみ乗り越えて
去りゆく者 老いゆく人
この胸にただ一つの情熱をかかげ
余談になるが、爆風スランプのファンキー末吉氏は、爆スラ以外にも 「夜総会BAND」というバンドをやっている。この「夜総会BAND」は AMANIの日本語版を歌っている。またこの曲は夜総会BANDのファースト アルバム「ファースト」に収録されている。


家駒が亡くなって、かなりの時が過ぎた。
確かに家駒は亡くなった。しかし、家駒の精神は不滅である。
日本では、「BEYOND」は忘れられかけてきている。
しかし、まだ日本には、確実にBEYONDファンが存在する。
また、今更ながら何らかの形でBEYONDに触れ、感動を受ける日本人もいる。
そんな状況を、家駒はどんな思いで見ているのだろうか──





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