宮城県の南三陸町へ再びボランティアへ行ってきました。今回もまた盛り沢山で濃い内容の日々となりました。
23日(土)朝、東京を出発、午後1時40分頃南三陸町のボランティアセンターに到着。これまで東北道を走っていると、牛を運搬するトラック、自衛隊車を多く見かけたのですが、今回はまったく見かけませんでした。
1ヶ月半ぶりの南三陸町はあまり変わっておらず、ガレキの間に雑草が繁茂しているのが印象的でした。この日は午後4時まで写真洗浄に従事。到着した時、地面が揺れるのを感じる程の地震がありました。
今回もテント泊だったのですが、大型テントを借してくださる方がいて、前回とは比べものにならないくらい快適に夜を過ごすことができました。情けは人の為ならず、他の人にお返しすればいいんだよ、と言われました。
夕食は、南三陸町から車で1時間ほど移動した隣りの登米(とめ)市で外食。大規模ショッピングセンターがあり、商品も豊富にあり、一見大災害などなかったかのようです。
24日(日)は、志津川中学校のグラウンドで開催されたフジテレビ系列の「27時間テレビ」のイベントの手伝い。前回6月に来た時、支援物資の仕分け作業を割り振られ、何とも不毛な仕事だと思ったものでした。しかし、それよりもっと不毛な仕事はあったのです。27時間テレビのイベント会場では、お菓子、焼きそば、アイス、飲み物が参加者に無料で配られました。参加者は各避難所住まいの方々に限られていたようです。
このイベントは被災者を慰めるための催しだとボランティアセンターの長期ボランティアの方に言われましたが、現場では特にすることはなく、日陰で待機している時間の方が長かったですし、フジテレビ社員ではないADの方々が大勢いて、ボランティアの出番はそれほどなかったのです。夕方頃からは何かしらし続けることができましたが、それでもADの方々の補助という立場は変わりませんでした。通常ボランティア活動の現場にはボランティアリーダーがいて、休憩、食事などの指示を出してくれるのですが、このイベント会場にはボランティアリーダーはいませんでした。イベント会場には午後9時半までいなければなりませんでした。
ところで、前回来た時に職業ボランティアという存在を知って考えさせられましたが、今回は起業ボランティアという存在を知りました。大震災によって被災者の方々の生活基盤が流されてしまった一方、被災地にこそ生きる場を見い出す人たちがいることも確かです。
25日(月)は、公立志津川病院の分別作業へ。病院での分別作業は1日作業なのですが、ボランティアセンターにお願いして、午前中だけ活動させてもらいました。
志津川病院は3月11日午後3時半に津波の第一波を受け、4階まで津波に襲われました。逃げ延びた人たちが屋上で夜を明かし、救援を求めていた姿がテレビに何度も映し出されていました。入り口には献花台があり、黙祷を捧げてから作業開始。本館の2階で砂の山からカルテ、医療器具、ガラスなどを分別収集。牡蠣が何十個と出てきました。
正午で作業を終え、ボランティアセンターに戻り、シャワー。テントから撤収。登米市へ移動して昼食の後、東北道で帰京しました。登米市で河北新報発行の震災写真集を購入。これはまさに、歴史資料です。後世に残すべき当時のありのままを記録した河北新報のカメラマンの皆さんに脱帽感謝です。