江成常夫写真展 昭和史のかたち TOPへ
40年近くにわたり、昭和の戦争とその負の遺産を写真で表現しつづけてきた
江成常夫の写真は、 東日本大震災後の今こそ、見たいです。戦争と災害の
違いはありますが、庶民の命が奪われたこと、 残されたものの悲しみの大きさなど、
今と重なるのではないでしょうか?  by 編集長
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摺鉢山と南海岸 硫黄島、小笠原諸島 2009年6月
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米軍が上陸したボスネックの海岸 ビアク島 インドネシア 2007年7月
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広島への原爆搭載記念碑 テニアン島、北マリアナ諸島 2004年12月
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「満州事変」の布告文 吉林省歴史博物館、長春 1989年
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「アリゾナ号」から浮かび上がる油の紋様 オアフ島、ハワイ 2005年5月

2011(平成23)年は、太平洋戦争開始から70年、またその発端ともいえる満州事変の勃発からは80年という節目の年にあたります。現代の日本に生きる私たちの歴史を改めて振り返り、見つめ直すよい機会と言えるのではないでしょうか。
東京都写真美術館では、日本を代表する写真家であり、40年近くにわたり、昭和の戦争とその負の遺産を写真で表現しつづけてきた江成常夫の集大成となる写真展「昭和史のかたち」を開催します。江成は毎日新聞東京本社の写真記者を経て、1974(昭和49)年よりフリーランスの写真家として活動を開始しました。その後は一貫して、15年に及んだ「アジア太平洋戦争」のもとで、死と涙を強いられてきた内外の、声を持たない人たちの声を写真で代弁することで、戦後日本人の現代史に対する精神性を問い続けています。
本展覧会は、代表作である「鬼哭の島」「偽満洲国」「シャオハイの満洲」に、未発表最新作を含む「ヒロシマ」「ナガサキ」を加えた112点で構成し、現代日本を生きる私たちの歴史を改めて顧みようとする試みです。

江成常夫(えなり・つねお 1936‐)
神奈川県相模原市に生まれる。1962年、東京経済大学経済学部を卒業、毎日新聞東京本社に入社。74年、毎日新聞社を退社後、フリーランスの写真家となる。77年、「ニューヨークの百家族」で第27回日本写真協会新人賞受賞。その後、戦争に翻弄されながら、戦後日本が急激に発展するなかでその存在を忘れられてきた多くの日本人を取材。「昭和の15年戦争」をテーマにした作品を次々と発表する。81年、第6回木村伊兵衛写真賞、85年、第4回土門拳賞、95年、第37回毎日芸術賞、2002年、紫綬褒章など受賞多数。九州産業大学名誉教授。

《本展の見どころ》
第1章「鬼哭(きこく)の島」
今年は太平洋戦の発端となった日本軍による真珠湾攻撃から、70年の節目に当たります。3年8ヶ月にわたった太平洋戦は、満州事変に始まる「アジア太平洋戦争」のうちでも凄惨を極め、広島、長崎への原爆投下という未曾有の惨禍をもたらしました。
しかし、戦後の日本は教訓としての「戦争の昭和」を軽視、記憶から遠ざけ、経済を"神話"とし、今に及んでいます。私はこれまでの38年余、戦争のもとで死と涙を強いられ声を持たない人たちと、レンズを通して向き合うことで、現代史に対する日本人の精神性を問い続けてきました。
この仕事の文脈のもと近年、私は広大な海域に及ぶ太平洋戦争の惨劇の島を巡ってきました。
「鬼哭」という古語があります。中国・唐の時代、文人李華が古戦場に立って書いた文の中で記した言葉で、「浮かばれない死者の亡魂が声をあげて泣く」という意が込められています。
太平洋戦で没した日本人将兵は約240万人。戦史上最悪の作戦とされた、フィリピンのレイテ島の闘いでは約8万人が戦死し、そのうち収集帰還した遺骨は、約1万6000柱(平成22年・厚生労働省)にすぎません。レイテ島に限らず、全滅の状況を「玉砕」の名で美化してきたパラオ諸島のペリリュー、北マリアナ諸島のサイパン、テニアン、小笠原の硫黄島、本土防衛の最終戦となった沖縄もまた、死者の霊魂が泣く「鬼哭の島」でした。
敗戦から66年、今の日本は飽食社会のもとでのモラルの喪失、人命は軽視され、自殺者が年間3万人にも及んでいます。この社会病理は昭和が犯した戦争と、それを真摯に語り継いでこなかった二重の過ちの延長線上にある、と私には思えてなりません。健全な現代史認識の回復が求められています。

第2章「偽満洲国(ぎまんしゅうこく)」
昭和6(1931)年9月18日、旧満州(現・中国東北部)奉天(現・瀋陽)の郊外、柳条湖で起きた、関東軍の謀略に始まる満州事変は、翌年3月1日の「満州国」建国と深くかかわっています。建国に際しては清朝の末帝・愛新覚羅溥儀を執政に据え、五族(日、満、漢、蒙、朝)共和と楽土の建設が謳われ、多くの日本人が「満州」へと向かいました。しかし、表向きには独立国を標榜した「満州国」は、日本の軍部主導の傀儡(かいらい)国にほかならず、現地の人たちは収奪に近い土地買収や強制労働など、人権を踏みにじられ、おびただしい数の人たちが血と涙を強いられました。
「満州国」は昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍の侵攻のもと、建国からわずか13年6ヶ月であっけなく瓦解し、消滅しました。
私は、戦後中国に取り残されてきた、日本人戦争孤児の身元調査が始まった、昭和56(1981)年春から、平成7(1995)年にかけ、「満州国」の各地を巡歴してきました。このなかで深く心に刻まれたのは、敵国の子どもを育てた中国の養父母に象徴されるように、日本の植民地支配を寛大に受け止めてきた中国人と、侵略国としての認識を埋没させてきた、日本人との大きな精神的落差でした。
国交回復後の日中間には、現代史認識を巡り深い溝が顕在しており、中国ではかつての「満州国」を「偽満州国」とし、常套語としています。中国との現代史を前向きに語り継いでこなかった日本では、このことを知っている人はごくわずかでしょう。
そして日本人にとって忘れてはならないのは、「満州国」と建国後の日中戦争で犠牲になった中国人は千万.位に及び、この侵略戦争が後の太平洋戦争へと繋がっていることです。経てきた時間の事実を偽りなく受け止めること、それが人間共存の原点にほかなりません。

第3章「シャオハイの満洲」
太平洋戦の末期、ソ連参戦のもとで旧満州(現・中国東北部)に置き去りにされた日本人戦争孤児は、3000人とも5000人とも言われ、その人数は定かではありません。
日本は昭和7(1932)年3月1日、傀儡満州国を建国し、多くの日本人が大陸を目指しました。建国5年後の昭和12(1937)年、日本政府は満州へ100万戸、人口にして500万人の農業開拓民を、移住させる計画を閣議で決めています。その結果、敗戦までにソ連国境近くにまで入植していた日本人の開拓団は約1000ヶ所、関係者はざっと27万人に及びました。
昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍の侵攻で満州は一夜にして戦場と化し、虐殺や集団自決、引き揚げ途中の飢餓や疫病で死亡、行方不明になった犠牲者は開拓団関係者だけで、約8万人にものぼっています。
シャオハイ」とは中国語で「子ども」を意味します。その戦争孤児はいわば地獄のなかを生きながらえ、被害を受けた中国人の養父母に育てられました。
日本政府がそうした孤児たちの身元調査を始めたのは、敗戦から36年が過ぎた昭和56(1981)年3月でした。
私が初めての満州・大連に孤児たちを尋ねたのは、初回の身元調査から1ヶ月後。かつての日本人街に複雑な思いを巡らすなか、衝撃を受けたのは迷える子羊のような孤児たちと、初めて接した時でした。
人民服を纏い真っ黒に日焼けした孤児たちの、自分が誰なのかを問う姿に、私は国策の罪を弱い人たちに強いてきた国のあり方に、言葉がありませんでした。
その時から30年、昭和が犯した人間性不在の光景が、今も深く心に刻まれています。

第4章「ヒロシマ」
一人写真の道を歩いて40年になります。この間私は写真を考えるうえで、対象と向き合う理由づけ、まして人間の死や悲しみと向き合うには、その整合性と仕事の文脈が表現者としての重要な条件としてきました。
親戚にかかわる「戦争花嫁」との出会いをきっかけに、中国にとり残された日本人の「戦争孤児」、孤児を生んだ「満州」を見詰めたことを免罪符に、長い年月、心に留めてきた「ヒロシマ」の地に立つことができました。こうした経緯のもと、草の根の昭和を見詰めてきた私が「ヒロシマ」にこだわり続けたのは、平成7(1995)年に上梓した写真集、『まぼろし国・満洲』に合わせ『ヒロシマ』を編むことで、大きな過ちを犯した「アジア太平洋戦争」の因果関係を明確にしたかったからでした。
昭和60(1985)年8月6日、原爆投下から40年が過ぎた広島は、この時100万都市に変貌し、原爆ドームと原爆慰霊碑のほかは被爆の傷痕は街から消えていました。その時から十数年、広島に通い被爆者から辛苦の体験を聞きとり、熱線のもとで蒸発し、白骨化し、原爆病で亡くなった犠牲者の視覚化に努めました。
過ぎていく時間は残酷です。記憶を遠ざけ、生きとし生きるものを消滅させてしまいます。20数年前から撮影取材してきた被爆者は高齢化し、約半数が鬼籍に入っています。
ここでは「ナガサキ」と連係させながら、再会被爆者の肖像と何千度もの熱線で異形化したモノと場に光を当てました。被爆者の癒えることのない痛みと、もののけのような「オブジェ」は、人間がもたらした罪の深さを、沈黙のうちに語りかけてきます。

第5章「ナガサキ」
「ヒロシマ」の地に立ってから四半世紀。被爆者の霊魂を視覚化した写真集『ヒロシマ万象』を上梓してから、9年が過ぎています。この間も原爆は人類の存亡にかかわる普遍的テーマとして、心に秘めてきました。
アメリカは太平洋戦末期、広島への原爆「リトルボーイ」を、さらに長崎へ「ファットマン」を投下し、広島ではその年だけで約14万、長崎では同様に7万5000人が犠牲になっています。この未曾有の罪業に対し、広島では「怒りのヒロシマ」、長崎では「祈りのナガサキ」の言葉が語られてきました。
怒りの広島に対し長崎に祈りの心が生まれたのは、長崎に原爆が投下されたのが、カトリックの聖地、浦上天主堂の至近距離に当たり、約8500人ものカトリック教徒が爆死していること。にもかかわらず、敬虔なカトリック教徒だった医学者、永井隆博士がその著『長崎の鐘』で、原爆投下を「神の摂理」として著したことに深く所以しています。この永井博士の思想を解りやすく言えば、核廃絶の原点、和合の精神は他者を許す心、慈愛の心にある、ということでしょう。永井博士の崇高な心に引かれ、ここ数年、長崎を訪ね、広島と同様に撮影を続けてきました。
被爆者のケロイドは見えにくくなっても、心の傷は生涯消えることはないはずです。そして死者が身につけていた時計、食卓をにぎわせた陶器、モノとドロが溶け合った土くれのような物体、その一つひとつに家族の絆や、人と人との哀感が隠されています。その実像は必ずや、繰り返してはならない人間不在の罪業を、明日に語り継いでくれるものと考えます。

《関連イベント》
■連続対談「江成常夫と語る〈昭和史のかたち〉」各回14:00−15:30(開場13:30)
7月30日(土) 森村泰昌(美術家)会場:1階アトリエ 定員:70名
8月20日(土) 梯久美子(ノンフィクション作家) 会場:2階ラウンジ 定員:50名
8月27日(土) 澤地久枝(作家)会場:1階アトリエ 定員:70名
対象:展覧会チケットをお持ちの方
受付:当日10:00より東京都写真美術館1階受付にて整理番号つき入場券を配布します。(自由席)

■フロア・レクチャー
会期中の第2・4金曜日の14:00より担当学芸員による展示解説を行います。展覧会チケットの半券(当日有効)をお持ちの上、展示室前にお集まりください。
展覧会インフォメーション
抽選で招待券を5組10名様にプレゼントします
ご応募はこちら→

会   場 =東京都写真美術館 2階展示室
会   期 =2011年7月23日(土)〜9月25日(日)
開館時間 =10時〜18時(木・金は20時まで)※入館は閉館の30分前まで
休 館 日 =毎週月曜日(ただし月曜日が祝日の場合は開館し、翌火曜日休館)
料   金 =一般700(560)円、学生600(480)円、中高生・65歳以上500(400)円
※( )は20名以上団体料金
※東京都写真美術館友の会会員、小学生以下および障害者手帳をお持ちの方とその介護者は無料
※第3水曜日は65歳以上無料
主   催 =東京都 東京都写真美術館、朝日新聞社
協   賛 =株式会社ニコン、株式会社ニコンイメージングジャパン、富士フイルム株式会社、株式会社東京アド、株式会社トーシン、光村印刷株式会社
協   力 =株式会社写真弘社、株式会社フレームマン、株式会社カシマ
お問い合わせ電話 =03-3280-0099(代表)
所 在 地 =東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内
【交通アクセス】
JR恵比寿駅東口より徒歩7分/東京メトロ日比谷線恵比寿駅より徒歩10分

http://www.syabi.com

 
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