|
その時 何が(14)廃虚の街(石巻・門脇町、南浜町地区)
 | 津波の後、大規模な火災が発生した門脇町・南浜町地区。門脇小校庭付近は焼け焦げたがれきで埋めつくされていた=3月14日午後0時40分ごろ |
|
|
◎濁流に炎、惨劇次々/犠牲者数、いまだ不明
宮城県石巻市沿岸部の門脇町・南浜町地区は、廃虚と化した。約1700世帯が住んでいた住宅街。大津波の襲来に、大規模な火災が追い打ちを掛けた。粉々に砕け散った家、焼け焦げてひしゃげた車…。確かにあった暮らしの残骸が、むごたらしく積み重なる。震災直後、この地区では生死が隣り合わせとなった惨劇が繰り広げられていた。
燃え盛る家や車が、まるで生き物のように泳ぎ、自分を襲ってくるように見えた。 古藤野正好さん(48)は地震後、石巻市内の勤務先から車で同市門脇町5丁目の自宅に戻った。「日和山に逃げよう」。両親を促した後、隣家のお年寄りをおぶって走りだした。 その瞬間、背後で「ゴーッ」という大きな音。振り返ると、2階以上の「白い壁」が見えた。すぐ、津波にのみ込まれた。背中のお年寄りは、いつの間にか流されていた。午後3時40分ごろのことだ。 がれきに乗って漂流していると、「ボン」という破裂音が聞こえ、辺りに赤い光が見え始めた。 家やがれき、車が燃えながら迫ってくる。 「焼け死にたくない」と濁流に飛び込んだ。流されている家財道具にしがみついたが、何度も振り落とされた。火の手があちこちで上がる中、消防団に救助された。 辺りはもう夜のとばりが降りていた。高台に上がると、ごう音を立てて燃える建物が近くに見えた。門脇小だった。
激震に襲われた門脇小。学校にいた児童約230人は校庭から墓地脇を抜ける階段を使い、日和山に避難した。日頃の避難訓練は津波を想定し、日和山に逃げることを鉄則としてきた。 校庭にいた佐藤裕一郎教頭(58)は、住宅街の電柱が次々となぎ倒されるのを見た。津波が押し寄せてくることが分かった。校庭に避難していた住民約50人を校舎に誘導。間もなく、焦げた臭いと煙が漂ってきた。 津波と火の手はすぐ近く。校庭からは逃げられない。職員は教壇を橋のように校舎裏の斜面に立てかけ、日和山方面へ逃げようと試みた。 2階窓から脱出し、ひさしから教壇を渡した。地上からの高さは約2メートル。お年寄りも多かった。「山側に渡れば助かる。そう信じていた」と佐藤教頭。教職員と住民は手を取り合い、幅約1メートルの教壇を渡った。
上へ、上へ。住民が安全な場所を求めて日和山へ急ぐさなか、1台のワゴン車が日和山から門脇町、南浜町地区へ向かって走っていた。 日和幼稚園の園児12人を乗せた送迎バス。地震直後に園を出発し、南浜町などを回り5人の子どもを降ろした後、避難者でごった返す門脇小校庭に停車した。 「バスを戻せ」。当時の園長、斎藤紘一さん(66)の指示を受け、幼稚園から教員2人が小学校脇の階段を駆け下りた。バスに追いついたが、園児を連れ戻すことはなかった。 バスは再び出発した。途中、迎えに来た母親に園児2人を引き渡した。日和山に通じる坂の上り口で、バスは津波にのまれ、流された家に押しつぶされた。 門脇町・南浜町地区一帯はすっかり炎に包まれ、13日午後6時ごろまで燃え続けた。 14日、バスに乗っていた5人の園児は変わり果てた姿で見つかった。 蛇田の佐々木純さん(32)は次女明日香ちゃん(6)を亡くした。「奪われずに済む命だった」。現場に行くたび、切なさがこみ上げる。 津波に襲われ、猛火に焼き尽くされた門脇町・南浜町地区。そこでどれだけの人が犠牲になったのか。震災から2カ月半たった今も、分かっていない。 (大友庸一、土屋聡史)
2011年05月29日日曜日
|