どうでもいいことをうだうだと書いてしまったので、忙しい人は読まないでください(笑)
弊ブログがBLOGOSに転載されるようになって露出度が上がり、コメント欄にも多数のコメントが寄せられるようになりました。しかし、その増えた分のほとんどが、はなから私を論破する目的であったり、最初から全否定して嘲笑・罵倒するような「荒らし」だったのは残念だなあと感じています。
先日の
孫vs堀のトコトン議論もUst再放送で一部見せてもらいましたが、そこでもUst視聴画面に流れるメッセージのほとんどが、堀義人氏に対する根拠のない罵倒・嘲笑のたぐいでした。
いずれも今ネットで盛んに発信している政治的確信論者の下劣さを物語るものでした。
こういうものばかりを見ていると、どうにも冷静な原発容認論は分が悪いなと感じてしまうものです。勢い、ネットで原発容認を発信するのは面倒だからやめたほうがいいとか、身近な共感を得る場所だけで言ってればいいかな、ということになりがちです。
反原発で大騒ぎするネットの人々は、非常に攻撃的に沢山の発信をしてくる。匿名ブロガーが疑問を呈するだけで、「名前を出して言え」つまり「名前を出したら言えないだろう、名前を出したら血祭りにあげてやるぞ」みたいな脅迫まがいのことを言ってきます。先日、児玉龍彦氏の発言内容について懐疑的なエントリを上げたところ、コメント数が過去最高の130(自分のレスも含めてですが)にものぼりました。ここにも私が匿名で書いていることを非難する向きがかなりあったのですが、残念ながらそうしたことを書く人が、反論を受けるリスクを負わない逃げ去りタイプの匿名でした。(参照:
匿名と実名)
彼らは本当に何を言っても恥をかく心配もないのに、こちらがもし実名を明かせば実社会を通じて圧力をかけるかのような発言も厭わないでしょう。やはり匿名でないと思ったままのことは書けないな、と感じてしまいます。
しかし、堀義人さんはそのリスクを承知の上でーー売名行為かもしれません、もちろんそれが売名であってもいいと私は思いますがーー実名で顔を出して原発擁護論をぶちあげました。直接の利害関係者でもないのに、これは勇気のある行為だと思います。
でも、反原発の人たちを説得するのは無理です。彼らの集中砲火を浴びて、まるで堀さんが「誰の支持も得られないキワモノ」であるかのような印象を残して終わるかもしれないのです。
そうしたリスクを犯しながらもあえて、孫正義というビッグネームに挑戦した堀義人さんは何を目指しているのだろうかと、あの対談を見て思いました。
対談の場面では、孫正義氏は被害者の感情を代弁するような論調と圧倒的な肺活量で堀さんの意見を封殺していたし、何を聞かれても同じ事を繰り返すだけで「言い負かす」ことに専念していたと感じます。
例を挙げると、風評被害について、堀氏は「短時間の滞在でどうにかなるような線量でもないところに官房長官が完全防護で出向き、握手の際も手袋を取らなかった。こうした政府の対応が風評被害を生む」と言っているのに対して、孫氏は「原発事故がなければそうしたことも起きなかった」と混ぜ返す。それは確かに否定のしようがありませんが、所与の条件下で是非を問うているときに前提条件をひっくり返すのはアンフェアな議論です。孫氏の理屈を突き詰めていけば「電気を使わない社会なら原発はいらない」とか「生きていることが死のリスクの根源」というナンセンスに行き着くでしょう。
そしてUstの視聴者コメントを見ていても、孫さんの圧勝、堀さんの負け、みたいな雰囲気が漂っていました。
孫氏は一方的に感情論をまくし立て、同じ事を繰り返す。堀氏が見かねて発言を遮り、別の論点を提示すると視聴者は「堀がまた議論をすり替えた」「逃げた」などと書き込む。ネットで見た限りにおいては、これはずいぶん堀さん分が悪いなあと感じてしまうものです。
しかし、ほんとうに大事なのはネットにうるさく書き込むノイジーマイノリティではなく、下手に書き込んで絡まれるのを嫌がる大勢の人たち、真摯にあるべき姿を探っているサイレントマジョリティなのだということを、堀さんは最初から見据えていたようです。
孫正義さんとの議論を終えて〜勝者は日本国民だ!(堀義人ブログ)
ネットには政治的なバイアスのかかった意見が大量に書き込まれますが、そうではない、自分の行動指針を求めているたくさんの読者の方に少しでも何かが伝わればいい・・それはネットで発信する側が忘れてはいけない原点だと感じます。
私もそんなこと百も承知のつもりでいたのですが、ときおり忘れてしまうんですよね。こんなちんけなブログが日本国民に伝わるようなインパクトはまるでないとしても、読者の一人にでも何かが届けばいいなと思います。
ブログのコメント欄が荒れてる時でも、拍手コメントでは逆に激励の声がかかります。世の中わからない事だらけですが、市井の一人の拙い意見として、少しでも自分がこうだと感じたこと、正しいと思ったことを発信し続けて参ります。