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莫迦よ、お前は既に打ち破られておる。
http://8223.teacup.com/koumanoken/bbs/67382
■■■■■■↓これが摩訶止観だって!↓■■■■■■
問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何。答えて曰く、百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亘る。不審して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何。答えて曰く、此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり】
(新編645p)
■↑れいなさんの挙げた文は、日蓮大聖人ご自身の思考で書かれたものではないことを理解しておりますか?
つまり天台大師の文ですね
■■■■■■↑これにてお前は既に論理破綻しておる■■■■■■
次に、お前の出した文証は「色心不二」つまり色(非情)心(有情)は不二であることの証明文である。つまり有情即非情、非情即有情の法門を説いた文証である。分かるか阿呆よ、「不二」の意味? 「色心不二」とは有情と非情が二にして二に非ず、一体ということだ。ノ~タリンよ、何を勘違いしておるのか。
アホ曰く>■【悩乱文証①】について
色心について次のように述べておるのだ。
『玄義釈籤』七上※「一に色心不二門とは(境妙に従て名を立つ)。旦く十如の境乃至無諦一一に皆な総別の二意あり。総は一念に在り、別は色心を分つ(略)既に別を知り已れば別を摂して総に入るべし。一切諸法、心性に非ざること無し。一性は無性にして三千宛然なり」
回答>莫迦よ、これは天台の「法華玄義」を妙楽大師が註釈したものである。所謂「十不二門」という法門であり、「法華玄義釈籖」巻十四に詳説したものの中の、「色心不二門」であり、有情非情共に十界の生命が存することを妙楽大師が解説した書である。
つまり、お前のいう「草木成仏を否定する」立場とは正反対のことが書かれておるのだ、しっかりせよ、アホタンよ!
して天台仏法の核心であり、天台大師御出生の本懐である、「摩訶止観」にはこうある。
「此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。芥爾も心有れば即ち三千を具す」(摩訶止観)
阿呆に分かりやすく通解する。
「一念の心法に三千の諸法が具足され、さらには、いかなる微少な色法にも同じく三千の諸法が具足されている」
即ち、非情の中に十界があるということだ。従って、非情即有情であり、有情即非情ということだ。つまり草木成仏を否定するお前は極めてトンチンカンな文証を挙げているということである。お分かりか?
で、「芥爾も」の「芥爾」とはどういうこっちゃ? お前の宿題の回答、まだ聞いておらんゾ。「創価学会ではナントカ・カントカ・・・」言っておったな・・・。
>『木画二像開眼事』
文証①「意は心法、声は色法、心より色をあらはす。又声を聞て心を知る。色法が心法を顕す也。色心不二なるが故に、不二とあらはれて仏の御意あらはれて法華経の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる」
回答>これは有情即非情、非情即有情の証明文である。
色心不二とは、
色=非情
心=有情
貴様の言う、「草木成仏は否定する・・」云々の立場とは正反対の立場であろうが!
スカタンよ、しっかりせい!
目覚めよ! お主ホントに大丈夫か、その脳天?? 日々暑いの~、狂ったかい?
> 文証②「総在一念、別分色心」の釈、「総在一念とは、若し諸法の互ひに摂することを論ぜば、一法を挙ぐるに随て皆な総と為すことを得、即ち(心・仏・衆生)三無差別なり。今は観を成じ易からしめんが為の故に、故に一念の心法を指して総と為す。然るに此の総別は理事に分対すべからず。応に知るべし。理具の三千、事用の三千に各々総別あり」
回答>で、これがどうかしたのかい?
これまた、有情即非情、非情即有情の【証明文】である。
> ■【悩乱文証②】
文証①【問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界百界千如一念三千を知らざるなり。】(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
回答>この個所は当方が挙げた文証の更に後に出てくる文証である、で、それがどうかしたのかい? 一体何が言いたいのか意味不明。お前、気は確かか? 潰れておるゾ!
阿呆曰く、>※しかしオジサンの宗派では、理事の一念三千に優劣、勝劣をつけておるが、その説明が書かれておらんのぉ(笑)
どこに理事の一念三千に優劣、勝劣が書かれておるか、教示してくれんかのぉ。
回答>ド・アホか、お前は!? 観心本尊抄は「法本尊開顕の書」であり、事の一念三千、文底下種仏法甚深の説明書であり、その究極は、全て「本門戒壇の大御本尊」に収まるのである。観心本尊抄はその説明の書である。「事の一念三千」の究極は、こうある。
大聖人、観心本尊抄に曰く、
【此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮堤第一の本尊、此の国に立つべし】
「一閻浮堤第一の本尊」とは大聖人御出生の本懐、即ち「本門戒壇の大御本尊」である。
阿呆曰く、> ■【悩乱文証③】
一念三千について、少し教えてやろう。
回答>ハハハ、「教えてやろう」って、お前さん、象牙の念珠で御満悦の離脱僧から上の文証を教えてもらったのであろう。 草木成仏を否定するアホタンが、草木成仏を肯定する文証を挙げて一体、お前さんの頭どうなっているんだい?? 一度医者に診てもらいなさい。脳をCTスキャンしてもらいなさい。頭破作七分がよ~く分かるであろう。www
およそ釈尊と言い、天台と言い、伝教と言い、その説かれた本懐は、【本門戒壇の大御本尊の説明文】である。有情即非情、非情即有情、草木成仏の法義が根本となっておるのだ。
以下、愚論につき捨て置くとする。
■■↓愚論、我見とし捨て置く・正法に中国・日本の差別なきなり■■
せいぜい周辺の連中に頭を下げて教示を得て回答しなさい。
☆『唱法華題目鈔』に「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」
とあり、中国と日本との差については、中国人は観念観法に長じているが、日本人は無相止観よりも有相行が適していることは、伝教大師が専ら四種三昧の実修を止観業学生に命じた歴史に徴しても明らかなところで、末代日本の庶民にふさわしい行として唱題が選ばれたのである。次に迹門に対する本門とは、『開目抄』に「迹門方便品は一念三千、二乗作仏を説て爾前二種の失一を脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるににたり。本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の因果をとき顕はす。此れ即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」とあるが、どのような見解をオジサンが取るのか、ひとまず見物しましょうか。
少し、今までカラカイすぎたかのぉ。
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